花を植えよう
色とりどりの花を、沢山
たくさんの花を、植えよう
この広い庭を埋め尽くすほどに
花壇をいっぱいの花で飾ろう
次に君が目覚めたときに
ひとりぼっちで寂しくないように
花を、植えよう
世界中を色鮮やかに
花で埋め尽くしてしまおう
Flower
カチャン、と透明なグラスが盆に乗せられて運ばれてくる。
その音で、目が覚めた。
ひどく甘ったるい香りがする。
「……なんだ……?」
視界に広がるのは薄暗い天井、首を回すことさえ億劫になって、彼はその天井を見つめたまま呟いた。
「……なんだ」
起きてたんだ、と声がする。声を上げた存在は足音を消して彼が今寝転かされているベッドの脇へ立った。そして腕を伸ばし彼の傍らに手を置いて、身を乗り出す。
そうすることでようやく、彼は訪問者を視界の中に収めることが出来た。
「気分は?」
「……なんの匂いだ……」
包帯で片目を覆った存在が問いかけてきて、彼は返事の代わりに問いかけを繰り出す。その声は微かに掠れていて、弱々しい。
「あんまり、良い気分って顔じゃないみたいだね、ユーリ」
困ったような顔をして小さく笑い、彼は左手を振った。その袖からも包帯が見え、焦げ茶色のグローブの下まで覆われている。何故彼がそんな面倒な事をしているのか、ぼんやりとはっきりしない意識の中でユーリは考える。
焦点が合わなくなってしまったユーリの紅玉の瞳をしばらくじっと見つめた後、彼はスッと身を引いた。そしてベッドサイドにある丸テーブルまで戻り、今さっき自分が置いたグラスを右手に持つ。
ちゃぷん、と赤い液体が揺れた。
一層、ユーリの鼻腔に甘い香りが伝わってあからさまに彼は眉を顰めた。
「なんの匂い……」
「ジュース。少しくらいお腹に入れておかないとね」
気怠い声で、やはり上ばかりを見ているユーリが同じ問いを繰り返す。
「うそ、……だな。貴様は嘘が下手だ……」
スマイル、と最後に小さな声で名前を呼びユーリは瞼を下ろした。目を開いているだけでも疲れる、それにこの甘い香りは嫌いだった。
「ぼくの嘘は誰にも見抜けないって評判だったんだけど」
「だから、うそだ」
ふー、とユーリは深く息を吐き出す。そのついでに呟いたひとことにスマイルが「酷いなぁ」と苦笑したが、ユーリはそれを見ることがなかった。声の調子だけで察するけれど、何故そんな事が自分に分かるのかさえ今の彼は思い出すことが出来なかった。
ただ、とても眠い。
「ユーリ、眠る前に」
枕許のシーツが皺を刻む。ベッドのスプリングが撓み、幾らかユーリの躰が沈んだ。スマイルがまた身を乗り出し、彼の近くへ寄った為だろう。甘い香りが、ユーリに近付く。
時間をかけて彼は目を開いた。真上に見えるはずだった天井の代わりに、今はスマイルの隻眼が見える。綺麗な丹朱だったはずなのに、影になってしまっている為か少し黒ずんでいた。
「スマイル……?」
「ユーリ、飲んで」
言葉と一緒に、頬へ冷たいグラスが押し当てられた。いよいよ吐き気を覚えそうになるほどに強い、甘ったるい香りが彼に襲いかかって来て、いやいやと子供のようにユーリは首を振った。
けれど力が入らない身体は、彼が思っている以上に動いていなかった。真上に半身が乗りかかっている格好のスマイルが、困惑と諦めが入り交じった表情でユーリを見下ろしている。
最後の抵抗のつもりで、ユーリは固く瞼を閉ざした。意識を外界からシャットダウンしてしまうことで、この絶えられない甘い香りから逃れようとしているらしい。眉間には皺が寄り、既に困っているスマイルを更に唸らせた。
「どうしても?」
なんど問いかけても、求めても答えが変わることはない事くらい、スマイルにだって分かっている。けれど、彼にも譲れない理由があった。
ユーリの食が細いのは前からだった。けれどそこそこあったはずのその食事の量が日増しに減っていき、同時に彼の睡眠時間は伸び始めた。
食べることがないから、彼は当然痩せていく。アッシュが食べやすいもの、ユーリが好むものを必死に考えて作り出したのだが、結果は芳しくなかった。そうしている間にも彼はどんどん眠りが長くなっていく。
彼は吸血族、だけれど仲間達が知る限り……ユーリは一度たりとも人の生き血を飲もうとしなかった。どれほど飢えても、求めようとすらしなかった。
ユーリが二百年の眠りにつく理由はなんだったのだろう。出会う前の彼を知らない仲間達は途方に暮れた。
彼は捕食者である、だが本来の道筋を離れた彼の生き方はあるいは……肉体的な無理を生じさせていたのかも知れない。そして永遠の時間を生きる彼の肉体が限界に達したとき、身体が求めて自ずと眠りに入る習性でもあったのだろうか。
そんなこと、本人に聞かねば解るはずのない事。そして眠りが深まりだしたユーリは徐々にだが、記憶が曖昧になり始めていた。
誰が誰であるか、は理解しているらしい。けれど出会った経緯や、それに付属する過去の出来事云々が抜けていってしまっている。しばらくすれば思い出すこともあったが、思い出す前にまた次の眠りに入ってしまう事が多くなった最近はもう、その行為さえユーリには苦痛になっているようだった。
ゆっくりと、だが確実に彼は眠りに就こうとしている。
どうすることも出来ない。だからスマイルにとって、これは最後の賭けであり足掻き、だった。
きっとユーリは怒るだろうけれど……でも、こんなところで彼を見失いたくない、から。
スマイルは手にしたグラスを傾けた、自分の口元へ。そして少しだけ液体を口に含む。錆びた鉄の味が舌の上いっぱいに広がって、その臭さに彼は自然と顔を顰めた。
グラスを持っていない方の手をユーリの頭の下に差し入れ、彼の身体を少しだけ起こす。そんな風に自分の身体が他人に断り無く触れられ、動かされる事にさえユーリは殆ど反応を返さなくなっていた。
閉じられたユーリの唇に、スマイルは己のそれを重ね合わせる。
「んぅ……」
そして強引に、ユーリの唇を割り開いた。
赤い液体が唇の端から零れ、白い頬が染められていく。
甘い甘い、甘すぎる味。
無理矢理舌の上に載せられ喉の奥へ押し流されていくスマイル曰く、ジュース、にユーリは息苦しさを覚えて非難するように彼の服を握り軽く引っ張った。けれどスマイルはますます舌を強く押しつけてきて、全部呑み込ませようと喉の奥を突っつきさえしてくる。
唾液に混じって薄くなった液体を、ユーリは逆らいきれずに嚥下した。
スマイルは頬に溢れてしまった分にまで舌を伸ばして舐め取り、それをまたユーリの舌の表面に押しつける。
甘く、どこまでも口の中に広がり残る香り。ざらついた感触が口腔から消えきれずにそのままにされている。水が、欲しかった。
「ユーリ……」
「……吐く」
宥めるようにスマイルが彼の髪を撫でるが、ぼそり、とそれだけしか言葉は返されなかった。ユーリの顔は本当に気分が悪そうで、もとから色が白く不健康だったのに今はもっと不健康に見える。しっとりと汗が額に浮かんでいて、それをスマイルは左手のグローブを外して拭ってやった。
「ユーリ、お願いだから」
「……気持ち、悪い……」
「お願いだから、ユーリ」
「…………吐く……」
「ユーリ、ユーリ……お願い、だから……」
「………………ねむ、い…………」
「起きてよ、ユーリ。起きてよ、ねえ」
瞼を開こうとしないユーリの肩を掴み、スマイルは彼を揺さぶった。けれどなんの反応もなくて、ユーリのあの紅玉の瞳は再び彼を視界に収める事はなかった。
それでもなお、スマイルはしつこくユーリを揺らし、懸命に声をかけて目覚めを促そうとしたけれど。
どうしようも、なくて。
枕許に置いたままだったグラスが振動に絶えきれずに倒れ、ユーリの周囲が赤く染めあげられてしまっても、彼はまったく目を覚ます様子は見当たらないまま。
それから四日後
ユーリはいつ醒めるかわからない眠りへと堕ちていった
たったひとりで、仲間達を置き去りにして――――