虹の橋を渡れ

 昔、まだ世の中が今よりも平和だった頃
 よく母が語ってくれたおとぎ話
 どうしても最後が思い出せない
 あれはなんという話だっただろう……

 ハイランド王国、ルカ・ブライトとの戦いもいよいよ佳境に突入しようとしていた。
 アガレス・ブライトの暗殺によりハイランドの全権は狂皇子から狂皇ヘと移ったことで、ラストエデン軍との戦況も加速的に変化し、軍の一端を担っていたキバ将軍親子の離反に繋がった。彼らは元々、アガレスに忠誠を誓っていた為だ。
 キバ将軍はラストエデン軍に与した。
 しかし、いくら彼らが優秀な人材であり、リーダーであるセレンが彼らを許したからといって素直に彼らを受け入れられない人間も、新同盟軍の中には存在していた。
 忘れることなど出来ない。キバ将軍、そしてその息子であるクラウスは、トゥーリバーを占領下に置かんとして姑息な手段を用いた。小規模ではあったが戦いも起きた。その時に死者が出なかったわけではない。負傷し、二度と昔のような生活ができない体になってしまった人もいる。大切な人を傷つけ、大切な町を戦火に巻き込もうとした彼らを、そう簡単に仲間として受け入れられない。ましてや、彼らはそれまで属していた国を裏切って傘下に下ったわけだ。いつ、また裏切るかも分からないと不安がる声も出ないはずがない。
  それを知ってか知らずか、ラストエデン軍の年若きリーダーは、今後の為と南に位置するトラン共和国との同盟を結ぶためにシーナに連れられて、つい先日出発している。
 リーダーが不在でも仕事は忙しい。
 キバ将軍の参入で兵数は一気に増えた。それだけ兵糧の消費は早くなり、対応策として一人頭に配られる食事の量が少なくなる。当然、以前からいた兵士達の間には不満の声が挙がるわけで、これらに対処するのも軍師の仕事のひとつになっていた。
 他にやりたがる人間もいないし、やれると思われる人材も見当たらないためだ。だからシュウの仕事の量は他の人間の倍は軽くいっていた。
「少し休んだ方が……」
 ここ数日のシュウの仕事ぶりを側で見てきたアップルは、彼の執務室に入室するなり、そう言った。
 薄暗い室内に置かれたテーブルの上には、逐一報告される各地の戦況や状況を記した書類が散乱している。シュウがチェックしたものには印が付けられているが、そうでないものの方がぱっと見、多かった。
 背もたれの付いた椅子に腰を下ろして書類の束に目を通していたシュウは、入ってきたアップルに一瞥を向けるとすぐにまた書類に視線を戻す。
 アップルの知る限り、シュウは昨日からずっとこの部屋のあの位置に居続けている。ベットに眠りに入ったのは一体いつが最後だっただろう。
「シュウ兄さん?」
 返事をしないシュウに、入口で止まったままのアップルが彼の名前を呼ぶ。彼女の手にもまた新しい報告書が束になって抱えられていた。
「聞こえている」
「なら……」
「休んでいられない事はお前もよく分かっているのではないのか?」
 視線を合わせない会話に、アップルはいたたまれない気持ちでシュウから目をそらした。
「でも、兄さんが倒れられでもしたら……」
「その時はクラウスがいる」
「…………」
 最近仲間になったばかりの人物を思い浮かべ、アップルは小さくため息をつく。
 思わず言いそうになる言葉があった。しかしそれを言ったとしてもシュウを困らせるばかりか、自分がますます惨めになるだけだと知っているから、彼女は言えずにいた。
「でも……」
 クラウスは、と言いかけてアップルは初めてシュウが自分を見ていることに気付いた。心の底を見透かされた気分になってつい、彼女は後ずさりしてしまう。背中が閉じられた扉にぶつかった。
「……それより、用があって来たのではなかったのか?」
 アップルが何を考えていたのか、シュウには大方の見当は付いていた。だが彼女が自分から言ってこない以上、彼もそれを言及する気はない。これは至極個人的な感情によるものであり、軍師としての立場にある今に話し合うべき事ではないからだ。
「そう、……ですね。今、いいですか?」
「かまわない。何かあったか」
 言いにくそうなのは変わらないが、その声色が微妙に先ほどまでとは違うものになっている彼女に、シュウは持っていた報告書をテーブルに戻して椅子を引き、体ごと向き直った。そして指で壁際に寄せられていたもうひとつの椅子を示し、座るように言う。
「いえ、ここでいいです」
 けれどアップルはその申し出を断り、胸に抱く書類の中からひとつを取りだした。向きを変え、シュウに手渡す。
「ラダトから、最新の情報です。……どう思いますか?」
 ここに持ってくる前にアップルは一通り報告書に目を通していた。そこに書かれている事がもし本当なら、由々しき自体であると彼女は考えてすぐにここに持ってきた。だが扉をノックしてから気が付いたのだ。シュウがここのところ働きづめであることを。
 本当だったとしても、何も起きないかもしれない。そう思ってしまった。
「…………私に判断を任せる前に、自分でこれは問題がある、と判断したからこそ私に見せに来たのではないのか?」
「はい……」
 雑な文字が並ぶ書類に素早く目を通し、シュウが顔を上げてアップルを見る。普段はこういう前線から直接届いたものは、アップル達が簡潔にまとめたものを清書してからシュウに到る。しかし今回、この行程は省略された。
 紙面には緊張しきった蛇のようにのたうつ、非常に読みにくい文字が並んでいる。かろうじて解読できる部分と、解読したアップルの文字をつなげていくと、それはラダトの東でハイランドの一部隊が奇妙な動きを見せているという内容になった。
 数はそう多いとは言えない。しかし、少ないと言うことも出来ない。ラダト以東のサウスウィンドゥとの国境を監視するだけ、というにはあまりにも説得力の欠ける数字がそこに記されていた。
「約2千か」
 ふむ、顎を持って小さく唸ったシュウに、アップルは彼の次の言葉を待って縮こまる。
 現在、ラストエデン軍リーダーはラダトの町から渡し船を使ってトラン共和国に行っている。今ラダトがハイランドの占領下に置かれでもしたら、彼らはここ、レイクウィンドゥ城に戻ってくることが出来なくなってしまうかもしれない。それだけは避けなければならないのだ。
「見過ごすことは出来ないな」
 ぱさり、と資料を机の上に置きシュウは一言そう言った。
「では……」
「直ちに兵を派遣する。ただし、あくまでも様子見だ。もしあちらに不穏な動きが見られるならば、やむを得なんがな」
 最後の方は付け足し程度の語調で呟き、シュウはアップルを見上げる。
「指揮はお前に任せる。もしやりあうとしても、前哨戦だと思えばいい。私は今ここを離れるわけにもいかないしな」
 リーダーが留守である以上、ラストエデン軍を統率するのは筆頭軍師である彼しかいない。もっとも、リーダーが城にいても実質的な城の主はシュウなのだが。
「分かっています。それで、シュウ兄さん。数はどれほどに……」
「それは追って指示を出す。編成は私がやっておこう。アップル、お前は休めるときに休んでおけ」
「そんな! これ以上シュウ兄さんに仕事を押しつける事なんて私には出来ません」
 休まなければならないのはシュウの方だと、話をだいぶ前に戻してアップルが叫んだ。その時につい、抱えていた残りの書類を床にばらまいてしまい彼女を更に慌てさせた。そんな光景を眺め、シュウはため息をこぼす。
「実戦でそんな調子では困るからな」
 呆れたような物言いに、アップルは顔を真っ赤にした。穴があったら入りたい気分とは、こういうときの事を言うのだろう。
「失礼します!」
 まだ未整理だった資料と、各部署に配布する指令書をかき集め彼女は逃げるようにシュウの部屋を出ていった。どたばたという足音が床に響き、しばらくしてやけに大きなものが落下する音が聞こえてきたから、多分足を何かに引っかけでもして転んだのだろう。その様を想像して、申し訳ないとは思いながらシュウは声を殺して笑った。
 だが、じきにいつものクールな表情を取り戻してアップルが残していった問題の報告書を再び持ち上げると、さっきとは異なるため息をこぼした。
「これは……いい薬にはなるやもしれんな」
 組織が大きくなればそれだけ多くの種類の人間が集まってくる。考え方が正反対な人間同士でも、肩を並べて足並み揃えてもらわなければ困る。わだかまりは残るだろうが、恨みを残しておくことは避けたいところ。それには互いを理解し合うのが一番だ。
 好きで争いあっていた訳ではないのだと。
「さて……。お手並み拝見といこうではないか」
 机の上に肘をつき、久しぶりに楽しいことを見つけたらしいシュウがにこやかに微笑んだ。

 次の日、アップルは早々にシュウに呼び出された。
 恐らく昨日言っていた事だろうと早足で彼の部屋に駆け込むと、先客がいた。その姿を見た途端、感情は出来る限り表に出さないように指導されていたアップルでも思わずむっとしてしまう。別にその人が悪人だとか、アップルが何かをされたとかそう言うわけではないのだが、まだその人を認めきることはアップルには出来ていなかった。彼女が女であることも、ひとつの原因であったかもしれない。
「来たか」
 朝起きて身支度をし終わった途端にかかった呼び出しだった。それから大急ぎでここまで来たのに、先客がいる。つい、自分よりも先に呼び出されていたのでは、と疑ってかかってしまいそうになった。
 シュウにもっと近くに寄るように言われ、渋々彼女は先客──クラウスの横に並んだ。
「早速で悪いが、今日にでもラダト東、ハイランドの先発部隊への牽制として2千5百の兵を連れて出発してもらいたい」
「2千5百とは……斥候としては多すぎやしませんか」
 ふたりに向き直ったシュウの言葉に、出陣を言い渡されたことよりもその数に驚いた様子のクラウスが尋ねる。
「相手側も同程度だ。ただ確実性を要求して、多少の割増はしてあるがな。今ラダトを占拠されては困る」
 昨日の夕方の時点で、伝書鳩によってトラン共和国との同盟が成立したことが伝わっている。だから尚更、ラダトの重要性は増す。もしかしたらそれを見越して、ハイランドは急に国境地帯の増員を計ったのかもしれない。
「マイクロトフとカミュー、それからエイダを連れて行け。念のため、ホウアンにも同行を依頼しておいた。ほかに連れていきたい者がいれば、言ってみるといい。許せる範囲で応じよう」
「……確認でお聞きしますが、私も行くのですね?」
 アップルは昨日の時点でシュウから指揮を任されている。しかしクラウスはまだ何も言われていない。今日いきなり呼ばれ、来てみれば突然ラダトへの出陣の話が飛びだした。寝耳に水だっただろう。
「そうだ」
「兄さん!」
 クラウスの問いかけになんの迷いもなく即答したシュウに、アップルが怒鳴り声で彼を呼んだ。だが、
「既に決めたことだ。アップル、お前の心配も分かっている。だが、だからこそクラウスには行ってもらわなければならないのだ。それに、クラウスの才なくしてはこの先、ラストエデン軍は勝ち星を取り逃がす事にだってあるかもしれない」
「…………」
 悔しげに唇を噛むアップルに、シュウの声は冷たく響く。あえて話に割り込むことをやめておいたクラウスの態度も、アップルには傲慢に映った。
「そんなに……そんなに私では……」
 泣き出しそうな顔をして、彼女は口元を押さえた。
「失礼します!」
 こみ上げてくる涙を堪えきれなくなったらしい。人前で泣くことは彼女のプライドが許さない。アップルはふたりに頭を下げるとそのまま来たときと同じように駆け足で部屋を出ていった。
 ばたん、と扉が力任せに閉じられて行くのを見送ったクラウスが咎めるような目でシュウを見た。
「いいのですか?」
「あれでも軍師の端くれだ。じきに理解してくれるさ」
「そうではなく……」
 ここのところアップルの感情はひどく乱れている。その理由に自分が知らないところで噛んでいたことを、今の彼女の態度を見てクラウスはなんとなく理解した。
「もう少し優しくしてあげてはどうですか」
「では君がそうしてやってくれたまえ」
「そのようなことを……」
 相手にしようとしないシュウに、クラウスは報われないアップルに心の中で同情した。だが確かにシュウの言うとおり、今は非常事態であり色恋沙汰にうつつを抜かしている場合ではなかった。
「クラウス、君には別個で一部隊を率いてもらう」
 拡大されたラダト東部の地図に書き込まれた配置図に指を沿わせ、シュウは話を戻した。
「君には本体とは別行動で、この森を迂回して白狼軍の後方を突いてもらう。数は、そうだな。3百もあれば足りるだろう。カミューとエイダをこの隊に回すから、そのつもりでいろ」
 ラダトの東側はなだらかな丘の続く草原と、その両脇に広がる森で構成されている。白狼軍はその丘の麓に陣を張っているらしい。
「アップルには本体の方を指揮させる。前面での交戦に気を取られている隙に、白狼軍の後方を取ることが目的だ」
 後ろを取られた軍隊ほど、弱いものはない。前と後ろの両方から攻撃されれば、相手側がいくら強固な守りを持っていたとしても敵ではない。
「いきなりですね」
 だが敵だってむざむざ背中を取らせてくれるはずがない。成功すればメリットは大きいが、失敗すればこちらは逆に一網打尽にされてしまう。
「私はまだ、同盟軍の面々から完全に仲間として受け入れられてはいませんよ」
 自分に向けられる視線が暖かいものばかりではないことを、クラウスはよく分かっている。自分の立てた作戦により、トゥーリバーでは戦いが起こった。あの時に死者がまったく出なかったはずはないし、命令されていたとはいえ各地での虐殺行為に荷担したことも、消すことのできない事実だ。
「セレン殿が君たち親子を許されたのだ。それでは足りないのかね?」
 捕虜となって連行された親子を、ラストエデン軍リーダーのセレンは許し、助力を求めてきた。
 相手を憎むことはとても簡単だ。しかし許すことは難しい。その難しいことをそうとは思わないまま、セレンはやってのけた。彼の器の広さに惹かれたからこそ、キバもクラウスも、恥を承知の上でラストエデン軍に寝返ったのだ。
 でも。
「私はあなたが思っているほどの人間ではありません。買いかぶりすぎではありませんか?」
 ラストエデン軍創設時点からの仲間であるアップルを差し置いてまで、クラウスは自分を前に出すつもりはなかった。所詮は裏切り者。ここにいることを許されただけでももうけものだったのだ。
「君こそ私を買いかぶってはいないかね。生憎、私は人に世辞を言うほど偏屈な男ではないのだよ」
「…………」
 どうあってもクラウスの辞退を聞き入れるつもりはないと、態度で示すシュウにクラウスはこっそりとため息をつく。
「分かりました。誠心誠意を持って当たらせてもらいます」
「頑張ってくれたまえ」
 クラウスのめいいっぱいの皮肉をなんともせず、自分の思い通りに行ったことをとても満足しているシュウが答えを返す。諦めの方が大きかったクラウスは、ならばやれるだけやってみようと心を決め、シュウの部屋を後にした。
 その日、正午を回った頃には全ての準備が整ったと、ほんの少し泣きはらした目をしたアップルは出陣を宣言。レイクウィンドゥ城に詰めていた兵300を引き連れ、湖沿いに馬を走らせた。

 作戦内容はアップルにも伝えられていた。ラダトに到着と同時に、彼女は兵を8つに分けてそのうちの1つをクラウスに託した。その中にはシュウの言ったとおり、カミューとエイダの姿もあった。
「白狼軍は報告によると、左翼を前方に突出させた布陣をとっているそうです。左翼を担当しているのは重装騎兵だという可能性が高いでしょう。対抗策としてこちらも右翼は層を厚くし、また騎兵を配置して機動力で相手側を封じ込みます。これは、マイクロトフさんに一任します」
「分かりました」
 白狼軍2千を前に、これからの作戦会議を開いたアップルの説明に皆が熱心に耳を傾ける。もちろんクラウスもその中の一人だった。
「左翼はどうするのです?」
 カミューが質問し、それにアップルがあらかじめ立てて置いた計画の内容を公表。一部に欠陥が見られると、それはカミューやマイクロトフ達によって修正が加えられ、より完璧に近い作戦へと形を変えていく。
 しかし戦場には「完璧」などありはしない。常に、何か予測を越える事態が起こることを考え、すぐさまそれに対処できてこそ、戦場を支配できるのだ。
「クラウス殿の部隊には期待をしてもよろしいのかな?」
 マイクロトフが黙ったままだったクラウスを振り返る。
「かつて白狼軍の一軍師として働かれていた貴殿のことだ。今丘の下にいるハイランド将校の考えていることも読みとっておられるのではないのかな?」
 冗談のつもりで言ったのかもしれない。マイクロトフに悪気があったわけではない。だからカミューにテーブルの下で足を踏まれなければ、マイクロトフは気が付かないまま喋り続けていただろう。
 今回クラウスが指揮する部隊には、もちろんラストエデン軍に自ら協力を申し出てきた兵士達もいる。だが、3百のうちその半数以上までもが、それまで仕えてきたキバ将軍に従って同盟軍入りした、もとはハイランドに属していた兵士達だった。
 だからだろう。兵士達の間では、クラウスやその部下が自分たちを裏切ってまたハイランドに寝返り攻撃してくるのではないか、という噂が流されていた。
 もちろんそんなものが真実であるはずがなく、ただの流言でしかない。だが戦いを前に神経が高ぶっている兵士達にとっては、まことしやかに流れる噂は十分信じるに値するものとなっていた。
 だから、疑われている元ハイランド兵達は行動を持って証明してみせると意気込んでいる。逆にそれが重荷になりはしないかと、噂が噂でしかないことを知っている者達は不安に思っていた。
「明日に備え、各自今日は休んで下さい。見張りの火は絶やさずに、お願いします。解散」
 シュウになりかわり軍を指揮するアップルの言葉で作戦会議は終了した。各々、割り当てられたテントに戻っていく。
 戦いは次の日の早朝、始まった。

 幼い頃に聞いたおとぎ話にこうあった

 白い羊と黒い羊はいつもいつも喧嘩をしていた
 白い羊は黒い羊が変だと言い、黒い羊は白い羊こそがおかしいと言った
 羊は白くなくちゃいけないと、一体誰が決めたのか?
 それは神様だと白い羊が答えると
 じゃあその神様はどこにいるのかと黒い羊が聞き返す
 お空の上だと白い羊は言い返し
 お空には誰もいないと黒い羊が笑った
 それじゃあ確かめに行こうと白い羊が言って
 二匹の羊はお空の上を目指して旅に出た
 出会う人全てに尋ねたけれど、誰もお空の上り方を知らない
 天にそびえる高い山に上ったけれど
 お空の上には届かない
 やっぱりお空の上には誰もいないと黒い羊はこう言って
 諦めきれない白い羊は空を見上げてこう言った

 そうだ、虹の橋を渡ろう!

 夜明け前、迂回行路をとって先に出発したクラウス達を見送って数時間後、戦いの開始を知らせる鐘の音が両軍に鳴り響く。
 別働隊を除いたラストエデン軍の総数はほぼハイランド白狼軍と並び、勝敗を決定するのはクラウスの行動によるものが大きくなっていた。しかし彼が無事に背後を白狼軍の捉えたとしても、同盟軍がそれまで持ちこたえられなかったら元も子もない。アップルにかかる責任も半端ではなかった。
「……シュウ兄さんはいつもこんなプレッシャーと戦っていたのね……」
 以前ビクトールの砦でやっていたような小さな戦いではない。規模は同程度か、少し小さいくらいだがこの戦いの結果によって、もたらされる未来は大きく左右されてしまう。
 アップルは7つに分けられた隊を、前面に4つ、後方に3つに配置した。出来る限り層の厚さは均等になるようにしてあるが、昨夜の会議の時に言ったように、右翼のみが他と比べるとやや厚みが大きい。最前列には弓隊が置かれ、軍が衝突する前の牽制役として空にたくさんの孤が描き出された。
 盾を構えた兵士達が問答無用で突き進んでくる。中には盾を貫通した矢によって倒れる兵士もいたが、多くは弓隊の攻撃を顧みず突撃してくる。
 旗が掲げられ、弓隊は後方に下がった。かわりに盾と槍を構えた歩兵が前に出て、白狼軍を迎え撃つ。
 予想通り、白狼軍は左翼に攻撃力の高い重装騎兵を配置、ラストエデン軍の右翼突破を目標にしてきた。これを迎えるのはマイクロトフ率いるマチルダ騎士団の面々だ。
「絶対に先へ進めるな!」
 マイクロトフの声が戦場に響き渡り、彼に従う青騎士達の間からも果敢な声があがる。一騎当千とまではいかないにしても、そう言わせるだけの実力を持っている騎士団の各員はよく戦ってくれていた。
 戦場では何よりも気迫がものを言う。絶対に負けない、という気持ちを持ち続けることが勝利に繋がるのだ。一瞬でも弱気なことを考えた者は、それだけでずたずたに引き裂かれてしまう。だから気持ちは大切だった。そして勝利を疑わないでいることは、戦場ではとても難しい事だった。
 また、戦いが長引くことも戦況を不利にする一因だった。
 時間は人の心を狂わせる。疲れは正常な判断力を失わせる。
「クラウスはまだなの?」
 太陽が高く昇ってもまだクラウスの部隊からは何の音沙汰もない。予定通りに行っていればそろそろ彼らは白狼軍の後方に出ていてもおかしくない時間だ。
 後方で全軍への識見を握っているアップルの顔に、徐々に焦りが出てくる。疑っている訳ではなかったが、クラウスの行動が勝利のカギとも言えたので、尚更彼女は不安を隠せないでいた。そして、それは兵士達にも伝染する。
 軍師はその感情をめったやたらに表に出すべきではない。それは基本中の基本とも言えること。だが、ここには叱ってくれるはずのシュウも、師であるマッシュもいない。
 アップルはまだ、たった18才の女の子なのだ。
「右翼、突破されました!!」
 悲鳴に近い伝令の声に、アップルははっとなって顔を上げた。慌てて遠めがねで自分の右手前方を見ると、土煙が上がっている一帯が確かにあった。
「すぐに右翼に兵を回して!早く!!」
 後方待機だった兵士をかき集めさせ、後ろを取られないように白狼軍を押しとどめようとする。前線に出ていたマイクロトフも一端指揮に専念するために後方に回った。彼の青い鎧には、あちこちに返り血がこびりついていた。
「左翼が手薄!?」
 両軍入り乱れての乱戦となっている右翼に気を取られ過ぎた所為で、左翼側の守りが薄くなっていた。白狼軍の攻撃の手は止むことなく続き、少しずつではあるがラストエデン軍は押されていた。このままでは総軍退避を知らせる旗を揚げなければならなくなる。
「そんな……!」
 そのことを考え、アップルは愕然とした。今、考えるべき事はもっと他に沢山あるはずなのに、一度思い浮かべてしまった撤退の言葉が、何度頭を振っても消えてくれない。
 なにも考えられない。
「駄目、これでは駄目。しっかりしなさい、アップル!」
 ぱしん!と両頬をはたいてみても、最後の選択ばかりが彼女をさいなむ。
 どうしようもないのだろうか。自分にはまだ荷が重すぎたのだろうか。こんな所で負けるわけには行かないのに──!
「助けて……」
 人に聞かれないように、アップルは呟いた。
 もう、彼女一人ではこの状況を打破する手段を思いつけそうになかった。そんな、ラストエデン軍の中に絶望が漂い始めた頃。
 ようやく彼は戦場に姿を現した。この危機を打ち砕くために。

 戦闘が始まったことは、遠くまで響く鐘の音で知らされた。夜明けの暗い中を進軍するクラウス率いる隊は、予定通りに順調すぎるまでのペースで進んでいた。
 だが、周辺一帯が明るくなり始めた辺りでまずエイダが異常に気付いた。
「森が……静かすぎる」
 深き森の防人だった彼女には、森の生き物たちの息吹を感じることが出来る。しかし今彼らが右手に見ている森は、嵐が過ぎ去った後のようにひっそりと静まり返っていた。
「森の向こうでは戦闘が起きています。その所為では?」
 馬を並べたカミューが言うが、納得がいかない様子のエイダはまだ森を睨み続ける。そして、おもむろに、
「クラウス殿、現時点はどの辺りですか」
 森は広い。迂回コースを終えて彼らが平野部に戻る地点は、ハイランド軍が駐留していた場所から更に東に行ったところのはずだった。そして森の切れ目は間もなく現れようとしている。すなわち、カミューの言うような戦闘はこの森のすぐ南側では起こっていないはずなのだ。
「とすると……」
 指摘を受け、カミューは考える素振りを見せる。
 行進をやめて立ち止まった指揮官達に、連れられている兵士達の間にも不安が生まれてくる。中には噂を思い出した兵もいただろう。そんな兵士達の心配をよそに、カミューはふっと息を吐き出し、
「待ち伏せ、でしょうね」
「おそらく、間違いないでしょう」
 地図を広げて見ていたクラウスも、迷うことなく同意した。森を睨むエイダも同様らしく、ちらりと彼らを見るとひとつ頷いた。
「で、どうしますか」
 待ち伏せがあると分かった以上、このまま進むわけにもいかないだろう。かといって引き返す事もできない。戦いは既に始まっているわけだし、クラウス達を信じて戦って待っている仲間達を裏切ることだって出来ない。
 答えを求めるカミューとエイダの視線を受け、地図から目を上げたクラウスは深々と長く息を吐いた。
「隊をふたつに分けましょう」
 カミュー率いる部隊と、自分とエイダの率いる隊とに。
 クラウスの説明はこうだ。
 まず間違いなく、この先には白狼軍の伏兵が待ち受けている。このまま進むのはわざわざ罠にかかりに行くのと同じ、愚行でしかない。しかしまるっきり無視をすれば彼らは待ち伏せを読まれたと判断、すぐさま前線に回るだろう。混戦の中での少数とは言え新たな兵力補給は、相手をしているアップルの部隊にはかなりの打撃となりうるだろうから。
「カミューさんには50の騎兵を任せます」
「了解。適当に相手をしたら適当に逃げ出します」
 クラウスの意図することを言われる前に理解したカミューに、クラウスはホッとした表情で次の説明に移っていった。
「残りの兵を連れ、私たちはこの森を強行突破します。エイダさん、先導役をお願いします」
「分かった」
 鞍の上で地図を示しながらの説明に、エイダもすぐに頷き返してくれた。森歩きの能力を持っている彼女無しでは、きっとこの森を抜けて戦場に出ることは出来ない。他の兵士達には無理をさせることになるから森抜けはなるべくやりたくなかったのだが、この際道を選んでいる余裕はない。
「危険な事をお任せしてしまって……」
「気にしなくても結構ですよ。こういうことは私と赤騎士にしか出来ないことでしょうし。マイクロトフには無理でしょうから」
 猪突猛進タイプの多い青騎士では、牽制を繰り返しながら後方に撤退するという戦い方はまず無理だろう。柔軟性に富むカミューだからこそ任せられる事で、逆に言えば彼以外の人間にこの役目は達成できないだろう。
「すべて、シュウ軍師の計画だったわけだ」
 あまりいい気はしないな、とエイダがひとりごちる。それを苦笑して聞き流したクラウスはすぐさま今変更したばかりの作戦を全ての兵士に通達した。
 そこからの彼らの動きは早かった。
 カミューに率いられて約50名の赤騎士達は落ち着いた足取りで予定通りのコースを行き、クラウスはエイダが導くままに兵を連れて森を駆ける。
 森の中には獣たちの姿はまったく見当たらず、ハイランドがいかに早い段階からこの周辺に占拠していたかが伺い知れた。
 徐々に争乱の怒号や喧騒が大きくなっていく。日の光がわずかしか届かない森の中から再び太陽の下に現れた彼らの前には、血に染まった大地が対照的なまでの青空の下に広がっていた。
「旗を!」
 クラウスが叫ぶ。
 赤地に白の羽根が描かれた、新同盟軍──ラストエデン軍の旗が白狼軍のすぐ後方で風に乗り翻った。

「あれを見ろ!」
「クラウス殿だ!」
 アップルの周りでも、その光景はよく見ることが出来た。もともと丘の斜面で戦っていたわけだから、上から下を眺める分には申し分ない。
「まだやれるぞ!」
「勝てるぞ!!」
 一度は意気消沈し、勝負を諦めかかっていた兵士達の間に再び覇気が生じる。また、後方を取られた白狼軍は予想していなかった事だっただけに一気に浮き足立った。
「今だ、行け!!!!」
 右翼の形成を立て直していたマイクロトフも、この格好のチャンスを逃すはずがない。後方に一度は引き戻していた騎士達をまた一気に前面へと押し出し、指揮系統に混乱が生じた白狼軍を次々に駆逐していく。
「後ろは気にするな!このまま前に出て、クラウス殿と合流する!」
 戦いは大体の場合、指揮官が倒された時点で終了となる。ラストエデン軍では現在アップルが最高指揮官だが、彼女は陣の最後列で守られており、混乱が収まらない白狼軍では到底たどり着くことは出来ないとマイクロトフは判断。彼は今の勢いのまま白狼軍左翼を撃破し、後方に回って完全に相手側を包囲してしまう道を選んだ。
「団長!……ああ、また勝手なことを……」
 剣を振り回し、俺に続けと叫んで突っ走っていくマイクロトフの背中を、彼の部下である一人の青騎士は少し情けない面で見送った。ここにカミューがいたら、止めてくれただろうにと思いながら。
 だが、そのカミューは現在待ち受けていた白狼軍約2百の兵を相手に、あっちへ行ったりこっちへ逃げたりと忙しくそんなことまで面倒見ていられない状態だった。
「クラウス殿!」
 白狼軍後方の一団は今までの中でも最大の混戦のまっただ中に放り込まれていた。軍師であるクラウスも剣を取り、向かってくる兵と斬り合いを繰り返している。もともと軍人の息子として育っただけはあって武術の才も秀でている彼だ。多少危なっかしく見えても後れをとることはなかった。
 ただ一番の心配事は、彼が軽鎧しか身につけていないことだろう。
「私の後ろへお回り下さい!」
 ハイランド時代から彼に付き従ってきている騎士に言われ、右腕を軽くだが負傷したクラウスは素直に彼の好意を受け取った。口と左手で包帯を荒っぽく傷口に巻き付け、仮の止血を済ませるとすぐにまた敵を警戒して剣を握る。柄は他人の血で赤く染まり、ちょっと力を緩めると簡単に滑って行ってしまう。注意しながら彼は周囲に視線をめぐらせた。
 接近戦に不利なエイダは、森を出る直前で隊を離れ、馬を下りると木に登った。今何をしているのかと言えば、木陰に身を隠しての遊撃隊としてちゃんと参戦している。どこから飛んでくるか分からない弓矢での攻撃は、十分相手側に恐怖をもたらす。
「あれか……!?」
 数人の騎士に囲まれ、白狼軍の動きを注意深く観察していたクラウスの視界にやけに守りの厚い一個小隊が入った。
 旗が風になびく。地に落ちた白狼軍、ハイランドの旗は血と泥にまみれて元の姿を思い起こすのが難しくなっていた。ただ新同盟軍の旗だけが、見事に風を受け止めている。
「大将を狙え!」
 逃げだそうとしている一団を指さし、クラウスは叫んだ。
 形勢は完全にラストエデン軍の有利に傾き、勝負を捨てて逃げ出すことを選んだ白狼軍の指揮官はすぐに駆けつけたマイクロトフと青騎士達によって討ち取られた。
 こうして戦いは夕方までに終了し、指揮官を失った白狼軍は武器を捨てて投降するか森に逃げ出していった。生き残りの白狼軍討伐隊はすぐに編成され、深追いしないようにと釘を刺されたのち、戦場に散っていった。
 これにより白狼軍対ラストエデン軍の前哨戦はラストエデン軍が勝利を飾り、それまで疑いの目を向けられることの多かったクラウスと彼の部下達は完全に同盟軍の仲間として認められた。最後まで別行動だったカミュー達も日暮れまでには全員無事で戻ってきて、ラダトの町も歓喜の声に包まれた。
 悲しくも命を落とした兵士達はこの場所で葬られ、その夜は弔いの鐘の音が絶えることなく響き続けた。
 だが、血生臭い臭いはやがて風にながされて消えていくだろう。この場所で今日、戦いがあったという記憶と共に。

 虹の橋を渡ろう
 あの橋の向こうにきっと神様はいるから
 虹の橋を渡ろう
 僕達の答えはきっとそこにあるから
 手を取り合って二匹の羊は歩き出す
 彼らの空に、虹の橋を描いて

「シュウ兄さんは最初からこうなることが分かっていたのね……」
 自分の非力さを思い知ったアップルは、勝利の美酒に酔うことも出来ずキャンプの片隅で小さくうずくまっていた。
「ここにいましたか」
 向こうの方では馬鹿騒ぎしている兵士達の声がする。酒盛りを止める事は軍師といえども出来なくて、やりたいようにさせて置いたのはアップルだけではなくクラウスも同じだ。彼は酒は静かに飲むものだと思っている。だから巻き込まれる前に退散してきた。
「お疲れさまです」
 鎧を脱ぎ、傷の手当をホウアンにしてもらったクラウスとは違い、アップルは怪我ひとつ負っていない。守られるばかりで何もできなかったことを恥じ、悔いているのだろう。現れたクラウスに彼女は更に膝を抱えて顔を俯かせた。
「……情けないって……思ってるでしょう」
 実際、彼女は後半何もしていない。一人で混乱して兵達を動揺させてしまった。軍師失格と言われても仕方がない事をしたのだ。
「いいえ。よくやっていたと思いますよ。……見ていませんでしたけれど」
 最後になってようやく本隊と合流したクラウスはアップルの指揮をほとんど見ていない。だが、そう思えるだけの理由はあった。
「あそこまで軍を維持し続けられたのは、あなたの立てた作戦が良かったからでしょう。兵達もよく頑張ってくれていた。持ちこたえられたのは、あなたがいたからです。あなたがいなければこの作戦事態が存在しなかった。言うなればあなたがいたからこそ、シュウ軍師はこの戦い方を選べたのですよ」
 アップルの横に腰を下ろし、夜空を見上げながらクラウスは言った。
 微かにアップルが身じろぎする。
「もっと自信を持ってもいいと思いますよ」
 今回のことがなければクラウスはまだ同盟軍に仲間として受け入れられきっていないままだっただろう。ともに同じ敵と戦い合う事の出来る仲間だと、ようやく認められたのだ。
「本当に……そう思ってる?」
「思っていますよ?」
 顔を上げ、クラウスを見て尋ねるアップルに、彼はにこやかな笑顔で答えた。
「……やっぱりかなわないのかなぁ」
「何がです?」
「…………もういいわ」
 ため息と共に吐き出し、アップルは立ち上がった。服についた土を軽くはたいて落とすと、大きくのびをしてずれた眼鏡を直した。
「負けないから」
「はぁ」
「さーって。飲むぞー!!」
「……アップルさん、未成年じゃ……」
 くるりと踵を返し、大騒ぎの輪に向かって行く彼女を、よく分からないといった顔でクラウスは見送った。それから少し考え込み、小さく首を振ると諦めて自分も歩き出す。
「駄目ですよ、アップルさん!」
 ラダトの馬鹿騒ぎはしばらく終わりそうになかった。