コトノハノマホウ/司馬葵の場合

 空は見事に晴れ渡っている。普通ならば、弁当をバスケットに詰め込んでどこかピクニックにでも出かけたくなるような、そんな気分にさせられる快晴。
 けれど今は学期中であり、健全なる高校生は真面目に机に向かって勤勉にノートと睨めっこをしていなければならない時期だ。
 梅雨も明けて、これから夏真っ盛りを迎えようとしている季節。甲子園を目指す高校球児にとっては、予選大会を間近に控え追い込みに余念無い大切な時期でもある。
 今はかろうじて、一息つける昼休みの終盤に差し掛かった時間帯であるけれど……
「りんご、ゴリラ、ラッパ……ぱ、パイナップル」
 首を逸らし僅かに上向いた視線の先で、どこまでも澄み渡る綺麗な青空を眩しそうに見つめながら天国は語尾を若干伸ばし気味の、独特の口調でことばを連ねていく。単語を刻むたびに彼の身体は前後にリズムを刻んで揺れ、背凭れにしている物体がその毎に彼とは反対の動きをとる事にも構わずに。
 生温い空気は身体にまとわりつくばかりで、流れようともしない。その場には、天国の紡ぐ単語の羅列だけが音として響いていくばかりだ。
「る、る……ルビー、ビル、る……ルックス」
 昼ご飯も終えて、半分近く余ってしまった昼休憩を悠々自適に過ごす。それが屋上を訪れた彼の本来の目的だった。
 いつからだろうか、特別約束を交わしたわけでもないのに自然と、彼が昼をひとりきりで、特別教室棟の屋上で過ごしていると知ったときからだと思う。気が付けば、昼休みはここで時間を潰すようになっていて、もう随分と経つのに。
 未だに自分が一方的に喋り、彼は視界を遮る分厚い色つき眼鏡を外す事も一度として無く、交えたことばも片手で足りるほど。煙たがって嫌がられている様子はないから、少なくとも自分は彼の傍に居ることを許されているのだと、天国は勝手に予想して想像して、納得しようと試みた。
 でも、やっぱり。
 ことばは、交わしたい。思いを交錯させたい、何を考えてどんな風に物事を見ているのか、聞きたい。
 喋りたい。声を聞きたい。
 背中越しに感じる体温を受け止めながら、天国はそう思う。空を見上げて、彼の髪と同じ色をした晴天を見つめ、静かに瞼を下ろす。
「す、スコーン……だと終わっちまうから、えっと、なんだろう」
 退屈を紛らわせるために自分で始めた、ひとりしりとり。始めたのも一方的なら、終わらせるのも簡単だけれど、でもそれだと悔しいし、余計につまらなくて頬を膨らませたくなる。だから無理に続けようと無い知恵を絞って単語を探そうと、思索する。
 ほぅ、という溜息に似た吐息を感じ取ったのはその直後。
 天国に背中を預けられていた存在が、凭れ掛かってくる彼の体重を押し返して背を真っ直ぐに座ったまま伸ばした。
 お、と目を丸くして見開いて天国も姿勢を正す。若干前のめりになってしまった姿勢を正し、もう休憩時間は終わりだろうかと腕に嵌めた時計を見た。
 だがまだ午後の始業時間まで、あと七分弱の時間があった。
「……猿野」
 柔らかな、穏やかな春の午後に吹く風を思わせる声が降る。天国はあ、と呟いたあと慌てて自分の吐きだした息を呑み込んだ。
「楽しい?」
 ひとりで、しりとりを続けていて。
 言葉尻に含まれる、問いかけ以上の質問に天国は背をピンと伸ばし、振り返って司馬の顔を見つめ返した。
 サングラス越しの視線を感じる。彼がじっと、自分を見ている。
 天国は唇を開いた。さっきまであんなにも饒舌だった舌がいつの間にか乾ききり、ことばを放つのにも不自由している事に気付いて慌てて唾を飲み喉を潤そうとする。
 彼のひとことに、こんなにも緊張させられるだなんて。
 彼に見つめられると、普段の五月蠅いばかりの自分が嘘のように消えてしまう。信じられない現象だった。
 楽しい、と問われた。
 答えは決まっている。
「楽しく……ない」
 だって、しりとりは本来ふたり以上でするものだ。詰め将棋とか、そんなものと同じ類の遊びではない。相手が居て、自分が居て、初めて成立するゲームのはずだ。
 一人きりのしりとりだなんて、虚しすぎる。
 声が震えているのを意識しながら、けれどどうしようもなくて、天国は乾いたままの舌をどうにか操りながらなんとかことばになる声を紡いだ。
 目の前で腰を捻り、背合わせの状態から振り返って天国を見つめている司馬がそう、と相槌を返す感覚でひとつ頷く。ことばは無い。いつもの、彼だ。
 だから天国は、もしこのまま彼を黙らせたままで居たなら、きっとこの先も彼は自分に語りかけてくれないのではないだろうか、と危惧した。傍に居ることを許してくれているわけだから、少なくとも嫌われてはいないのだろうけれど、でも好いていてくれているわけではないから。
 だから、現状を変えるためにも。
 彼を、黙らせたくなかった。
「楽しくない、っけど!」
 必死にことばを探し、天国は太陽熱で温められた屋上のコンクリートに添えた手を握り締めた。一瞬だけ悩んで、指を解き、司馬の上着を掴む。
 軽く、引っ張る。強請るように。
 俯いた。彼を見つめたまま、言えるはずがなかった。
「お前が……返してくれたら」
 オレのことばを、返してくれたら。
「退屈じゃ、なくなる……から」
 くいっ、と彼の上衣を引っ張る。俯いたまま、赤い顔を隠して。
 ふっ、と彼が息を吐いた。
「じゃあ、猿野から」
 続きをどうぞ、と掌を返していわれた。
 一瞬何のことか分からず、きょとんとしてしまって、司馬を見つめ返した天国は直後、あ、ともう、ともつかない声を上げてから腕を無茶苦茶に振り回し、それからコホン、と咳払いをした。
 自分はどのことばでしりとりを中断させていただろうか。咄嗟に思い出せず、ちらりと司馬を見上げて、見られている事に気付いてまた困惑して赤くなり、焦げ付いた煙を吐き出しつつ記憶を掘り起こす。
 す、だったはずだ。
 途端、「す」で始まることばがひとつきりしか思い浮かばなくなったのは何かの策略のような気がする。
 ちらりと司馬を見る。黙って待ってくれている彼の表情は、いつになく穏やかだ。
 サングラスさえ無ければな、と整っている彼の顔立ちを半減させている瞳を隠す存在を恨めしく思いながら、けれど今こうやってかろうじて冷静を保てるのも彼がサングラスをしてくれている御陰だろうから、複雑な思いは禁じ得ない。もし素顔の彼に微笑まれでもしたら、自分が平静で居られる自信など天国には無かった。
 勿体ない、とは思う。でも自分以外の誰かに彼が素顔を晒す様は、多分、見たくない。 
「す…?」
 問うように先頭のことばを告げると、彼は頷いた。
 よりにもよって、このことばとは。
 時計を見た。昼休憩の残り時間は五分を切ってしまっている。相変わらず風はなく、穏やかな晴天が恨めしいばかりに広がるばかり。
 空が好きだと思うようになったのは、彼を見るようになってからだ。
「す……す、き……」
 心の中で、これは決して感情的なものを言っているのではなくて、農具の、あれだ。あの畑を耕すのに使う奴の事だ、と必死の言い訳をして掠れる声で、言う。
 彼の手が静かに持ち上げられた。
 サングラスが外れる。
 どこまでも澄み渡る、優しい笑顔が天国の眼前を埋め尽くした。そっと、壊れ物に触れるような柔らかな感触が一瞬だけ、記憶が飛びそうなくらいに唐突に、過ぎ去っていく。
 キス、が。
 ことばに代わって伝えられた。
 久方ぶりの風が吹いた。
 夏を思わせる風が過ぎ去っていく。耳の傍を、心地よい風の声が駆け抜けていった。
 チャイムの音が鳴り響く。
「続きは、放課後だ、ね」
 やや残念そうな彼の声がどことなく遠い。手を差し伸べられて、立ち上がる事を促された間もどこか夢幻の中で浮かんでいるような錯覚に陥っていた。
「え、今の……って」
「しりとり、だよ」
 くすっと口元を綻ばせて、彼は笑った。
 好き、だから。
 それに続くことばで返しただけだと笑う。
「なっ……!」
 お前それ自意識過剰。
 赤くなったままで言い返すと、彼はチャイムに掻き消されてしまいそうな声で柔らかな笑みのまま、重ねて言った。
 天国の耳元に、息が吹きかかる距離で。
「でも、違わない……よね?」
 好きだよ、と囁かれる。
 声を返すことも出来ず、天国は黙り込む。
 どうやら彼の前では、雄弁な自分も立場が逆転してしまうらしいと今更ながら新発見してしまった。
「ちっ……くしょー」
 赤くなった頬を抑え込み、天国は舌打ちをひとつ。既に離れていった司馬の背中は階段へ向かっており、本鈴のチャイムも間際に迫っていて彼もまた慌てて教室へ向かい走り出した。
「負けねーからな!」
 一体何に対しての台詞なのか。自分でも分からぬまま叫んだ天国を一度振り返り、サングラスを再び装備し終えていた司馬は静かに、微笑んだ。