翼をもがれた雛鳥は

 誰かのために生かされている、という事実が。
 この命に与えられた羽根をもぎ取っている。
 翼を奪われた雛鳥は、親鳥がもたらす餌でしか己を生き長らえさせる術を持たない。
 逃れたくても、叶わないのならば。
 いっそ……

 ぼんやりと空を見上げていると、後ろから子供達のはしゃぎ声が聞こえてきた。
「あ、キール」
 柔らかくて暖かな空気を運んでくる少女の声に名前を呼ばれ、思考を停止させてキールは振り返った。
「邪魔しちゃった?」
 アルバの頭を撫でながらやや遠慮がちに尋ねてきたリプレに小さく首を振って、キールは自分が腰掛けていた切り株から立ち上がった。その物言わぬ静かな行動に、ラミがびくっと震えてリプレのエプロンにしがみつく。
「雛鳥が……」
「え?」
 そんなラミを見下ろしてぽつりと呟いたキールの言葉は、風に流されて音まではリプレに届かなかった。
「いや、なんでもない」
 僅かに頭を振って呟いたキールはそのまま、彼女たちの横を素通りして孤児院に入っていってしまった。
 彼がフラットにやってきて、まだ数日。彼は一向にこの環境に馴染もうとせず、逆にこの空間に溶け込むことを全身で拒否しているようにも見えた。同じ時間をフラットで過ごしているハヤトの方は、すっかり一員となってしまっているのとは好対照とも言えよう。
 最初は、騒がしいのが苦手なだけだと思われた。しかし、どうも違う気がしてリプレは首を傾げる。
「リプレママ?」
 キールの去っていった方向をじっと見ていた彼女のエプロンを、ラミが引っ張って呼ぶ。その瞬間、自分は子供達の遊び相手をしてやるために庭に出てきたことを思い出して苦笑した。
「ごめんごめん、ぼーっとしちゃった」
 ぺろっと舌を出して戯けたように笑ってみせ、子供達を安心させると彼女は何時までも自分の回りでとまっている子供達をけしかけた。
「ほーら、子供は子供らしく元気に遊びなさい!」
 幸い近くに転がっていた継ぎ接ぎだらけのボールを手に取り、ぽーんとアルバの方に放り投げてやると、それをキャッチした彼はすぐさまフィズへと投げ返した。コントロールの定まらないボールの行方は掴みにくく、あっという間に子供達は庭全体に散らばって行ってしまった。
 元気よね、とはしゃぎ回り子供達を眺めながら、リプレはふと、さっきまでキールが座っていた切り株に目をやった。
 彼は一体何を見ていたのだろう。興味を引かれ、彼女は試しにそこに腰掛けてみた。足の上に肘を置いて頬杖を付き、丁度少し首を上向けた位置に、通りから庭が見えないように視界を遮る庭木が見える。
「あれ……?」
 鳥の羽ばたき音に気付いて彼女は首を持ち上げた。目を凝らすと、並んでいる木のうちのひとつに鳥の巣が掛けられていた。
 たった今戻ってきたばかりの親鳥が、生まれ手間もないだろう雛に餌を与えている。
「キールが見てたの、これかぁ」 
 再び頬杖を付いて呟いたリプレの足下に、ラミが受け損ねたボールが転がって来た。
 立ち上がってボールを拾い、彼女はそれを山なりに空に放り投げた。孤児院の屋根の高さまで上がったボールを追いかけ、アルバとフィズが走る。
 この輪の中に加われ、とまでは行かなくとももう少し皆と仲良くしてくれたらいいのに、と子供達を見守りながらリプレは思った。

 生かされているだけの雛鳥は思いました。
 この巣の外はどんな風になっているのだろうか、と。
 餌を持って帰ってくる親鳥はいつも、どんな光景を見下ろしているのだろうか、と。
 そして何時しか、雛鳥は自分の翼で外へ飛び出すことを望むようになりました。
 けれど、哀しいことに雛鳥の翼は既に親鳥の手によってもぎ取られてしまっていたのです。
 雛鳥は一所懸命に考えました。
 そして、ひとつの答えを導き出したのです。

「キール、居る?」
 遠慮がちにドアをノックする音がして、返事を待たず扉は開かれる。
「なにか用?」
 椅子を引いて上半身だけで振り返ったキールの淡々とした問いかけに、扉口で片手にノブを持ったまま立ち止まっているハヤトは微妙に困った顔で笑った。
「用ってほどのものじゃないんだけど、さ。天気がいいし、散歩でもどうかなって」
 頭を掻きながら何処かで言葉を探しているハヤトの言い訳じみた台詞に、薄暗い部屋で机に向かっていたキールは彼に解らないように小さく微笑んだ。
「構わないよ」
 特に何かをやっていたわけではないしね、と付け足すように言うと、ハヤトは途端にパッと笑顔になって部屋に駆け込んでくる。
「じゃ、行こう!」
 まだ座ったままのキールの手を取り、早く行こうと促すハヤトはまるでさっきの子供達のようだ。けれど、今のキールの目には、そうは映らない。
 ――僕にとって、君は……
 声にならない声を心の中で呟かせて、キールは立ち上がる。椅子を机の下に戻し、ランプの明かりを消して部屋を出ると、夕食の支度で屋内に戻ってきていたリプレと視線がぶつかった。
「お出掛け?」
「散歩に行ってくる」
 彼女の質問に、実に機嫌良さそうに答えたのはハヤトだ。その後ろでキールは苦笑するばかり。
「じゃぁ、ついでにお買い物頼んじゃっても良いかな?」
「いいよ、何買ってくるの?」
 お強請りするように微笑んだ彼女の元に駆け寄ってハヤトが買ってくる品物の内容と、その代金をリプレから受け取る。その間、キールは玄関へ続く扉の手前で黙って待つ。視線はリプレと、ハヤトに向けたまま。
「お願いね?」
「解った、行ってきます。ほら、行こうキール」
 ポケットに小銭の入った袋を押し込み、ハヤトはキールの腕を取って引っ張った。その背中に、リプレが思い出したように声をかけてきた。
「キール、小鳥……可愛いよね」
 何のことか解らないハヤトはきょとんとしたが、彼女の言葉の意味をすぐに察したキールは先ほどの庭でのことを思い出し、曖昧に微笑む。そして何も答えず、今度は自分からハヤトを促して孤児院を出て行ってしまった。

 雛鳥は、考えました。
 そしてひとつの答えを見つけました。
 親鳥よりももっともっと大きな鳥に頼んで、自分をここから連れだしてもらおうと。

大通りに出ると人通りも増えて、ふたりははぐれないようにいつの間にか、どちらともなく手を繋いでいた。
「あ、なぁ……キール?」
 二軒目の店での買い物を終え、三軒目を目指して歩き出したハヤトはぽつりとキールに言った。
「さっきの、小鳥って?」
 どうやらずっと気に掛かっていたらしい、出掛けでのキールとリプレのやりとりを問われたキールは少し間を置いてからこう言った。
「ヤキモチ?」
「違う!」
 即答で、しかもこんな天下の往来のただ中で大声を出したハヤトは、一瞬後自分のやったことに気付いて顔を赤くした。その姿をクスクスと笑って、キールはハヤトの手を引いて歩き出す。一歩遅れて、下を向いたままのハヤトが付いてくる。
「孤児院の庭に、鳥の巣があるんだ」
 それのことだよ、と雑踏に紛れてしまいそうな音量で呟やかれたキールの言葉は、しかししっかりとハヤトには届いたらしい。
「え、それ本当!?」
 驚いた顔を上げて早足になったハヤトは、すぐにキールの横に並んで顔を覗き込んでくる。
「嘘はつかないよ」
 どことなくぎこちなさの残る笑顔を向けると、ハヤトは益々嬉しそうに微笑んでくる。邪気のないあどけなさは、少しずつキールの心を傷つけていくのに。どんどん彼を、割り切れなくしていくのに。

 雛鳥は策を練りました。
 親鳥に気付かれないように、己の中にとても大きな力を迎え入れるために。
 この場所から逃げ出す、ただそれだけのために。
 それなのに雛鳥は迷ってしまいます。
 翼をもがれたはずの雛鳥は、もしかしたら、そう思いこまされていただけなのかもしれないと。
 そう思いこんでいただけなのかもしれない、と。

「日が暮れる前に、急いで帰ろう」
「あと、バノッサに見付かる前に?」
 どちらかが先に握ったのかも解らない手を、放せなくなっているのは自分の方だと、キールは静かに目を閉じた。