日曜日の午後、君に

 日曜日の、午後。連日のように続く野球部の練習も、偶には監督の計らいで休日が訪れる。滅多にない骨休みとも言える時間だけれど、普段から野球にすべてを注ぎ込んでいる感のある高校球児達にとってしてみれば、その空白の時間はあまり使い道が無くて逆に、なにをすれば良いのか解らず困惑してしまいそうになる。
 遊びに行こうにも、常日頃から野球しか考えていない頭では最近出来たばかりのお洒落な店や、話題のスポットに出かけようとも思わない。そういう場所にあまり興味がないから、調べる事もしない。
 だけれど、家に居てじっとしているのもそれはそれで暇で。かといって、体を休めるための休日にグローブを持ち出すのもどうかと考え、結局は行くあても特に定めることなく財布だけをポケットに入れ、街へ出た。
 学校からさほど離れていない繁華街。さして興味もないのにCDショップと大型書店を順番に回り、その途中で遅めの昼食を取るためにファーストフードの店に入った。
 どこに行ってもこの高身の身体は目立ってしまい、行く先々で受ける女性陣から注がれる視線が痛い。午後1時を過ぎてもまだ長い行列が出来上がっているハンバーガーショップの列に並んでいる間が特に酷くて、集団で群れている女達が高音の声をがなり立てながら、本人達はひそひそ話をしているつもりなのだろう。だけれど視線は一様にこちらを向いていて、それが気にくわない他の男性陣から向けられる視線も毒を孕んでいる。
 こういう手合いは無視するに限る。いちいち相手にしていたところで、自分が疲れるだけで利益はひとつもないのだ。
 慣れているわけではないが、状況には否応がなく慣らされてしまっていて、溜息がひとつ紛れ込む。ようやく順番が巡ってきたカウンターであらかじめ用意して置いた注文を早口で告げ、応対をした若いバイトの女が頬を染めるのを冷たい目で見下ろしながら数分待つ。
 まだ暖かいハンバーガーと、冷たい飲み物。受け取ってから混雑している店内を掻き分けて暫く進み、周囲を見回しながら空席を探した。
 今はひとり。相席はもともとゴメンで、自分を注視している人間を完全に視界からシャットアウトさせたまま二階の、大通りに面した窓際のカウンター席に腰を落ち着けた。ここならばじろじろ顔を観られる事もなく、ゆっくりと食べることが出来そうだと思ったから。
 ハンバーガーの包み紙を解き、はみ出しているキャベツを先に口に放り込んでかぶりつく。上品な食べ方をする理由もなく、とりあえず口元の汚れだけを気にしながら数口で食べ終えてしまう。
 背中に注がれる視線は変化無く、意識の外へ追いやることで無視を貫く。アイスコーヒーの紙コップを片手に持ち、もう片手はテーブルの上で頬杖をついてぼんやりと、ガラス張りの壁代わりになっている窓から外を眺めた。
 ストローで冷たいコーヒーを飲む。ざざざ、と細い管から吸い上げられていく濃い色をした液体が音を立てた。
 眼下の人波は、昼を回ってから尚更増したようだった。人混みはもともとあまり好きではなかったし、なによりも不必要に向けられる他者の好奇心はうざったい。だったら何故、今日に限って持て余している時間を浪費する方法として街へ出る事を選んでしまったのだろう。
 ストローから口を離し、コップをテーブルに戻す。底の固い部分が白いテーブル板にぶつかって軽い音がした。氷が滑り落ちて、見えないコップの中で衝突を繰り返している。何気なくストローを持ち、掻き混ぜてみた。液体と氷がストローにぶつかり、乱れていくのが感覚で伝わってくる。
 また溜息が漏れる。
 このあとどうしようか。スポーツショップに寄って、新しいスパイクでも品定めしてから帰る事にでもしようか。足許から覗く騒々しそうな光景を見下ろしながら、そんな事を考えてみる。左手は相変わらず、ストローを掴んでコーヒーを掻き回していた。
 ざりざり、ざり。
 氷にぶつかって歪な音が空間を通り過ぎていく。
 雑然とした光景、その中を行き交う人々。信号が変われば車と、そして人間が一斉に動き出して、また別の一帯では動き止む。一見すると整然としているように思われるものも、上から眺め下ろせばそれはまとまりを欠き、一貫性を持たない歪んだ世界だ。
 神様が空の上に居るのだとしたら、こんな光景を毎日眺めて退屈そうに欠伸をしていることだろう。
 どうでも良いことを考えて、ストローを口に運び少し温くなってしまったコーヒーを啜る。ズズズ、と音がした。
 ざざざ、と交差点の人間が動いている。
 ふと、けれど、その動きの一角が崩れていこうとしているのが見えた。
 なんだろう、人混みが割れて空間が出来上がっていく。その中心には小さな人間――恐らくは老婆――とそれを庇うような格好で立つ男、それから男と対峙する格好で立つ別の男の集団が居た。
「…………?」
 何故か気にかかって、首を捻りながら目を凝らしてみた。
 いつもならば目に入っても無視するだけの、彩に欠けた世界がその部分だけ、妙にはっきりと輪郭を映し出して見えたからだ。
「……猿、野……?」
 ぽつりとその名前が口から零れ落ちた。無意識に、コップを握っていた左手に力が込められる。薄い紙で出来たコップはいとも簡単に、加えられた力に耐えかねて真ん中辺りから拉げ始めた。
「猿野」
 今度ははっきりと、確信を持った声で呟く。なぜだか、この位置からではその存在を判別する事は不可能に近いはずなのに、声に出してみた途端あそこで地面に倒れた老婆に手を差し伸べている人物があの、野球初心者の問題児であると決定されてしまっていた。
 立ち上がる、椅子の脚が床に擦れる。飲みかけのコーヒーは潰れたコップごとゴミ箱に棄てた。乱暴に盆を投げるように置き、階段を急ぎ足で駆け下りる。途中でぶつかりそうになった相手に謝罪のことばを告げる事もせず、最後残っていた三段分の段差は飛び降りることで片付けた。
 行列が解消されつつある店内に目もくれず、自動ドアが開く間の時間さえも惜しむ気持ちで店を飛び出す。
 人混みが割れた空間は、直ぐに見付かった。
「謝れよ!」
 矢のように鋭い声が、ざわめきを切り裂いて耳に届いた。
 間違いない、あの声は。あのやたらと大きく、耳障りでしかなく、人のことを散々バカにした口調でしかものを言ってこない、けれどやるときは案外やるし、目立たないところで努力していたりもする、そのわりに悪ふざけばかりが目立つ、あの。
 猿野天国。
 気が付けば視線がいつもあいつを追いかけている事を、自分は自覚している。その視線が語るものがなんであるかも、曖昧な感情ながら分かっているつもりだ。
 だけれど、まだ不確定であやふやで、そして微妙なこの空気を張り詰めさせるだけの気持ちは、今の自分にはまだ無い。
 変わってしまいかねない空間を、自分から投げ捨てるだけの勇気が未だにない。
「猿野」
 人垣になっているところを掻き分けて、前に出る。猿野はどうやら、乱暴に老婆にぶつかっていった若者数人を相手にしているらしい。彼女は倒れたときにどこかをぶつけたりでもしたのか、苦悶の表情を僅かに浮かべてタイル敷きの歩道に膝をついていた。
「謝れって言ってんだよ!」
「うっせーなー。俺たちがやったって証拠でもあんのかよ」
「ある。オレはこの目でしーっかりと見てたぞ!」
 自分の見開いた両目を指さしながら、口答えをする若者――とはいえ、高校一年である自分たちよりは年上であろう――に向かって猿野は怒鳴り返した。するとすぐさま、別の男が太々しい態度で猿野へと躙り寄った。
 猿野は逃げず、威勢良く男を睨んでいる。
 光景を眺めながら、自分の顔が顰めっ面になっていくのが鏡を見なくてもよく分かった。それ以上猿野に近付くんじゃない、心の中で叫んでいることばはけれど、口に出ず喉で止まって瘤になっていた。
 吐き気さえ覚えてしまう。
 猿野は尚一層強く男を睨み、もう一度「謝れ」と言った。
 座り込んでいた老婆が、猿野のズボンを掴んで引っ張り「もう良いから」と繰り返す。振り返った猿野が、逡巡するのが分かった。
 男が更に距離を詰める。汚らしい金髪に染めた髪を左右に揺らしながら、下卑た笑みを口元に浮かべていた。
 反射的に、足が前へと進む。猿野は老婆に気を取られていて、男の動きに気付かない。
 人混みが割れる、誰かが危ない、と叫ぶ声を遠くで聞いた。金髪の男が握る右手の中に、何かがあった。細長い、銀色をした筒状の物――例えばそれは、携帯用のスプレーのような。
 結局それが使われる事が無かったので、中身が何であったのかははっきりとしない。ただ漠然と、あれは恐らく痴漢やそんなものを撃退する目的で本来は作られて販売されているものだろう、と理解は出来た。ちらりと見えたラベルも、そんな意味合いが感じ取れたから。
「……焦げ犬!?」
 猿野が驚いた顔をして俺を見る。今まさに猿野へ攻撃を仕掛けようとしていた金髪野郎の右腕を、手首で掴みひと捻りした俺の顔を見上げて猿野は半分不満げに、そして残り半分を驚愕に染めていた。
「いでっ、いででででっ!!」
 腕を捻られた男がみっともない悲鳴を上げて左手を空中でばたつかせた。一斉に周辺がどよめく。それは男の仲間達も同じだった。
 俄に殺気が誕生する、面倒臭くなって溜息をついた。
 くるり、と体の向きを反転させる、金髪の男ごと。そして猿野が二の句を告げないで居る間に軽く力を入れて男の背中を押してやった。同時に、掴んでいた右手も放してやる。
 男は前につんのめり、三歩ほどステップを踏むように飛び跳ねてから仲間に支えられる格好で膝を折った。かろうじて地面に倒れ込む事はなかったものの、捻られたところの痛みと急に解放された事からバランス感覚を失い、咄嗟に何かを叫ぶ事も出来ず茫然としていた。
「てめっ!」
「行けよ、さっさと」
 怒鳴ろうとした別の男を一瞥し、顎をしゃくって道路の反対側を示す。複数人居た男のうち、半数がほぼ同時に舌打ちした。
「んなっ、勝手に決めんな焦げ犬!」
「俺はそんな名前じゃない」
 状況判断をし損ねている猿野の叫びには冷淡なひとことで返し、もう一度男達を睨み付けてやった。
 もとより愛想の無いと言われる顔で睨まれ、男達は萎縮まではしないものの、居心地の悪さを覚えたのだろう。今度は金髪野郎以外の全員が舌打ちをし、リーダー格と思われる男が首を横に振った。表情としては、つまんねぇ、だろうか。
「おい、行くぞ」
 バカに構うな、と言われ猿野が後ろで過剰に反応していた。それを右手一本で制し、去っていく男達が次々に投げ捨てていく常套句を聞き流す。
 首から上だけで振り返ると、倒れていた老婆も痛みが和らいだのか立ち上がろうとしていた。取り囲んでいた人垣も、徐々に薄れていきやがて消滅する。老婆の動きに気付いた猿野が、よろけそうになる彼女に慌てて手を差し伸べた。
 その行動は普段の巫山戯ているものと比較できないほど、親切で丁寧だった。
「大丈夫か、婆さん」
 但し、口調は大差ない。
 男達が完全に見えなくなるのを確認してから、ようやく身体ごと振り返って猿野を見る。まだ若干不満そうなのは、奴らが謝罪のことばを最後まで口にしなかったからだろう。それとも、あまり考えたくはなかったけれど。
「勝手な事すんなよな」
 背を向けられたまま、ぶっきらぼうに言われる。
 やはりそれを怒っているのか、と胸の中で呟いた。猿野は俺が、勝手に割り込んで行って勝手に主導権を握り、勝手に男達を行かせてしまった事に腹を立てているのだ。そして、恐らくは。
 俺に助けられた結果になった自分にも、腹を立てているのだろう。
 老婆がきちんと立てる事を確認してから、地面に落ちていた彼女の荷物を拾い上げて埃を払ってやる猿野を、遠くを眺める感覚で見つめ続ける。終始猿野は俺に背を向け、目を合わせようとしない。
 余程怒らせてしまったのか、と溜息を零して乱暴に髪を掻き乱す。その手前で老婆は、まず猿野に、それから姿勢を改めて俺に向かって一度ずつ、頭を下げた。
 少し慌てそうになり、急いで首と手を同時に横に振った。俺は猿野に危害を加えようとしていた奴を止めただけであって、老婆を助けた覚えは無かったから。
 けれど彼女はにこりと優しく微笑み、今度はふたりに向かって頭を下げて礼のことばを告げた。猿野が、まだ心配そうな顔をして送っていこうかと尋ねている。けれど彼女は丁寧にその申し出を断り、ありがとうね、と付け足した。
 照れくさそうに猿野が笑う。その横顔をじっと見ていると、気付かれて途端彼の表情は不機嫌色に染まった。
 老婆がまた笑う、楽しそうに。それじゃあね、と呟いて彼女は猿野から荷物を受け取ると、人混みの中へと消えて行ってしまった。
「……なんだよ」
「いや」
 少し意外な感じがした、とは言わなかったが顔に出てしまっていたらしい。不機嫌に輪を掛けた表情で猿野はふいっ、と俺から視線を外す。
「暴力事件は部活停止どころの騒ぎじゃ済まなくなるぞ」
「うっせぇ。じゃ、なんか? テメーは見過ごせるってのか?」
 正義感溢れる感情に目を丸くする。恐らく自分は、猿野と同じ現場に遭遇したとしてもきっと無視を通し、この場を立ち去っただろう。
 自分たちの違いは、多分こんなところにある。正しいと思ったこと、間違っていると思うことを正直に口に出せるその心が、彼の強さ。時々羨ましく、そして眩しく思えてならない彼の正体は、ここにある気がする。
「……んだよ」
 じっと見下ろされる事が苦痛なのだろう、頬を膨らませたまま猿野は俺を睨む。
「いや、別に」
「つーかそもそも、なんでテメーがここに居んだよ」
「休みをどう使おうと、俺の勝手だろう」
「そーじゃねえって。オレが言いたいのは、なんでテメーがこの場所に居るのかって事」
「俺の勝手だ」
「だー、くそっ!」
 堂々巡りの質疑応答に痺れを切らし、猿野はその場で激しく地団駄を踏んだ。道行く人がすれ違いざまにクスクス笑って通り過ぎていく。恥ずかしい奴め、と思って見ていたが、どうも通行人は猿野だけを見ているのでは無いことに途中で気が付いた。
 正しくは、“自分たち”を見ている。認識した途端、とてつもなく今自分が此処にいることが恥ずかしく思えてきた。
 日曜日の午後、たまたま出かけた街中で、本当に偶然に、お前に会って。
 出かける予定も、目的もないままに気が向いたからというそれだけの理由でこの場所を訪れた自分。けれど、あるいは。
 もしかしたら、万が一にも可能性があるのだとしたら。
 ひょっとして、自分は。
 ――会いたかった……?
 人混みの中、騒々しい往来の真ん中でお互いに制服やユニホームを身に纏っているわけでもなく、共通点などおおよそ想像も出来ない自分たちが顔を合わせて、こうやってここに居る。
 恥ずかしいどころではないかもしれない。もしかして、かろうじて生まれつきのポーカーフェイスが隠してくれているこの感情は。
 もしかしなくても、間違いなく。
 嬉しいと、感じている。嬉しいと思ってしまっている自分が居る。どうしようもなく舞い上がって、喉の奥に出来上がったことばにならなかったものの瘤がもぞり、と動いた。
「おい」
 道のど真ん中で暴れる一歩手前の猿野の手を掴み、半ば強引にガードレールの方へと引っ張った。その場に踏み止まろうとした猿野だったが、こちらの力の方が若干強く彼はつんのめり、俺に向かって倒れかけた。けれど最後で堪えきった彼は、嫌そうに俺の手を払うとなんだよ、という目で見上げてきた。
「行くぞ」
「どこへ」
「どこでも良い」
 アイツらが気分を変えて戻ってこないとも限らない、ここに居ない方が良いだろう。遠くを見てあの金髪が見当たらない事を確認しながら、わざと本当らしくことばを連ねる。珍しいくらいに、舌の上で音が滑らかに滑っていた。
 猿野はまだ不満げだったが、俺の台詞に一理あると感じ取ったらしい。小さく呻いて俯いた後、
「行くって、どこへ」
 先の問いかけを言い直した。
「どこでも良い」
 俺は同じ台詞を繰り返す。つまんねえ奴、と猿野が斜め前方を眺めながら呟くのが聞こえてしまった。そうは言われても、咄嗟にふたりで行くところなど思いつかないのだ。昼食はさっき、済ませてしまったばかりだから。
 しかしそれを口に出す気分にはならなかった。
「じゃあ、よ。飯食いにいかねーか、オレまだなんだよ」
 急に思い出したらしく、猿野は自分の腹部を片手で押さえながら言った。いつもの、俺にはあまり向けてくれなかった人なつっこい笑みを浮かべて。けれど表情の隅の方に、お前が奢れよ、という意味合いが込められているのを感じ取った。
 俺はもう食べた、とは言わなかった。
「ちぇっ。しょうがねーな……」
 さも自分もまだ昼を食べていません、という顔をして舌打ちをし、財布をポケットから取りだした。残高を素早く計算し、猿野の胃袋を計算し、それから帰りの交通費を換算する。
 かろうじて、辿り着けそうだ。無理だったらトレーニングを兼ねて走って帰ることにしよう。
「あんま高いのは無理だからな」
「わーてるって。貧しいワンコは労ってやらねーとな」
 楽しそうに猿野が笑う。思いがけない奢りにありつけたと、上機嫌のようだ。
 彼が指で指し示したのは、さっきまで自分が居たファーストフード店。一瞬うんざりしてしまったが、無表情を貫いてまた店の扉を潜る。今度はふたりで。
 本日二個目のハンバーガー。目の前にして、げっぷが出た。

02年3月25日脱稿