廊下を歩いていると、ふと風を感じた。
「……?」
小首を傾げ、スマイルは周りを見回した。微かだが屋内に吹き込んできている風が彼の前髪を揺らしている。冷たい、秋を思わせる風だ。
「あ、と……」
少しだけ歩を進め、もう一度辺りを見渡して彼は其処から幾ばくか先にある窓が僅かに開いている事に気付いた。白いレースのカーテンがゆらゆらと裾を揺らめかせている。
誰かが閉め忘れたのだろうか、肩を竦めた彼はゆっくりと窓へ歩み寄った。ふかふかの赤い絨毯に足音は消され、周囲は静まりかえっている。自分の呼吸する音だけが耳障りに響き、月明かりが薄く影を棚引かせている一角へ進み出る。
はためいているカーテンの端を指先で摘み、開いている窓を閉めようと彼は腕を伸ばした。
けれどその動きが一秒後、停止する。
窓の外、それほど広くもないテラスの辺に人影を見つけたからだ。
「…………」
何をしているのだろう、こんな遅い時間に。まず思い浮かんだ疑問はそれ。
「ユーリ?」
控えめに、彼は声を出してテラスに佇んでいる人影を呼んだ。語尾が上がっている、何をしているのかという疑問を呼び声の中に含ませた為だ。
人影が、緩やかな曲線の動きで振り返った。月明かりは窓の外に出ると思った以上に強い、昼間のようとまでは行かなくても、平らに均された足許に影が伸びる程の明るさを保っていた。少なくとも、手元に困ることは無さそうだ。
「お前か」
手摺りに片手を置いたまま振り返り、ユーリはスマイルの姿を月光の下に認めて微かに微笑む。
「なに、してたの?」
もう一度、今度はちゃんと言葉に置き換えて問いかける。すると彼はスマイルから視線を外し、東の空に高く輝いている月を見上げた。
「見ろ」
「ああ、今日は満月だっけ……」
顎をしゃくる動きで綺麗に円を形作っている月を示したユーリに同調し、視線を持ち上げたスマイルが納得顔で頷いた。
「ウサギが見えるねぇ」
「ウサギ?」
何気なく、闇空にぽっかりと浮かぶ月を見上げながら呟いたスマイルに、ユーリが怪訝な顔をして聞き返す。スマイルは月から紅玉の双眸を見つめ返し、肩を竦めた。
「昔話さ」
「ウサギとカメ?」
「ああ、それも確かに昔話」
ウサギの昔話、と聞いてまず思い浮かぶものをつい口に出したユーリだったが、肩を更に竦めた上に溜息までつかれてしまって、思わずむっとなりスマイルを睨んだ。
「いや、ねぇ……お月様にはウサギが棲んでいて、餅つきをしてるって、それだけの話なんだけど」
「……本当か?」
「……アームストロング船長がアポロ11号に乗って月の、静かの海に降り立ったのはもう三十年以上前の事だよ」
まさか真に受けられるとは思っても居なかったスマイルは、やや脱力気味に呟いた。力無く首を振り、風に揺れる前髪を掻き上げる。
「なんだ、嘘か」
「本当だったらある意味恐いよ」
素っ気なく、だけれど何処かつまらなそうに言ったユーリを小さく笑う。そして髪に差し込んだままの右手の隙間から、スマイルはもう一度月を見上げた。
「そう言えば、満月になると墓場から生き血を吸いに出てくるのがノスフェラトゥだって言われてるらしいね」
「ノスフェ……?」
「分かりやすく言えば、吸血鬼」
つまりは君のこと、とユーリの胸元に人差し指を向けたスマイルの笑顔に、ユーリはあからさまに嫌な顔をする。一緒にするな、と言いたげであり、それが尚更可笑しくてスマイルは喉を鳴らして笑った。
「笑うな」
笑いすぎて、ごつん、と手痛い鉄槌を頭に貰い受け、ようやくスマイルは顔から笑みを消す。拳骨を喰らった部位を手でさすりながら、再度月を仰ぎ見た。
「狼男も満月を見て変身するらしいねぇ……」
そういえばアッシュは確か狼男だったはず。そして彼の姿は夕食の席から見ていない。案外、何処かで変身していたりして。
「アッシュならさっき、庭先を犬の姿で歩いていくのを見たぞ」
「犬じゃないってば……」
確かにあの姿でオオカミだ、と言い切るのは憚られる部分が強いが、それでもあれで、ちゃんとした狼人の血を引いているはずなのだが、彼は。理解を得られないと、リカントロープも辛いものである。
「……で、話を戻すけど」
「何処に?」
「……ウサギ」
「ああ」
すっかり逸れてしまった話を戻そうとしたところ、ユーリ自身が何処で話がずれたのかを忘れてしまっていて、呆気に取られる。仕方なく、コホンと咳払いをひとつしてから気を取り直し、スマイルはテラスの手摺りに背中を凭れ掛けさせた。
「ええと、何処まで話したっけ……」
「確か、月にウサギが棲んでいて餅をついていると」
「カニ、って話もあるよ」
他にもインディアンが住んでいる、と表現する国もある。総て満月の表面に浮かぶクレーターのでこぼこが表現する陰影が、そんな姿に見えるだけなのだ。中国も日本と同じ、月にウサギと伝承が語るけれどこちらは、薬草を挽いていると表現するらしい。
「ふぅん……」
話半分に相槌を打ち、ユーリも一緒になって月を見上げた。
夜の闇にコントラストとして浮かぶ月の光は、今は見えない太陽の光を受けて煌々と輝いている。星明かりが霞む程に。
言われてみれば確かに、月の表面がウサギや、カニの形をしているように見えてくる。言われないと意識しないのであまり気にしたことが無く、物珍しい気分でユーリはしばらく月を眺め続けた。
その横顔を見つめ、スマイルは膝を折りテラスにしゃがみ込む。三角に曲げた膝の上に両手を置き、軽く結び合わせる。その形は祈りに似ていた。
「月は自転と公転の周期がまったく同じだから、常に同じ顔しか見せてくれないんだよ?」
「?」
何気なく、ぽつりと呟かれたスマイルの言葉に気付いたユーリが視線を足許に向ける。見上げてくるスマイルの隻眼と視線がぶつかって、何故か先にユーリは逸らしてしまった。
けれどスマイルは気にすることなく、言葉を続ける。
「太陽系の天体には軌道運動力学的に規則があってね……月の自転周期と公転周期は1:1……全くの同数なんだ」
「良く解らない……」
「ぼくも巧く説明できない」
ただ、月は常に地球に対して同じ顔を向け続けている。裏側を見せてはくれない、その向こう側に何を隠しているのか、まるで分からない。
「…………似ているな」
「?」
今度はユーリはぽつりと呟く番だった。
スマイルが小首を傾げ、ユーリを見る。
「お前に」
「なにが?」
「月……お前も、裏側を見せないだろう」
「そう?」
疑問符を投げかけてみるが、ユーリは投げ返してくれなかった。受け止めて、そのまま胸に抱き込んでしまう。困って、スマイルは曖昧に苦笑した。
「お団子、欲しいかな」
「なんだ、急に」
「お月見と言ったら、やっぱり月見団子とススキでしょう」
「…………」
両腕を伸ばし、うーん、と背筋を伸ばしたスマイルが話題を一気に変えてきた。逃げたな、とユーリは渋い顔をするがスマイルは見なかったことにしてそのまま流してしまう。
「あー、思い出したらなんだか食べたくなっちゃったかも」
「甘いものは苦手では無かったのか」
「別に、お餅自体は嫌いじゃないよ?」
あんこが苦手なだけで、と言い訳がましく言ってスマイルは立ち上がった。そして再び手摺りに身体を凭れ掛ける。
「ススキはどうする」
「その辺で生えてないかなぁ……」
荒野に群生するススキの図が思い浮かび、スマイルは背伸びをして城の周りに広がる光景を一望した。だが月明かりでは地上の端端まで見渡すことは不可能で、直ぐに姿勢を戻し諦め顔で笑った。
「そうそう、月といえばもうひとつ有名な昔話が」
「?」
「竹取物語、知ってる?」
「大体は……」
話の脈絡を掴み切れていないユーリが小声で返すと、スマイルはにっ、と笑って月を指さした。
「竹から生まれたかぐや姫は、竹のようにすくすくと成長してそれはそれは美しい姫に成長しました」
姫の美しさを聞いた貴族達はこぞって彼女を妻にと、宝を持ち寄って求婚を繰り返すが、彼女はその全てを拒んでしまう。ついに時の帝までが姫を求めるが、彼女は月に帰らねばならないと言い満月の夜に迎えに来た車に乗り、行ってしまう。彼女を守ろうとした帝の兵士達は一斉に金縛りにあい、動くことが出来なかった。
かぐや姫が残した不死の薬は、だが彼女が居なくては意味がないと残された人々が峰高い山の頂で焼いてしまう。
「有名な話だろう」
スマイルが語り終えるのを待ち、ユーリは言葉を挟んだ。その顔は、今更何故そんな話をするのか、という疑問に満ちている。
「似てると思ってね」
「なにが」
「ユーリに」
求めてくる人々は多いのに、その全てを拒んでひとり行ってしまう人。その人が残したものが例えどんなに素晴らしくても、その人が居なければ何の意味も持たない。だから。
「似てると思った。だから話したんだ」
「そうか……?」
「うん」
自分の口元に手をやり独白するユーリに頷き、スマイルは最後に月を睨みあげ、そして手摺りから離れた。いい加減、屋内に戻らないと風に体温を持って行かれて風邪を引いてしまう。
「ほら、ユーリも」
「ああ、そうだな」
二歩前に出てから、ユーリを振り返りスマイルは左手を差し出した。最後まで月を眺めていたユーリも、視線を前方へ戻し、二歩分進んだ。
それから、右手を伸ばし差し出されているスマイルの、グローブを嵌めていない左手の甲を指で思い切り抓った。
「ったぁ!」
爪の伸びた指二本で遠慮なしに抓られたのだ。痕がくっきりと残って、スマイルはあまりの痛さに涙目になりながら左手に息を吹きかける。
「酷いよ、ユーリ」
「その手を取って、危ない場所に連れ込まれては困るのでな」
さらりと返し、ユーリは今さっきスマイルを抓った手を振る。そしてひとりさっさと、未だ閉められずにいた窓を開けると薄明かりの廊下を抜けて行ってしまった。
残されたスマイルが恨めしげに窓を睨み、再度その場に腰を落とした。片膝を折り、もう片足は投げ出す。肘をつき、思い出したように細めた目の先で望月を見た。
「そうそう、満月は人を狂わせるって言うしねぇ……」
楽しげに喉を鳴らして笑って、薄い雲に隠されようとしている月を見送る。
遠くで、獣の遠吠えが聞こえた気がした。