刹那のカケラ

 生きるって、何?
「えー? 食って、寝て、遊ぶことだろ?」
「よくは分かりませんけれど、呼吸して動いている事じゃないんでしょうか」
「今、ここにいること」
「生きている自分を感じることです、僕の場合では」
 死ぬって、どんなこと?
「えっと、なんだろ……いなくなるって事か?」
「呼吸しなくなって、動かなくなってしまうこと……でしょうか」
「個としての存在の消滅」
「大地に還ることです」
 未来は見える?
「明日のことは、明日考えるさ」
「どうでしょう、僕には分かりません」
「常に不安定。見えたところで、それが真実かは分からない」
「見えない方がいいですね。その方が、楽しみがありますし」
「難しいね」
 そう言うと、みんなはまったくだと頷いた。

 ひとつ妙なことに気がついたのは、ルックだった。
「おかしい」
 一言、ボソッと呟いた彼が立ち止まり、空を見上げる。ルックを置き去りにする形で先に進んでいた残りのメンバーも、すぐに彼に気付いて足を止めた。
「どうかしましたか?」
 フッチが代表でルックに声を掛ける。しかし聞こえていないのか、ルックは上を向いたまましきりに何かを呟いているようだった。
「ルック?」
 近付いて、セレンがルックの袖を引っ張る。サスケはルックの見上げる空に何かあるのか、と同じように上向いたが、特に目立って珍しいものを見つけることは出来ず、肩が疲れたと首を回した。
 そんな中、最年長者のキニスンが周囲を見渡して顔をしかめる。
「変、ですね」
「え?」
 ルックと同じ様なことを口にしたキニスンを、セレンが振り返る。
 キニスンの足元では、シロが周りを警戒しているのか、身を低くして耳を立てている。いったい何が起きているのか、さっぱり分からなくてセレンとサスケ、それからフッチは互いの顔を見合わせた。
「……ちがう」
 ルックがゆっくりとささやき、眉間に皺を寄せた。腕を組んで考え込む。
「おかしいです、ここは」
 警戒を解かないシロの首元をさすってやりながら、キニスンがセレン達を見て言った。
「変って、どこが?」
 サスケがもっともな疑問を口にして、キニスンを困らせる。彼も、どこがどう、おかしいのかを具体的な言葉で説明できないのだ。ただ、奇妙だとしか。
「気がつかないのか?」
 そこへ、サスケを小馬鹿にする声が割って入ってきた。言わずとしれた、ルックだ。眉間の皺はそのままに、彼にしては珍しく困った表情を浮かべている。
「何があったの?」
 かちん、と来ていつもの如くルックにつかみかかろうとするサスケは、いつものようにフッチに押さえ込まれている。背中に感じるサスケの怨念に苦笑しながら、セレンはルックに尋ねた。
「迷った、なんて言うなよ」
 ルックが答える前に、嫌味を込めたサスケの台詞が飛ぶ。ここまで、森の中とはいえ一本道を地図の通りに進んできたのだ。どう考えても迷うはずはなかった。しかし。
「残念だけど、その通りみたいだよ」
 両腕を広げ、肩をすくめるポーズでルックが言い切った。一瞬、間の抜けた顔になるサスケとセレン。
「嘘でしょう……?」
 フッチも、信じられないという顔をする。その時にサスケを拘束していた力が緩んで、彼に逃げられた。
「どうして、迷うんですか。ここまで分かれ道もなかったし、たしかに見た目正しい道かどうか分かりづらいですけれど」
 森の中の一本道。獣道さえ見付からなかった、緑濃い木々の隙間を縫うように走る細い道。踏み固められ、黄土色の土が露出して、草の一本も生えていない道がどこまでも続いている。単調な、絶対に迷ったり出来る道ではなかった。
「それなんですけれど。思ったんですが、同じ場所をぐるぐる回っているような気がするんです」
 キニスンが控えめな口調で言った。
「はえ?」
 分からない、とサスケが彼を見上げる。
「つまり、僕達は迷ってしまっている、ってことですか?」
「だから、どーしてそうなるの?」
 フッチが言い、サスケが抗議の声を上げる。セレンもよく分かっていなくて、答を求めてルックを見た。
「要するに、僕達は同じ場所をループさせられているんだよ。どういうわけかは知らないけれど」
「どうやって?」
「僕が知るわけないだろう」
「そっかー」
 やや投げやり的なルックの答に、セレンが「ふーん」と声を出す。たぶん、まだ分かっていない。
「ループって?」
「同じ場所を延々と巡り続けること」
 サスケの質問にはフッチが答える。
「なんでそんなことになってるんだ?」
「それが分かったら、苦労しないって」
「そうですね。それに、まだループしているっていう確証もないですし」
 慰めるようにキニスンが言うが、その向こうでルックは首を振った。相変わらず難しい顔をしている。
「ともかく、ここにいても始まりません。どこか休める場所を探しましょう」
 道の真ん中で立ち止まっていても、解決する問題ではない。そろそろ日暮れ時でもあるから、万が一野宿になった場合も考えて、全員で横になれるスペースを確保しておきたかった。
 キニスンの提案に異議を唱える者はなく、全員で再び移動を開始する事になった。
「このまま進んでいくの?」
 セレンがキニスンに尋ねると、彼は首を振った。
「いえ。こっちに獣道の跡があります。これをたどっていけば、たぶん巣穴の跡くらいは見つけられると思うんです」
 彼が示したのは、今いる場所から少し後ろに戻った場所にある脇道だった。確かに、背の高い草の陰に隠れるようにして何かに踏み固められた道の跡が残っていた。シロが先に、道が安全かどうかを確認しに走っていった。
「本当に大丈夫なのか?」
 半信半疑でサスケが呟く。彼はまだ、自分たちが奇妙な空間に閉じこめられてしまったこと納得していないようだ。それも、無理ない話だが。
「良いから、行くの」
 渋るサスケの背中を押して、フッチがシロの待つ獣道へ連れていく。セレンもキニスンと並んで歩き出したが、ルックだけが何かに気を取られて、別の方を見ていた。
「ルック、行くよ?」
「……分かった」
 立ち止まって呼びかけたセレンの声にすぐに反応を返してきたから、ルックが何を見ていたのか、セレンには分からなかった。だが、ルックの視線の先にあった茂みの中に、なにか灰色のものがあったような気は、した。
 だがそれ以上ルックは後ろを気にしなかったので、セレンも深く追求しなかった。
 彼らが森の中の茂みをかき分けて消えていったあと、彼らがいた道の真ん中で、薄靄のかかったなにかが浮かび上がり、すぐに消えてしまった。

「村……?」
 獣道をたどってきたはずなのに、たどり着いた先にあったのは意外なことに、小さな集落だった。いや、それはもはや集落とは言えない。何故なら、そこにはもう誰も住んでなどいないから。
「ひっでぇ」
 腰に手を当てたサスケが思わずそうこぼすのも無理のないこと。
「棄てられてから、ずいぶんと経っているみたいですね」
 一通り村の中を見て回ってきたキニスンが言う。彼の足元ではシロがいつものように主人に甘えて寝そべっている。
 全部で二十軒ほどあった家屋は、ことごとく屋根が落ちて壁も崩れている。床は埃だらけで、長年雨風にさらされて来たのだろう。残されていた家具も腐ってぼろぼろになっていた。試しにかろうじて原形をとどめていたテーブルに手を置いてみると、音を立てて崩れ落ちてしまった。
「誰もいないね」
 ただ寂しげに、風が吹くだけだ。何故かこの辺一体の気温が下がってきているようで、身震いしたセレンは自然と自分の体を抱きしめていた。
 ──なんだろう……。
 なにかが、変。そんな感じがするけれど、それが何か分からない。言いようのない不安に駆られ、セレンはぎゅっと両腕を強く握りしめた。少し痛んだが、その痛みが自分の存在を主張しているみたいで、安心する。
「今夜はここで休むしかないようですね」
 幸い雨が降る様子もない。村に残っている家は全部屋根が抜けてしまっているし、床もぼろぼろでとてもではないが眠るには適さない。かろうじて村の中央広場だった一帯が、無事に森の木々にも浸食されずに残っていたから、今夜はそこで眠ることになった。
「この村を突っ切ったら、さっきの場所に着くのかな」
「気になるんだったら、やってみたら? 止めないから」
「言ってみただけだって」
 サスケとフッチが言い合いをしている横で、キニスンがなれた手つきで夕食の準備に取りかかる。セレンも彼に付き合って、持っていた荷物から今夜の食材を取り出した。
「水、あるかな」
「村だったんですから、探せば井戸があるでしょうね。枯れているかもしれませんけれど」
 飲めなくても、手や顔を洗う水が欲しい。そうこぼし、セレンは立ち上がった。
「ちょっと探してくるね」
 食事と言っても、持ってきた保存食ばかりだ。だから特別調理の必要もない。ここにキニスンやシロが狩ってきた獣や、サスケが見つけてきた果物でもあれば、また話は変わってくるのだが。生憎とこの森には、食べられそうな果実がなっている木はなく、鳥のさえずりさえもひどく遠い場所だった。
「気を付けて下さいね」
 キニスンに見送られ、セレンは歩き出す。周囲を見回しながら、井戸がないか探し回った。
 そして、見つけた。土に半ば埋まったようにして、石組みの井戸が村の外れにぽつんと沈んでいた。そばには底の抜けた桶が転がっている。割れた水瓶も、そこかしこに見られた。
 棄てられた村にしては、奇妙な感覚がそこに広がっている。
「使えるのかな?」
 試しに井戸の底を覗いてみるが、地上から数メートルも行かないところで光が届かなくなり、真っ暗で底は見えない。もっと見えるようにと、体を前屈みに井戸に頭を突っ込もうとしたら、後ろから誰かに引っ張られた。
「何をやっているんだよ」
 ルックだ。後ろにバランスを崩してふらついたセレンを見て、呆れた声で言う。
「なにって、井戸に水が残っているかどうかを……」
「落ちても、誰も助けてくれないんだよ」
 少し怒っているみたいなルックの口調に、セレンはしゅんと小さくなる。
「大体、水のあるなしを確認するのにもっと簡単な方法があるだろ?」
 言って、彼は足元に転がっていた瓶の破片を拾い上げた。それを腕を伸ばして井戸の中に落とす。
 だが、井戸の深さから考えてそろそろ破片が底にたどり着いたはずの時間になっても、なんの音もしなかった。水があれば水音がするし、すでに枯れてしまっていて井戸の底に敷き詰めた石が露出していたら、陶器の破片が跳ね返る音が響くはずだ。なのに、なんの音もしないなんて……。
「どゆこと?」
「泥が溜まっているってこと、だろうけど……」
 底に溜まった泥が、破片の衝撃を吸収してしまったと考えるのが妥当だろう。しかし、ルックはどうも腑に落ちない。
「駄目かぁ~」
 残念、とセレンが肩を落とす。
「おーい、飯だぞ!」
 村の中心からサスケが大声でふたりを呼ぶ。
「今行く!」
 サスケに負けないくらいの大声で返事し、セレンは駆けだした。だが、ルックはゆっくりとした歩調でしか進まず、セレンと一瞬で距離が開く。まだどこか、上の空だ。
「絶対に、変だ」
 口元に指を押し当て考え込むルックの後ろで、白い靄が浮かび上がり、またすぐに消えてしまった。

 夕食は糒(ほしいい)、塩漬けの乾燥肉、デザート代わりに果物の砂糖漬け。水は貴重なので、少しだけで済ませる為にスープはあえて作らなかった。
「かって~~」
 乾し肉にかぶりつき、サスケが文句を言う。
「黙って食べられないのかなぁ、君は」
 横に座っているフッチがそれを注意しながら、糒をしきりに噛み潰す。堅いが、仕方がない。日持ちさせるための手段なのだから。味に文句を言うよりも、こうやって何かを食べられることの方を感謝しなくてはならない。
「明日、道に戻ってまた進んでみましょう」
「で、また同じ場所に戻ってきたらどうするんだ?」
「それは、……その時に考えよ」
 水をひとくち含んで、歯の隙間に残っていた糒を飲み下す。砂糖漬けを噛むと、甘い匂いが口の中いっぱいに広がった。
「…………」
 食事の最中も、相変わらずルックは無口だ。咀嚼するのに必死だから、皆も自然と口数が減るが、それでも言葉を交わしあっている。しかしルックは一度も話に混じってこない。ずっと考え込んでいる。
「なにか、分かったの?」
「…………」
 セレンに尋ねられても、彼はちらりと一瞥を加えると、自分の口を指さしただけ。ものを口の中に入れているときは喋らない。行儀が悪いから。
「あ、そう」
 なんだか妙なはぐらかされ方に、セレンは返す言葉が出ない。しかし確かに、自分も幼い頃にゲンカクにそういう風にしつけられたから、それ以上追求はしなかったけれど。
「はー、食った食った」
 ぱんぱん、とお腹を叩いてサスケが後ろ向きに草の上に横になる。
「牛になるよ」
「ならねーよー」
 フッチに見咎められても、サスケは堪えない。自分で腕枕をして、空に浮かぶ星を見上げている。
「ちゃんと着けるといいけど」
「そうですね。あんまり到着が遅れると、皆さん心配しますからね」
 片付けをしながら、キニスンとセレンが言う。
「近道のはずが、とんだ遠回りになってしまいましたね」
「予定だったら、今日のうちに着けるはずだったもんな」
「やっぱり、いつもの道を行けば良かったんでしょうか。楽をしようとしたから、罰が当たったとか」
 街道ではない、その一帯に昔から住んでいる人達が生活道路として使っていた道があるから、と教えられて面白そうだとたどってみたのだが。思わぬ落とし穴があるとは、出発したとき誰も予想しなかった。
「あのおばさん、このこと知ってて俺等に教えたのかな」
「まさか、そんなわけないよ」
 全員でたき火を囲んで横になり、夜空を見上げて声が飛び交う。
 そのうち誰のものともしれない寝息が聞こえだし、遠くからのフクロウの鳴き声だけがやけに大きく廃墟に響いた。

 誰かが泣いている
 子供が、泣いているんだ

「誰だ?」
 暗闇の中、サスケは顔を上げる。
 星明かりのひとつもない周囲にいぶかしみながら、彼は寝癖のついた頭を掻きむしった。いつの間にか、横で寝ていたはずのフッチやセレン達の姿が見えなくなくなっていることにも、眉を寄せる。
 泣き声は、まだ聞こえる。
 どこからしているのか、注意深く辺りをうかがうと、自分の左側に白い光が淡く浮かび上がった。
 女の子が、両手で顔を覆いながら泣いている。
「オイ、どうした?」
 自分よりも年下の、10歳前後の女の子を見捨てる事なんて、サスケであっても出来るはずがない。近付いて尋ねると、しゃくりをあげて少女は顔を上げた。
「あのね、なくなっちゃったの」
 涙でぐしゃぐしゃになった顔で少女が言う。「なにを?」と更に尋ねると、少女は黙って首を振った。
 言ってくれなければ分からないと、膝を折ってかがみ込み、サスケは少女と視線を合わせて加えて尋ねかける。
「あのさ、俺、一緒に探してやるからさ。何をなくしたのか、教えてくれないかな」
 出来るだけ優しく。女の子はすぐに傷ついてしまうから優しくしなきゃ駄目だぞ、と彼に教えたのはシーナだ。幼い頃からロッカクの隠里で修行に明け暮れた日々を過ごしてきたサスケは、だから女性の扱いはひどく不慣れだった。
「いっぱいあったの。でも、みんななくなっちゃった。消えちゃった、全部」
 泣きながら喋る彼女の声は聞こえにくい。
「だからさ、俺も一緒に探してやるよ。な? だからもう泣かなくていいんだぜ」
 おかっぱ頭の少女の髪を優しく撫でてやり、いつになく真剣な顔で彼は言った。たぶん、この姿を見たら、仲間達は笑い転げるのではないかと、自分で思うくらいに。
「ほんと?」
 少女が目をこすっていた手を離し、サスケを見上げる。
「ああ。俺さ、仲間がいるんだ。今はどっかに行っちまっていないけど、あいつ等も使ってさ、探そ? 大丈夫、すぐに見付かるって」
 大船に乗ったつもりでいてくれて良いから、と胸を叩いて自信満々で答えるサスケに、少女は一瞬きょとんとなった。
「な? だからもう泣くな」
 ぽん、と少女の頭を軽く叩いてサスケは笑った。それを見て、ずっと泣いていた少女もふっと顔を和らげて────

「誰ですか?」
 暗闇の中、フッチは身を起こし周りを見渡した。
 あれだけ空を覆い尽くしていた星がひとつも見えないことに首を傾げ、フッチは立ち上がる。
「セレンさん? サスケ? みんな、どこに行ったんですか?」
 横で眠っていたはずの仲間がひとりもいないことに気付き、彼は大声で呼んでみた。しかし返事はなく、替わりにどこからか幼子のすすり泣く声が聞こえてきた。
「誰か、いるんですか?」
 周りを見回して泣き声の主を捜すフッチに背後で、白い光が浮かび上がる。
 きゅっ、とフッチの服の裾を引く力に気づき、振り返ってはじめて彼はそこに少女がいたことを知った。
 いつの間に、という疑問が浮かんできたが、泣いている女の子を前にしてそれはすぐに消え去った。体ごと向き直って、片膝を折ってしゃがみ込む。
「どうしたの? お母さんとはぐれちゃった?」
 小さい子が泣いている時は、大抵親とはぐれたか転んだりして痛い思いをしたか、そういう理由からだ。だからフッチも、てっきりそんなところだろうと思っていったのだが、違う、と少女は泣きながら首を振った。
「ないの」
 主語を省いた舌っ足らずな言葉に、フッチは顔をしかめる。
「なくなっちゃったの、大切にしてたのに」
「なにを、なくしたのかな」
 フッチは少女の肩に手を置いて尋ねる。しかし少女は頭を振るばかりで、何をなくしたのか、肝心のことを教えてくれない。困って、彼はため息をついた。
「じゃあ、ね。僕の仲間を先に捜そう。ここにいてもさ、しょうがないだろ?」
 暗闇の中で、フッチは見知らぬ少女とふたりきり。見当たらない仲間とも合流しなくてはいけないし、少女の親も、探してやらなくてはならない。こんな場所に幼い女の子ひとりで来るとは信じられないから。
「それから君の両親を捜して、なくしものを見つけようよ。僕も手伝うし、僕の仲間もきっと助けてくれるだろうから。ね?」
 優しく語りかけると、少女は涙をいっぱいに溜めた目でフッチを見た。
「ほんと?」
「うん。約束する」
 指切りしてもいいよ、と右手の小指を立てて前に出すと、少女は一瞬躊躇した。それから、涙で真っ赤になった頬を喜びで更に真っ赤にして────

「うん?」
 暗闇の中、キニスンは遠くから誰かの泣き声を聞いたような気がして彼は目を開いた。
 月がない。星も見えない。変だ、と思って立ち上がる。常に傍らに控えているはずのシロの姿がない。セレンやルック達もいない。さっきまで一緒にいたはずなのに。
 泣き声が聞こえる。
 妙だ、と彼は怪訝な顔をして唇に指を当てた。
 風がない。ここは自然の大地に存在する場所にしては、あまりにも違和感に満ちている。まるで。そう、まるでここは……。
 泣き声が止まない。気がつけば、目の前には顔を両手で覆う少女がいた。
 泣いている。見付からない、なくしてしまった、と。
 ふたりの間には距離がある。縮まることはない。キニスンが歩み寄ることも、少女が近付いてくることもない。
「君は……」
 彼女が生きている人間でないことは、すぐに分かった。でも、だから彼女は幽霊だと、決めつける理由も見当たらない。幽霊かもしれないけれど、そうでないかもしれないから、キニスンはかける言葉に迷った。
「見付からないの」
「それが見付かれば、君は自由になれるんだね?」
「わからない」
「でも、探しているということは、見付かれば少なくとも君にとって何か、変化があるということだよね?」
「わかんない」
 フルフルと首を振る少女。少し性急すぎたか、とキニスンは思ったが、今更だと思い直す。
「それじゃあ、探そう。なくしたものが君をここに縛り付けているのだとしたら、見つけだしてあげるよ」
 幸い、彼には沢山の仲間がいる。失せもの探しを得意とする人も、いるだろう。シロの嗅覚を最大限に発揮すれば、それほど苦にならず、発見することも可能だろうし。
 だから、とキニスンは悩んだ末、少女に向かって手を差しだした。
「一緒に行こう」
 立ち止まっていないで、進んでいくために道を示してやることは出来る。共に歩んでいくことは無理だろうが、背中を押してやることぐらいならキニスンでも出来るだろうから。
「いいの?」
「いいよ」
 微笑んで答えると、少女はおずおずと顔から手を離し右手を伸ばした。その表情はもう泣いていなくて────

 ルックは自分の周囲を取り囲む空気の微妙な変化を静かに感じ取っていた。
 仲間達が闇の霧に飲まれ姿が消えていくのを閉じた瞼の裏で感じながら、彼もまた、意識を保ちながら暗雲に身を委ねる。
 少なくとも、これをどうにかしない限り、無限にループする空間からは抜け出せない。道の次元を歪めたのも、村中に漂うねっとりとした異物感も、すべてこの闇の奥にいる奴がやっていることだろうから。
 村にあった井戸、あの底は果てしなく続く次元の穴だ。落ちたらきっと戻ってこられない。生きて世界に戻ってこられても、そこが今自分たちのいる世界とは限らないし、そうだとしても遠く離れた別の大陸の辺境にでたらまず帰ってくることは無理だ。
 こんな大がかりな細工が出来る人間は少ない。しかし悪意がまったく感じられないから、きっとこれは人が起こしたことではない。確信はある。
 目を開けると、何もない闇。一歩先も見えないはずの暗闇で、しかしルックの目にはきちんと己の姿が捉えられている。
 不思議でおかしな、都合のいい世界。
 見えないはずなのに、見える。人の視覚とはそこに光がないとなにも映し出せないはずなのに。
「…………」
 考えるだけ無駄か、とため息をついてルックは首を振った。
 ここは自分たちの常識ではかれる場所ではない。あくまでも、この世界を作りだした存在に都合のいい空間なのだから。
 白い霧が浮かび上がり、それが少女の形を取る。
 泣いている、ずっと。
「見つけて欲しいの」
 なくしたものを探して、と泣きながら懇願する少女に、ルックはまたもうひとつため息をついて、
「無理だ」
 彼には、少女が何であるのか大方の見当がついていた。そして、彼女が求めているものも。
 だから、断言できる。少女がなくしたものはもう戻っては来ない。望んで手に入れられるものではないから、ルックが手伝ったところで、無駄な努力に終わるだけだ。
「欲しいの」
 返して欲しい、と少女は泣きやまない。ふと、ルックは自分が冷たい人間だと評価された過去を思い出した。
 本人は現実で実現可能なことと、そうでない絵空事を区別しているだけだったのだが、周囲はそうは思ってくれなかった。ただ、ひとりだけ。
『ルックはさ、深く考えすぎるんだよ』
 そう言った人間がいた。深く考えることはいけないことか? とその場で返したら相手は返事に窮していたけれど。
 そんなものだろうか、とルックは前髪を指ではじいた。

 両手を広げ、セレンが泣きやまない少女をそっと抱きしめる。
 疑わない、彼は。すべてを受け入れ、認めて、赦して、愛おしむ。それが彼の強さの根源。皆が彼を必要とし、求める理由。
「だいじょうぶ」
 ふわり、と少女の体が浮かび上がった。
 セレンに抱き上げられ、少女の視線がセレンのそれと重なり合う。
「ボクも探すの、手伝うよ。みんなもきっと分かってくれる。だから、諦めないで探そう。大切なものだったんでしょう?」
 大切だったから、なくしてしまって哀しい。失いたくなかったから、探そうとしている。そういう人を、セレンは決して見捨てたり出来ない。お人好しと他人に言われたって、これが自分だと分かっているから、セレンは己を貫いていける。仲間も、呆れながらそんな彼に付き合ってくれた。
「だから、だいじょうぶだよ」
 ぎゅっと少女を抱きしめ、彼女の流す涙を胸に受けながらセレンは繰り返しくりかえし、少女の背中を撫でて優しく囁く。
「見付かるよ、君が探しているんだもん。君が大切にしていたんだったら、相手もきっと、君を捜しているよ」
 こんなにも泣いて、探していたのだから、なくしたものも絶対にどこかで彼女を待っている。見つけてくれるのを今か今かと待っているはずだから。
 諦めてしまわないで、やめてしまわないで。
「泣いてばっかりだと、君の大切なものまで哀しくなってしまうから、ね、もう泣かないで」
 指で少女の涙をすくい取り、セレンは微笑みを浮かべる。

 闇が晴れる。少女を中心に渦を巻き、ひとつにまとまって、そして……。

 セレンの手の中で、サスケの、フッチの、キニスンの前で、少女は嬉しそうにはじめて笑った。
「ありがとう」
 そう、呟きながら。

 光が生まれる。少女を包み込むようにして、いくつもの、光のカケラが。

 ルックは表情を少しだけ和らげ、光に包まれる少女を見送る。
「見付かったみたいだね」
 その光が、お人好しの自分の仲間達から届けられたものだと気付いたルックが少女に言うと、彼女は小さく頷いた。
「みんな、いい人だった。私が欲しかったもの、くれた。優しくて、あったかい気持ち。ずっと寂しかったけど、もう平気」
 胸を抱き、少女の輪郭がぼやけはじめる。
「あなたも、くれたね。私のこと心配してくれた。冷たくないよ、優しいから、そう見えるだけで。あったかいよ、ちゃんと」
 光の霧に消え、闇もまた薄れて行く。
「伝えて。いっぱい迷惑かけてごめんなさい。それから、ありがとうって」
 光がはじける。その瞬間眩しくて、腕で顔を覆ったルックは次に目を開けたとき、自分たちが眠る前と変わらない廃墟の村の広場にいることに気付いた。
 横を見れば、何も知らず呑気にいびきをかいているサスケや、毛布にくるまって小さくなっているセレンがいる。
「帰してくれたか……」
 上半身を起こし、頭を掻いたルックは澄み渡った空を見上げて呟いた。じき、皆ももぞもぞと起きだしてきて、寝ぼけ眼のまま朝食が始まる。
 夕食と大して変わりばえのしない食事を簡単に済ませ、彼らはすぐに出発することになった。
 獣道を通り抜け、昨日散々悩まされたあの道に戻ってくる。
「今日は大丈夫だといいけど」
 目的地にたどり着けないのはあまり楽しい事じゃない、とサスケは意気込む。
「大丈夫だと思うよ」
 ルックが呟き、四人の視線を一斉に集めた。しかし彼はまったく意に介した様子はなく、マイペースに獣道の反対側に生えている老木の足元にしゃがみ込んだ。
「彼女は、満足したみたいだったから」
 棄てられた村、その存在すら近隣の村の住民から忘れ去られてしまっていた村を、ずっと見守ってきた小さなもの。置き去りにされた事にも気付かず、皆が帰ってくると信じて待ち続けてきた少女。
 この一帯が昔、ゲンカクがまだ都市同盟の英雄として現役だった頃、ハイランドの前線基地として制圧されたことがあったと彼らに教えたのは、次に立ち寄った村に古くから住む老人だった。
 道の脇でかがみ込んだルックが、生い茂る草をかき分けてその中に沈んでいた何かを見つめている。後ろからセレンがのぞき込んで、「あれ?」と声を出した。
「お地蔵様?」
「本当だ」
 フッチも顔を出して頷き、ルックによって草の中から取り出された、通常よりもかなり小さめの地蔵を見つめる。
「女の子みたいな顔をしていますね」
 幼子の表情に似た、柔和な顔の地蔵様にキニスンが素直な感想を口にした。
「なんだか、嬉しそうだね」
「嬉しいんだろ?」
 誰も通らなくなって久しい道の脇に、たったひとつ残された小さなお地蔵様。拝む人もなく、存在さえも忘れ去られてしまっていた、哀しいお地蔵様。
 でも、もう平気。気付いてくれる人がいたから。気にかけてくれる人がいたから。
「もっと見える場所に置いて上げましょうよ」
「そうだな。草の中じゃ、かわいそうじゃん」
 ここなんかいいんじゃないか、とサスケが木の裏に転がっていた平たい石を持ってきて道に面した場所に置く。フッチが注意しながらお地蔵様を石の上に置くと、なんとなく、箔がついた感じがした。
「うん。いい感じ」
 セレンが満足そうに言う。それから、新しい場所に移されたお地蔵様に手を合わせる。他のみんなも、それに倣って頭を垂れた。シロも四肢を地に着け、頭を下げる。

 気のせいか、幼い顔のお地蔵様は嬉しそうに微笑んだ。