暑くて寒い夏の思い出

 暑い、と。
 誰かが口に出して言った途端熱さが増してきたような気がした。
「うぅ……」
 呻き声をあげながら声のした方を見る。起きあがるのも億劫で、首だけを振って眼球を苦しくなるまで動かして確認した先には、ハヤトと同じように床の上でマグロになっているガゼルが居た。
 その横には、肌が触れ合わない程度の距離を守ってアルバも、少しでも涼しさを得ようと板張りの床に貼り付いていた。
 窓から差し込む陽光の影になる位置に三人、それぞれ思い思いに両手両足を放り投げて寝転がっている。更にその場所は彼らの部屋ではなく大きな窓がある庭に面した居間にあたる部屋の中だった。
 暑苦しい上着を脱ぎ捨て、人目も構わず上半身裸で寝転がっている様は本当に、以前テレビで見た漁港に荷揚げされたマグロのようである。昼間からぐだーっと伸びている男達を後目に、フラットの女性陣は今日も元気だ。
「もう、こんなところに転がられると良い迷惑よ!」
 ぷんすか、と腰に手を当てて姦しくフィズが彼らを叱るが、暑さにやられて立ち上がる気力さえ乏しい男どもは全く無反応。放っておくと夕方を過ぎ日が完全に沈みきるまで此処でこうしていそうな感じだ。
「うるせーよフィズ……」
 怠そうに口を開き、ガゼルが「暑い」に続いて言葉を紡ぐ。面倒臭そうに片手を顔の上に上げて、移動する太陽の光が彼の顔に降りかかり始めているそれを遮る。そのままの体勢で膝の屈伸運動により床の上をずるずると移動するその姿は、雨上がりに這いずり回る蝸牛に似ていた。
「五月蠅いってなによ、ガゼルこそ邪魔だからそこ退きなさい!」
 リプレなみに口達者なフィズにべしっ、と叩かれてガゼルは剣呑な表情で彼女を見上げる。しかし既に彼女は同じように寝転がってへたばっているアルバの脇腹に蹴りを入れていた。
 普段の彼女なら怒鳴るだけに終わるところが、力業にまで至っているところからしてフィズも実のところは暑さに参りかけているのだろう。
 向こう側で、いつものように縫いぐるみを抱えているラミが不安そうに見ている。だがもこもこの布地を使っている縫いぐるみは、見ているだけでも暑さを覚えるくらいだ。
 今日のような暑い日くらい、抱えていなくても良いのにと思うのだが、彼女にとってはあのクマはその暑さに負けないくらいに大事なのだろうか。
「あづいよ~~~~」
 舌っ足らずにアルバが呻く。
「だ~! 言うな、言ったら次から罰ゲームだからな!」
 がばっと起きあがったガゼルが額から汗を噴出させて怒鳴る。かなり苛々している様子だ。
 ようやく自分ものろのろと身を起こしたハヤトは若干跳ね上がったり凹んだりしている後ろ髪を手で押さえた。僅かに湿っている感じがするのは、汗の所為だろう。
「もう、なにやってるの?」
 台所から顔を出したリプレも、半袖の涼しげな服を着ている。邪魔になるからと三つ編みで背に流している髪は珍しくアップで一纏めにされていた。
「リプレ母さん、あのね」
「ガチャガチャ五月蠅せぇんだよガキども!」
 ぶち切れ寸前。暑さで頭に血が回りすぎているらしいガゼルがリプレの元へ走ったフィズに思い切り怒鳴りつける。傍に居たハヤトの耳にキーン、と響くような音だ。
「五月蠅いのはアンタでしょ。子供相手に何やってるのよ」
 びくっと怯えたラミに大丈夫だから、と言ってリプレはガゼルに怒鳴り返す。この場合、正しいのはリプレでガゼルのはただの八つ当たりだ。
「かき氷食べたい……」
 ふたりの口げんかを後目に、床の上に座り直したハヤトは外を見てぽつりと呟く。後ろでは相変わらず暑苦しいのに余計熱を発散させるような口論が続投されているが、間に割って入って止めようという気にもならなかった。火に油を注いでヒートアップされては溜まらない。
「西瓜、かき氷、アイスクリーム、シャーベット、シェイク、チョコバナナも良いな」
 夏の定番おやつを順に思いつく限り口に出し、想像してその冷たさをせめて心の中だけでも楽しもうと思うのだが、逆に食べたくなるばかりで暑さは収まる気配が見えない。口の中の唾を呑み込んでも、喉の渇きは癒せそうになかった。
「ああ、アイス食べたい」
 腕を伸ばしてもう一度床に抱きつこうかと思ったが、次にすると二度と立ち上がる気力が出てきそうになくて止めておいた。ガゼルとリプレの口げんかはまだ終わらない。
「随分と騒がしいけれど、どうしたんだい?」
 少しでも風を呼ぼうと手で扇いでいたら、真後ろから声がした。いつの間にか其処にキールが立っていた、しかも普段と変わらない服装でマントだけを外している。見るからに、暑苦しい長袖長ズボンスタイル。
 一方のハヤトは上半身裸で下半身も膝丈のハーフパンツ一枚。これで暑い暑いと騒いでいたのだが、キールの服装は見ているだけでも充分暑苦しくて汗が出てきそうだった。
「う……」
 人の服装で汗を掻くというのは楽しいことではない、と改めて実感してしまったハヤトだった。
「いや、さ……キールは暑くない?」
「暑いね」
 なんてことはない、今日はいい天気ですね、と返すような涼しげな声で返されてもまるで説得力を感じないキールの声にハヤトはガクッと肩を落とした。
「召喚師って、暑さ寒さを感じないんだろうか」
「僕を人間ではないみたいに言わないでくれないかな」
 これでも一応、暑がっているんだよとキールは苦笑しながら言い返してきたけれど、相変わらず説得力皆無。室内気温は恐らく三十度を超えているはずなのに、全身を覆い尽くして肌の露出も首から上だけ、というような格好の彼は汗ひとつ、流していないのだから。
 絶対何かある、と疑われても仕方がないだろう。
「涼しくなる召喚術って、ないのか?」
 現代日本にはクーラーという便利な機械が存在している。召喚術はなんだって呼び出せるのだから、クーラーのような能力を持ったなにかを呼び出せてもなんら可笑しく無いのでは。
 そんな単純な思考回路からはじき出された疑問を口に出したハヤトに対し、キールは矢張りなんら変化ない顔で、
「あるよ」
 と言うものだから。
「ふーん、そう。あるんだ」
 つい、ハヤトは相槌を打つだけで終わってしまいそうになった。
「……あるの!?」
 三秒後気付いて、素っ頓狂な声を上げてキールを見る。彼は何をそんなに驚くのか、と逆に驚いてハヤトを見下ろしていた。
「あるよ?」
 万能とは言えないものの、召喚術は多少の気候の操作も可能だ。でなければマーン家の屋敷の庭で年中花が咲き乱れるという事実も説明できない。逆に、あれが召喚術の恩恵によるものだと理解してしまえば、温暖な気候を保たせる以外の使い方も出来ると直ぐに分かったはずだ。
「本当に?」
 疑い深く何度も確認してしまうのは、その涼しくなると言う召喚術に思い切り期待を寄せてしまっているからに他ならない。これが、ない、と否定させた時や失敗したときの事を考えるとその落胆ぶりは類を見ないものになるだろう。
 しつこく聞いてくるハヤトにその度に頷いて、キールはやれやれと肩を竦めた。いつの間にか、ガゼルたちも喧嘩を止めて静かに彼らを見守っている。暑さに参っているのは何もハヤトだけではない。
 涼しくなるのであれば万々歳、たとえにっくき召喚術とはいえ、目先の利益に人間は弱いのだから。
「どうやって?」
 早くやってみせろ、とガゼルがせっつく。困ったようにキールは眉間に皺を刻んだ。
「僕はメイトルパの召喚術を使えないんだけれど」
 幻獣たちの世界、メイトルパ。其処に暮らす幻獣に氷を操る事の出来る種族が存在しているのだという。彼らの力を借りることで、この場を一時的に涼しくするのだと言うのがキールの説明だった。
 そして彼が召喚できるのは、機界ロレイラルと霊界サプレスだけであるとも。
「それじゃぁ、無いのと同じじゃないかー」
「サモナイト石はあるんだけれど」
 だから、誰かメイトルパの召喚術を使える人間がいれば問題ないと随分用意よろしくキールはポケットから取りだした緑色の宝石を掌に載せた。それから室内にいるメンバーを見回して結局、一番近いところに居たハヤトにそれを手渡す。
「俺?」
「僕は獣属性を持ち合わせていないから」
 ハヤトは総ての属性を持ち合わせている極めて特異な存在だ。彼ならば、すんなりと召喚が可能だろう。
「あー、うん、分かった」
 サモナイト石を右手で握りしめ、その感触を確かめながらハヤトはひとつ頷いた。
 背中には期待に満ちた眼差しがキールと自分以外の全員分、矢のように突き刺さっていて少し痛い。皆、この熱さに神経が苛立っているのだ。これで失敗などしようものなら、夕食抜きでは済まないだろう。
 なんとしてでも成功させねば。その使命感だけにハヤトは燃えていて、キールに具体的な召喚内容を聞くことをすっかり忘れていた。
「名前は?」
「ええと……確か、大寒波」
 天井を仰いでキールは呟く。名前からして、もの凄く涼しくなりそうな雰囲気がした。
「大寒波、な。よし」
 握りしめたサモナイト石に意識を集中させ、ハヤトは目を閉じた。メイトルパへの門を押し開くイメージを頭の中で想像し導かれるままに名前を呼ぶ。
「注意しておかないといけないのは、あまり規模を大きくしすぎないこと。効果範囲も広いし」
 横でキールが注意事項を口に出して説明をし始めていたが、ハヤトは回りの期待に勢いが先走っていた。キールの言葉など聞いてもいなくて、更にサモナイト石を握る掌に力を込めた。
 キールも、その事に気付かないで説明だけを続ける。
「力調整をしておかないと、大変なことになるから……」
「大寒波!」
 ふたり分の声が重なって、けれどハヤトの声の方が大きかった。
 フラットの本拠地、孤児院の真上だけが唐突に影がかかって暗くなった。太陽光が遮られ、夜が突然現れたかのようだ。
 ひんやりとした空気が開け放たれたままだった窓から流れ込んでくる。
「おっ」
 ガゼルがまずその事に気付いて嬉しそうに声を出した。
 誰もが、これであの茹だるような暑さから解放されると思った。ハヤトも、そう思っていた。とにかくこの暑さをどうにかしたくて強く念じていたから、その分術は彼の気持ちを反映してとても強い効力を発揮したのだ、と教えられたのは全部が終わってからだった。
「だから言ったのに」とキールはひたすら呆れていたけれど。
 ひゅぅぅぅぅ~~…………
 それはまるで、雪山に訪れた吹雪の前触れのような風の泣く声。
 ぞくり、と肌寒さを覚えて鳥肌が立った両腕を擦り合わせた頃にはもう、時既に遅し。
「これ、って……」
 名前は『大寒波』。意味は、冷却された空気が波のように押し寄せてきて気温が急激に低下する現象の事を言う。
 孤児院上空を覆ったのは冷たい空気を満載した雲で、流れ込んできたのは波のように押し寄せてくる冷気。勢いは、突然強まって。
 ごくり、とつばを飲み込む音を最後に妙にリアルに聴いた。

「うわぁぁぁ~~~~~~~!」×6

 涼しい、どころではなかった。
 確かに暑さは何処かへ飛んでいってくれた。だが、今度は
「寒い!」
 ガチガチと歯を打ち鳴らして鼻水を垂らしてガゼルが叫ぶ。リプレも子供達を抱きしめて少しでも暖かさを分け合おうと必死だ。
「だから、出力は調節しないと」
「そう言うこと、先に言ってくれない?」
「聞かなかったのは何処に誰だった?」
「ぅ……」
 窓に氷柱がいくつもつり下がっている。壁に床に、霜が所狭しとつき立っていた。歩くたびにサクサクと心地よい音がするが、素足で霜踏みはかなり、痛い。扉は凍り付いてしまって、食堂以外の部屋に逃げる事も出来ず暖かい服装に着替えることも出来ない。
 故にガゼルとハヤト、それにアルバは未だ床の上でマグロになっていたときと同じ服装だった。
「あの、さ」
 ひとつ質問なんだけど、と唯一この場で長袖のキールにすり寄って、なんとか寒さをしのごうとしていたハヤトが苦笑しながら顔を上げた。
「暖かくなる召喚術も、やっぱりあるんだよな?」
「あるよ」
 出力を間違えると一瞬で孤児院は焼け野原になるだろうけれど、となんて事ないようにキールは頷く。
「やってみるかい?」
 両手でハヤトを抱き込んで彼を温めてやりながらキールは微笑んだ。向こうではガゼルが、ついに観念したらしくリプレと子供達と一緒になって少しでも体温を分けて貰おうとしていた。
「……やめとく」
 孤児院を凍り付けにした上に丸焦げにしたら、彼らに会わせる顔がない。
 結局、その日の夜遅くまで孤児院は氷に覆われたまま。そして次の日の朝には屋内は水浸しになっていて、ハヤトたち男メンバーは問答無用で、部屋掃除に駆りだされたのだった。