くらやみ、が
ひたひたと足音を立てて追いかけてくる
そこから必死に逃げようと
胸が締め付けられても走り続けているのに
やみを振り切ることができなくて
やがて足に絡みついた
まっくろい、やみが
この身体すべてを呑み込んで
心までもやみにそめあげていく
たすけて、と
叫ぶ声もやみにかき消されて
誰かの耳にもとどかずに打ちのめされる
伸ばした腕の白い指先に
見慣れたひとの顔がみえた
おねがい、この手をつかんで
懸命に声をはりあげてかれを呼ぶけれど
でもかれは気付かずに立ち去ってしまう
いいや、ちがう
かれは姿を消すその一瞬だけ
こちらを見た
やみに呑み込まれようとしているじぶんを見て
かれは、わらっていた
わらって、いたのだ
そしていしきはそこで途切れ
もうなにも、見えはしなかった
キィィ……、と。
扉が微かに軋む音ではっと目が覚めた。
どうやら机に向かったまま眠ってしまっていたらしい、椅子に座った自分の膝に立てかけていたギターが重くて片足が痺れていた。
それを机に立てかけ直し、だらしなく開いていた口から涎が垂れている事に気付き慌てて袖で拭う。それから、枕にしていた両腕の下に敷かれている五線譜やメモに使っていたレポート用紙が無事である事を薄明かりの下で確認する。
BGMで流していたリラックス効果があるCDが悪かったらしい、机の上に置かれているデジタル時計が丑三つ時を軽く経過している時間帯を指し示していた。部屋の明かりは消えているが、手元明かりは煌々と光を放っている。
白色電球が照らし出す一帯だけが熱を帯び、古い重圧感のある机に短い影を落とし込んでいる。そこに転がっているペンを拾うと、下に乱雑に重ねられている五線譜の最後の一角がやたらとミミズがのたまった後のような記号が乱立していた。
どうも、寝ながら書いていたらしい。しかしこれは書いた本人でも判読不能で破棄するしかないだろう。仕事熱心なのは良いことかも知れないが、と自分がしたことに苦笑してスマイルは片手に持ったペンをくるくると回した。
変な体勢で眠っていた所為だろう、身体の節々が痛む。右側の肩を軽く揉みほぐそうと左手を伸ばしたところで、だが彼はふとした違和感を覚えて動きを止めた。
なにか、が、変だ。
そもそも自分が目を覚ますきっかけとなったあの音は、何処から。
蝶番が軋む音だった、窓ではない。では、廊下とこの部屋を繋いでいる扉……だがこんな時間にいったい、誰が。
怪訝に想い、持ち上げていた手で顎を持つ。ぴっ、と右手で回したままだったペンがバランスを崩し勢いよく机の外へ飛び出して行った。
「あ」
短く声を上げ、彼はそれを拾おうと椅子を引いた。
闇は、色濃かった。
ス……と、その闇から伸びてきたふたつの腕が彼の喉元を、唐突に拘束したのだ。
「っ!?」
咄嗟の事に反応できず、身体を椅子から浮かせていたスマイルは反射的に自分を掴む両手を掴み返す。そして引き離そうとした。
だが上から組み伏せてくる力は思った以上に強力で強情だ。長く伸ばされた爪が皮膚に食い込み、締め付けてくるだけでない痛みに彼は喘ぐ。
口をいっぱいに開き、酸素を求めて足掻くが肺に届くのは通常の十分の一にも満たないかもしれない。苦しさに、せめて今自分を理由も告げず襲ってきた相手の顔くらい拝んでやろうと浅く腰を落としていた椅子の足を、自分から蹴り飛ばした。
がこん、とスマイルと襲撃者の間にあったバランスが崩される。
自分でしでかしたことだが、椅子が傾いたことによって強かと背を机の角にぶつけたスマイルは、また新たに発生した痛みに苦悶の表情を隠せない。けれどこれにより、若干緩んだ首もとの拘束で呼吸が楽になる。
スマイルを下にして、机の上に重なり合うようにのし掛かって来た力が再び強さを取り戻した時にはしかしもう、その存在の姿は机を照らしていた小さな明かりによって晒されたあとだった。
抵抗しようと掴みかかろうとしていたスマイルの手が、ぴたりと止まる。そして前にも後ろにも動けなくなってその場で凍り付いてしまった。
大きく見開かれた丹朱の隻眼が、目の前に居る彼を今まさにくびり殺そうとしている存在を信じられないという形相で見返しているが、首に回されている手の力はむしろ強まっていくばかりで彼を解放しようと言う気配は微塵も感じられなかった。
なぜ、とそればかりがスマイルの脳裏を過ぎり正常な思考が何処かへ飛び去ってしまった。
力を失ってぱたん、と机上に崩れた指先が冷たい闇に触れる。
「……リ……」
微かに漏れる息で、彼の名前を呼んだ。
「ユー……、リ…………?……」
ぐっ、と細く白い両腕が更に強く強く、スマイルの喉元を締め上げた。まるで呼ぶな、という意思表示のようで意識が遠退きそうになった彼は、懸命に自分を叱咤してそれを寸前で引き留める。
「……リ、…………ユー、リ……!」
途切れ途切れにならざるを得ない声で、スマイルは必死にユーリを呼んだ。吸い込む息よりも吐き出し音を載せる息の方が量は多い、眩暈がする、星が目の前に散っている。
ぱくぱくと水を失った金魚のように喘ぐが、殆ど何も吸い込めない。肺の中が空っぽになって、もう駄目か、と思った。
その途端、スマイルは抵抗するのも身体を強張らせるのもやめてしまった。
指一本として動かさない、総てを受け入れる体勢で瞼まで下ろしてしまう。
「いい、ヨ…………―リ、な……ら…………」
長く生きすぎた命でもある、それに彼に殺されるのであればそれもまた、悪くない最期だろう。
一瞬は、本当にそう思った。
けれど彼の抵抗が止むとほぼ同時に、ユーリの両手から力が急速に失われていく事を実感した次の時には。
スマイルは心の中で「ごめん!」と大声で叫びつつ思い切り、ユーリを蹴り飛ばして自身の自由を確保に走っていた。
ざざっ、とユーリは床の絨毯に滑り横倒しになる。スマイルはと言うと、蹴りを入れた反動で背を机から引き剥がすことに成功したものの、激しく咽せ返り吸気と排気が一斉に始まろうとしていることに身体が対応出来なかった。
「げほっ、げはげはっ!!」
赤く痕がついてしまっただろう喉元を片手で押さえ、もう片手は机の縁に置き身体が崩れないように支えつつスマイルは咳き込む。あまりに苦しくて涙が出てきて、背を丸めてどうにか身体を落ちつかせることを優先させていたら前方で何かが動き出す。
「…………」
最後の咳を吐き出し、顔を上げたスマイルは絨毯上で闇の中倒れているユーリを見つける。彼は起きあがろうとしているようだったが、なかなかそれが出来ないでいるらしい、小刻みに揺れる肩が重そうだ。
「ユーリ……」
倒れてしまった椅子を跨ぎ、スマイルは手元明かりが照らす空間を出て闇一面に足を踏み出した。
足裏に伝わってくる絨毯の柔らかさが、何故か今は針の山のようにいたく感じる。
ユーリの傍らに膝をつき、スマイルはまず彼の上にある埃を払うかのように手を左右に二、三度、振った。苦しげだったユーリの表情が、それで少し軽くなる。
「ユーリ」
顔を近づけ、背に手を差し込んで彼を抱き起こすと弱々しい動きで彼は身じろぎし、瞼を薄く開いた。
「…………、ル……?」
「そう、ぼく」
唇の動きで名前を呼ばれたことを確かめ、スマイルはなるべく優しい表情で頷いて返した。ホッとした顔をする、ユーリが。
「嫌な夢でも見た?」
「……鍵……閉めた、はず……」
記憶が錯乱しているらしい、彼は今自分の部屋に居るつもりで考えているような言葉にスマイルは少し考え込んでから、苦笑いを形作った。
「嘘、開いてたよ?」
「また、勝手に……開けて……」
寝間着姿のままのユーリは、自室で眠っていたのだろう。だけれど、夢を見ていたという意識は残っているらしい、とびきり嫌な夢を。
「お前が、居なくなる……ゆめ……」
「此処にいるよ、ちゃんと。見えてるでしょ?」
「お前はいつも、嘘を吐く……」
そっと彼の手を掬い上げ、スマイルは自分の頬にそれを押し当ててやった。肌を押し返す感触を確かめ、ユーリは目を細める。
「お前が居なくて、私は取り残される……お前は笑って、私の前から居なくなる……」
ユーリを取り込む闇は色濃くて、恐い。何もかもを黒く染めあげてしまう、その心さえ。
「居るでしょ、ここに」
「……ああ、そうだな」
ゆっくりと一言一句に心を込めてスマイルが言うと、自分でも莫迦らしいことを言っていると思ったらしいユーリがやや自嘲気味に笑った。そして自分で手を動かし、何度かスマイルの頬を撫でて帰っていった。
「腹、いたい……」
「ああ、それも悪い夢だと思うよ?」
今さっき自分が蹴り飛ばした事も、ユーリが夢うつつだったのを良いことに無かったことにしてしまおうとスマイルが笑う。
「朝になったらいつも通り、何も変わってない一日が待ってる。だから何も心配しなくても良いから」
けれど少し罪悪感が残るのか、スマイルは左手でユーリの腹部をそっと何度かさすってやった。足形が残っていない事だけが、幸いである。靴を履いていなかったのが良かったらしい、机の向かう時まで履いていたくないと脱ぎ捨てていたのだ。
「ほんとう、に……?」
見上げてくるユーリの瞳はまだどこか不安そうだ。けれど完全に覚醒していなかった状態での会話にも限界があって、そろそろまた眠りに落ちそうな気配にスマイルは微笑み彼の額に軽くキスを落とす。
「おやすみ、ユーリ。朝までぼくが一緒に居てあげるから」
悪い夢がこれ以上君の傍に居着いてしまわぬよう、見張って置いてあげる。耳元でそう告げると彼はくすぐったそうに肩を揺らして笑った。
「お前と居る方が、眠れなくなりそうだ」
「失礼な」
「日頃の、行い……だろ、う……」
語尾が吐息に霞み寝息に切り替わった。下ろされた瞼の下に隠れる表情は穏やかで、再び潜っていった夢の世界はどうやら闇に染まっていなかったらしい。
すっかり眠りに落ちてしまったユーリを抱え直し、少し悩んで自分が使っているベッドに彼を寝かせたスマイルはそのまま枕許に居座ることにした。
移動式のライトを持ってきて自分の手元だけを照らし、眠ってしまう前にやっていた作業中の譜面も持ち込んでベッドサイドで仕事を再開させる。
「…………」
だけれど直ぐに手は動かなくて、しばらく静かに寝息を立てているユーリの横顔ばかりを眺めていた。その表情が穏やかな事に、自分が酷く安心している。
「おやすみ、ユーリ。良い夢を」
もう一度彼の上に積もる闇を払う動作をして、今度こそようやくスマイルはベッドに凭れ掛かり仕事を始めた。
おだやかな風がふいていた
そこはとても静かだった
心安らげる、ふしぎな場所だった
かれを包み込むやみはやさしい
風が止んだ凪のうみのように
どこまでも広がるいちめんの、やみ
けれどこころはおちつく、波立たない
まもまれていると、感じる
このやみはあたたかくて、安心できる
水平線のような最果てで
だれかが手を振っているのが見えた
手を振り返して、はしりだす
かれは、ちゃんと笑ってそこにいた
いてくれた
いて、くれた
そしていしきはそこで途切れ
もうなにも、見えはしなかった