キミノトナリ

 好きだ、と。
 ただその一言だけを、今の本心を告げたら奴はいったいどんな顔をするだろうか。
 きっと口をあんぐりと開けて、信じられないという風に目を見開いて俺を見返す事だろう。それはあまりにも間抜けな顔過ぎて、俺は見た瞬間に噴き出してしまうかも知れない。
 真面目なシーンのハズなのに、きっとその所為で全部冗談として受け流されてしまうだろう。あいつは、とにかく誤魔化すのが巧いから。
 だから俺は、本心を奴が感じ取るままに冗談として受け流されることを希望する。それで良いと思っている。
 本音は違うかもしれないが、今はそれで構わない。
 冗談が、奴の中で冗談でなくなるまで待つ。幸いにも同学年だ、卒業までまだ二年以上残されている。俺達の高校生活はまだ始まったばかりで、だから急激に今ある関係を突き崩そうとも思わない。
 卒業、一緒に居られなくなる時間までに望む形を手に入れられたらそれで良い。
 俺はもう一度、あいつがするだろう間抜けな顔を想像してみた。自然と頬が緩む、通り過ぎる同級生達が奇異なものを見る目を向けてくるので、慌てて表情を引き締めて俺は、あいつを待った。
 好きだ、とそう告げる為に。
 あいつの、間の抜けた顔を見るために。
 それなのに。
 好きだ、と言った途端。
 あいつは。
『知ってるさ』
 なんて事はないくらいに、平然と、普段通りに奴は不遜な態度で胸を反り返し俺を見上げ、笑ったのだ。
『そんな事くらい、オレが気付いてないとでも思ってたのか?』
 いけしゃあしゃあと告げる口元が、心底楽しそうに笑っている。
 野球部員たちの目を盗んでの、囁くような告白をあいつはそうやって、笑い飛ばした。俺の胸を軽く拳で叩いて、奴はくるりと踵を返し俺に背を向ける。それっきり、絡んでくる兎丸とじゃれ合って振り返りもしない。
 俺は赤くなる顔を隠そうと、持ち上げた右手で口元を押さえた。
 辰羅川が、怪訝な表情を俺に投げかけてくる。なんでもない、と小さく首と手を振って俺も部室のある方向へ歩き出すが、頭の中はぐるぐるとロクでもない推測が飛び交い、とても冷静なんかでは居られなかった。
 いつ、知られていたのだろう。
 何故、気付いていたのだろう。
 そんなにも分かりやすかっただろうか、自分の気持ちは。行動は。
 知恵熱が起こりそうなくらい、俺は色んなことを短時間で考えこまされた。そして結論など、到底出るはずがなかった。
 俺が想像し、楽しみにさえしていたあいつの間抜け顔は結局拝めなかった。
 俺が予想していた間抜け顔を作ったのは、他でもない、俺自身だったから。

 それから、何かが変わったわけではなかった。
 あいつはそれっきり何も言ってこなくて、俺もあいつには何も言わなかった。言えるはずがない、見透かされていたと知っただけでも充分恥ずかしかったのに、今更其処に輪をかける事など。
 幸いにもあいつは、俺の告白を茶化したりからかったりする事はなくて、まるで無かったことのように扱われ忘れ去られているようだった。むしろその方が有り難くて、現実の変化の無さにいっそ、あれは俺が描いた白昼夢の幻だったのでは、とさえ思うことがあるくらいだ。
 何も変わらない。
 俺達は野球部で一緒に練習を重ねながら、時折繰り出される奴の度を超したギャグに身を張って突っ込む子津を傍目にしつつ、俺も俺なりに合いの手を返す日々だ。
 ただ。
 ただ……そう。ひとつだけ、敢えて変わったところがあるとしたら。
 俺達は、前にも増して一緒に帰る事が多くなったという事だろうか。
 同じ部活をしているのだから、当然下校時間は重なる。途中まで同じ方向なのだから、道が別れるまで一緒に歩く事は今までにだって何度かあった。
 けれど、意識してなのか。
 あいつの歩くペースが以前より少しだけ、俺に揃えられるようになった気がした。
 前はサクサクと歩いて俺を置き去りに、ひとり家路を急ぐだけだったあいつが、今は俺と肩を並べるようにして歩いている。身長差から当然、本当に肩が並ぶはずがないのだけれど、それはまぁ、この際どうでも良いとして。
 今日もまた、俺達は他の面々と別れ家路を急ぐ。部活動が終わる直前から空は雲行きが怪しくなり、正門を出る頃にはぽつぽつと小さな雨粒がばらつき始めていた。
 朝の天気予報では、雨は今夜半過ぎからと言っていたので当然ながら、傘など持ってきているはずがない。準備万端に折り畳み傘を鞄に入れて来たのは、同学年の中では辰羅川と子津くらいなものだ。
 皆が急ぎ足で駆け出す中、俺達も並んで濡れ始めたアスファルトの道を蹴る。運動靴の底が路上に溜まり始めた水を跳ね上げるようになった頃、俺達は河原の土手に近い、木立の下に立っていた。
 雨はいよいよ本降りとなり、止む気配は感じられない。むしろどんどんと雨足は強くなって、完全に降り注ぐ雨を防ぐ事が出来ないでいる木立からはぼたぼたと水滴が塊となり、俺達の頭や肩を容赦なく濡らしていく。
 くしゅっ、とあいつがくしゃみを零した。
「寒いか」
「っせぇ」
 視線だけを投げかけて問えば、そんな悪態が返される。土手の片隅に聳えているこの木は、さほど樹齢も経過していないようで枝振りは立派だけれど、男ふたりが並んで立つには少々狭い。もう少し先へ行けば川を渡す橋の下に駆け込めたのだが、そこに辿り着く前にここで立ち止まってしまったものだから、もう先に進めない。
 雨は強さを増すばかりで、既にびしょ濡れだけれどこれ以上濡れてまで、雨宿りの場所を変えに走る気にもなれなかった。
 もう一度くしゃみが聞こえる。小さな、喉の奥に引っ掛けて噛み殺したようなくしゃみ。
 そっと身体を揺らして十センチ程近付くと、触れた肩のシャツ越しに熱が伝わってくる。肌に貼り付いたシャツはその下が透けて見えて、雨模様を睨んでいる表情はとても不服そうだ。
「ったく、なんでこんなヤローと……」
 近付くな、と詰め寄った分の倍離れられて押し返され、俺達の間には人ひとりが割り込めそうな間隔が出来上がる。ボタボタと緑の葉を垂らして落ちてくる雨粒が、そんなふたりの間に零れ落ちた。
 水を吸ってぬかるんだ、アスファルトの切れ目に当たる土手の土に爪先が食い込む。茶色と黒とが交じった、汚れた靴で地面を叩いても、反動も無く靴裏が沈むだけ。
 アスファルトの水溜まりを跳ね飛ばしながら、速度を出した乗用車が駆け抜けていく。泥混じりの水が勢い良く水のカーテンを作って、俺達へ襲いかかってきた。
 反射的に俺は腕を伸ばして、右足を前に出して踏ん張って、あいつの濡れた肩を掴み引き寄せる。
 泥水はかろうじて、俺達に届く前に失速した。色を失った枯れ草を打ちのめしたそれは、傾斜になっている土手を下り川へ呑み込まれていく。
 水嵩を増した川の色は濁り、速度も普段何気なく視線を投げかけていたそれとは大きく違っている。まるで別の川を前にしているような気がして、ぼんやりと濁流になろうとしている川の行方を思っていたら右手の、肘の内側を思い切り抓られた。
 視線を下向ける。
 あいつが、俺をこれでもかというくらいに睨んでいた。
 俺の、腕の中で。
「退け」
 言うと同時に、足を蹴られた。制服のズボンの一画が泥に染まる、靴裏の土を思い切り擦りつけられたのだ。
 渋い顔をして俺はこいつを見下ろした。
「とりあえず、断る」
 こんな事をされて、黙って退いてやるとでも思っているのだろうか。無表情なまでに鉄面皮でキッパリと告げれば、コイツは眉間に皺を寄せて更に強く俺を睨み付けた。
 雨で濡れた髪が重くなって、普段跳ね上がっている前髪が幾分下がり気味になっている。濡れ鼠とまでは行かないにしても、薄手の開襟シャツから覗く雨に湿った肌が嫌に艶めかしくて、俯けば見えてしまう意外に細い鎖骨のラインに視線の置き場に困った。
 ふっと遠くを向けば、コイツは不満を感じるようでまた俺の爪先を踏んでくる。
「退けってんだよ、このバカ犬」
「うるせぇ、少しは黙ってろ猿」
 自分たちが向き合って口を開けば、出てくるのはこんな言葉ばかりで。喧嘩にしか発展した事のない俺達の会話から、一体俺のこの感情はどうして生まれてきたのか今でもさっぱり分からない。
 それでも、この感情が一瞬の気の迷いでないことだけは確実だろう。
 俺は右の肘を曲げて手首を返し、今は奴が背中をぴったりと貼り付けるようにして凭れ掛かっている木の、ごつごつとした幹に押しあてた。雨に濡れた樹木の表皮は、思ったほど毛羽立っておらず柔らかかった。鼻を寄せれば、微かだけれど水の中に緑特有の臭いような、けれど心地よい香りが漂ってくる。
 そこに混じるのは、こいつが使っているのだろうシャンプーの匂い。
「……なにやってんだ」
 俺の体勢に改めて目をやり、漸くこいつは、自分の頭を庇うが如く木に押しつけられた俺の腕に気付いたようだった。一瞬だけ目を見張り、それから勘ぐるような剣呑な目つきを作る。
 まだ俺の足に乗ったままだった爪先を浮かせ、今度は踵で踏みつけて、退け、と繰り返す。その度に俺は断る、と繰り返す。
 俺の背中はもう完全にずぶ濡れで、半袖のカッターシャツは水分を絞れるくらいに吸い込んでいる。ぴったりと肌に貼り付いたその感触はかなり気分の悪いものだった。先週散髪したばかりの髪も、たっぷりと水気を吸って重たく垂れ下がっている。こいつの比ではないくらいに。
 その代わりとして、こいつに降りかかる雨の量は随分と減った。木立が和らげてくれている雨の大半を、俺が代わりに被っている、そういうわけだ。当然それを、こいつが甘んじて受け入れるはずがない。しつこく俺の足を踏んで、強硬手段で俺の胸を押し返してくる。
 車が通り過ぎていく、水溜まりを突っ切る音が喧しく耳に響いた。
「ったく……なんだってんだよ」
 不満そうに呟き、こいつは頭を掻いた。指先に水が跳ねる、焦げ茶色をした毛先を絡めて、ぶつぶつと居心地悪そうに視線を揺らしている。
 知っている、くせに。
 俺がどうして、こんな風にコイツに絡んで、近付いて、一緒に居ようとするのか、知っているはずなのに。
 そう言ったのは、こいつ自身だろうに。
 俺の気持ちを知っていると言って笑い、笑い飛ばしただけでそれからは音沙汰無し。いつも通りに振る舞って、今まで通りに居ようとして、でもそれは無理な話だ。
 表面上は普段通りを装っても、こんな風にふたりだけで近付いてしまったら。
 俺は奥歯を噛んだ、音が響くくらいに強く。
「……言ったろーが」
 前に。もう随分と昔に感じるくらいの、けれど実際はそれほど遠くない過去に。
「好きだ、って」
 照れにも出さず言い切った俺の声を、駆け抜ける車の水を跳ねる音が掻き消す。だが聞こえたはずだ、それを証拠に、あいつは俯いて黙り込む。力のない腕が、俺の左肩に近い心臓の上を叩いた。
「退けよ……そのままじゃお前、風邪引く」
 仮にも十二支高校野球部のエースを目指そうって奴が、男庇って雨に濡れて熱だしてぶっ倒れたら、洒落にもならない。
 ぽつぽつと人の顔を見ないままに告げる奴の後頭部を見下ろしていたら、奴の、普段は跳ね上がっていて見えないつむじを見つけた。
 なんだか不思議な感じがする。雨が降っただけで、水に濡れただけで、こんなにも見慣れた相手が違って見えるだなんて。
 鎖骨に引っ掛けるように載せられた手が俺を押し返そうと動く。だが踏ん張っている上に、未だ爪先を踏まれたままの俺はまったく体勢を変えない。
「風邪くらい、良いさ」
 それでお前が、濡れないのなら。
 俺は、構わない。
 それでもし、熱を出して寝込むことになって、学校も休んで部活にも出られなくなったら、それはそれで会えないことが寂しいかもしれないが。
 けど、きっと。
「お前は、見舞いに来るだろ……?」
 こいつはそういう奴だ。
 口では減らず口を叩いて、軽はずみなことを言っているようで、冗談でバカな事しか言っていないように見えて、巫山戯た事しかしていないように見えて。
 その実は、誰よりもしっかりしていて誰よりも相手のことを想っていて、誰かを傷つけたり、哀しませたり、痛い思いをさせないように気を配っている。自分を顧みる事さえせずに、ただ誰かのためだけに必死になれる奴。
 こいつを動かすのは、自分のためってやつじゃない。
 誰かの為、誰かの笑顔のために動く。それだけの為に動ける。
 そういう奴だから、俺は。
 こいつを、好きになったんだと思う。
「行かねーよっ!」
 地団駄を踏んであいつが叫ぶ。
「来る」
「行かねー!」
 また押し問答が始まる。そろそろ幹に押しあてた右腕が痺れてきて、左と交換しようと俺は身体を揺らした。
 水気を吸った前髪が一房、そんな俺の鼻先を擽る。
「っしゅ!」
 小さな、くしゃみ。 
 あいつが、口を半開きにして俺を見上げた。俺は持ち上げかけていた左手を鼻先にやって、濡れてしまった鼻腔とそこに被さっていた前髪を追い払う。そのまま水分を飛ばそうと指で鼻を擦る仕草をしたら、
「あ……」
 あいつは逡巡するように視線を足許に泳がせ、また俯いた。
 途切れた会話を繋ごうと、俺が口を開く。しかしそれよりも早く、降りしきる雨に掻き消されてしまいそうなくらいにか細い声で、こいつは、言った。
「め、メロンは持ってかねーからな……」
 ぽつりと。
 極力素っ気なさを装いながら。
 俺の顔が緩んでいくのが自分でも分かる。きっと、今までの人生でも最高傑作なくらい、にやけた顔になっているに違いない。声を出して笑いたくて、けれどそんなことをしたらこいつがどんなに拗ねるか分かったものじゃないから必死で我慢して。
 この場に知り合い連中がひとりとして居なかった事を、どれだけ感謝したことだろう。
 雨が俺達を包む世界をぼやけさせている。霧立つ雨空の下では、俺達の姿も通り過ぎる人間からは靄がかって見えない。
「かまわねーよ」
 お前が、俺を見舞ってくれる。俺のことを少なからず心配して、気にかけてくれる。これほどの幸せが、果たして他に見当たるだろうか?
「あ、あと……風邪、俺に移しやがったら、ただじゃおかねーから」
 ぼそぼそと呟き続ける。まるで俺の顔を見ようとしない、こいつらしくない姿。
 俺しか知らない、俺だけが知っている、こいつ。他の誰も知らない、俺の前だけのコイツが見せる色々な顔。
 まだ雨は止みそうにない。痺れた右腕を下ろし、ほんの少しだけ身体を幹に寄せた。
 体温が近くなる。
 こいつは……猿野は、拒まなかった。
「好きだ」
 そっと耳元で囁く。雨に負けぬよう、ただひとりだけに聞こえる声で。
「……言われなくても、知ってる」
 何度も言うな、と。
 俯いたままの猿野が答える。
 俺は密やかに笑んだ。
 今はまだ、俺が一方的に好いていると思わせておいてやろう。少しくらい逃げ道を用意しておいてやらないと、コイツは直ぐに頭をパンクさせて煙を噴くだろうから。
 幸いにして、俺は気が長い。俺達の高校生活は、まだ二年半以上ある。
 好きだともう一度告げれば、今度こそ猿野は黙ったまま返事をしなかった。
 雨が止むまで、まだ少し。
 どうか、もうしばらくこのままで。

02年9月5日脱稿