けたたましい、乗用車のブレーキ音が周囲に鳴り響いて。
続いて、慌てて北へと走り抜けていく白い4WDが。
周囲に人影はなく、車が走り去ってしまうと辺りはまたシン……と静まりかえってしまう。
彼は、乗用車が消えていった方角を暫く無言のまま眺めた後、視線を前方へと戻した。
先程、本当につい今し方。
急ブレーキを踏んだはずの乗用車が猛スピードで駆けて行った理由は、彼の前に広がるさほど幅も広くない、横断歩道さえないアスファルトで固められた道路の上に残されていた。
血まみれの、肉塊が、そこに。
彼は黙って歩き出した、周りに彼の行動を見守る存在はない。新たに、この道路を訪れる物好きなドライバーも居ないのか、テールライトは遠目にさえ見当たらなかった。
チカチカと、間もなく寿命を迎えようとしている街灯が明滅を繰り返し周辺に頼りない明かりを提供している。夜の空は薄い雲が棚引き、月明かりを隠して物寂しく薄暗い。
十歩も行かないうちに、彼はその肉塊の元へと辿り着いてしまった。
あの車が戻ってくる様子はない、至って静かな夜の時間が彼を包み込んでいる。他に動く気配は皆無。
その中を、彼はゆっくりと膝を折り肉塊に片手を伸ばした。
触れようとするが、その手前で一瞬躊躇したらしく手が止まる。引き戻されかけた手だったが、やがて恐る恐るといった風情で白い指先が、血に濡れる毛並みをそっと撫でた。
その瞬間、微動だにしなかった肉塊が僅かに、身じろいだ。
「……っ!」
気付いたときにはもう彼は己の手を胸元へ引き戻し、湿り気を残す指先をもう片方の手で包み込んでしまっていた。表情にほんの少しだけの怯えを含む色が表れ、けれどそれもじきに、薄れていく。
にー、と。
心細げに、その肉塊は鳴いた。
いや、それは錯覚だったのかも知れない。全身を高速で走っていた乗用車に激しくぶつけられ、その上跳ね上がった身体を再び車体にぶつけて路面に叩きつけられたのだ。全身の骨は砕かれ、鳴く体力すら残っているはずがなかった。
それともそれは、為す術もなく一瞬にして命を奪われねばならない小さきものの、最後の抵抗だったのか。
息を呑み、彼は路上の肉塊を凝視する。
瞬きをすることさえ忘れた彼の、紅玉の瞳に映るそれは弱々しく、儚い。最早立ち上がることさえ叶わず、身体を震えさせる事が精一杯なのだろう。傍らに座す存在を見る事すら、出来ていないはずだ。
肉塊の瞼は己が流した血によって濁り、固められてしまっている。歪な形で折れ曲がった脚の、裂けた部分から骨が飛び出しているのが薄明かりの下でも分かった。否、折れ曲がった骨が内部から皮を突き破ったのやも知れぬ。
どちらにせよ、この命はじきに燃え尽き、消えてなくなるだろう。
もう一度、それは鳴いたようだった。
彼は目を閉じ、流れていく風の中に紛れてしまったそれの鳴き声に耳を傾ける。切なく、哀しい声は彼の胸を締め付け、同時に残虐な心を呼び覚ます。
徐に、彼はまた腕を伸ばした。
今度は両手で、もう自力では動くことの出来ないそれを抱き上げる。胸元へ引き寄せる動きの中で、彼は曲げていた膝を伸ばし立ち上がった。
振動が辛いのか、またそれはか細い声で鳴いた。
「………………」
沈黙したまま、彼はその肉塊の身体をそっと、撫でる。血にまみれた毛並みはその指先を受け止めることなく、与えられた力の分だけ沈みそのまま戻っては来なかった。ただ撫で過ぎていった彼の指先が、深紅の色に染めあげられただけに終わる。
だのに彼は自分の手が、服が、赤く汚れていく事にも構わずそれを撫で続けた。
そうしてしばらくするうちに、彼の腕に抱かれたそれが苦しげに呼吸をし、血を吐いた。
今までの比でない程の血液が、彼の白いシャツを赤黒く染める。じんわりと滲みこみ、広がっていく液体に微かに、彼は眉目を歪めた。
それは誰が見ても分かるはっきりとした、彼の表情の変化だった。
バランスを取り、彼は肉塊を片腕に抱き直す。そして、喉に血が詰まったらしく苦しげなそれの喉元に、細くしなやかな指を這わせた。
親指の腹に、喉骨が当たる。反対側へ回した人差し指の腹が、脊椎の出っ張りを確認した。
少しだけ、力を、込める。
抵抗は無かった。
コキリ、と。
音もなく感触だけが指先を通して彼に伝わり、それだけだった。
それ以外に何もなく、それ以上なにも起こらなかった。
そして肉塊は完全に沈黙し、動かなくなる。口の中に残っていたらしい吐き損ねた血液が、だらんと外へ飛び出した舌を伝ってこぼれ落ちる。それは彼の服には落ちず、アスファルトに沈んで闇に紛れて消えた。
しばらく、彼は其処に佇んでいた。
まるで時計の歯車が狂ったように、軋んだ動きでただの肉塊になったそれを抱きしめる。瞼を落とし、顔を伏せるが涙は流れることがなかった。
やがて、長い時間をかけて顔を上げて瞳を開いた彼はゆっくりと、踵を返し歩き出した。
どこか頼りない足取りで、けれど真っ直ぐに前だけを目指して歩いていく。
アスファルトの道は何処までも続く果てのない様相を呈していたが、それも何時か終わりを迎えるであろうことを、彼はちゃんと、知っているのだ。
その人は、なにも言わなかった。
半分開いたままの扉のノブに手を置いたまま、やや茫然とした顔で彼を見下ろしたあと視線の先を、若干下方向に修正する。
けれどそれでも、その人はなにも言わなかった。
「………………」
「…………………………」
お互いに沈黙が続き、絡み合うことを忘れた視線はけれど同じ場所に集約されていた。
そのうちに扉を閉める音がその人の後ろで低く響いて、暫くぶりに顔を上げるとその先にその人は居なかった。
「こっち」
戸惑いながら視線を巡らせると、顔を向けていたのとは反対方向から声がして弾かれたようにそちらを向く。その人は背を向けていて、首の上からだけで彼を振り返っていた。
視線が久方ぶりにぶつかると、その人はおいで、と小さく告げて歩き出してしまう。縋るような思いでそれに続き、彼らは少しだけ歩いた。
三歩分、彼らの間に距離がある。
なにも言わない、言葉は交わされない。沈黙が重く、朝靄に沈む大気が湿気を帯びて彼にまとわりつく。鬱陶くて払いたいのに、彼の腕は両方とも埋まってしまっていて動かすことが出来なかった。
そっと、胸に抱く肉塊に指を這わせる。
もう暖かくなかった。
やがてその人は立ち止まり、彼を待つ。三歩分あった距離を詰めきり、横に並ぶと先にその人がしゃがみ込んだ。追いかけて彼もその場で膝を折る。
「埋めてあげよう」
「………………」
ひとこと、彼が呟く。
頷くことでしか、返事が出来なかった。
その人は、穴を掘った。スコップが無いので、柔らかな腐葉土を両手だけを使って掘り下げていく。城の、庭先の土は軟らかくまだその人の指を傷つける事は無かったけれど、肉塊を埋めて覆い被せるだけの量を掘るのには、それなりの時間が掛かった。
普段から嵌めているグローブを外し、爪先まで覆っている包帯さえ解いた彼の指が、濃い茶色の土を抉り取っていく。
彼はそれを、ずっと眺めていた。
……車に、撥ねられたんだ……
……うん……
……血まみれで、倒れていた……
……うん……
……撥ねた車は、そのまま逃げていった……
……うん……
……戻っては来なかった……
……うん……
……私は、ずっと、見ていた……
……うん……
……こいつが飛び出すところも……
………………
……車が、勢いよく走り込んでくるところも……
………………
……こいつが、撥ね飛ばされる瞬間も……
………………
……アスファルトに、叩きつけられる瞬間も……
……ユーリ……
……私は、ずっと、見ていたんだ……
……ユーリ、もう……
……空に舞ったこいつが、私を見ていた……
………………
……目が、合ったんだ。一瞬だけだったが……
……うん……
……それなのに、私は思い出せない……
……?……
……その瞬間、どんな顔をしていたのだろう、こいつは……
………………
…………まだ、生きていた…………
……え?……
……まだ、生きていたんだ……
……その子が?……
……ああ。暖かかった……
………………
……重傷だった。もう助からない傷だった……
……うん……
…………だから…………
……ユーリ?……
……わたし、は……
……ユーリ……
……こいつの、首、を……
……ユーリ、言わなくていい……
……こいつの、首を絞め、て……
……ユーリ!……
…………私が、殺した…………
……ユーリ……
……殺した、この手で、私が……
…………うん…………
……殺したんだ……
穴は、十五センチにも満たない深さにしかならなかった。
ユーリは、その中へ静かに仔猫の死骸を横たわらせる。その上に、スマイルはそっと土を被せていった。
掘る前は平らだった地面は、埋められた仔猫の体積分と空気の分だけ、なだらかな山の形に盛り上がる。墓標となるものはなにもなかったが、せめて、とスマイルは近くに咲いていた小さな花を数輪、摘んできてその前に供えてやった。
再び、音が消えて沈黙がその場を支配する。
空気は凛として冷え、朝靄に湿気っていた風も何処かへ姿を消した。静かに、彼らは庭の片隅に座り込み出来上がったばかりの小さな墓に、手を合わせていた。
「ユーリは」
爪の間に入り込んでしまった土を穿りだしながら、スマイルは傍らにいる彼に目を向けることなく、呟く。
「この子の、苦しみを取り除いてあげたのだと」
助からない傷だっただろうことは、既に死んだあとだったとは言えスマイルの目にも明らかだった。
腹部が亀裂し、飛び出していた肋骨の間から内臓が見えた。数回叩きつけられた衝撃でどこもかしこも砕かれ、潰されてしまっていた。虫の息があったことさえ、奇跡だったのかもしれない。
あとに残されたのは、苦しみ痛みを抱えながら死を待つ短い時間だけだったはずだ。
「そう……考えることは」
ゆっくりと、スマイルはユーリへと視線を向ける。
紅玉と丹朱が、重なった。
「出来ないかい?」
多少不器用な、哀しげな微笑みを見せられてユーリは、横にいるスマイルを見ていた瞳を伏した。幾らか足許を泳いで、それは結局出来上がったばかりの盛り土に、辿り着く。
「だが、それとて……」
生き残った側の、勝手な解釈に過ぎない。
けれど、死んだものの心は戻ってこないから、結局どう考え倦ねたところでどれもこれも、生者の解釈にしかならない。
ならば、少しでも気持ちが軽くなる取り方を選んだとしても、罪に問われる事は無いはずだ。
風が、流れていく。
……ユーリは、さ……
………………
……誰に対して、赦しを求めているの?……
………………
……それとも、君は……
………………
……本当は、さ……
……なんだ……
……死にたいの?……
………………
……ねぇ……死にたい?……
………………
……じゃあ、さ……
………………
……ぼくが、さ……
……貴様が?……
……殺して、あげるよ……
………………
……ぼくがユーリを、殺してあげる……
……私、を……
……うん……
………………
………………
……殺す?……
…………うん…………
……スマイル……
……なに?……
……出来ると、でも?……
……出来るよ……
……そう、か……
……うん……
………………
……ねえ、ユーリ……
……なんだ……
……君は、さ……
………………
……ぼくに……
………………
……殺されることを……
………………
……赦してくれるの?……
………………………………
……ユーリ?……
「お断りだ」
振り切るように、彼は言った。
きっぱりと、はっきりと、断言して彼は立ち上がった。
まだ低い太陽の光を受け、眩しそうに目を細めて彼は漸く、己の格好に気付き顔を顰める。
血と獣の毛に汚された洋服はすっかり本来の色を失い、見るも無惨な状態になってしまっている。自分自身の流したものではないにせよ、改めて光の下で見てしまうと気持ちが悪い事この上ない状態だった。
よくぞ今まで平気だったなと、事故の精神状態を疑いそうになり、ユーリは軽く額を押さえた。その指先もまた、乾いていたものの血で汚れている。
「着替えてくる」
そして、恐らくもうじき朝食の時間になるだろう。
「ああ、そうだねぇ……」
頬杖を付き、未だ傅いたままのスマイルが遠くを見つめながら呟いた。地面に置いてあった自分の手袋を拾い上げ、ポケットへと押し込む。
ユーリは歩き出し、スマイルは立ち上がらない。けれど途中で、ユーリは脚を止めて振り返った。
……スマイル……
……なに?……
………………
……ユーリ?……
…………なんでもない…………
……そう?……
……ああ……
……ふーん……
………………
……あ、ユーリ……
……なんだ?……
………………
……スマイル?……
……やっぱり、なんでもない……
…………そうか…………
……うん、そうだよ……
……そう、か……
……うん……
……………………
……ユーリ……
………………
……あとで、ね……
……ああ、あとでな……