コトノハノマホウ/牛尾御門の場合

 暇ですね、と呟いたら。
 そうだね、とだけ静かに返される。ほんの少しだけ笑みを含んだそのことばに、思わず自分まで頬を緩ませてそれから、背中合わせの彼の身体に凭れ掛かった。
 制服の布地越しに、彼の心音を微かに感じる。
 暇、だな。
 もう一度呟く。空に向かって、独白を零す。
 いや、本来は暇であってはならない時間帯なのだ。受験が押し迫り、授業も無くなって自主登校になっている三年生とは違い、自分はまだ一年生。そしてまだ、昼には少し早い本来なら机に向かって黒板とノートを交互に睨み付けていなければならない、授業中。
 欠伸をする。眠そうに目を擦ると、参考書に目を落としていた彼が肩越しに振り返ろうとして身体を捻った。けれど全体重を預けられている所為で出来なくて、真横を向いた段階で諦めてしまったようだ。
「じゃあ、しりとりでもしようか」
 何気ない提案。ぱたん、と分厚い参考書を閉じる音がそれに続く。
 身体を起こした。きちんと座り直し、けれど座ったまま腰から上だけで振り返って彼を見つめる。
 にこりと微笑む彼に、構ってもらえる事が嬉しくてつい、頬が緩んだ。
「はい!」
「じゃあ、僕からね。そうだね……」
 肌寒さを覚えるようになった秋の真ん中。大学の推薦入試はもう間近に迫っていて、彼だって決して暇ではないはずなのに。
「アルキメデス」
「……何ですか、それ」
「アルキメデスの原理。聞いたことくらい、あるんじゃないのかな?」
 紀元前のギリシャの数学者、アルキメデス。浮力に関しての法則を発見した事で知られている。中学の理科で習ったはずだ、と彼が言い、覚えていなくてばつが悪そうにオレは頭を掻いた。
「君の番だよ?」
 参考書の角で自分の掌を軽く叩き、彼が急かす。相変わらずのにこやかな笑みをそのままにして。
 オレは手を下ろし、膝の上に置いた。
「す……スペード」
「ドミティアヌス」
 即答で耳慣れぬ名前を返され、また目が点になる。
「……誰っすか」
「古代ローマ皇帝のひとりで、キリスト教徒を迫害しゲルマン人を討ったけれど、専制政治に失敗して謀殺された男」 
 そんなの知るわけがない、と文句を言いそうになったがこの人に何を言っても言い負かされるだけだろうと思い直し、口を噤む。代わりに、しりとりの続きを考えて視線を空に浮かせた。
 白い雲が静かに流れていく。授業をする教師の声が、どこかの教室の窓が開いているのだろう、ここまで聞こえてきた。
「す、す……すー……スコットランド」
「ドレス」
「また『す』ー!?」
 嫌がらせのつもりで「ど」で終わることばを返してみたのに、見抜かれていたように「す」で終わることばで返されてしまった。つい声を荒立てて天を仰いだオレに、彼はクスクスと笑いながら目を細めた。
 笑うときに目が糸のように細くなるのは、彼の特徴だ。そして本当に優しい気持ちで微笑むとき、彼の目尻はほんの少しいつもより下がる。
 オレの前で彼が目尻を下げて笑うのを見ると、嬉しくなる。
「君の番だよ」
「あう……う~……」
 考え込んでしまう。単純なしりとりだったはずなのに、変な知恵比べになってしまっている気分だった。
 もう少し困らせてやりたい。けれど自分の学力と彼の知力との差は歴然としていて、なかなかやり返せるだけの単語が思い浮かばない。もう一度「す」で始まり「ど」で終わる単語を考えてみるが、考えれば考えるほど何も思い浮かんでこなかった。
 焦ってしまう。もっと単純に考えれば良いはずなのに、難しく考えようとするから余計になにも出てこない。
 オレが困った顔で必死に無い知恵を絞っている間も、彼は静かに微笑みながら待ってくれている。
 呆れたり、見下したり、しない。黙ってオレが答えを出すのを待ってくれる。オレを待ってくれる、いつだって。
 オレが、追いつくのを。オレが追い掛けている事を知って、時々振り返って、手を差し出して、待ってくれている。
 そんな彼だから。
 そういう人だから。
 オレ、は。
「す、す……すき……」
 ぽつり、と。
 ことばが勝手に零れ落ちた。
 一瞬だけ空気が凍り付く。え、とオレは自分が今呟いたことばに驚いて目を丸くして。
 彼もまた、同じような顔をして笑みを消し、オレを見つめ返している。
 かぁっ、と、理解した途端にオレの顔が真っ赤になった。体温が急激に上昇していく、心拍数も同じだった。もし今がもっと寒い冬だったりしたら、オレから上がる湯気が見れたかもしれない。
 とにかくそれくらい、オレは真っ赤になっていた。
「あ……あ、違う今のは、そっ、そう! アレです、農具のっ……!!」
 鍬の事だ、と言い返そうとしたオレが動転したまま両手を左右に大きく振り回す。
 彼がふっ、と優しい表情で笑った。目尻が下がる、恐らくオレが知る限りの中で、一番。
 嬉しそうで、楽しそうに、笑った。
「続けても構わないかな?」
 笑みを隠していた手を退かし、けれど鈴を転がしたような笑みを残した声で告げる。オレは反論を返すことも出来ず、なんとか縦に首を一度だけ振ることに成功した。
 彼はオレの返事を待ち、深く息を吸って、そして吐いた。真っ直ぐにオレを見つめて、笑う。
「キス、して良いかな?」
 今度こそオレの目は点になった。あんぐりと開いた口を、彼は面白そうに見つめる。
「なっ……何いきなり!」
「理由、知りたいかい?」
 面白いようにことばが繋がっていく。後から思い起こして気付いたのだけれど、彼はわざと狙ってやっていたのだろう。思えばしりとりに誘った事さえ、策略だったのかもしれない。
 けれどこの時のオレは、そんなところまで思考が廻るはずなど当然なくて、動転したまま大慌てで彼の問いかけに両手のフリ付きで首を横に何度も振り回した。
「い、良いです! 聞きたくない!」
「……嫌、かな?」
 語尾が掠れるくらいの声で叫び返すと、途端彼の声は沈み寂しそうな表情をくっつけてオレを見下ろしてくる。そういう顔は卑怯だと、言いたかったけれどことばは喉に引っ掛かったままで出てこなかった。
「なんで……そうなるんですか」
「構わない?」
「今更でしょ」
 オレの気持ちはバレバレで。
 彼の気持ちもバレバレで。
 けれど一度としてことばにした事もなかったし、されたこともなかったから。
 正直驚いた。
 でも、驚いた以上に。
 嬉しい。
「しょうがないだろう?」
 僕は臆病者なんだよ、と心臓に毛が生えてそうなくせに、そう嘯きながら笑って、オレの顔に影を落とす。
「嘘つき」
 どこがだよ、と返してオレも笑った。
 ことばはもう、それ以上続かなかった。