存在理由の隣側

 手の震えが止まらなかった。
 自分の存在する意味が分からなくて、何度も悩んで躓いて、泣いた。怖くて、必死で、足掻いて、何度も叫ぼうとした。
 助けて、と。
 でもそれは自分が許さない。それは自分の卑小さを回りに示すことであり、そんな事をしてしまったらみんなはきっとこの僕を嫌いになる。
 みんなの隣に、傍に、近くに居られなくなる。
 だから気付かれちゃいけない。この腕の震えも、心の恐怖も、逃げ出したいと思っている弱い自分自身も。
 みんなと一緒に居たいから。
 この場所で野球を続けたいから。
 彼らとこの先も白球を追い続けていたいから。
 君を見守っていたいから。
 でも、この想いはもしかしたら傲慢だったのかもしれないと今なら思う。
 あの時僕を支えてくれたのはみんなで、なによりも君で、君はもう僕が手を差し伸べなければならない人ではなくなっていたから。
 見守る、なんていうのはもう当てはまらなくなっていた。むしろ僕の方が見守られていたのかも知れない。
 僕の背中を君が守ってくれているのだと思えば良かったのだろう。僕は、君の前を守っているという発想ではなくて。
『お前が必要だって言ってんだろ!!』
 そう言って肩を叩いた君。
 そのことばがどれだけ嬉しかったか、君は知っているだろうか。
 僕はずっと、誰かに必要として貰いたかった。レギュラーを取ったこともなくて、いつもベンチから声を張り上げるだけだった僕は、本当にこの場所に必要とされているのかと不安を抱えていた。
 僕は要らない人間なのかもしれないと、そう思うことさえあった。
 だから、必死に練習した。誰も見ていないところで、誰も認めてくれないかもしれないと知っていながら、いつかは誰かが僕を欲してくれるんじゃないだろうかと淡い期待を抱いて。
 僕にはそれしかなかったから。
 僕はそうすることしか出来なかったから。
 だからどれだけ嬉しかっただろう。君の声がグラウンドに戻る僕の耳に響いた瞬間、必要だと言われた瞬間。期待していると言ってもらえた瞬間。
 君のことばひとつひとつを、僕は覚えている。君がぼくに言ってくれた、励ましてくれた数多くの言葉を僕はこの先ずっと忘れないだろう。
 願えば、願い続ければいつか夢は叶う。
 必ず。
 その事を教えてくれたのは君だから、君が身をもってそれを証明してくれた。これほどの心強さを感じた事は無かった、そして恐らくこれからも無いだろう。
 君の存在の強さを感じた。その大きさを感じた、僕の中にある君という存在の強さを知った。
 君が居てくれて良かったと思う。君が居なかったなら、きっと僕はこの場所に居られなかっただろうから。
 あの時。
 僕を必要だと言って背中を叩いてくれた君の暖かさを感じた瞬間に、立っているのがやっとだったはずの身体の震えが驚くくらいに綺麗に消え去っていた。心の中にあった悲しみや、不安や、焦燥や、絶望感と言った、とにかくそういった負の要素が一気に消え失せていくのが自分でも分かった。
 心が軽くなっていく。ただ君にことばをかけられ、肩を叩かれただけだと言うのに。
 外野に走りながら、君に触れられた場所にグローブ越しだったけれど手で触れてみた。そこだけカイロでも仕込んでいるのかと思うほどに、暖かさが残っていた。
 勝負が終わった瞬間。
 君が五角形のホームベースに倒れ込んでそのまま気を失っている姿を観て、慌てて駆け寄った。とても幸せそうな顔をして、君は大地に横たわっていた。
 僕が居たから勝てた、だなんてそれは言い過ぎだと思う。勝てたのは、きっと君が居たから。僕なんて、何もしていない。何も出来なかったじゃないか、結局は。
 少しでもみんなと一緒に居たかったから、必死になってなりふり構わずにボールを握って追い掛けて、走って投げて守って打って。
 それもこれも全部、君まで繋げば奇跡が起こると思ったからだ。
 君は確かに野球に関してはずぶの素人で、だけどだからこそ、僕たちのような幼少時期から野球にどっぷりと浸かった人間には想像出来ないような事をしでかす。僕たちの中に当たり前として出来上がってしまっていた常識という殻を、力業でねじ伏せて破ってしまう。
 君と一緒だったなら、何だって出来るような気がする。
 僕はこの場所に居たい、この高校で最後まで野球を続けたい。君と一緒に。
 君の起こす破天荒な奇跡を、一番近い場所で見続けたい。僕は、君が居なければ今日のこの段階で既に、野球部には居られなかった。あの入部試験の時点で、僕は野球部のユニフォームに袖を通すことなくグラウンドを去らなければならなかったはずだ。
 君が居てくれて良かったと、心から思う。口に出して言えば君はきっと、照れて恥ずかしそうに、それで居て当然と言わんばかりに嬉しそうにしながら鼻の頭を掻いて笑うだろう。
 君は優しいから、そんな事はない、などと言って。
『オレだって、お前が居てくれて良かったと思ってるぜ?』
 そう言ってくれると思っている僕は、思い上がりすぎなのだろうか。
「なーにニヤニヤしてんだよ、ネヅッチュー!」
 ばんっ、と背中を強く叩かれる。
 僕を現実に引き戻す声は威勢が良く、澄み渡る空にどこまでも広がる明るく元気だ。遠くからでも君の声だと直ぐに分かる、特徴的な呼び声に苦笑って僕は頬を掻く。
「そんなににやにやしてたっすか?」
「おう、そりゃーもう、ばっちり」
 いやらしいことでも考えてたのか? と肩を抱いて声を潜めて囁き尋ねてくる君に、そんな破廉恥な事出来るはずがないと真面目な台詞を返す。すると君はつまらなそうに唇を尖らせて僕から離れたけれど、二歩以上の距離は広がらずに並んで歩くことになる。
 自分勝手で巫山戯てばかりで、冗談きついし言っていることが時々はちゃめちゃになったりもするけれど。
 でも君は、自分の言ったことは必ず守って、実行して。約束は守り果たしてくれる、誰よりも男らしくて格好良くて、とても優しい人。
 君が好きです。世界中に沢山の人間が溢れるくらいに居る中でも、スクランブル交差点で百人単位の人が行き交う中でだって、君だけを見分けられるくらいに。
 君が、好きです。
 君と一緒に、居たいんです。君の見せてくれる奇跡を、これからもずっと一緒に見つめていたいんです。
 これは我が侭ですか?
「ニヤニヤしてたんだとしたら、きっと勝てたからっすよ」
 みんなで力を出し合って、協力しあって、頑張ったから得られた結果だ。確かに雄軍と一回表から戦っていたなら、どうなっていたか分からない試合だった。上級生相手に、まだ入学したてでチームプレーの練習さえロクに出来上がっていない僕たちがどこまで対等に向き合えるかさえ、微妙だった。
 けれど結果は、ギリギリだったものの勝利は勝利で。
 ゲームセットを迎えて整列して一例をして、監督からの挨拶も聞いて胴上げもされて。
 余韻は深く残っている。これだけの嬉しさを感じられるなんて、試合前では予想にもしていなかった。せめて同点で終われられたなら、という試合当初の弱気な気持ちはもう何処にも残っていない。
 残ったのは、自分たちの力も充分に通用するのだという思いと、君と一緒ならきっとどんな危機的場面であってもなんとかなる、という奇跡を信じる想い。
「猿野君の御陰っすね」
 にっこりと微笑んで、旅館まで帰る短い道のりを歩く君に告げる。
 今まで幾度と無く、この言葉は呟いてきた。口に出した事もあれば、心の中で念じた事もあった。
 君は少しだけ照れたようで頬を赤く染めて、暫く黙って言い返す台詞を探しながら視線を彷徨わせる。そんなさりげない仕草を見守ってまた微笑んで、僕は足許の石を蹴り飛ばした。
 それは地表を低く飛び、数回跳ねて君の足許手前に落ちた。平たいその石を、今度は君が蹴り飛ばす。
「猿野君が居たから……いえ、猿野君が居なかったら、僕はこうやって今此処を歩くことも出来なかったっすから」
 あの日。雨の中の奇跡を引き起こしたのは、君の一途なまでの想い、願い。
 君が見せてくれる夢のような未来を、これからも傍で見せてください。君と一緒なら何だって出来るという、君と一緒に居れば自分も無限の可能性を手に入れられるはずだという勝手な思いこみを許してください。
 君が、大好きなんです。
 君と一緒に居続けたいのです。
「なーに言ってんだか」
 そう言って、君はもう一度僕の肩を荒っぽく叩いた。腕を回し、肩を引き寄せて僕の耳元で囁きかける。耳の先まで赤くして、嬉しそうに。
「オレだって、ネヅッチューが居なかったらこうしてられなかったんだぜ?」
 入部試験で一緒のチームを組むことになり、落第組だと言われたチームを奇跡の大逆転勝利に導いた。それは捨て身のタックルでホームベースを陥れたお前の見せたガッツが引き起こした事だし、何よりも相手チームを抑え込んだ投手としての技量だろう、と。
 オレ一人じゃ絶対に勝てるはずがなかったんだよ、まだ分からないのか?
 君が言う。照れくさそうに、けれど飾らない言葉で真っ直ぐに、隠さずに君が言うから。
 泣きそうなくらいに、嬉しくなってしまう。
「今日の試合だってそうだろ。ネヅッチューが力投したから、小生意気なレギュラー連中を引っ張り出せたんだ。お前はもっと、自分に自信を持って良い」
 お前の実力は、今日みんなに知らしめられたのだ。打者に転向なんて勿体なさ過ぎる、これでもう誰もお前を最低ランク投手だなんて言わなくなるはずだ。
 お前の努力は、絶対に誰にも負けない。
「それに……悪かったな。お前があんな想いで投げてたなんて、全然知らなくて」
 自分の特訓もあっただろうに、オレの特打ちに遅くまで付き合ってくれて。それこそ、オレの方がお前が居てくれなかったらどうなってたか分からないと。
 お前の御陰でカーブ打ちが完成したようなもんだから、本当に感謝している、と。
 小さく頭を下げられて、僕は慌てて首を振った。僕だって、君の頑張りぶりに触発されて、此処まで来られたようなものなのだから。
 そう言って笑いかけると、漸く君も顔を上げて僕を見て笑ってくれた。
 白い歯がこぼれる、太陽のように眩しい君の笑顔を見て、僕は心から嬉しいと思う。
「だったら、アレだな。オレ達、」
 運命共同体って奴だな。
 するりと君の唇から零れ落ちた言葉に、一瞬だけだったけれど、僕の心が停止した。
 君が、好きです。大好きなんです。
 一緒に居たいんです、傍に居たいんです。君の隣で、君と一緒に歩んでいきたいんです。
 君はそれを許してくれますか、僕の傲慢で勝手な想いを許してくれますか。認めてくれますか。
 触れられなくても良いんです、君の瞳が遠くを見据えて僕を振り返らなくても良いんです。
 君の背中を、守れる存在で居たいのです。
 ただ君の傍で。
 近くで。
 隣で――――――

02年9月9日脱稿