花を、植えよう
色とりどりの花で飾ろう
この大地を、この世界を
君を包み込む世界を花で埋め尽くそう
鮮やかに、穏やかに、美しく飾ろう
君が決して寂しくないように
君が孤独を感じずに済むように
花を、育てよう
この手で、花を育てよう
この咲き乱れる花々が育て手を必要とする限り
きっとぼくは此処に居続けることが出来るから
君の傍で、君を見守ることが出来るから
けれど、もし
間に合わなかった時は
そのとき、は
この花々がぼくの代わりになって
君の心を癒してくれるのだと
そう信じたいから
君の笑顔をもう一度、見たいから
君にはずっと、微笑んでいて欲しいから
この我が侭をどうか許して欲しい
花を植えよう
色とりどりの花を、沢山
たくさんの花を植えよう
君の好きだった花を咲かせよう
君の微笑む顔にきっと凄く似合うから
君が目覚めたときに独りぼっちで寂しくないように
世界中を君の好きな花で埋め尽くしてしまおう
Flower/3
ぽたり、と。
水が一滴、零れ落ちた。水たまりに落ちたそれは小さなクラウンを作り出し、表面を微かに波立たせて沈んでいく。
……ぴちゃーん…………
微かな反響音が薄暗い空間の奥底へ向かって伸びていく。何処までも永久と思える音が続き、けれど遠くなりすぎてそれはやがて聞こえなくなった。
空気は澄んでいる、そして冷えていた。朝だろうか、日差しはだが感じない。ここではないどこかから風が吹き込んできているらしい、ひゅーひゅーという呻り声が小さく聞こえてきた。
彼は、少し身動ぎした。
身体中が重く鉛のようだった。指先に力を込めて曲げようとしたけれど、どうも勝手が違って上手くいかない、しかし数回繰り返すうちに徐々にそれまで血が通っていなかった部分に血が流れ込みだした感覚を覚えて、爪先が手の平の表面に触れるまで出来るようになった。
次に彼が目指したのは、閉ざしたままの瞼を両方揃って持ち上げる事だった。視界は未だ閉ざされたままで、薄い皮膚一枚を隔てたところで光を感じているに過ぎない。
長い間閉じたままだったからだろうか、まるで接着剤でも表面に塗られてしまっているかのように錯覚してしまう。それほどに重い瞼を、ゆっくりと確実に開いていく。
ふー、と長い息が溢れた。
肺の中に長い間溜まったままだった古びた空気が外へ飛び出していく、その代わりに入り込んできた大気は冷え切っており、彼の内部を一気に活性化させた。
冷えてしまっていた部分を温めるために、長期間活動を最低限に控えていたあちこちの器官が一斉に働き始めたのだ。そのあまりの急激さに今度は彼の意識の方がついていけなくなりそうになり、半分開きかけていた瞼がまた閉ざされてしまった。
深呼吸を三度、拳の握り開きをあと五回。
心臓の音がやたら喧しく聞こえる、耳の奧で響いている。もう二回深呼吸をしてから、彼は一気に瞼を開いた。
「!」
だけれど、その直後また目を閉じてしまう。深く長く息を吸い、その倍の時間をかけてゆっくりと吐き出した。瞳が焼かれてしまうかと本気で思ってしまった、言うほど世界は眩しくなかったはずなのに。
闇に慣れすぎた身体が、光を拒否しているようだった。
彼は右腕を動かそうとした、指先だけではなく肘から上を高くあげて、肩を回し腕を伸ばす。一センチ動かすたびに関節がぎしぎしと、油の切れた機械のような音を立てて軋んだ、痛みも多少感じる。
でもそれは、自分が生きているという何よりの証にも思えた。
深呼吸が繰り返される。息を吸い、一瞬止めて、吐き出すのに合わせて腕を持ち上げ曲げていく。タイミングを見計りながら少しずつ、ゆっくりゆっくりと。
そうやって随分と長い時間をかけて持ち上げられた腕は、手の平を上にして額の上に置かれた。落ちた、とも言う。けれど瞼の下、光を畏れている瞳を庇うには充分だった。
今度は慎重に動く、手の平で落ちた影に庇われて目を開くと真っ先に白い――否、かなり痛んで薄汚れてしまっていたのだが、光に慣れきらない彼の瞳にはそう映って見えた――天蓋が視界に収まった。
どこか見覚えがある、けれど直ぐに頭の中にイメージが湧き起こってこなかった。
記憶に混乱が生じる、一体何処で何時、見たのだろう。ぼんやりとしてはっきりしない意識の中で懸命に思い出そうと、彼は緩やかに首を振った。
その弾みで髪の先が何かに触れた。カサリ、と軽い音を立てる。
それは本当に耳の直ぐ横にあって、彼はまだ起きあがるには辛い身体をほんの少し傾けて視界の片隅にその、銀色の髪が触れたものを認めようとした。
赤い色が、目に留まる。
それは花だった。
一輪の赤い大きくて色鮮やかな……薔薇の花。
「ぁ……」
喉元を掠れながら出た声がきっかけとなったのか、唐突に頭の中に実に様々な、大量のデータが流れ込んでくる。いや、それはむしろ今まで小さなトランクに無理矢理詰め込んでいた中身が、錠前を自ら破壊して外に溢れ出した感覚が正しいだろう。なぜならそれらは本来、彼の中にあったものだからだ。
「 た ……は、…… ま むっ た か …?」
自分ではちゃんと言葉にしているつもりなのに、台詞の端々で声が詰まり音にならなかった。そして言い終わるのを待たずに激しく咳き込む。
咽せた空気がひゅーひゅーとまるで壁の隙間から抜け出ていくように流れ、出ていった分を補うために吸い込んだ空気は今度は、薔薇の強い芳香を含んでいてより一層、彼を咳き込ませた。
苦しい。
吐き気さえ覚えて、そして自分が恐ろしく空腹な事に気付いた。
いったい何時からものを口にしていなかったのか、そもそも自分は果たしてどれだけの時間をこの空間で過ごしたのだろう。
呼吸が落ちつくまでただ静かに、ベッドの上で彼は待つしかなかった。
誰も来ない、誰も気付かない。彼が長い時間を経て再び目を覚ましたことに気付いて駆け寄ってくる人もない。
ああ、またなのか。そう思った。
自分は以前にも今と同じ経験をしている、あの時も目覚めたときはこんな風に身体が凍えきっていて、自由に動けるようになるまでかなり時間が必要だった。違うのは、枕許にこんな風に薔薇の花が置かれていたりしなかった事くらいか。
そう、あの時はこの広い城に自分はひとりきり…………薔薇の、花?
彼は涙でにじんでしまった視界を広げ、まだ其処にある花を見つめた。それは鉢植えではなく茎の途中で手折られた、切り花だった。明らかな人の手による、在り方。この事に気付いて彼は目を見張った。
誰か、自分以外の誰かがこの城にいる。
よくよく見渡せば確かに、この部屋は少し異様だった。今頃になって気付いたが、ベッドサイドには沢山の鉢植えが並べられ綺麗に整えられている。壁際にも似たような感じで、緑が飾り立てられているし枕許の花だって、これ一輪きりではなかった。
彼はうつ伏せになり、ゆっくりと手の平を下にして力を込めて身体を起こした。肘を少しずつ伸ばし、上半身をまず突っぱねさせることで視界を広げる。途中一度力尽きかかってベッドに身体が沈んだが、柔らかいクッションが衝撃を吸収してくれたので痛くはなかった。
代わりに、しばらく呼吸が苦しくて動けなくなったけれど。
それでも徐々に徐々に、身体の端々まで神経が伸びていく感覚で身体が思い描いた通りに動き始めた。二度目のチャレンジでは失敗もなく、時間はかかったけれどベッドの上で足を広げた格好ながら座ることに成功する。
何気ない、他愛もない動作のはずなのにこれだけで疲れ切ってしまった。汗まで噴き出ている。
それを拳で拭い、彼はゆっくりと改めて室内を見回した。
見事に、鮮やかに花々で飾り立てられている。まるで統一感のない、けれど不思議と違和感を感じさせない並びで鉢植えは並べられている、バランスは悪いようでそうとも言い切れなかった。
鉢植えの多くは花を付けていた。赤以外にも白、黄色、ピンク、紫にオレンジ……実に多種多彩の花が咲き誇り彼の瞳を楽しませてくれている。世界観も季節感もてんでバラバラなので、これだけの種類が一度に集まる事自体が非常に珍しい事だった。
いったい誰が。当然の帰結である疑問に辿り着き、彼は眉根を寄せて首を捻った。
ああ、でもそういえば。
ふと思い出した事があって、彼は枕許に置き去りにされている薔薇を引き寄せた。棘は綺麗に抜かれている、その茎を持ってくるくると花弁を回転させた。
長い夢の中で何度も、花を手渡された気がする。顔までは見えなかったけれど、いつも綺麗に咲いた花を一輪ずつ贈ってくれた。
でも結局その花を一度も自分は受け取ることが出来なかった、手を伸ばして掴もうとした瞬間相手は花と一緒に遠くへ流れて行ってしまったから。そのうち追いかけるのも止めて、差し出される花にも興味を示さなくなってしまったのだ。
どうせ手に入らないのだし。
そう思うようになってから、途端にその人と夢で会う回数は減っていった。何か喋っているようだったが、その声も聞こえなかった。
「あ は……」
思い当たる人物は、いる。だけれどそれが正しいのか分からない。
ふっと、前触れもなく。
視線を感じたような気がして彼は回していた薔薇から視線を外した。首を流した先になにかが、いる。
赤と金の色が異なる双眸が。
薄暗い部屋の一角で彼を見つめていた。
扉が開いた気配はなかった。自分が目覚める前から部屋に誰かいた気配も、なかったはずだ。あったならば今頃気付くはずがない、彼は一応一通り、先程室内を見回している。その時にこんな大きな……黒い猫、は居なかったはず。
艶やかな毛並み、アーモンド型をした瞳が彼をしばらく無言で見つめる。そしてまた唐突に、彼から視線を逸らしてしまった。
興味が逸れたのかそれとも、ついてこいとでも言いたいのか。四本足で立ち上がると誰も居ないのにひとりでに開いた扉を抜けて勝手に、出て行ってしまう。
「あ……」
いったいなんなのか。
形の良い眉を寄せ、彼は小さく呻いた。手にしたままの薔薇をまたじっと見下ろす。
ここにこのまま居ても、なにも始まらない。吐息を零して彼は滑り落ちてきた前髪を梳き上げた。記憶に残る最後の時よりも若干、伸びている気がした。
彼は腕の力を利用してベッドサイドへ寄り片足を伸ばした。足の裏が床に触れ、しっかりと全体に体重を移した事を確認してからもう片方も下ろし、立ち上がる。けれど二本足立ちをした瞬間、頭から血が一気に爪先に落ちていってしまい、立ち眩みがした。
「……っ」
かろうじてベッドに手を付き、倒れ込むことは防ぐ。そのまま膝を折った状態で呼吸を整え、眩暈が収まるのを待ってからもう一度立ち上がった。
今度は上手くいった、まだ足許は不安定だが支え歩きならば可能だろうと判断する。そして彼は、今さっき黒い猫が出ていったきり開け放たれたままになっている扉を抜けて、歩き出した。
靴などという便利なものは目にはいる限り、見当たらなかった。パジャマの上に羽織るガウンも見当たらなかった。だから今の格好は、素足に薄いパジャマを直接肌の上に一枚纏っているだけ。少し寒かった。
ぺたりぺたり、と歩くたびに足の裏に床が貼り付いて剥がれていく。扉を抜けると目の前は開けていて、そして暗かった。
一瞬呆気に取られる、自分は異世界に迷い込んでしまったのかと錯覚した。
まるでジャングルである。壁沿いに蔦や根が蔓延り、床は木の根があちらこちらを抉って床石をひっくり返していた。でこぼこ道は元の姿を失って久しく、歩きにくいだろう事は目に見えて明らかである。
だがその所々では、やはり色美しい花々が所狭しと咲き誇っていた。こちらは、狭い鉢の中に根を閉じ込められているものたちとは違ってのびのびと枝を伸ばしている為か、花はどれも大振りで色も艶がかっている。
思わず足を止めて見惚れてしまうくらいに。
だがそれらに手を伸ばそうとして、また視線に気付いた。気配を探るとやはり視線の先にはあの黒猫がいて、彼が気付いた事を知ると直ぐに背を向けてまた去っていく。どこかへ、誘導したがっているように見えた。
彼は遠い記憶を手繰り寄せる、あの猫が向かう先に果たして何があったのかを。
城の内部はかなり変わってしまっていた。あちこちに植物が根を張り、壁を破り天井を貫いている。床が抜け落ちている部分は両手では足りなかったし、今にも崩れそうな箇所はもっと多かった。
足許に注意を払いながら、彼は黒猫が向かっていったであろう場所を目指す。
地上階、以前はリビングや食堂、台所と言った人が集まり最もにぎやかだった場所へと。
そして予想通り、黒猫は彼が辿り着いた場所にいた。
壁一面の窓はガラスが砕け、フレームは朽ち落ちている。その代わりとでも言いたげな巨木が枝を広げ、緑の壁を形成していた。木漏れ日が差し込めている、そこは他の場所に比べて一段と明るかった。
にー……と、猫がひとこえ鳴いた。その横顔が見える、猫は巨木の根本に寄りそうようにして座っている。
彼は猫に歩み寄ろうとした、だがそれより先に猫は彼に場所を譲ってしまう。
近付いたことで角度が変わった根本が見えるようになっていた。猫の動きを追いかけたあと、彼は首を回してさっきまで猫が見ていたものを、そこに見つけた。
眠っている、ひと。
「……ぁ…………」
零れ落ちた、弱々しい声。
がくん、とその場に彼は膝を落とす。力の抜けた足は彼を立ち上がらせる事が出来なくて、這うように彼は根本に眠る人の前に進むしかなかった。そして同じように力の籠もらない右手をかろうじて、持ち上げる。
そっと、触れた指先が伝えてくれる微かな体温。それが、彼がまだ生きていることを教えてくれた。
「スマイル……」
懐かしい、けれど忘れる事のない名前を彼は呟いた。そっと両手で彼の頬を包み込む、柔らかく抱き込んで上下にさすった。
暖かい。
「……スマイル」
確かに、ここにいるのだと感じさせてくれる。
何故か無性に泣きたい気分にさせられた。胸の奥からなにかがこみ上がってくる、言葉では到底表現しきれないなにかが、彼の中に溢れ出していた。
「スマイル」
膝で伸び上がる、両手でスマイルの頬を包んだまま彼はそっと、紺碧の色をした前髪にくちづけを落とした。吐息で細い髪が左右に揺れる、手入れを忘れて久しいのかかなり伸びてぼさぼさになってしまっていた。
笑みがこみ上げてきて、隠すように指先で払いのけた前髪の下、現れた額にもひとつキスをする。誰も見るものが居なくなった所為だろうか、スマイルは包帯で左目を隠す事も止めてしまっていた。
今は閉じられている瞼が開かれれば、金沙の鮮やかな瞳が見える事だろう。そう思いながら彼は、左目の瞼にも口付けて離れた。
「ん……」
微かに、スマイルが彼の下で身じろぐ。肩を揺らし、自分の上にのし掛かる気配を察したのか警戒するように身体を少しだけ後ろにずらそうとした。けれど彼はその動きで開いた分の距離を更に余分に詰める。そして頬を包み込ませていた手を下ろし、スマイルの袖が垂れ下がっている先――そこには本来、スマイルの両手があるはずの場所――に手を置いた。
「スマイル」
吐息が触れあう距離で彼は囁いた。
「……ぅ……」
降りかかる息がくすぐったいのだろう、首を振ってそこから逃げようとするスマイルだけれど彼はそれを許さない。背を伸ばし首を上げ、下から掬い上げるような格好でスマイルの顎を捕らえた。
そのまま、触れるだけの甘いキスを。
「……ん……」
薄くだが、スマイルの瞼が開かれていく。けれどまた直ぐに閉じた。その代わりに、今までなんの反応も示さなかったスマイルが少しだけ顎を持ち上げ、キスに応えた。
触れるだけの、キス。それから、触れては離れ、啄むように相手の唇を求め合う、キス。
「……ふっ、ぁ……っ」
キスが繰り返される、そのうちに彼は腰が引けて後ろへ身体が下がり始めた。だがその途端、今まで何もなかったはずの彼の両手の上に、暖かくて大きな……しっかりとした手の平が降りてきた。
上から握りしめられて、引き寄せられる。
「っ!」
「…………ユーリ……」
一瞬時間が早回りして、世界が空回りした時にはもう彼はスマイルの胸に抱きしめられていた。
「これは、夢の続き……?」
耳元で囁かれる声が、ひどく懐かしい。聞いた瞬間、それまで忘れていた涙が一気に溢れ出てきて彼の眼を容赦なく濡らした。
「さぁ、どうだろう……」
声がくぐもる、隠そうとして俯いたら今度は彼の方が顎を掴まれて上向かされた。そして視線を逸らす間もなく唇が塞がれる。
差し込まれる、熱い吐息。涙が止まらなくて、変だな、と笑ったらそうだね、と返される。失礼な、と言い返したら言い出したのはそっちでしょう、とまたかわされた。
「ね、ユーリ。これは夢?」
優しい右手が彼の髪を梳く。爪の先に引っかかる髪を一本一本解していって、最後に掬い上げた一房にキスされた。
「どうだろう、私に聞くな」
夢か、現実かそれとも幻か。そんなこと、分かるはずがない。
けれど、でも、言えるとしたら。
「だが夢だとしたら、私の夢に割り込んでくるなど貴様、図々しいにも程があるぞ」
いけしゃあしゃあと彼は言い放ち、言われた方はそれ相応にショックを受けた顔をして彼を見返す。少々恨めしげな視線をまた笑い飛ばして、彼は宥めるように今度は自分が手を伸ばし、スマイルの髪を撫でた。
けれど撫でている途中でその手首を拘束される。引っ張られ、顔の前に差し出されると何をされるかと怪訝な顔をしている彼の前で、スマイルは彼の指先に口付けた。
静かな表情で、目を閉じ、穏やかに。祈るように。
彼もまた、それを見守る。振り払うことをせず、じっとスマイルの気が済むまで待ってやる。
そうして、スマイルは顔を上げた。
真っ直ぐな視線を彼に向ける。それからとても嬉しそうに、心の底からの笑顔を作った。
「また逢えて嬉しい」
ユーリもまた、微笑みを返す。
「ならば、思う存分喜べ」」
それからふたり、顔を見合わせて声を立てて笑い合う。そしてちからいっぱいに相手を抱きしめた。
触れあえる体温が、なによりも嬉しかった。