コトノハノマホウ/犬飼冥の場合

 暇、だったから。
 理由はそんなところ。退屈しのぎになる、けれど道具もなにも必要のないものをしようと考えていたら、結局そんなものしか思い浮かばなくて。
 この年になって、男ふたり向き合って真面目な顔をつき合わせながら、しりとり。
「……ストーブ」
「ブレス」
「スリランカ」
「カタルシス」
 そんなこんなで、ふたり向かい合わせで膝をつき合わせながら、互いに短い言葉を交互に言い合っている。
 いざ始めてみれば、案外難しいもので。
 しかも。
「す、す……スロベニア!」
「アンタレス」
 向こうは狙って、「す」で終わる単語ばかりを選定して来る。それもこちらが続けた直後に間髪入れずに言ってくるものだから、逆にこっちが追いつめられた気分にさせられる。
「す」のつく言葉くらい、大量にあるはずなのに。そればかりを続けられたら頭の中からどんどん、「す」のつく単語が消失して行っていってことばを返すにも、一瞬息を詰まらせてしまう事が多くなっていた。
「あんたれす……?」
「蠍座の星のひとつ。夏に見える赤い星…小学校で習わなかったか」
 返された耳慣れない単語に首を捻ると、向こうは人を小馬鹿にした顔をして鼻で笑いながら教えてくれた。そう言われてみると、確かに理科の時間に習ったような気がする、星座盤を眺めながら夜の星を観察した記憶も微かだがある。
 けれど街中で星を見る機会など乏しい事限りなく、結局星座盤を胸に夜更かしをしたのもその日だけだったはずだ。
「次」
「え?」
「アンタレスの、次。お前の番だ」
「あ、ああ……そうだっけ。す、す……何があったかなぁ」
 中断したしりとりの続きを促すこいつの視線を受け、上擦った声を零し頬を誤魔化しついでに引っ掻きながら天井を見上げる。体よくこいつから視線を逸らすきっかけを貰ったわけであり、考え込みながら心の中で溜息をそっとこぼした。
 どうして暇だったからといってしりとり、なんて始めてしまったのだろう。後悔はあとに立たないと言うが、その事を今しみじみと思う。
「す……スイング」
「グラス」
「少しは考え込めよな」
「茄子」
「はい?」
「だから、茄子。『な』で終わっただろ」
 ちょっと待て、と思った。こいつはあんな、どう考えてもしりとりの枠からはみ出している会話でさえ、ことば遊びに含ませるつもりなのだろうか。オレの言葉が、丁度あいつが出した単語の末尾に合致したからっていうだけかもしれないが…
 考えて、頭がくらっと来た。
 どこまでが冗談で、どこまでが本気かさっぱり分からない。こめかみを押さえたオレに、こいつはもう一度「茄子」と繰り返した。
「分かってるっての! 考えさせろよ…ったく」
 悪態を付き愚痴て舌を出しそっぽを向いて、オレは腕を組み抑えたままだったこめかみを爪先で数回引っ掻いた。
 茄子、と来た。だからまた「す」から始まる言葉を探さなければならない。そろそろネタ切れも近く、きっとゆとりを持って考えれば沢山思い浮かぶのだろうけれど、無言の圧力を受けている今にその余裕を持て、という方がずっと酷だ。眉間に皺を浮かべ、オレは口をへの字に曲げた。
 この世の中にある「す」で始まる単語を言い尽くした気分になってくる。
「す、す、す……ステータス」
 これならどうだ、とオレはふっと頭に浮かんだ単語を咄嗟に口に出しながら、頭と終わりが同じ単語に自信満々になって鼻から勢い良く息を吐き出した。
 しかしこいつは、涼しい顔をしてほくそ笑むだけ。
「ステンレス」
「うがー!!」
 いつまで経っても終わらない。呆気なく自信をうち砕かれたオレは、両手を突き上げて叫んでいた。
「ほら、お前の番だぜ?」
「うっさい!こんなん、もう終わりじゃ!」
 一方的に終わりを宣言し、オレは立ち上がった。ズボンの埃を叩きながら払っていると、未だ座ったままでいるこいつの顔が見えた。
 横顔だけだったけれど、とても不本意そうでつまらなさそうで、寂しげで。
 これじゃあまるで、オレが一方的に悪いみたいじゃないか。
 いや、実際オレがやろうと言い出して、オレが勝手に止めると言い張っているわけだからオレが悪いんだろうけれど、やっぱり。こいつはオレの我が侭に、付き合ってくれていただけであって。
 でも、このままじゃ。
 オレは本気でこの世から「す」の付く言葉を言い尽くして、たったひとことだけを残すだけになってしまうから。
 言えるはずがないだろう。だって、そのことばは。
「……好き」
 ぽつり、と。
 呟いて。
 瞬間、オレは慌てて両手で口を塞いだ。目を見開き、つい口に出してしまったことばに驚く。
 それはあいつも同じようで、オレよりもずっと細い目を丸くさせながら茫然とオレを見上げていた。
 視線がかち合う。
「ち、ちがっ……!」
 今のは違うから、と両手を交差させながら振り回して否定するけれど。
 立ち上がったあいつの背はオレなんかよりもずっと高くて。足も長くて。
 少しだけあった距離は、あっという間に詰められてしまう。近くなった体温から、心音が届きそうで届けられてしまいそうで、オレは動けなかった。
「続き……」
「はい?」
 声が裏返る。瞼に掛かる吐息がくすぐったい。
 オレは目を閉じた。間近に存在を感じる。
「言って良いか?」
 好き、の続き。しりとりの、つづき。
 あくまでことばあそびの一環を貫こうとするのは、彼なりの優しさと配慮なのかもしれない。けれど、分かっていながらオレは顔を真っ赤にさせて目を開くことが出来なかった。
 鼻先に当たる吐息が、笑っている。
「キス……して、良いか?」
「かっ……」
「か?」
「勝手に……しろよ」
「よーく、分かった」
 目を閉じていても、彼がとても楽しそうに笑っているのが分かる。
 だからつい、オレもふてくされながらも微笑んだ。
 柔らかいキスは、そっと、瞼に落ちて沈んだ。