ソノセナカ、キミノホコリ

 六回表、ツーアウト。ランナー一、三塁。次の打者は、相手校一のスラッガー。
 通算ホームラン数を伸ばし続けている選手が、ネクストバッターズサークル内でぶんぶん、とバッドを唸らせながら素振りをしている。恐らく県下一、二を争うだろうホームラン打者を次に控え、グラウンドは痛いくらいの沈黙に包まれていた。
 土が他よりも少し高く盛られたピッチャーズマウンド上に立つエースが、肩で荒く息をしながら利き腕の甲で額の汗を拭った。帽子の鍔を掴み、左右に揺らして被り直しながら唾を飲み込んだのか、一度頷くように視線を落とし、それからまたもとの高さに戻す。
 最初の印象は、嫌な奴、だった。
 クスクス笑う声も、仕草も、いちいち気に障る物言いとしゃべり方と、人を見下したような考え方。そういうものが全部揃いも揃っていて、嫌いだった。
 あのスパスパカーブに、みんな手を焼かされた。なんとしてもレギュラー陣に勝たなければならなかった、ゴールデンウィーク中の強化合宿の試合。遅れて出てきたエースは十二支高校のエース番号を背負うだけあって、一年軍をまるで赤子をあしらうかのように打ちとっていった。
 あのカーブは、バッターボックスに立つ打者にとっては脅威だ。
 だからグラウンドに散って、サードベース上から見つめたエースの背中は、とても大きかった。
 敵に回せば厄介な相手は、つまり味方であればこれほど頼もしいものはないと言い切れる。背はあまり大きい人ではないけれど、マウンドに立つ彼はとても大きく見えた。
 絶対の自信に溢れて、一人としてランナーを出すものかという闘志を滾らせながら、一球に全力を込めて投げる。それがエースとしての役目だと言い切り、自分に負けは許さないとどこまでも頑固。
 壁のように、後ろに硬球を飛ばすなんて認めないと立ちはだかって。
 その何よりも巨大に見えた壁が、今はヒビだらけに見える。
 荒い呼吸が止まらない彼の背中が、本当の背丈よりもずっと小さく瞳に映る。
 余裕の笑みを浮かべた三塁走者が、退屈そうにベースを爪先で蹴った。つい、むっとなって走者を睨み返すがそう言うことには慣れているらしい彼は、不敵に笑っただけだった。
 オレはもう一度、マウンドを見つめた。
 苛ついたように彼は何度も、マウンドの土を蹴り飛ばす。白いプレートに薄く積もった土をスパイクが横に広げ、表面を削るように何度も行き来を繰り返す。
 ちらりと三塁側ベンチを見やった。自軍ベンチの中心にどっかりと腰を据えている髭面の監督は、腕組みをしたまま動こうとしない。後方ではおろおろと、不安そうな顔をするマネージャーが並んでいた。
 他の選手も何人かは座って見ていられず、立ち上がってベンチ前に陣取っていた。難しい顔で座ったまま事の成り行きを見守る選手も、幾人か見受けられる。
 また、ベンチの向こう側では控え投手が、控えキャッチャーを相手に軽い投球練習を始めていた。それは四回の時点から続いていた事だから、今更なにかを思うものでもないはずだった。しかし今マウンド上に居る彼にとっては、こうしている間も断続的に聞こえてくるキャッチャーミットが、ボールを受ける乾いた音もプレッシャーになっていることだろう。
 監督が今立ち上がれば、どうなるか。
 まだ試合慣れしていないオレにだって、それくらい分かる。
 オレの顎を汗が伝い落ちていった。けれどオレ以上に、マウンドでの孤独に耐えている彼はもっと辛い汗を流しているだろう。
 僅か一分にも満たない時間が、恐ろしく長い時間に感じられる。オレは汗を拭い、空を見上げた。
 嫌味なくらいに雲ひとつない、澄み渡る青空。気温は上昇を続け、湿度もそこそこに。日を遮るもののないグラウンドで、照りつける太陽の眩しさはかなりきつい。
 彼がまた、マウンドを蹴った。キャッチャーマスクを被っている巨漢の先輩が、上半身を浮かせて腰を捻り、主審へなにやら告げた。同時に主審が両手を左右に広げながら頭上に持ち上げる。
 ふーっと、張り詰めた空気が一瞬にして溶けていった。タイムがかかったのだ。
 即座に内野陣は守備位置を離れてマウンドに駆け寄っていく。外野の選手はその場を動かず、静かに動向を見守るだけ。
 マスクを外した三象が、マウンド上で俯いている鹿目を心配そうに見下ろす。その少し離れた場所で、内野のオレを含めた四選手が彼らを囲むように停止した。
「タイムなんか必要ないのだ!」
 焦りを思わせる、苛立った声で鹿目が叫ぶ。
「お前らもさっさとポジションに戻るのだ。あんな奴、僕があっという間に三振で終わらせてみせるのだ」
 ぱしん、と握った拳でグローブを殴った鹿目の声を鵜呑みに出来る人間は、この場にひとりとして存在していない。誰もその場から動かず、沈黙を保ったままだ。それが余計に彼を苛立たせているようで、奥歯を噛みしめながら彼は大きな目で強く三象を睨みつける。
 乱暴に、足許をスパイクで穿った。
「早く持ち場に帰るのだ!」
 駄々を捏ねる子供のように、叫ぶ。
 オレの知っている、誰よりも不遜で自信にあふれていて、その自信を裏打ちする実力を発揮して、この人が味方で良かったと心底思わせてくれた姿からは、程遠い。
 へっ、と笑ってしまった。
 この人は、今、とても小さい。
 オレが笑った事に気付いた彼が、矛先を変えてオレを睨んだ。
「なにがおかしいのだ」
 強気の口調は、今の自分に自信が無い裏返しだ。自分の思い通りにならない事が続くと、彼は地団駄を踏んで悔しがり、苛立ってコントロールを乱し投球に精細さを欠く。それはあのレギュラーを巡っての試合でも既に明らかだ。
 だから今は、彼を落ち着けさせなければならない。平常心を取り戻させて、開き直らせて、本当の強気で打者に向き合う勇気を持たせてやらなければならない。そして今までその役目をになってきた牛尾は、今外野から動こうとしない。
 静かに、見守っているだけ。
 オレは深呼吸をした。長く息を吸って、吐く。
「おかしいっスよ、全部。だって、アンタ今、すっげー格好悪いし」
 少なくとも、オレが知っている十二支のエースの姿ではない。
「なぁ、オレってば素人だからよく分かんなくって、出来れば教えて欲しいんだけど。野球って、ひとりでするもんなのか?」
 マウンド上で独り舞台を演じる、抜け殻のエース。
 同意を求めるように直ぐ近くに立っていた蛇神を振り返ると、彼はまさか自分に話が振られるとは思っていなかったようで驚いた顔をしたが、じきに気が付いて黙ったまま頷いた。
 ぎり、と鹿目が奥歯を軋ませる。
「確かにさー、……オレの守備には不安があるかもしんねーけど。でも、少なくともセカンドとショートは絶壁だろ?」
 後ろに飛ばされても、守備の要がしっかりと目を光らせてくれている。蛇神から視線を流すと、その先に居た司馬がやはり黙ったまま力強く頷いた。
「だNa」
 頭の後ろで手を組んだ虎鉄が笑いながら言う。その上ウィンクまでされて、オレは苦笑するしかなかった。
 改めて鹿目に視線を戻し、背後にそそり立つ三象にも笑いかけて肩を竦め、ふっとライトを見る。
 キャプテンは、ライトの定位置より少し深めで守っていた。そこから動く気配は、まったく感じられない。
 信用されているのだろう、オレも、エースも、みんなも。
 このチームだったら絶対に負けないと、それが彼の口癖になりつつあるくらいだ。そしてオレはその言葉が決して嘘では無いことを、知っている。
「もうちっと、後ろを信頼してくれよな。アンタが打たれても、オレ達がしっかり守るから」
 点差は、僅かに一。十二支のリード、この回が終われば裏の攻撃は、三番から始まる。相手チームを引き離すには、うってつけの打順だ。
 だからこそ尚更、ここで追いつかれるわけにはいかない。追い越される事など以ての外だ。
 それがプレッシャーになる。
「オレさ、ほっぺ先輩の事結構嫌いだったんだぜ?」
 いつも偉そうだし、カーブはよく切れて全然打てないし。嫌味多いし、辛口だし。
 でも。
「エースなんだろ、アンタ」
 今は、嫌いじゃない。
 割と物知り。釣りは巧い。ピッチャーとしての技量は十二支のエースとして申し分なく、頼りになる。安心して、背中を見つめていられる。
 この人が投げ続ける限り、オレ達に負けはないと、そう思える。敵チームには大きな壁となって聳える彼の姿を、見つめるのが好きだ。あのカーブが綺麗に決まって、キャッチャーミットに収まる時のあの音が好きだ。
 ……自分が空振りさせられた時以外は。
「心配すんな、オレはぜってーあいつよりも凄いホームランが打てる」
 ネクストバッターズサークルで待ちかまえる、やたらとごつい体つきの選手を見やってオレは笑った。
「そのオレから三振とったんだろ、先輩はさ。だったら、大丈夫だ」
 根拠にもならないかもしれないが。オレみたいな打ち方をしてくる奴なんて他に居ないだろうし、だからあのカーブを打ち崩すのは、易しくない。
 大丈夫。自分に言い聞かせるみたいに呟く。
 聞くだけ聞いていた鹿目が、ムッとしたまま、けれど口元を不遜に綻ばせた。
 笑う。
「まったく、お前はどこまでもバカなのだ」
 三象から受け取ったボールを右手に持ち、回転を持たせながら頭上に放り投げる。ぱしん、と軽い音を立ててそれは滑らかな動きをした左手のグラブに綺麗に収まった。
「お前に言われるまでもなく、僕は十二支のエースなのだ」
 あいつらごときに、うち負かされるようなやわな投手とは違う、と。
 胸を張って尊大に言い放つ。
 蛇神が呆れたように、安堵したように息を吐いた。黙って固唾を呑んでいたベンチ前の選手達からも、ホッとした空気が流れ出す。
 投球練習を続けていた犬飼だけが、悔しそうにチッと舌打ちをしていた。
 バカと言われてカチンとは来たが、今ここで口に出せば余計な喧嘩に発展しそうな事は楽に想像が出来る。そうなったら試合中断が長引くだけで、だからオレはぐっと堪えて震える拳を背中に隠した。
 勿論、抜け目ない鹿目にはモロバレだっただろうけれど。
 くすっ、と楽しげに彼は笑ってオレを見上げた。
「僕の本気を見せてやるのだ」
「ったり前だ!」
 あんな奴、三球三振にしてやると意気込む。
 正直、この人はオレよりもかなり小さい。でも、こうやってマウンドに立った時オレなんかよりもずっと、大きく感じる。
 その空気が、オレは好きだ。
 オレも負けていられないと思う。その背中に少しでも近づきたいと思う。
「お前達、いい加減ポジションに戻るのだ。この試合、完封でさっさと終わらせてやるのだ!」
 相手チームのベンチにまで聞こえる大声で叫び、彼は両手を振って守備位置へ戻るように命令する。オレは苦笑いを浮かべて三塁へ戻り、くるりと踵を軸にして身体を回転させてマウンドを向いた。
 その途中で、ライトを守っているキャプテンが見えた。彼もまた、笑っていた。
「しまっていこー!」
 グラブに手を叩きつけてオレが叫ぶ。呼応するように声があちこちから上がった。
 主審の右手が上げられ、試合再開が告げられる。
 マウンド上の小さな巨人は、大きなモーションで振りかぶった。

02年9月24日脱稿