普通に彼は歩いていたはずだった。
ユーリの城はそこそこ歴史があって古く、一部建て付けの悪い箇所があることは知っていた。最近、どこぞの床が抜け落ちそうだから気を付けるように、とアッシュから連絡は受けていた。
だが、まさかその箇所を自分が踏み抜くことになろうとは、直前までスマイルは考えても見なかった。
と、言うか。
出した右足に体重を移動させて左足を前に出そうとした瞬間、平らのハズの床がめりっ、と不気味な音を立てて身体が不自然に前に傾いだあと、目の前が急に薄暗くなった時になって初めて。彼はアッシュが、床が抜け落ちそうになっている場所がある、と言っていた事を思い出した。
思い出したが、総ては遅かった。
「…………………っ!!!?」
ひくっ、と顔が引きつる。
めりめりめりっ……と右足の下で次々と何かが折れ曲がり歪み、崩れていく音が大きくなっていく。
そして、がくんっ、と身体が沈んで。
どがらがっしゃーん!!!!
「なにごと!?」
「な、なんスか!?」
自室でくつろいでいたユーリも、台所で夕食の準備をしていたアッシュも、広い城内に響き渡った轟音に慌てて手にしたものを放り出し飛び出してきた。
巨大な冷や汗を背中に背負い、ユーリもアッシュも一階の、倉庫代わりに使っていた部屋に飛び込んで顔を見合わせた。そしてゆっくりと、最初に部屋に飛び込んだときに見えたものへ視線を戻す。
「す、スマイル……?」
「大丈夫、っスか……?」
使い古しの家具やらなにやらの真ん中に、ほぼ逆さまになる形で突き刺さっているバンドメンバーに無事を確認する声をかけるが、返事はない。
パラパラと彼らの頭上には、見事に天井をぶち破り薄暗い室内に明かりを差し込ませている穴から木くずが降り注いでいた。城の構造を思い浮かべ、アッシュはスマイルが自分の忠告を忘れて床を踏み抜いてしまった事を察する。
しかし、ものの見事に突き刺さったものである。ある意味感心してしまいそうになった自分に慌てて首を振り、アッシュは恐る恐る、家具の山を崩さないように気絶してしまっているらしいスマイルへ近付いた。
ユーリはと言うと、呆気に取られた顔で天井の大穴を見上げている。自分の城がここまでボロくなってしまっていた事にショックを受けているらしい。
「スマイル~?」
名前を呼んでやりながらアッシュはスマイルを引き抜いた。見事に、目が十字架になって頭に星が飛び回っている。ぺちぺち、と何度かその頬を叩いてやると、少しだけ呻いて彼はうっすらと目を開けた。
何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとする視界をクリアにしてから彼は、積み上げられている家具の上から身体を起こした。ぶつけたらしく、痛む後頭部を撫でつつ傍らに控えているアッシュを見て首を傾げる。
「どうかしたの? アッシュ」
「どう、って……大丈夫っスか」
「なにが?」
「なにが、って……」
頭をぶつけた時の後遺症か、記憶が混乱しているらしいスマイルに困惑しつつアッシュは天井の穴を見上げた。明るい光が落ちてくる穴は、まだ周囲から木くずなどを零して外輪を広げようとしていた。
「凄いねー、あんな穴、何時出来たの?」
完全に覚えていないらしいスマイルが感心したように、自分の踏み抜いた穴を見上げている。
「今さっき、貴様がぶち抜いたんだろう」
それまで下で会話を聞いていただけのユーリが、眉間に皺を刻んだ顔で話しに割り込んできた。両腕を胸の前で組み、顔は不機嫌そうだ。余程、自分の城を傷つけられたことが気にくわないらしい。
「…………」
「もの凄い音がしたっス。驚いて見に来たらスマイル、ここに突き刺さってたっスよ」
「そういえば、さっきから頭が痛い……」
ユーリの言葉には沈黙し、アッシュの言葉には頷いてスマイルはもう一度自分の後頭部に手をやった。指先に、微かにふくらみが感じられる。
「たんこぶになってるっス。あんまり触らない方が良いスよ?」
「いたたぁ……」
アッシュに言われたものの、触ってしまったスマイルが思い切り顔を顰めた。
言った先から、と呆れ顔のユーリも近付いてきて肩を竦めて首を振る。見上げた先でスマイルと視線がぶつかって、バカだなと鼻で笑ってやろうとしたのだがそれよりも早く、彼はユーリから視線を外しアッシュに振り返る。
そしてユーリを指さして、
「ねぇ、アッシュ。あの人誰?」
そんな事を言うものだから。
再びユーリ、そしてアッシュが凍り付く。
「え……?」
聞き間違いだろうか、とアッシュは冷や汗を浮かべながらスマイルを見返すが、彼は真剣な顔をしてユーリを指さしており、冗談にしてはタチが悪い。それに、スマイルがユーリの事でこんな風にからかう事は絶対にないはずだ。
ユーリも、天井の大穴を見つけたときよりも唖然となり、何か言おうとしているのだろうがなにも言うことが出来ず、スマイルの指先を茫然と見つめているだけ。
「スマイル……?」
掠れ、震えた声でユーリはスマイルの名前を呼んだ。だが、彼の反応は芳しくなく、小首を傾げたスマイルが怪訝な顔をしてまたアッシュを見返す。
「だれ?」
「……本気で言ってるんスか?」
アッシュの方が聞き返してしまう。スマイルの様子は何処までも真剣そのものなのだが、その真剣さがあまりにも滑稽で間抜けに見えてしまうのは気のせいではないだろう。
よもや。
スマイルが、アッシュのことは覚えているのにユーリのことを忘れてしまうなど。逆なら充分あり得そうなのに!(……とアッシュは自分で考えて傷ついたらしい)
「アッシュ」
なにやら不穏な空気が下の方から漂ってくる。怖々と下を見たアッシュは、見なければ良かったと後悔したがもう遅い。
全身から怒りのオーラを漂わせたユーリが彼を睨んでいる。別にアッシュが悪いわけでもなんでもないはずなのに、何故かユーリの怒りはアッシュへ向けられてしまったらしい。普段立ち上がっているアッシュの耳が、すっかり怯えてぱたんと閉じてしまっていた。
「あうぁ……ユーリ、お、落ちつくっス!」
「ねぇ、アッシュってば。あの人誰なのさ」
事態の緊迫さをまったくもって理解していないスマイルの、長閑な質問が繰り返される。その度にユーリが放つ怒りのオーラはどす黒さを増し、アッシュは今すぐ、出来るならばあの大穴を飛び越えて逃げ出したい気分に駆られた。
出来るはずがないのに。
「スマイル、あの……本当に、ユーリのこと忘れて……」
「ユーリ? あの人ユーリって言うんだ、ふーん。……で、どういう人?」
バンドのリーダーでこの城の主で……と律儀に説明してやりたいところだったが、ユーリのオーラが恐くてアッシュはそれが出来ない。フルフルと首を振り、どこからか飛び出している尻尾を足の間に挟んで怯えのポーズを取りながら彼は泣きそうな顔で後ろ向きに退こうとする。それを、答えを求めるスマイルが付いて回って、ユーリのオーラは更に黒く染まっていって。
不安定に積み重ねられているゴミの山が、上に登っているふたりが居場所を変えたことでバランスを崩した。
ぐらり、と一番上に積み上げられていてスマイルが突き刺さっていた棚が大きく揺れ動き、続いてその下にあった足の取れたテーブルが傾いて……。
「あ」
「あ゛」
「……あ?」
三者三様、けれど同時に。
連続して、ゴミの山が崩れる音が城中に鳴り響いて地面までもが揺れた。
埃が濛々と立ち上り、視界が白一色に染め上げられる。目を開けている事も出来なくて、崩落地点から一番遠い場所にいたユーリでさえも咄嗟に腕で頭と顔を庇い、埃に咳き込む。その中で彼は、絶対にこの部屋に放り込まれているがらくたやゴミ関係は次の粗大ゴミの日に処分してやる、と心に誓った。
「…………どうなった……?」
数分待って、ようやく視界が晴れだしたユーリは小さく声を出し、すっかり見る影もなくなってしまったゴミ山の跡を見回した。そこに、山の頂にいたはずのふたりの姿は見当たらない。
慎重に、崩れてしまったゴミ山を成していた家具類を掻き分け、ユーリは部屋を見渡した。そして自分が立っていたのとはほぼ反対方向に、半分崩れたゴミ山に埋もれた格好で重なり合っているスマイルとアッシュを発見する。ふたりとも気を失っており、スマイルはアッシュの上に被さっていた。
なんとなくその光景を見た瞬間むっとした事はさておき、ユーリは怒りを取り戻して思い切り、靴の先でスマイルの頭を蹴り飛ばす。埋もれているのを引っ張り出してやろう、という親切心は生じなかったらしい。
更にごんっ、と音を立ててスマイルの額に落ちてきた板きれにぶつかった。
「……ったぁ~~~~!!!」
二重の痛みに、意識を飛ばしていたスマイルも耐えられなくて飛び起きた。起きた途端、ズキズキどころががんがんに響き渡る痛みと下半身を埋め尽くしている瓦礫の山に呆気に取られたが。
両手で後頭部のたんこぶ、天頂部のユーリに蹴り飛ばされた箇所、額に落ちてきた板きれの角でぶつけた傷を順番にさすり、乱暴に足を引き抜いて出来上がっていた小さなゴミの山を突き崩した。その影響で、スマイルの下敷きになっていたアッシュの上半身にまでゴミが積み重なり、彼はその重さに呻いた。
「目が覚めたか、このうつけ者」
「……ユーリ、酷い……」
フラフラする頭を何とか叱咤して、スマイルは痛みを堪えながら下からユーリを睨みあげた。そして、額が切れて血が流れている事に気付き思い切り嫌な顔をする。
一方、当たり前のようにスマイルに名前を呼ばれたユーリは再度呆気に取られ、ぽかんと彼を見返した。その表情に、スマイルの方が変な顔を向ける。
「どうしたの。……あー、ところでユーリ、この惨状はなにゆえ?」
事態の展開を理解できていないらしいスマイルが、散乱する粗大ゴミの惨状に首を捻って問いかける。しかしユーリの方も状況についていくのが精一杯で、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
ユーリが返事をくれるまでの間、スマイルは痛みで生理的に浮かんだ涙を拭い、頭を上向けて天井に見事に出来上がっている大穴を見て口をぽかんと開いた。そういえば、あそこから落ちたんだっけと思い出すが、穴の真下では無い場所に倒れていた自分も思いだし、反対方向に首を捻る。
そして、自分の直ぐ傍に倒れ未だ気を失っている存在に気付いてまたまた、怪訝な顔をし眉根を寄せた。
「スマイル、ひとつ聞くが……私は誰だ?」
「ユーリ、寝ぼけてる?」
「……」
どうやら、さっきまでの記憶喪失は一時的なものだったらしい。恐らく頭を打った衝撃で抜け落ちてしまった記憶が、再び落下してぶつけた衝撃で戻ったのだろう。
密かにホッと安堵の息を吐いたユーリは気を取り直し、前髪を掻き上げる。
「失礼な、何を根拠に」
「……そう」
先に聞いたのはユーリのくせに、偉そうにふんぞり返り聞き返してくる彼は何処までも彼らしくて、スマイルは心の中で呆れながら傍らのアッシュを見やった。そして、マジマジと彼を見つめながらユーリに声だけで問いかける。
「ねぇ、ユーリ。ひとつ聞いて良いかな」
「なんだ」
今は機嫌がいいから何だって答えてやるぞ、と尊大な態度を取るユーリに、では、とスマイルはひとつ咳払いをしてから、
「これ……誰?」
アッシュを指さして、至極真剣な顔をして。
「…………は?」
一瞬、ユーリは顎が外れるのではないかという顔をしてしまった。
「ユーリ?」
「覚えて、いないのか……?」
「覚えるって、なにを。ぼく、この人知らないんだけど……」
つんつん、と伸ばした指でスマイルは気絶したままのアッシュを突っつく。
「…………………」
ユーリは無言だった。スマイルも、無言でアッシュを見下ろしていた。
やがて、なにかを結論付けたらしいユーリが苦笑いを浮かべて手を振った。そして、ひとこと。
「いや、私もこやつなど知らん」
恐らくアッシュが聞いていたら泣き叫び、走り去ってしまいそうな事をさらりと涼しい顔で言い放って。
彼は朗らかに笑うと、埃臭い部屋から出るために歩き出してしまう。スマイルも、どこか釈然としない気分ではあったがユーリに逆らうのも恐いので、曖昧に相槌を返して立ち上がり、服の埃を叩き落とした。
そして最後に、ゴミ山に身体を半分以上埋められてしまっているアッシュを見つめ、
「誰だか知らないけど、そんなトコで寝てたら風邪引くよ~?」
そう言い残し、彼もいそいそと部屋を出て行ってしまう。
あとには崩れ落ちたゴミの瓦礫と、ぽっかり開いた天井の穴と、置き忘れられ挙げ句存在自体も忘れ去られたアッシュだけが取り残された。
合掌。