青き誇り

 敵を眼前にしておきながらそれらに背を向けて撤退するということは、騎士としてあるまじき行為であり、最大の恥辱であると彼は考えているらしい。助けられるはずの多数の命を見捨てたという念もあるのだろう。自領へ戻ってからしばらくの間、彼はそれこそ手のつけられないほどに荒れていた。
 元々潔癖過ぎる感のある性格をしている。生真面目で、騎士としての誇りを体現しているかのような彼にはファンも多い。
 だが、その反面融通の利かない事も多いため、たとえ相手が自分よりも位の高い人であっても、己の信念に反すると思われる行為を見逃すことが出来ず、昔はそれでよくもめた。
 あの性格で、よくもまあ、青騎士団の団長などという要職を手に入れたものだ。時々本気でそう思う。
 それで思い出したのだが、前青騎士団長、彼はマイクロトフをたいそう気に入っていて、かわいがっていた。
 昔から青騎士団には骨太の、言ってしまえば頑固で頭の堅い人が多かった気がする。団長は騎士団の旗であるから、当然の如く頑固者がその職に就く。その為か、対照的に赤騎士団には応用力のある柔軟な考え方をもつ人がつくようになっていた。
 そのマイクロトフだが、さすがに部下に当たり散らす事はしなかったが纏う空気はぴりぴりしており、平時よりも遙かに過酷な訓練を自らに科すようになっていた。
 あれでは先に体が壊れてしまうと、青騎士団の面々は不安で仕方がないようで、なんとかしてくれと赤騎士団長であるカミューに泣きつく始末。
「やれやれ……」
 本来、青・赤両騎士団は別の組織。命令系統も何もかもが別れていて、だから青騎士団の問題は自騎士団内で解決するのが常であるはずなのだが。
「何故、皆私に押しつけるのでしょうねぇ……」
「……人徳でしょう」
 窓の外を見上げ呟いたカミューの言葉を、控えていた副騎士団長がさりげなく答える。そこに微かな嫌味が混じっていることを、カミューは追求しなかった。
「あの状況……ミューズ市が所有していた兵力はわずかに一万を越える程度。雇い入れていた傭兵を合わせても一万五千を上回るので精一杯でした。対するハイランド・白狼軍は後方支援部隊を合わせれば三万超。我がマチルダが派遣した青騎士団二千の兵など、焼け石に水でしかありません」
 冷徹なまでに当時の状況を繰り返してくれた副団長を手で制し、カミューは「分かっている」と小声で呟いた。
 ミューズでの一戦で、青騎士団を派遣したのも、撤退させたのもすべて白騎士団長であり、実質的にマチルダの支配者であるゴルドーの意志だった。
 出陣前、マイクロトフは派遣する騎士の数に不満を抱いていた。その頃はまだ白狼軍がどれほどの兵力を持ち出すかが分かっておらず、いうなれば政治的取引としての派遣という意味合いが強かった。ミューズ市が陥落するという事実が読めていなかったわけではないが、ハイランドの真意も掴みかねていたのも、また事実。
 何故、この時期に──?
 マイクロトフも、カミューもミューズ市があそこまで押さえ込まれ、敗北するとは予想できなかった。騎士団が派遣した二千の騎士は尖兵であり、本隊がそれに続いてハイランドを抑える。それがおそらく、マイクロトフが描いていた歴史だろう。しかし、実際はそれとは大きく外れていた。
 青騎士団は、白狼軍を前に撤退──事実上の敗走を余儀なくされた。たとえそれが命令であったとしても、そうと知らない人々の目には敵を前にしっぽを巻いて逃げ出す姿として映っただろう。
 マチルダ騎士団領はミューズ市と境界線を接している。ミューズ市が敗戦をほぼ決定してしまった以上、マチルダ騎士団は自領を守るために国境を固めるべき。それが、ゴルドーの言い分だった。
 たとえ二千の兵とはいえその中には騎士団長のマイクロトフや、副団長その他、マチルダにとって無くてはならない逸材が含まれている。戦場で失うわけにはいかないし、万が一捕虜になりでもしたらマチルダはそれだけで、圧倒的にハイランドから不利な立場に立たされてしまう。相手側に人質がいるかいないかで、戦い方は大きく変わってくるのだから。
 それは、もちろんマイクロトフも分かっているはずだ。しかし心がついていかない。
 騎士として、敵前逃亡はやはり許し難い行為であった。カミューとてそれは同じ。しかし……。
「団長殿?」
「……ん? ああ、すまない。なんだったかな」
 考え事に没頭していたため、目の前にいる副団長のことをすっかり忘れていたカミューが少し照れながら前に向き直った。
「最近、ミューズとの国境付近にハイランドと思われる兵が目撃されています。それに加え、どうやらミューズ市から逃げてきた難民も、何人か、未確認ですが我が領内に」
「入り込んでいる、と?」
「あくまで未確認ではありますが」
 ミューズ市はハイランドの手に落ちたが、マチルダ騎士団は相変わらず独立を保っており、ハイランド側も今のところ特に手を出してくる気配はない。マチルダはジョウストン都市同盟でも軍事力を優先してきた都市であるため、不用意につつけば痛い思いをするのは自分たちであると、白狼軍は考えているのだろう。
 だからハイランドは南へ回り、サウスウィンドゥやグリンヒルを落とすことを選んだ。
「国境を軍事力を伴った人間が無許可で越えることは、国際協定で禁じられているはず……」
「拘束力のない、条約ですがね」
 ハイランドの兵士が目撃されたという場所を記した地図を指で叩きながら呟いたカミューに、容赦のない副団長の言葉が突き刺さる。
「あくまでも、『せめてこれだけはお互いに守りましょう』という程度の決まり事でしかないか」
 その昔、ハルモニアで繰り返されていた戦乱に心を痛めたとある貴族が取り決めたいくつかの短い決まり事。戦争は互いの国家の宣誓を持って始めて実行せらるべきものである、とか、むやみやたらに捕虜を殺すべきではない、とか。
 その貴族の心に打たれたらしい、ハルモニアの支配者ヒクサクはこれを全世界の共通の取り決めとしようとしたそうだが、思い通りにいったかと聞けば、そうとは言えないのが哀しい。
「話を戻します。今のところ領民に被害は出ていませんが、念のために国境警備隊の増強を計りたいと思います」
 領民に何かあってからでは遅い。そう告げる副団長の言葉を聞いていたカミューの耳に、廊下を駆けるけたたましい足音が迫っていた。
 ばんっ! とノックのひとつもなく赤騎士団長の執務室のドアが開かれる。
「何事!」
 副団長が声を荒立て、ドアの前で力尽きようとしている若い騎士を叱りつけた。その騎士は、青騎士だった。
 はあはあと乱れた息に汗だくの顔。ブルーを基調とした服装を身に纏った騎士の姿に、カミューはそれだけでピンと来た。
 ──マイクロトフか……。
 今度は一体何をしでかしたのか。いちいちもめ事が起きるたびにかり出されては堪らないが、放っておくわけにもいかないので仕方無しにカミューは立ち上がった。そして青騎士に何があったかを聞き出すと、彼は「またか」とため息をつく。
「行ってくるよ」
「……はい」
 後ろの副団長に断りを入れ、カミューは執務室を出た。
 向かうはロックアックス城最上階、白騎士団長のゴルドーの執務室。そこにマイクロトフがいるはずだ。 

 今日こそは我慢ならないと、止めようとする部下を振りきり、マイクロトフは荒っぽい歩調で廊下を進んでいく。何事かとすれ違う白騎士が怪訝な顔をするが、追いかける青騎士の慌てようを見て納得がいった様子で去っていった。
「お待ち下さい、団長」
「止めるな!」
 すでに本来止めに来るべき副団長が匙を投げた時点で、追いかけている青騎士も諦めるのが正しいのかもしれない。しかし、連日のように無駄な体力と気力を消費してくるマイクロトフを見過ごすことは、彼には出来なかった。
 ゴルドーはここマチルダ騎士団の総領である。その意志は絶対で、逆らうことは許されない。騎士としての宣誓をした者の決まりであるから。
 だが、マイクロトフは諦めようとしなかった。自分の正義を貫こうとする、その姿勢は立派だ。しかしこれ以上ゴルドーの機嫌を損ね、下手をして青騎士団長を退任させられでもしたら、というのが騎士の正直な気持ちだった。
 もっとも、この非常事態。現時点でマイクロトフを上回る技量を持つ青騎士は存在せず、彼を団長職から退かせたら困るのはゴルドーの方なのでそれはあり得ない心配なのだが。
「マイクロトフ様、ゴルドー様はただ今執務中でありまして、あらかじめ約束をされてからでないと取り次ぐ事は……」
「火急の用件である、通されよ!」
 ゴルドーの執務室の前に立つ白騎士に怒鳴るようにして言い、マイクロトフは問答無用で閉じられていた重厚な扉を押し開いた。
 中にはゴルドーと、他数人の白騎士の姿があり、大音を立てて入ってきたマイクロトフを一斉に振り返る。四対計八つの目が彼を見つめる事となり、しかもそれらが「またか」とでも言いたげな感情を秘めているのがありありで、後ろからのぞく形となった若い青騎士は「あちゃー」とばかりに頭を抱えた。
 だが、睨まれている本人はそのことに気付いていないのか、堂々とした態度を崩さずずかずかと部屋の中に入っていく。
 勢いに負け、ゴルドーの座する樫材の机の前を譲る白騎士たち。机上にはいくつかの書類の束と、まだ先の乾いていないペンが載せられている。だがゴルドーはマイクロトフの姿を見ると、すぐにそのうちの書類のいくつかを引き出しの中にしまっていた。また、白騎士団副団長の老齢の騎士も、手にしていた書類の束を彼に見えないように背に回していた。
「何事だ」
 火急の用件、というマイクロトフの声は室内にも聞こえていた。ゴルドーが念のためと尋ねたことに、マイクロトフは机の前で一礼すると、
「今すぐ、ミューズ市への軍団の派遣を要請したく思います」
 きっぱり言い切った彼の後ろ姿を見ながら、青騎士はため息をつき、力尽きて床にずるずるとへたりこんだ。見あぐねた扉前にいた白騎士が手を貸して彼を引き上げてくれたが、ガンガン痛む頭はどうにもならないようだ。
「何度も同じ事を言わせるな。ハイランドは現時点で我々との対立姿勢を明確に顕示しておらん。下手に刺激を与えるような真似が出来るわけがなかろう」
 呆れたようにいう白騎士団副団長の言葉を頷きながら聞くゴルドーに、マイクロトフは唇を噛んだ。
 答えて欲しいのは副団長ではなく、団長であるゴルドーだったのに。
「しかし! ジョウストン都市同盟の他の都市が次々にハイランドの魔手にかかっている現状を見逃すことは、騎士として、断じて許し難い行為では無いのでしょうか!?」
「貴様! ゴルドー様を侮辱するか!」
 ゴルドーの意志はマチルダ騎士団の総意でなくてはならない。たとえ己の意志を潰しても。だからその騎士団の決定を批判することは、ゴルドーその人を批判することに直結した。
 騎士は団長に逆らうことを許されていない。
「勘違いするな、マイクロトフ」
 机上で手を結んだゴルドーが低い太い特有の声をあげる。
「我々が第一に守るべきは領民であり、騎士団自身。我がマチルダ騎士団領を守ることが、すなわち都市同盟を守ることに繋がるのだ。それを自ら危険にさらすなど、あってはならんこと。自重を知れ、マイクロトフ」
「……っ」
 厳しい口調は一切の反論を受け付けないことを伝えている。室内に占める空気もマイクロトフを擁護するものとは遠く離れたものであり、彼がここに居続けることさえも許し難いこととする趣さえ感じられた。
 大気が毒の針をもって彼の全身を包み込んでいる。見守ることしか出来ない青騎士の目にはそんな風に映った。
「話は終わりだ」
「最近青騎士団の訓練に滞りが見られるぞ。団長がもっとしっかりしないと、騎士達に示しがつかんのではないのかね?」
 別の白騎士が薄笑いを浮かべながらうつむき加減のマイクロトフに追い打ちをかける。これには彼も、そして聞いていた青騎士も一瞬怒りに怒鳴り声をあげそうになったが。
「……おやめなさい」
 後ろから肩を掴まれると耳元で静かな声で言われ、青騎士は振り上げかけていた自分の右手に気付き顔を赤くした。マイクロトフも、いつもの激昂しやすい性格をなんとか自力で押さえ込んでいるようで、肩が微かに震えてはいたがすぐにおとなしくなった。
「…………失礼いたします」
 口惜しげに礼をし、青騎士団長はみるからにすごすごとその場を退いた。
 背中で扉が閉じられる音を聞き、顔を上げた彼はそこに見慣れた人物を見いだし、渋面を作る。
「あそこでよく堪えられたな」
「……………………」
 カミューに真剣に言われ、マイクロトフは沈黙をもって答える。まだ怒りは納まっていないのだろう。返事を期待していたわけでもなく、カミューはやれやれと肩をすくめてみせた。
「青騎士の諸君は、もうすこし忍耐力を付けるべきかもしれないね」
「何を言われても反論しない、持論を持たない赤騎士に言われたくはない」
「失礼な。我々だってきちんとした意見は持っている。ただ、時と状況をわきまえているだけだよ」
 青騎士を間に挟む形での青・赤の両騎士団長の言い合いに、挟まれてしまった若い騎士は目を回しそうになった。くらくらしていると、ようやく気付いてくれたカミューがしまった、と自分の額を手で覆う。
「ここにいても仕方がない。場所を移しましょう」
 なにせ彼らがいるのはゴルドーの執務室の目の前。きっと今の口論も室内にいる白騎士の面々に丸聞こえだったことだろう。
「……小言を言われるのは私の方なんだぞ」
 ゴルドーの愚痴を聞かされるのはもっぱらカミューの仕事だった。最近はマイクロトフを何とかしろ、とばかり言われていたが……これではカミュー自身ももっと団長として自覚を持て、とでも言われそうだ。
「ゴルドー様も、お前ももっと騎士として誇りを持って行動するべきではないのか。ハイランドの横暴な振る舞いに大勢の人が苦しんでいるのに、何故それを助けに行ってはならないんだ」
 青騎士を途中で解放し(副団長に報告に行かせた)、カミューとふたりきりになると途端にマイクロトフは饒舌になる。しかし口から出るのはゴルドーと騎士団の方針に対する不満ばかりだったが。
「マイクロトフ、声が大きい。公共の場で言っていいことではないぞ」
「だが、事実だ!」
 ロックアックス城の廊下を歩いているのは彼らだけではない。他にも多くの騎士が生活しているし、中にはマイクロトフに共感を表す騎士もいたが、そうでない騎士だって大勢いる。ゴルドーへの不平不満を口にするのは自由だが、それを報告されでもしたら、それはマイクロトフが自分で自分の首を絞めたことになる。
「事実かもしれないが、それが全てとは限らないだろう」
「お前は! ミューズでの戦いに参加していなかったからこの悔しさが分からないんだ!」
「マイクロトフ……」
 鼻息荒く怒声をあげる彼に、カミューは少しだけ表情を沈めさせた。だが、一瞬後にはいつもの顔に戻り、
「主不可以怒而興師、将不可以慍而到戦」
 突然、詠うようにそう言った。
「なんだ?」
「君主は怒りにまかせて軍を興すべきではない、将軍も憤激にまかせて戦争を始めるべきではない。今のお前に必要な事だよ」
「…………嫌がらせか」
「どうとでも」
 涼しい顔で言い放ったカミューを睨むマイクロトフの視界に小さく外の景色が入ってくる。城の中庭では、威勢の良いかけ声と共にたくさんの騎士達が訓練に励んでいた。
 それに気付いたカミューも立ち止まってそちらを眺める。数年前は、彼らもあのなかのメンバーの一人だった。
「私たちは彼らの命をまかされている。数千の騎士達の、な。彼らを生かすも殺すも団長である我々の裁量如何だ。それを、忘れるな」
 とん、とマイクロトフの胸を叩き、カミューが告げる。それから大きく伸びをすると腰に吊した愛剣を指で示し、
「久しぶりに、やるか」
「……そうだな」
 中庭に降りる階段へ向かい、そしてマイクロトフが大声で訓練中の騎士達を呼ぶ。すぐにわーっという歓声が上がって中央が開けられた。
 晴天がどこまでも広がる中、滅多に見られない騎士団長同士の対決が繰り広げられようとしている。
 だが、そこからは見えない遠くの空で、雷雲がわき上がっていることを、この時彼らは知る由もなかった。

 
 それから数ヶ月。
 マチルダ騎士団の動向は依然変化が見られず、国境付近の警備隊に多少の増員がみられたぐらいだった。
 その一方でサウスウィンドでは新たな同盟軍が決起し、ハイランドと対立関係を明確なものとしていた。トゥーリバー市をキバ将軍の手から守り抜き、グリンヒル市の市長代行であるテレーズをも味方に付けたという噂もある。なんでも新同盟軍のリーダーはまだ年若い少年だそうだが、かつての英雄ゲンカクの宿していたと同じ、輝く盾の紋章を所有しているとか。
 そのためか、新同盟軍に味方する人も多く、今ではハイランドに対する民衆の希望の星とされていた。
 この話を聞く度に、マイクロトフはやるせない気持ちにさせられた。
 本来人々の先頭に立って闘うべきは自分たちであるはずなのに、と。
「一度会ってみたいものだ」
 ふと馬上で呟くと、風に乗ったのか小声だったはずの呟きは隣を走る青騎士に聞かれてしまった。
「どうかなさいましたか?」
 ただ、何かを彼がささやいたとしか分からなかったようで、その内容までは聞き取れず問い返してきた騎士にマイクロトフは何でもないと首を振った。
 手にしていた手綱を握り直し、騎馬に速度を上げるよう指示する。鐙をしっかりと踏みしめて頬に感じる風が冷たくなることも構わず、彼は草原を疾走する。
 連日のゴルドーに対する直訴がまったく無駄であることをようやく悟ったマイクロトフは、それからはなるべく若い騎士相手に練習相手を務めるようにし、体を動かして嫌なことは考えないようにする手段に方向転換していた。騎士達も喜んでマイクロトフの指導を受けており、その時点では青騎士団は赤騎士団よりも組織力・技術力共に上回ることに成功していた。
 そして今は国境に派遣していた部隊を激励するために、マイクロトフ直々にこの地を訪ねている。
「異常はないか」
「いえ、今のところ特には」
 要所要所に設置されている砦を順に回っていくのである。砦はハイランドのミューズ侵攻があってから増設されていた。そこには十人から三十人ほどの騎士が配備されており、交代制で国境を見張っている。敵が攻め込んでくるのには昼夜は関係ないのだ。
「この一帯は安全のようだな」
「これだけの兵が配置されているのです。彼らの目をくぐり抜けて侵入する事など、不可能に近いでしょう」
 マイクロトフの呟きに自信満々で答える中年の域にさしかかった騎士。しかしそれまで北東から吹き続けていた風が急に西向きに変わった瞬間、マイクロトフの耳に微かな悲鳴が届いた。
「……?」
 顔をしかめ、マイクロトフはそのまま話し続けようとする騎士を手で制した。耳に手を当て、風に乗って届けられる気を抜けば聞こえなくなってしまいかねない声を確認する。
 女性のようだ。しかも助けを求めている。
「行くぞ!」
 マイクロトフの決断は早かった。
 連れていた他の騎士に説明する事もせず、彼は手綱を引き騎馬の進路を変更する。足で馬の腹を蹴り、常の速度の倍をもって草原を次の目的とは逆方向に走りだした。
「団長!」
 おいて行かれた騎士達が慌ててそれに続く。マイクロトフが何に気付き走り出したのかは分からないが、説明をしている余裕もないほどに急がねばならない事態が起きているのだと感じたからだ。
 青い衣を纏った六人余りの一団が列をなして風を切り駆ける。やがて彼らの前には、明らかにマチルダ騎士団とは異なる鎧を身につけた集団が現れた。
 その数、おおよそ十二。剣を抜き、数人の一般人とおぼしき集団を囲んでいる。
「何者!」
「おのれ、発見されたか!」
 迫ってくる騎士達に気付き、所属不明の兵士達は一斉にマイクロトフ達に剣を向けた。クロスボウを取り出し、矢を放ち始める。
「おおっ!?」
 騎士のうちの一人が肩口に矢をかすらせ、バランスを崩して落馬した。しかしさすが鍛え抜かれた青騎士、すぐさま体勢を立て直して剣を抜くと接近してくる兵を警戒する。
 兵士達が騎士達に気を取られた隙に、逃げだそうと囲まれていた人々が蟻の子を散らすように走り出した。だが、それを見逃す連中ではなく背を向けて走る女、子供にも容赦なく彼らは剣を繰り出し、鮮血で緑の大地を染めていく。
「貴様らぁ!!」
 その光景を見たマイクロトフが怒りの声を上げて剣を振り下ろした。
 兜をかぶった兵の頭を砕き、クロスボウを構える別の兵に騎馬で突っ込む。跳ね飛ばされた兵士は胸を折られ、赤い泡を噴くと悶絶し倒れた。
「うおおおおおおお!!!!!!!」
 青騎士団長の肩書きは飾りではない。彼に付き従っていた騎士達も、軒並みならぬ実力の持ち主である。たとえ数はこちらが劣っていても、それを補ってなお余りあるほどの力がある。どこの誰とも知れない集団に遅れを取るはずがない。
 勝敗は始まる前より決定していた。
「決して逃がすな!」
 勝ち目がないと判断した兵士達はやがて戦いを放棄し逃げ出した。しかしそれをマイクロトフは許さず、部下に追いかけるよう指示する。
 戦いは草原を一瞬にして血生臭い戦場へと形相を変えさせ、流された血は大地に染み込んでいく。
「ひぃ、ひゃぁぁぁぁっ!」
 草の上にうずくまり、生き残った女性が悲鳴を上げる。彼女の前には騎士によって切り伏せられた兵士の死骸が横たわっていた。つい、今彼女を斬り殺そうとした男の死体だ。
「大丈夫か?」
 周囲に危険がないことを確かめ、馬を下りた騎士が彼女を助け起こそうと手を伸ばした。しかし。
「ひっ!」
 ぱしん、と彼女は差し出された手をはじき返し、騎士から離れようと四つん這いで草の上を歩いていく。だがほとんど進んでおらず、困惑の表情を浮かべた騎士の前で彼女は滑稽なまでに地上でもがいている。
 見えない恐怖から必死で逃れようとしているようだった。
「おい、もう大丈夫なんだぞ。しっかりしろ、おい!」
 無理に抱き起こせば彼女は奇怪な言葉を発しながら暴れだし、手がつけられない状態。剣身にこびりついた血と人の油を拭っていたマイクロトフも何事かと走り寄ってきた。
「団長、こいつら、ハイランドの兵士ですよ!」
 また別の騎士は倒した兵士の鎧に刻まれている紋章を確かめ、声を荒立てる。
 抵抗を止めなかったためにやむなく兵士は全て切り捨てたが、それをマイクロトフは悔やんだ。死んでしまった兵士からは、ハイランド所属ということしか分からない。どの部隊に属しており、何が目的で国境を侵してまでマチルダに入り込んだのか、その一切が不明のままだ。
「駄目です、彼女以外には生存者は……」
 更に助けるべきだった一般人もこの気がふれてしまったらしい女性以外、絶望的だった。
「……すぐにロックアックスに戻るぞ」
 しかしおそらく、ハイランドの兵士の目的は逃げ出したミューズの難民を追いかけることだったのだろう。国境を越えた難民さえ見過ごせないでいるハイランド──それほどに他に知られてはならない秘密を、ミューズで行っているとでもいうのか?
「ハイランドはマチルダの法を犯している。見過ごすことはマチルダの独立性を揺るがしかねない」
 再び騎上の人となったマイクロトフの言葉に、従う青騎士団員達は一斉に頷き返したのだった。

 マイクロトフのいないロックアックス城は静かな日々を送っていた。もっとも、だからといって日々が悩み無く平和であるかといえばそうとは限らない。
 赤騎士団長・カミューもまた、のんびりする事を許されないでいる人物だった。
「……困ったな」
「ええ、困りました」
 肩肘をついて優雅に紅茶を口に含み、ため息をこぼしたカミューに副団長はさらに盛大なため息をもって返してくれた。
「どうしようか」
「どうにもなりません」
 ソーサーにカップを戻し、両手を机の上で組んだカミューの問いかけに副団長はまたしてもとりつく島のない言葉を返してくる。
 夕方には少し早い時間帯。執務の合間の休憩時間をぶちこわす報告が入ったというのに、カミューは相変わらずのマイペースを崩す様子は見られない。慣れているのか副団長もいつものままだ。もしこれが青騎士団だったら大騒ぎだっただろうに。
 報告をもってきた騎士も、報告先を間違えなくて良かったとホッとしていることだろう。
 だが、こんなにのんびりしているべきでは本当はないのだ。つい先ほどもたらされた情報はふたつ。ひとつは、国境付近でマイクロトフ率いる一団が所属不明の一団と衝突し、殲滅したというもの。相手はまだ詳しくは不明だがどうやらハイランド兵でほぼ間違いないとのこと。ミューズから逃げてきた人々を追いかけてきたらしく、唯一生き残っている女性は話をすることもできない状態だという。
 そして、もうひとつの問題は。
 ゴルドーが秘密裏にハイランドと不戦協定を結んでいるかもしれない、というものだった。
 カミューは何も知らされていない。マチルダ騎士団領にハイランドの正式な公使が訪ねてきたという事実もない。もしこれが真実だとすれば、ゴルドーは騎士としてしてはならないことをしたことになる。
 ハイランドは敵だ。その敵と手を組むというのか。
 いや、正しくは手を組むのではない。ハイランドがマチルダに手を出さないかわり、マチルダもハイランドのする事に口を挟まない、そういう取り決めをゴルドーが独断で決定したのだ。
 マチルダ騎士団は確かにゴルドーの支配のもと、存在している。しかし、騎士団はゴルドーの個人的な所有物ではない。己に許されている権利が無限大であると、ゴルドーは誤解しているのかもしれなかった。
「マイクロトフには知らせない方が良さそうだ」
 顎をつきカミューがこぼす。無言だったが、副団長もこっくりと頷いていた。
 執務室の扉がノックされ、入ってきた騎士がマイクロトフの帰還を知らせる。なんでも馬をおくと、そのままゴルドーを目指して走っていったらしい。一緒にいた騎士は力尽きているというのに、一人元気だったそうだ。
「…………はぁ」
 副団長が何度目かと知れないため息をつき、カミューを見た。
 やれやれ、仕方がない。そんな感じで彼は肩をすくめて立ち上がる。今回は流血沙汰になりかねないから、早めに止めに行った方が良さそうだ。
「行ってくるよ」
「はい」
 すでに日常となりつつある会話がなされ、副団長はカミューを見送った。
 廊下に出ると話を聞いたらしい騎士達がざわついている。彼らが耳にしているのはマイクロトフがもたらした報告の一部だけだったが、それだけでも十分騎士団を揺るがすに足るものだ。ハイランドの兵が──突き詰めるならハイランドの白狼軍そのものが独立した国家の形態をとっているマチルダに無断で侵入しているという事実。正直、快いものではない。それはゴルドーだって分かっているはずだ。
 今回の件、ゴルドーも何らかの対処を余儀なくされるはず。彼が真にハイランドと裏で手を組むなどという馬鹿げた事をしていなければ。
「ある意味、見物ではあるかな」
 事件の当事者ではないことを良いことに、カミューは呑気にそんなことを嘯いて最上階へ向かう階段を登っていった。
 そして、その当事者であるマイクロトフはゴルドーの執務室で怒り心頭のまま拳を頭上に振り上げようとするのを必死の思いで堪えていた。
「だからどうしたというのだ」
 まるで動揺していないゴルドーの冷たい言葉がマイクロトフの怒りに更に油を注ぐ。
「ハイランドの兵士が追っていたのは、マチルダの民ではない。国境を侵したミューズの不法入国者だ。本来騎士団がやらなければならなかった事をやってくれていたのだ、感謝こそすれ、何故彼らを逆に切り捨てねばならない。困ったことをしてくれたな、マイクロトフ」
 吐き捨てるように言い切ったゴルドーは机を拳で叩きつける。弾みで机上におかれていたペンが跳ね上がり、足下に転がり落ちた。
「困ったこと……? ご冗談は止めていただきたい! 我らマチルダ騎士団は法の下、独立した一個の国家であります。それを、我々に許可なく国境を越えて侵入してきた武装集団を、見逃せとおっしゃいましたか!」
「ならば貴様が連れ帰ってきたという女、きゃつも貴様の言う許可なくして領内に無断で立ち入ってきた者に他ならんではないか! 女は良く、男はならんでは話の筋がと通らんではないのか?」
「話の腰を折らないで頂きましょうか!」
 怒鳴り声の応酬は扉などあって無きが如きもので、それどころか城の最上階には丸聞こえ、窓も開け放たれていたために耳をすませば城の庭にいた者にまで聞こえている始末。階段を一定のテンポで上っていたカミューはだんだん近づいてくる怒声に歩きながら肩をすくめた。
 これは、思っていた以上にエキサイティングなものになっているかもしれない。
「ハイランドとの全面対決など、マチルダに不利益をもたらすだけであろう、何故分からんか!」
「騎士として! 向かってくる敵と相まみえそれをうち砕くのは当然の事ではないのですか。ハイランドは敵です、それは変えようのない確固たる事実。ゴルドー様こそ、腹をくくられるべきでしょう!」
「マチルダの領民をむざむざ危険にさらすような真似をすることが、騎士としてあるべき姿だと思うか!」
「このままハイランドの暴虐を見過ごすよりはマシです!!」
 扉前に控えている白騎士が、カミューの姿を見つけてホッとしたような表情を作った。それを見てカミューもまた、少し複雑そうな顔をして片手を上げた。
「だいぶ楽しい事になっているね」
「……もう、私ではどうすることも……」
 事のすさまじさを最初から聞いていた白騎士は、カミューの登場を救いの神が現れたとでも錯覚したようだ。よれよれと疲れ切り、この数十分だけで数年分老けたような顔をしている。
「ずっとこの調子?」
「はい……」
 大声だけで閉め切られた扉がはじき飛ばされそうな勢いが今も休みなく続いている。のどかーな調子を崩さないカミューに、白騎士は少しだけ不安を感じて彼を見返した。にこやかな笑顔は変わらない。だが、なんとなくではあるが……カミューの表情はどこか引きつっている。
「……大丈夫、です……よね?」
「今回ばかりは、私でも止められないかもしれませんね」
 あそこまで互いに頭に血を上らせているふたりの間に割ってはいることは相当の覚悟が必要になる。彼らを止められるのはカミューしかいないのだがそのカミューでさえ躊躇してしまうような状況……かなり絶望的。
「殺し合いに発展する前に止めはしますが……しばらくこのまま傍観していましょうか」
「ひぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
 優雅に腕を組んで言ったカミューに、白騎士は情けない声で悲鳴を上げた。冗談ですよ、と小声でカミューが付け足していたことには、もちろん気付いていない。
「早くお二人を止めてくださいぃぃ!」
 泣きつかれてしまい、カミューはまたため息をつく。女性に寄り添われるのは嬉しいが、むさ苦しい男、それも自分よりも年のいった騎士に泣きつかれるのは遠慮願いたい。
「仕方がありませんねぇ」
 眉間に指を立てて首を振った彼はそのまま右手でドアノブを取ろうとした。しかし。
「貴様などもう顔も見たくもない! 出て行け!!!」
「言われなくとも!!」
 売り言葉に買い言葉。マイクロトフが二度とゴルドーと顔を合わせないで済むはずがないのだが、言われて即座にそう返してしまったマイクロトフが先に、乱暴に扉を引き開けた。
 びっくりしたカミューの顔がすぐ目の前にあって、一瞬何が起きたのか分からなかったマイクロトフはそれまでの怒りも一気に冷めて目をぱちくりとさせる。
「……やあ」
 カミューの方もまさかここでマイクロトフが出てくるとは予想しておらず、なんだかとても間抜けな挨拶をしてしまった。だがすぐにマイクロトフの後ろに見えるゴルドーの不機嫌極まりない顔に気付いて慌ててマイクロトフからドアノブをひったくり扉を閉めた。
「ふーーーーーーーー」
 長いため息がカミューと側にいた白騎士の口から同時に漏れる。
「何をやっているのだ?」
 ただ一人、ふたりの気苦労を知らないマイクロトフだけが不思議そうに首を傾げていた。

 マイクロトフはカミューに勧められるがままにマチルダ城最上階から下に向かい、先に体を休めることにした。
 執務室ではなく自室のある兵舎へ続く廊下を歩いていると、右へ行く分かれ道の角から話し声が聞こえてきた。どこかで聞き覚えのある話し声の片方は、どうやら自分のすぐ下に当たる副団長で、もうひとりは赤騎士団副団長らしかった。
 青騎士団副団長はマイクロトフよりも騎士団に所属する年数が長い、武骨な男である。ただ最近は体調が思わしくないとかで、主に室内で出来る仕事を任されていた。マイクロトフがデスクワークが苦手な分、それを補ってくれているといってもいい。
「?」
 陰に隠れるようにして立つ彼らの声は押しこもり、周囲に聞かれてはならないことを内容としているのか耳の良いマイクロトフでもよく注意しなければ聞き取ることが出来なかった。足を止めて眉間に皺を寄せた彼の耳には──
「……真ですか、それは」
「恐らく間違いないでしょう。本当に困ったものです」
「それで、カミュー様はどのような判断を?」
「それが……話の最中にですね、例の……」
「……そうですか。しかしそれは先ほど終わったと聞きましたが?」
「終わった?意外に早く決着がついたのですね。てっきりもっと長引くと思っていたのでこうして貴殿を先に捜していたのですが」
「城が静かでしょう?気付かれませんでしたか?」
「そう言われてみると……確かに」
 くすくすと中年の男が声を殺して笑っている。何を話題にしているのかすぐに分からなかったマイクロトフだったが、彼はこういう風に陰に隠れてこそこそ話をすることもされることも、しているのを見るのも嫌いだった。
「おい」
 部下であるとはいえ、年上の人物に対しての態度をわきまえているとは言い難い口調で、マイクロトフは見えないところにいるふたりの騎士に声をかけた。
「!」
 突然のマイクロトフの出現に、副団長ふたり組はびっくりした顔であわてふためいた。
「こ、これはマイクロトフ様、いつからこちらに!?」
「もしや、ゴルドー様がハイランドと手を組んでいるなどという噂がある、などという所から聞いておられた訳ではありますまいな!?」
「ば、馬鹿!」
「はっ……! いい今のは聞かなかった事に!」
 あまりに慌てすぎたのか、彼らは多少(?)混乱していた。そして本来であれば決してしなかったであろうミスを犯した。
 ぴくり、とマイクロトフの形の良い眉が片方、つり上がった。口元になんとなく浮かんでいる微笑みは見ようによってはとても凶悪。更に、笑顔とはとても言い表しにくい瞳の彩はものすごく……怒っている──?
「どういうことだ!!!!!!」
 一瞬間、そこだけを局地的な地震が襲ったかのように地面が揺れた気がした、と後々副団長は証言している。
 ずかずかと荒っぽい足取りでマイクロトフは今来た廊下を戻っていく。
 マイクロトフが怒ったときは逆らわずに素直に言うことを聞いた方がいい、というのは騎士団の影の教訓にされていた。だから襟首掴まれた青騎士団副団長は、そのまま首を締め上げられる前に正直に自分の知っている限りのことを全て吐き出した。内容を聞いたマイクロトフがもっと怒り出す事は分かっていて、カミューからも堅く口止めされていたのに。
 しかし彼らは自分たちの身の安全を最優先させて、再びマイクロトフ対ゴルドーの争いが勃発する危機を呼んでしまった。
「今度は血の雨が降るかもしれないぞ」
「……私はもう知らん」
 咳き込んだ青騎士団副団長が投げやりに呟き、長いため息をこぼす。胃がキリキリと痛み、くらくら来た頭を抱え込んで廊下に腰を下ろした。見上げた先の廊下は静かで、もうそこにマイクロトフの姿はない。
 だが幸運なことに第二次青・白騎士団長大戦争は起こらなかった。
「マイクロトフ!」
 止めたのはやはりと言おうか、カミューだった。
「何処ヘ行く?休むのではなかったのか?」
 穏やかな問いかけを口にしながらマイクロトフに近づいていったカミューは、すぐに彼がただならぬ気配を漂わせていることに気付いた。触れれば一気に爆発する危険因子を今彼は抱え込んでいる。長年の経験からそう感じたカミューは注意深く彼を観察した。
 怒っている、とても。──いったい何に対して?
 ゴルドーとの喧嘩は一旦中断されている。和解にはほど遠いがカミューが彼を城の最上階から連れだしたときはゴルドーに対する怒りは収まっていた──というか、忘れ去られていた。でも今現にマイクロトフは怒っている。すなわちカミューと別れてから兵舎に戻るまでに何かあったのだろう。こんなに頭に血を上らせるようなことといえば──?
「…………聞いたのか?」
 執務室に戻ったカミューはそこに待たせておいたはずの副団長の姿がなかったから探しに出ていた。そしてマイクロトフを見つけた。
 今の時点でカミューが持っているマイクロトフが聞いて怒りそうなネタはひとつきりしかない。
「もう我慢ならない。これ以上俺はゴルドーについていくことなど出来ん!」
 ハイランドとマチルダとの癒着。その現実は騎士の誇りを常に行動理念としてきたマイクロトフにとって許し難いことであり、ゴルドーを許す理由などもはや彼の中には存在していなかった。
「少し落ち着け、マイクロトフ」
 大声で話すべき事ではないと、何度目か知れない注意を口にしてカミューは周囲を見回した。幸いにも彼らの周りには通行人は一人もなく、今のマイクロトフの発言を聞いた人はいないようだった。だが安心は出来ない。
「まだ真実だと決まったわけじゃない」
 未確認の情報に踊らされてはならない、とカミューは聞き分けのない子供に諭すように言った。
「火のないところに煙は立たないと言うだろう!」
「ハイランドの罠かもしれない。我々が疑心暗鬼に陥り内部分裂を起こすのを誘っている可能性だって否定しきれない」
「そうであると言い切れるだけの証拠だってない!」
 唾を飛ばしてまで言い切るマイクロトフに、いい加減カミューもげんなりしてきた。これでは、いくら言っても聞き入れてはもらえそうにない。
 さて、どうするか。
 このままマイクロトフを行かせてしまうのは、さっきよりももっと非道い喧嘩を引き起こすだけなのでなるべく避けたい。これ以上ゴルドーとの関係を悪化させるのは騎士団全体から見てもあまりよろしいこととは言えないし、カミュー自身も不要な気苦労を増やしたくない。かといってカミューにマイクロトフをこれより先に行かせないだけの持ちネタがあるわけでもなし。
「………………」
 しばらくの間、重い空気を漂わせながらふたりして無言のにらみ合いが続く。それをうち破ったのは。
「こちらにおられましたか」
 ホッとしたような第三者の声、だった。
 振り返ったカミューが怪訝な顔をし、マイクロトフも眉をひそめて現れた男を見る。白騎士団の鎧とよく似ているが違う服装の若い少年、従騎士だ。
「ゴルドー様からの言伝を預かって参りました。お二人のうちどちらかに行って頂きたいそうです」
 そう言って少年は一通の封書をカミューに手渡す。
 普段従騎士は騎士団長などに直接会ったり話をする機会など与えられていない。だからか、少年の頬は緊張と興奮で紅潮していた。
「ありがとう」
 しかしゴルドーに直接会うことはもっと従騎士程度ではあり得ない事だから、恐らくゴルドーの部下に使われただけなのだろう。どういう理由でかは知らないが……マイクロトフに会いたくなかっただけかもしれない。
 封筒を受け取ったカミューは手袋を外し中の通達書を取り出した。目で少年に立ち去るように促すと、彼は物惜しげな顔をして一礼し、去っていった。きっと彼は今日のことを誇らしげに仲間に吹聴するのだろう。
「おや、まあ……」
 少年を見送るとカミューは広げた紙面に目を落とす。内容はごく短い文面でまとめられており、一読した彼は何とも言えない困惑した表情を作った。
「なんだ」
 不機嫌にマイクロトフがカミューを睨む。するとカミューは無言のまま通達書を彼の眼前に突きつけた。手を放し、
「お前に任せるよ」
 ひらり、と一枚の紙切れがマイクロトフの手に収まる。
 そこに書かれていたもの。
 『ラストエデン軍リーダーとその一行がマチルダ騎士団との交渉の為にグリンヒルよりの抜け道を通ってやってくるとのこと。
 よって騎士団の代表者約一名に森の出口にて彼らを待ち受け、彼らをロックアックスまで先導する任を与える』
 書かれていた文字はゴルドーのものではなかった。しかししっかりと白騎士団長の印が押されていたので、これは本物と思っていいだろう。
「どういう意味だ?」
「書いてあるそのままだと思うけれど?」
 両手を広げて肩をすくめてみせて、カミューはマイクロトフにおどけたように答えた。
「何故俺に行かせる。貴様が行けば済む話ではないのか」
 通達書をカミューに突き返して彼は憮然として言ったが、カミューは「ふふん」と鼻を鳴らし、
「ハイランドと独自に組織組んで戦っているというラストエデン軍。ソロン・ジーの軍を退け、トゥーリバーではキバ将軍を相手に一歩も引かず、グリンヒルでは街自体の解放はならなかったが、市長代行職にあるテレーズを救出している。本拠地となっているノースウィンドゥはかつて赤月帝国との戦いで反抗の拠点となったいわく付きの城。興味がないと言ったら嘘になるのではないのか?」
「…………」
 勝ち誇ったように言われてマイクロトフは開きかけた唇を引き結んだ。言いかけた反論を呑み込み、じっとカミューを見つめる。
 確かに言われるとおり、彼は最近何かと世間の話題をさらっているラストエデン軍に興味があった。すぐ側にハイランドの軍が駐留しているのに、都市同盟の盟約を忘れ自領に引きこもって動こうとしない騎士団との比較対照にもなっている新同盟軍。そのリーダーはまだ若い少年であるという。
「……いいのか?」
 なにが、を抜きにしてマイクロトフは伺うようにカミューに問いかける。
「好きにすればいいさ」
 呆れたような声で彼は答えた。仕方がないな、とでも言いたげに腰に手を当てて微笑みを浮かべて、
「ただし、騎士としての誇りだけは見失うなよ」
 釘を刺すと彼は同僚の背中を思い切り勢い良く叩いた。小気味のいい音がしてマイクロトフは一瞬息を呑む。
「当たり前だ!」
 ほんの少しだけ怒って、少しだけ嬉しそうに。マイクロトフはカミューに怒鳴った。
 ゴルドーからの命令書を丸めると胸にしまう。ぽんぽんと軽く服の上からその場所を叩くと、満足そうに彼はひとつ頷いた。
「寄り道はするなよ」
「分かっている。なるべく早く戻る」
「そうしてくれ。その間に私はやることをやっておくよ」
「頼む」
「いつものことだ、気にするな」
 手を振ってカミューはマイクロトフを見送った。間もなく城の門が開かれて青をまとった青年があわただしく坂道を下っていくことだろう。
「……さて、私もきりきり働きますかねぇ」
 ため息をもらしてカミューも歩き出した。
「合於利而動、不於利而止、怒可以復喜、慍可以復悦、亡国不可以復存、死者不可以復生、故明君慎之、良将警之」
 ──有利な状況であれば行動を起こし、有利でなければやめる。怒りとけてまた喜ぶようになるし、憤激もほぐれて愉快な気分になれる。しかし一度滅んでしまった国はもう戻らないし、死んでしまった者が生き返ることもない。だから聡明な君主は戦について慎重になるし、立派な将は己を戒める……。
 古い国の人の言葉は、訓戒を以て後の時代に生まれてくるものを助けてくれる。しかし理想と現実はあまりにも遠くありすぎていて、彼らは地上で足掻くしかなかった。
 それでも、運命というものが本当にあるのだとしたら。逆らえない歴史の波の中で、彼らを縛り付ける鎖を断ち切るのは己を持ち続ける、その強さだけだろう。
「誇りを持って……か」
 空は深く広い。果てのない未来を表すかのように、白い雲は当て所なく流れて行く──