悪戯な月

 その日、一日中リプレの手伝いで買い物に走り回っていたトウヤはくたくたに疲れていた。
「死にそう……」
 夕食を終えて自室に戻った途端、ベッドに倒れ込みトウヤはため息をこぼす。うつぶせの状態だったので声はくぐもっているが、ふかふかの布団は柔らかくて気持ちが良かった。そういえば午前中のうちにリプレが干してくれていたような気がする。
「そういう細やかな所は、お母さんだよな」
 ただちょっと、やはり人使いが荒いような気がするが。
 少しでも安く食料費を上げるためにまとめ買いを心がけているせいで、必然的に荷物は大きく、重くなる。最近ではまたフラットの人数が増えたおかげでその傾向は顕著となり、一度で運びきれなくて何度も南スラムと商店街を往復させられる羽目に陥った。もっとも、トウヤはそのことに文句が言える立場ではないのだが。
 なんといっても、フラットの住民が増えた原因の半分は彼によるものだからだ。手始めにジンガを拾い、行く当てのないモナティやガウムを助け、そのおまけ状態でエルカも居着くことになった。ローカスは、あの時はああするしかなかったわけだし。
 それにしたって、今日は疲れた。
「腕が重い……」
 剣道で長年竹刀を握っていたから腕力には自信があった。上腕部の筋肉は他よりもかなり鍛えられていて逞しいが、全体の体力はまだまだ足りないらしい。リィンバウムに来てからかなり強くなったはずだが、それでもエドスやジンガには到底かないっこないし、リプレのその見かけによらないたくましさにも永遠に手が届かないだろう。
 結局、育った環境の違いだ。
 手伝わせようと思っていたガゼルは、先にリプレのお願い攻撃を予想していたのか探したけれど見つからず、他のメンバーもそれぞれ仕事だったりで忙しくて手を煩わせるわけにいかなかったので、トウヤはひとりで荷物を運んだ。それが合計四往復という思いもよらない重労働になってしまったわけだが、今更ながら自分の人の良さをトウヤはあきれていた。
「ふう」
 寝返りを打ってうつ伏せから仰向けに姿勢を変え、天井を見上げてトウヤはカンテラのまぶしさに目を細める。これでは、明日は久しぶりの筋肉痛に苦しめられることだろう。情けないことだ、とため息を付き身を起こす。
 こんこん、と遠慮がちにドアがノックされたのはそのときだった。
「アニキ、いるかい?」
「ジンガ?」
 これはまた珍しい人物の訪問に目を丸くし、トウヤは「どうぞ」とドアの向こうに向かって声をかけた。
 キィィ……と軋んだ音を立ててドアが開かれ、手にタオルと着替えを抱えたジンガが中に入ってくる。
「風呂、入らないかい?」
「ああ、もうそんな時間か……」
 膝を寄せて髪をかき回し、トウヤは吐き出した息と一緒に声をこぼす。
「アニキ?」
「いや、何でもないよ。お風呂だね? ちょっと待っててくれるかな」
 ベッドから足を下ろして立ち上がり、着替え類を入れている小さな棚に向かう。その間ジンガは言われた通りに大人しく待っていたが、わずかに首を傾げていた。
 彼は今日、エドスと一緒に仕事に出ていたので、トウヤがどれだけどたばたしていたかを知らない。だがその背中がやけに哀愁を帯びている事だけは分かった。夕食の時もやけに元気がなかったし。
「アニキ、何かあった?」
「え? 特にないけど……」
 棚からパジャマ代わりのシャツとズボンを取り出し、トウヤが振り返る。
「そうかい? ならいいけど……」
 どうも腑に落ち無いながらも、トウヤがそう言うならそうなのだろうと無理矢理自分を納得させてジンガは先に立って歩き出した。部屋を出て廊下を進み、しばらく行くと裏手にある離れへ出た。
「よっ、トウヤ。お先」
 丁度ガゼルが子供たちを入れていたらしく、湯気を全身から登らせた集団とすれ違った。
「湯加減どう?」
「いい感じだったよ」
 尋ねるとアルバが陽気に答えてくれた。付け足すようにガゼルが、今なら沸かさなくても充分だと教えてくれる。
「ありがとう。じゃあ、今は誰も入ってないんだね?」
「ああ。早くあがれよ。次がつかえてるんだからな」
「分かってる」
 短い会話を交わしてガゼルたちと別れ、トウヤは引き戸を開いた。
 ムワッとした湿った空気が流れ出てきて、一瞬顔をしかめてしまう。靴を脱いで濡れたすのこの上に上がり、壁際に置かれた棚に着替えを置いて服を脱ぐ。横を見ると、ジンガもさっさと服を脱いで上半身裸だった。
 しっかりと鍛えられた体をしている。無駄のない肉付きで引き締まっており、とても十五歳の身体とは思えない。羨ましささえ感じてしまいそうだった。
「アニキ?」
「日焼け、すごいね」
 腕の部分と胸のあたりの肌の色がくっきりと分かれてしまっているジンガに言うと、彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「しょうがないじゃん、だって外で仕事してるんだから」
 石切の仕事はハードだ。炎天下の下で一日中固い石と対面していなくてはならない。日焼けもするだろう。
「アニキはあんまり焼けてないね」
「僕の服は長袖だからね」
 別にずっと家の中にいるからではないのだと、言外に告げてみるが果たしてジンガに伝わったかどうか。
「ふーん……アニキって、さ。結構鍛えてあるよね」
「そうかな?」
 薄手のシャツを脱いで洗濯籠の中に入れ、トウヤがジンガを見る。
「ジンガには負けるよ」
「でも、他の連中に比べたらアニキって結構、いい身体してるって」
 おれっちが言うんだから間違いない、と妙な保証を付けられてトウヤは苦笑する。一応礼を述べておいて、彼はズボンも脱ぐと風呂場の扉を開けた。
 湯気が立ちこめている。天井近くにある唯一の窓には水蒸気がびっしりとついていて、子供たちが遊んだと思われる残骸があちこちに散らばっていた。
「すっげー……泡だらけ」
 後ろから入ってきたジンガも、入り口で立ち止まっていたトウヤの肩越しに中の光景を見て感嘆の息をこぼした。 
 かろうじて湯殿の中には泡は無かったが、床の簀の子にはまだ消えきっていない石鹸の泡がこびりついていた。下手に踏むと、滑りそうで怖い。
「……ガゼルの奴……」
 ちらりと、分かれるときにやけににや付いた顔をしていたガゼルを思い出してトウヤは歯ぎしりする。だが、こうなってしまった以上どうしようもなく、諦めて脱衣所への扉を閉めた。
「アニキ、石鹸ないよ?」
「……その辺の泡の中に、隠れているんじゃないのか?」
 いつも石鹸が置かれている場所に目当てのものが無く、困惑しているジンガに答えてトウヤは湯殿を手桶で軽くかき回した。温度は丁度いい感じでそれだけはガゼルに感謝するが、他のことはあとで叱ってやらねばなるまい。
「そっかなー……えっと、どれだろ」
 簀の子の上できょろきょろしているジンガを見上げ、トウヤは手桶から湯をすくい上げて肩からかける。飛び散った湯が床の泡を消し去るのを手伝い、そのうちのひとつから、やや黄ばんだ石鹸の固まりが出てきた。
「ほら」
 それを拾い上げ、ジンガに手渡す。
「アニキ、ありがと!」
 そんな些細なことでも嬉しそうに礼を言うジンガがほほえましい。彼は早速、石鹸を泡立てて身体を洗い始めた。
「後でアニキも洗って上げるからね」
「ありがとう……」
 石鹸を返して貰おうと手を伸ばしていたトウヤは、先手を打つようなジンガの明るい声に言葉が出ない。行き場のない手をしばらく見つめた後、しょうがないか、と息を吐いてジンガのために桶に湯を移し替えてやった。だがそれが終わると、する事が無くなってしまう。
「…………」
 はぁ、と息を吐き出しトウヤは自分の右腕を見た。
 竹刀を持つだけだった腕は、今や本物の剣を握っている。その重さは比べものにならない。人を傷つけ、殺すこともできる武器を握る手だ。今はひどく、それが憎い。
 今日のように、持つものが剣などではなく日常生活に必要なものであったならば、こんな気持ちにならずに済むだろうに。いくら量が多く重くとも、血糊の付いた剣を持つよりもずっと、気持ち的に楽で済む。
「……アニキ?」
「え?」
 ぼうっとしてしまっていたらしい。ジンガの顔がすぐ目の前にまで接近していたことにすら気づかなかったなんて。
「やっぱり、どっか具合悪いのか?」
 アニキらしくないよ、とジンガに言われてトウヤは苦笑する。確かに、疲れているのかも知れない。こんな風に隙を作るなんて。
「ちょっとね、リプレの用事が思ったよりもきつかったからかな」
 苦笑いのままジンガに今日の出来事をざっと説明してやると、彼は神妙な顔をして聞いていた。よくよく見れば彼はまだ全身を洗い流しておらず、泡にくるまれているみたいだった。
「ふーん……大変だったんだ」
「でも、それくらいしか僕に出来ることはないから」
 いいんだよ、と言うとジンガは「むー」と唸って、
「じゃ、おれっちがマッサージしてあげる」
 ぱっと顔を上げたジンガが、満面の笑みと表現すべき顔でトウヤを見つめた。
「え……? あ、ありがと……」
 まさかここでする気か? と疑問が降って沸いて出て、いやまさか、とどこか冷静なトウヤが判断を下そうと思考を落ち着けさせるのだが。伸びてきたジンガの手がトウヤの左腕をわしづかんだ。
「!」
 痺れが上腕部から全身を貫いてトウヤは息を詰まらせる。痛い。
「あ、ごめん」
 強く握りすぎたと気づいたジンガが力を緩めるが、手そのものを放してくれる気配はない。今度は慎重に、親指の腹を使って肩に近い方から揉みほぐし始めた。
「ん……」
 痛みの中に、気持ちいい感覚が生まれてくるのはすぐだった。手慣れている、そう感じさせるジンガの指の動かし方に、トウヤは全身から力を抜いた。
「いっ……」
「ここ、結構凝ってる」
 ジンガの身体にまとわりついていた泡がトウヤにも移ってくる。
「……あ、いい……そこ……っ」
 念入りに腕をほぐされてトウヤはつい、そんなことまで口に出してしまう。ジンガはトウヤのリクエストに応えてその箇所を重点的に押さえてくれ、これまで溜まる一方だったトウヤの疲れを癒してくれた。
「おれっち、上手いだろ?」
「ん……癖になりそうだ」
 ストラで疲れを癒すことは出来るが、身体に溜まった凝りはこうやって取るのが一番気持ちがいい。格闘家であるジンガは、どこが疲れの溜まる場所か、しっかりと熟知していた。
「へへへー……じゃ、ここなんかは?」
「あ……すごくいい……」
 肩を指で強く押され、痛みの奥に疲れが消えていくような感覚が気持ちいい。
「ん、ふっ…………」
 吐息が漏れてトウヤは目を閉じる。その隙にか前に回り込んできたジンガが、うっとりとそんな彼の顔を屈んで眺めた。
「アニキの顔……」
「え?」
「なんか、やらしい」
「!?」
 いきなり何を言い出すのか、と声を立てようとした瞬間痛いところを押さえられて唇をかむ。だが直後にじんわりとした気持ちよさが浮かんできて、トウヤは混乱した。
「へへっ、気持ちいいでしょ?」
 どこが疲れの溜まる場所で、どういう風にすれば楽になるのかを熟知しているジンガにとって、トウヤの声を封じることは簡単だった。
「やめ……ジンガ……」
「なんで? 気持ちよくない?」
 右腕をさすっているジンガの指が止まる。真正面からトウヤを見つめているが、その目はどこか楽しそうだ。
「おれっちとしては、もっと気持ちいいこともして上げたいんだけど……」
「しなくていい!」
 身の危険を感じてトウヤは逃げようかと身をくねらせた。だが寸前でジンガに抱きすくめられてしまう。
 身長はトウヤの方が断然高いが、体格ではジンガに劣る。もちろん腕力も例外ではなくて、トウヤはあっけなくジンガの腕に納められてしまった。
 湿った泡の感触が気持ち悪い。
「なんでぇ? いいじゃん、減るもんじゃないし」
「減る。確実に減る!」
 ちょっとまておちつけばかなことはかんがえるなはやまるなぼくたちはまだわかい!!
 混乱した頭で叫ぶトウヤの言葉はだんだん意味が分からないものになっていく。だがジンガは止まらず、嬉しそうに笑うと首を上向けて近づいてきた。
 濡れたものがトウヤの唇に触れる。それがジンガの舌だと気づいた直後、トウヤは口をふさがれていた。
「ん……っ!」
 直前まで喚いていたせいでガードするのが遅れた。歯列を割って入り込んできたジンガの舌先がトウヤの中を動き回り、絡ませてくる。逃げようとするが力関係が逆転しているために上手く行かず、息継ぎを挟んだキスはしばらく続いた。
 何故か涙が出てきた。
 かなり、悔しい。
「アニキ?」
 堪えきれず泣き出したトウヤに、顔を離したジンガが困った表情を作る。だが、あろう事か彼から次に飛び出した言葉は、
「泣いてるアニキも可愛い!」
だった。
「ちょっ、ジンガ!」
 再び抱きつかれ、なおかつ押し倒されてトウヤの背中が簀の子に当たった。のしかかり肩を押さえ込むジンガがやけに凶悪に見えてトウヤは息をのむ。
「ばか、頭冷やせ! 何考えて……」
 ピシャッ! ガラガラガラ…………
 焦るトウヤの声に、風呂場の扉が開けられる音が無情に重なり合った。
「……………………………………………………………」
 気まずい、非常に、ひっじょー! に気まずい空気が一面を覆い尽くす。トウヤも、ジンガも、そして入ってきたソルも…………その場で凍り付いていた。
 ただ、一番現実に帰ってくるのが早かったのも、ソルで。
「……邪魔したな」
 冷たい一言を放つと、扉を開けて出ていってしまった。
「そ、ソル……待って……」
「逃がさないからね、アニキ!」
「ジンガ、馬鹿離れろ……ソル、違うんだ誤解だ待ってくれソルーーーーー!!」
 トウヤの空しい叫び声が、その夜遅くまで響いていた。