真昼の月

 月が出ていた。
 真昼の月は儚く、朧気で、まるで夢の中でまどろむ淡い恋心にも似ているような気がした。だがすぐに、陰鬱な気持ちが押し寄せてきて首を横に、小さく振ると僕は視線を足元に咲く白い花に落とした。
 今日、ひとりの少女が逝った。
 たったひとりの弟と、とても大切な幼なじみを守るために。
 血のつながりや、感傷的な同情からではなく。心の底から相手を慈しみ、愛おしく思うからこそ身を挺して彼らを守り通した。
 命を棄ててまで。
 右手に残る僅かな痺れに似た痛みは、ならば彼女へのせめてもの手向けか。
 僕が彼女を、恐らく彼女が感じていた以上に大事な存在であったと知らしめる為の。
 だとするなら、僕はこの真昼の月に祈ろう。
 この想いが、誰の心にも届くことなく天に還っていくことを。

 ――――竜口の村――――
 彼らは逃げ出すことを、選んだ。
 その選択が正しかったのか誤りであったのかは、僕が判断するところではない。ただ彼らが人に告げることなく宿としていた屋敷を抜け出し、そしてもうどこにもいない彼らを捜し回る同胞が命を落とすような事になっても。決めたのは彼で、悔やむのも彼だ。
 ただ、もし罪が彼らにあるのだとしたら、自分にもその一端はあるのだろうとは、感じている。
 かつて赤月帝国と呼ばれていた国を打ち倒し、新しい秩序をトラン湖の周辺にもたらしたとされる僕は、自分で名乗ったつもりはないにせよ英雄と呼ばれる人間であったから。
 その英雄が、新たな英雄の逃亡を手助けしたのだから。事に真実を知った人々は、恐らく一様に僕を責め、非難し、彼らを侮辱するだろう。
 だがそれは間違いなのだ。
 彼は英雄なのではない。そして僕も、そんなものになったつもりはないし、なるつもりもない。
 英雄なんてものは、人々が困窮の中で見出した一筋の光りに縋るために創り出された哀れな幻想の残滓。期待と羨望の全てを望まないままに背負わされ、もし革命に失敗したときはその偶像にあらゆる罪と犠牲を強いることを求められる、犠牲者。
 なんて身勝手な人々。己の力のなさを棚に上げ、一部の力あるものに縋るしかない無能者達。権力に支配されることを嫌いながら、結局強いものに従うことに慣れてしまい自分自身で動くことを辞めてしまった愚か者達よ。
 お前達のその傲慢な願いが、どれほどの犠牲を生み出しているのかを知っているか?
「なにを考えている……?」
 逃亡の果てにたどり着いた竜口の村で、ぼんやりと空を見上げていた僕にルックが疲れた顔で尋ねてきた。
「さあ、僕にもよく分からないよ」
 曖昧な答を口にし、僕はルックに肩をすくめてみせる。戯けたように他人の目には映るかもしれないその行動は、だが同じ真の紋章を所有し、同じ目的のために力を合わせたこともあるかつての仲間には通用しなかった。
「紋章を持つ人間は、望む望まないに関わらず民衆に求められる。それは身を以て知ったのではなかったのかい?」
「……相変わらず……」
 歯に衣を着せぬ物言いに苦笑し、僕は首を振った。
「セレンは?」
「眠ったままさ。ナナミも、眠った」
「そうか……」
 あの姉弟を助けてやりたい。そう思ったからこそ、僕はここにいるのだ。昔の自分を彷彿させる、身を削って人々を救おうとしているセレンを。そして彼を守るために泣くこともせず気丈に振る舞っているナナミを。
 月が見える。薄い雲をかぶった朧月夜に僕はルックと共に並んで空を見上げている。
「座れば?」
「いや、いい」
 苦笑いを浮かべて傍らに立ち、小屋の壁に背を預けるルックから視線を外す。
「このままで済むと思っているのか?」
 ぽつりと、ルックが呟く。静かに僕は首を振った。
 おそらくラストエデン軍はセレンを逃しはしまい。彼はもはや名実共に新同盟軍のリーダーであり、旗であるのだ。敵であるハイランドの皇王がジョウイという、セレンの所有する輝く盾の紋章と対に当たる紋章を所持している限り、ふたりが対立することは避けられないものでもある。
 惹きあいながらも、対立することを余儀なくさせる紋章の名は、始まりの紋章。厄介なものを身に宿したものだと、事を知ったとき僕は思った。
 だが彼らが力を求めたのも、この時勢では仕方のないことだった。
「望んでいた力を手に入れながら、真に欲していたものを手放さなければならない力。どこまで、真の紋章は人の運命をねじ曲げれば気が済むのか……」
「そんなもの、無いに決まっているだろう」
 ルックが即答で僕の疑問を切り捨て、組んでいた腕を解いて僕を見下ろす。
「紋章にあるのは、己の持つ力を最大限に発揮したいという強欲だけだ。紋章の器に自己主張させてくれるほど、こいつらは懐が寛くないのさ」
 指で右手の甲をはじき、ルックが自嘲げにこぼす。僕は同じように、自分の右手に宿るソウルイーターを手袋越しに眺めた。
 親友テッドの命を、最愛の父を、尊敬する女性を、かけがえのない家族を奪い、僕から平穏を奪い去った憎き紋章。だがこの力が赤月帝国の暴挙から民衆を救い出したこともまた、変えようのない事実。
 栄光と破滅を同時にもたらすもの、それが27の真の紋章なのだろう。
「シュウは、セスを見逃してやるほど優しい性格をしていない」
 きっと明日にでも、彼は部下を引き連れてこの村にやってくるだろう。聞いた話だが、シュウを戦いに引き込んだのは他でもないセレンだ。ならば彼を戦いに巻き込んでおきながら、ひとりで逃げようとしたセレンをシュウは許しはしないだろう。
 そういう性格をしている、あの男は。
 そしてひとたび生じた疑心は後々まで残るだろう。
 仲間を捨て、逃げ出した指導者を一体誰が信じることが出来るのか。
「この選択は間違いであったと?」
「そうとは言っていない」
 間違いだと思うのならば、ここまで付き合っていないと言外にルックは告げ、髪を掻き上げる。
 冷たい夜風が吹いた。雲が流れ、月が隠される。闇が押し寄せてきて視界が一気に狭まった。
「君も……」
 ぽつりと、ルックが呟いた。
「逃げ出したかったのか?」
 いつ、どこで。そういった余計な事を語らなくても、ルックの言葉の意味を僕は正確に読みとっていた。解放戦争の最中で、グレミオを失い、父・テオを自らの手にかけて。それでも戦い続けなくてはならなかった僕のことを彼は言いたいのだろう。
 しばらくの沈黙。
「もう、忘れたよ」
 月日は流れた。時間だけが無為に過ぎる中で、記憶も靄がかかった深い森の置くに消えていく。忘れ得ぬ戦いであったことにかわりはないが、だからといって当時の一言一句を正しく覚えていられるほど、僕の記憶力は優れていない。
 逃げ出したいと思ったことはあった。
 だが、出来なかった。
 求められることで自分の存在意義を見出そうとしていた。必要とされているから、他に行く当てもないから。そして、逃げ出した後で人々にどう噂されるかが恐かった。
 体裁も気にしていただろう。僕は誇り高きテオ・マクドゥールの息子である。その隠しようのない現実を汚し、己の信念を貫いて死んでいった父を侮辱するような真似も出来なかった。
 弱虫。
「愚かなのは僕の方か……」
 何気なく口からこぼれ落ちた言葉に、ルックが訝しげな表情を作る。なんでもないよ、と首を振って僕は小さくため息をついた。
「逃げ出したかったかもしれない。けれど僕は戦い抜いて、バルバロッサを倒した。……いや、ちがうか。僕は逃げていたんだね、やっぱり」
「…………」
 僅かに首を傾げていたルックも、しばらく考え込む素振りの後ひとつだけ頷いた。
「まだ恐いか?」
「おそろしいよ、当然だろう?」
 右手に左手を重ね合わせ、抑え込むように強く握り込めば微かな痛みが手袋の奥に響く。
 本当は来たくなかった。戦乱が花咲く大地こそ、ソウルイーターがもっとも喜び、力を増進させる場所なのだから。故にわざと、バナーの村で時間を潰して戦いが一段落着くのを待っていたというのに。
「言い訳にしか聞こえないだろうけれど」
「まったくね」
 相槌を期待していたわけではないのだが、ルックからは冷ややかながらも合いの手が返ってきて僕を苦笑させる。
「レパント達はまだ、君を大統領にしたいみたいだけど……」
「僕には似合わないよ」
 それに、老いることも死ぬこともない大統領なんて、今は良くてもいつか人々から不審を買う。権力は中央の頂点に集中し、そこからまた新たな歪みが生まれることだろう。そして権力に庇護された人々は、その事実にも気付かない。
「ハルモニア……か」
 思い当たる国家の名を呟き、ルックはやれやれといった表情で肩をすぼめた。そういえば彼はハルモニアの出身だったか。
「…………さて」
 組んでいた腕をほどき、ルックは壁から離れた。
「僕はもう寝るけど」
 どうする? と続けられ、僕は首を振った。
「もう少し、月を見ているよ」
「そう。まあ、程々にね」
「おやすみ」
 見送りの言葉を口にすると、すでに僕に背を向けていた彼が左手をひらひらと振った。愛想はないが、ちょっとした心配りが出来るところは、変わっていない。表情が少しばかり昔よりも軟らかくなったのは、きっと気のせいではないだろう。
 彼もまた、セレンを守りたいと思っている。
 だが現実は容赦なくセレンを責め立てる。
 紋章は所有者を守ろうとして力を行使する。だが、セレンの輝く盾の紋章は真の紋章の片割れでしかない。無限にあるとされる真の紋章の力を使うことが出来ないのだ。だから、紋章は守るべき所有者の命を代償に、力を使う。
 セレンが倒れたのは、これが初めてではない。身体は丈夫であったはずの彼が度々倒れるような事になれば、新同盟軍の基盤は揺るぎかねない。同盟軍がひとつにまとまっているのは、間にセレンという存在が立っているからだ。彼がいなくなれば、ラストエデン軍は瓦解するだろう。
 やはり見逃してはもらえないだろうな、と思う。
 もっと早い時期だったなら――ラストエデン軍がここまで大きな存在となる前であればあるいは、セレンとナナミのささやかな願いは達成されたかもしれないが。
 もう、無理だ。
 ため息がこぼれる。見上げた月は冴え冴えとした光で地上を濡らしている。
 戦いたくない。
 争って欲しくない。
 どうして自分が戦わなければいけないのか?
 どうして、自分だったのか?
 巡り続ける疑問に答は見えない。
 セレンは、普通の少年だ。自分のように、幼い頃から、いつの日か人の上に立つことを求められてそういう教育をされてきたわけではない。後ろ盾もなく、保障もなく。ただ逃れてやって来た地で、逃れきれないと悟ったから意を決し戦っただけだったのに。
 一度狂いだした運命はもう止まらない。
 止められない。
 何故、彼だったのか。何故彼でなければならなかったのか。
 養父の存在か? 真の紋章に選ばれた所為か? 親友がハイランドの将校として敵対するようになったからか?
 違うだろう。そんなもの、どこにも関係していない。セレンが求めていたのは、親友と義姉と平和に、幼かった頃のように肩を寄せ合ってささやかな幸せを分け合える日々だったはずだ。
 戦乱と血に染まった大地で、旗となって立つことではなかったのだろう?
 英雄だなんて。
 なんて空々しい言葉。
「ラスティスさん……?」
 物思いに耽ったまま壁に寄りかかっていた僕を呼ぶ声がして、予想もしていなかった彼女の登場に僕は正直面食らった。
「ナナミ、ちゃん……」
 薄い毛布を肩に掛け、少しだけ寝癖のついた頭でぼんやりと立っている。確か彼女はもう眠ったはずで、だからこそこれは幻か、と一瞬思ってしまった。
「どうしたの?」
「あ、なんか……目が覚めちゃって」
 神経が高ぶっている所為か、ちょっとした物音で目が覚めてしまったらしい。先程ルックが小屋の中に入っていったから、その時の音だろう。だとしたら今、ルックは非常に不本意な顔でセレンの鼻でもつまんでいるはずだ。
「なに、してたんですか?」
 予告無く僕の横に腰を下ろし、彼女は小声で尋ねてきた。毛布を抱き寄せてすっぽりと身を包み、膝を抱き寄せて顔だけを僕に向けている。
「特には、なにも。考え事、かな」
 後は月を見ていたぐらいか。正直に答えると、ナナミは「ふぅん」とこぼして空を見上げた。
「綺麗ですね」
 朧気に闇空に浮かぶ月を見つめ、素直な感想を彼女は口にする。
「月なんて、最近見上げたこと、なかったな……」
「大変だったからね」
「そう、ですね」
 望まざる戦い。だが、やらなければいけない戦い。
 もうこれは自分たちだけの戦いではないのだ。デュナン湖を囲む大地に住む人々全ての運命を賭けた争乱。
「どうして、セスが戦わなくちゃいけないのかな……」
 膝に顔を埋めて彼女が呟く。ほとんど声にもならないささやきだったのだが、この静かすぎる夜の空気は僕の耳に彼女の嘆きを伝えた。それはずっと、僕が抱えてきた疑問でもある。
「どうして、かなんてもう、誰にも分からないのかもしれない」
 答になっていないかもしれないけれど、僕は片膝を抱き寄せて言う。
「決めるのは本人で、本人の考えなんていくら側にいた人でも理解できないものなんだよ、きっと。どれほど相手を思いやっていても、人は他人にはなれないのだから」
 苦しみを共有する事なんて、詭弁でしかないのだ。表情の変わらない淡々とした口調で告げると、ナナミは一瞬呆気にとられた顔をして、それから哀しげに瞳を伏せる。
「ラスティスさんって、冷たいんですね」
「そうかもしれないね」
 他人の本意を知ることは難しい。ほとんど不可能と思っても良いだろう。勝手に想像に、思い描いた虚像を押しつけられるのは迷惑極まりない。
 だが。
「相手をどこまでも知りたい、理解したいと思ってくれる人がいる人は、幸せなんだよ」
 セレンにとってのナナミのように。
「君はセレンを信じてあげて」
 どんなに辛いことがあっても、どんなに苦しいことがあっても、たったひとりだけで良い。自分をどこまでも信じ続けてくれる人がいれば、苦難を乗り越えて生きて行けるのだから。
「ラスティスさんにもいるんですか、そんな人……」
「いたよ」
 にこりと微笑むと、つられて彼女も笑顔を作る。僕の言葉の置くに隠された深い意味を知ることなく。その問いがいかに残酷に僕の心に爪痕を残しているかにも気付かないで。
「あたしは……セレンを信じてます。あの子が頑張っているなら、あたしは応援してあげなくちゃいけないんです」
 姉として。友として。母親として。家族として。
「あたしは、セスの逃げ場所になってあげたかった。あの子が戦ってばかりで、戦っていくことばかりを周りの人達から求められても、あたしだけはセスに『戦わなくても良いんだよ?』って言ってあげたかったんです」
 辛い? 辛かったら言ってね? お姉ちゃんがなんとかしてあげるから。お姉ちゃんに任せておいたら、全然オッケーなんだから!
 だけど、もうナナミの声はセレンにも届かない。ナナミの声は周りの大人達にかき消されてしまって、セレンをひとりぼっちにしてしまう。
 こんなに近くにいるのに、こんなにも遠い。
「あたしの我が儘なんです。あたしはもう、セスが苦しんでいるところを見たくなかった!」
 両手で顔を覆い、ナナミは肩を震わせる。
 元気いっぱいでいつも明るく、落ち込むこともなくて悩みなんてないように映る彼女の姿が、けれど全部が強がりで固めたものだということを、みんなは知っているだろうか。
 彼女の本当の姿を、一体どれだけの人間が気付いているのだろうか。
 泣きたくても泣けないナナミ。泣いたら、セレンに心配を掛けてしまうから。セレンを守るために彼女は、自分の心さえも押し殺してきた。
 大丈夫、絶対なんとかなるから!
 ――なんとかなるよね? また一緒にみんなで楽しく過ごせる日が来るよね?
 お姉ちゃんに任せなさい! 
 ――セスは忙しいんだから、ちょっとは負担を軽くしてあげないとね。
 頑張ろうね?
 ――ここであたしが頑張らなくちゃ、セスに迷惑かかっちゃうよね。
 頑張ってね。行ってらっしゃい。
 ――あたし、セスの力になれないのかな。
 ――なんでセスなの!? 他にもっと、リーダーに相応しい人がいっぱいいるじゃない!
 ――セスをこれ以上苦しめないでよ。セス、お願いだよ、もうやめよ? 
 ――セス、何とか言ってよ。あたしだけなの? こんなに不安になるのって。
 ――苦しいよ、セス。哀しいよ、痛いよ。どうして……セス、ねえ、本当に貴方はあたしの弟のセス?
 ――帰りたいよ、キャロに帰りたい……
 言えなかった言葉たち。告げられることなく消えていった言葉たち。
 一体誰が知っているのか。彼女は泣かないのではない、泣けないのだと。
 こんなにも傷ついている。こんなにも悲しんでいる。こんなにも苦しんでいる。だけど皆の意識はセレンにばかり向いていて、誰ひとりとして彼女を見ようとはしないから。
 彼女は尚更、泣けなくなる。
 泣いて、セレンに向いている視線が自分に向くことを恐れている。セレンの邪魔になることを恐怖している。おそらく、セレン自身でも気付いていないであろう、それがナナミの本心。
 たったひとりでいい。自分を理解してくれる人は。
 ならば、僕は。
 そっと手を伸ばし、濃緑色のマントの裾を掴んで僕は彼女の肩に、触れた。
 びくり、と逃げ出そうとする彼女を力で抑え込み、自分の方に引き寄せる。ささやかな抵抗はすぐに消え、彼女の頭が僕の胸にすっぽりと収まる。
 彼女は、こんなにも小さい。
 気丈に振る舞っているとはいえ、所詮は16歳の少女でしかない。セレンがリーダーとなるべくして育てられたのではないように、彼女もまた、リーダーの姉として生まれてきたのではない。
「泣けばいい」
 低く囁けば彼女からは小さな嗚咽がこぼれ落ちる。
「我慢しなくていい。君は、泣いても良いんだ」
 そんな言葉が免罪符になるとは到底思えないけれど。彼女が背負ったものが少しでも軽くなるのであれば、それでいい。グレミオだったなら、もっと気の利いた言葉を口にしていたかもしれないけれど、生憎と僕は口べたな方だから。
 でも、伝わったのだろう。
 決して大声を上げるのではなく、押し殺すような声で。ただ止めどなく流れる涙が大地を濡らしていく。握りしめられたマントが苦しくなかったというのは嘘だけれど、彼女の受けてきた辛さを思うと手を出すこともできない。
 抱きしめるような、そんな安易な行動を取っても、きっと彼女は喜ばない。
 だから、好きなようにさせておいた。
 泣きたいだけ泣けばいい。気が済むまで、泣くといい。その場所を提供することくらいが、僕に出来るささやかな事だろうから――――

 その彼女が、逝った。
 ロックアックスで。
 一瞬だった。
 たったひとりの弟と、とても大切な幼なじみを守るために。
 血のつながりや、感傷的な同情からではなく。心の底から相手を慈しみ、愛おしく思うからこそ身を挺して彼らを守り通した。
 命を棄ててまで。
 そのまでしてでも守りたかったもの、彼女にとって何よりも最優先されるべきこと。それが、あのふたりを助けること。
 一緒に生きるのではなかったのか?
 帰るのでは無かったのか?
 あの、君が帰りたいと切望した故郷へ、三人揃って帰るのではなかったのか?
 握りしめた拳が震えている。
「ラス?」
 傍らのルックに怪訝な顔をされても、僕は気にしなかった。
 僕は、泣いていたんだ。
 救いになったのだろうか? 僕は彼女の救いになれたのだろうか?
 右手に感じた痺れに似た痛みは、今も僕の心を締め付けている。人の死を感じ取る、呪われし死の紋章ソウルイーターよ。
 爾は我のもっとも愛しく大切な者達の魂を掠め取りしもの。ならば、問う。この痛みは如何なる所存の故か。
 答は出ない。

 ああ、月が見える
 真昼の月が見える
 白い光りに包まれし、それは儚い泡沫の夢の名残
 君は知らない
 僕がどれほどに、君を大切に思っていたのかを
 君は知らない
 僕がどうして、君の側にいたのかも
 君は知らない
 何故、ソウルイーターの中で眠っているのかも
 知らなくてもいい
 僕がそっと呟いた言葉の意味を

 ――――手に入れた――――