Reconcile

 カチャカチャと響く金属音以外に、今この空間に音はなかった。
「…………」
「…………」
 同じようなむっつりとした顔をし、食器を動かしているのがふたり。その間に挟まれるような形でおろおろと、両方の顔を交互に見ながら食事を続けているのがひとり。
「ご馳走様」
 一秒でも長くこの場にいたくない、そんな感情が表立って現れている声で呟き、スマイルは椅子を引くと席から立ち上がった。自分の使用済み食器を重ね合わせ、それを台所の水場へと持っていく間も彼は不機嫌を露わにした表情で無言。
「あ、お粗末様ッス」
 通過儀礼的な彼の言葉に一々律儀に返事をしたアッシュが彼の背中を見送り、それからまだ変わらないペースで食事を続けているユーリへ視線を流した。
 ユーリもまた、スマイルに負けず劣らず不機嫌を隠そうとしない顔つきでフォークを口に運んでいる。今席を立ったスマイルを見ようともしない。
 はぁぁ、と盛大な溜息をついてアッシュは残り少なくなっていた皿の中身を胃に押し込んだ。会話のない食事の席は、自信を持って作り出した食事もあまり美味しいものではない、その事を改めて実感させられてしまった。
 スマイルは台所から戻ってくるとそのまま食堂を素通りして、自分の部屋で戻るようだった。普段ならリビングのテレビ前に陣取るはずの彼が、この時間から早々に部屋に引っ込むことも珍しい。
「お風呂、沸いてるッスよ」
「ん~」
 自分も席から立ち上がったアッシュに言われ、スマイルは片手を挙げて背を向けたまま返事をした。了解、の意志らしい。
 ちらり、とユーリが食堂を出ていこうとするスマイルの背を見た。だが彼が振り返りもせずにそのまま出て行ってしまうと興味が失せたように食事の手を再開させる。
 アッシュの作る料理に文句はなにひとつ言わないユーリだが、今日はやけに不味く思えてならなかった。いや、今日だけではなく……もうこれで三日目になる。
 きっかけは、ユーリが持ち出した新曲のメロディーラインにスマイルが難癖を付けたことだったはずだ。
 このラインは、こっちの方が絶対に良いと彼は譲らなかった。ユーリにしてみれば、自分が自信満々で他のメンバーに示して見せた曲だったから、自分に恥をかかせた形になるスマイルへ反発するのは仕方がないこと。そしてスマイルも、その反発を受け流せなくて真正面から意見がぶつかり合ったものだから。
 意見は決裂、一緒にふたりの仲も決裂。
 それが、三日前の事になる。その間、ふたりが会話する事は勿論なかったし、アッシュがなんとか仲直りさせようと色々気を配ったりしてみても総て無駄に終わっていた。
 なにせ顔をつき合わせてもひとことも会話が発生せず、偶然そうなったとしても嫌味と皮肉、そして悪口の応酬が始まるだけで仲直りどころか、益々彼らの間に広がった溝が深まるだけだった。
 気まずい空気の中での食事も、いい加減終わりにして欲しいというのがアッシュの思いである。だがユーリは気位も高く絶対に自分から謝るような性格をしていないし、スマイルも意地になったら梃子でも動かない。
 このまま喧嘩が続いてメンバー解散とかになったらどうしよう、と余計な事まで心配になってきて、アッシュまで上の空気味な日々が続いている。胃はきりきりと痛むし、はっきり言って良いところなどなにひとつとしてない。
 結局新曲の構想も、リーダーであるユーリがあの調子なので少しも進んでおらずストップが掛かった状態のまま放置されてしまっている。再開の見通しは……立っていない。
「馳走だった」
 口元をナプキンで拭い、ユーリも席を立つ。彼だけが食器をそのままにして部屋を辞するのはいつものことで、台所で洗い物を始めていたアッシュは彼の声に食堂を覗いた。
 テーブル前で立ち上がったものの動かずにいるユーリの横顔は、何処か影があって元気が感じられない。このところずっとそうで、ひとりきりの彼を見かけるたびにユーリが後悔しているのだと感じさせた。
 邪魔になっているのは彼のあのプライドで、それさえ乗り越えてしまえば案外簡単にこの喧嘩も片づくのだろうが。そう上手くいかないし、出来ないのがユーリという人物でもある。
 些細な喧嘩は今までにだって起こしてきた。だがたいていの場合、スマイルの方が先に折れて彼から歩み寄ってくる事が殆どだ。たとえユーリがなかなか彼を許そうとしなくても、スマイルは懲りもせずユーリに声をかけ続けなんとか謝罪できる隙間を見つけだそうと努力していた。
 だが、今回の喧嘩はそうじゃない。スマイルの方が徹底的にユーリを無視している。視界に彼が収まっていても、居ないものとして扱っているのだ。もしくは、ユーリが部屋に入ってきたら自分は黙って立ち去る、とか。
 その度にユーリは拳を握って微かに震わせる。噛んだ唇は悔しそうに歪められていて、尚更彼を意固地にしていた。スマイルだってそれは良く解っているはずなのに、このわざとらしい嫌がらせに似た無視を終わらせる様子がない。
 彼らの間にあるピリピリとした空気は見ている方まで居心地を悪くさせてくれて、アッシュが自分がどちらの味方をすべきか、以前に自分がこのまま此処にいても良いのかどうかさえ迷う状態。
「あ、ユーリ。お風呂……」
「あいつが入ったあとの湯は使いたくない。入れ替えてくれ」
「…………はい」
 この冷戦状態をどうにかして欲しい、とシュンとしたアッシュは思う。そして彼は自分ではどうにも出来ないことも、分かっていた。
「スマイル、もう許してあげて欲しいッスよ……」
 ユーリの為、ではなく自分の精神状態を安定させるために。ぼそりと呟いて、彼はまた痛み出した胃を押さえつつ台所の片付けに戻っていった。

 言葉にして、たった三文字。
 たかが、三文字。されど三文字。
 息をひとつ吐き出す間に片づいてしまいそうな簡単な単語ひとつを口に出す、それだけの作業が出来なくてユーリはもどかしさを隠せない。
 何度も言おう、言おうと心に決めて彼の前に立った。だがその度に、彼は無言でユーリを一瞥すると足早に出て行ってしまう。そんな無駄とも言える行動を既に十回近く繰り返しているのに、その全てが空回りをしていて意気込みも宙へ消え去っている。
 残るのは益々彼を許せないと思う心と、もういい加減終わりにして欲しいと哀しくなる心だ。相反する気持ちは互いに反発しあい、混ざり合ってユーリの感情を混乱させる。
 いっそこのままで良いと諦めてしまいそうになるのをどうにか抑え込んで、彼に無視されるたびに傷ついている心を慰めようとしているのに、出来ない。
 彼の丹朱の瞳があれ程冷たく自分を見つめたことが今までにあっただろうか。考えて今になって、彼がどれ程自分に優しく、心広く接してくれていたのかを思い出す。
 今頃思い出しても、もう遅いかも知れないのに。
 喧嘩は数えきれないほどにしてきた。でも三日も続くような喧嘩は滅多になかった。
 いつもはユーリの方が彼を無視して、彼の方から謝って許しを請うてきた。今は立場が逆になっている、無視されているのはユーリの方だ。
 相手にしてもらえない、その事の辛さを初めて思い知らされる。いつもスマイルはこんな気持ちで謝罪の言葉を考えていたのだろうか。背もたれのない椅子に腰掛け、目の前に鎮座している重厚なピアノに凭れ掛かりユーリは何もない壁を見つめた。
 頬を置いているピアノの蓋が冷たい。頬と蓋との間に挟み込まれている自分の髪が、ざらざらとした感触を肌の上に押しつけてくる。けれど構いもせず、ユーリはぼんやりとした視線を壁に投げつけていた。
 それこそ、壁に穴が開くのではないかと思えるほどに。
 口を開けば、溜息ばかりが漏れる。何か言葉を発することさえ億劫で仕方がなく、のろのろとした動きで身を起こすと頬に貼り付いていた髪を後ろへと払った。その手で、蓋を開き赤い毛氈を鍵盤の上から取り除く。
 数回折り曲げて小さく畳んだそれを足許へ落とし、ユーリは傍らに置いていた楽譜を立てた譜面台に並べた。数枚に別れているそれを順番通りに置き、軽く目を通してから憂鬱な気持ちのまま指先に力を込めた。
 感情を込める事なく、ただ譜面に書き記された音符通りに曲を奏でていく。ぼんやりとした意識の中で、それでもキーを間違える事なく弾いてみせる技術には目を見張るものがあるだろう。しかし、その指が途中で止まった。
「……?」
 どこか変な感じがする、具体的に何処がどう変なのか言葉では言い表せないのだが、変だ。
 もう一度、少し前に遡って鍵盤を叩く。矢張り同じ場所で手が止まった。
 メロディーラインにおかしな所は見当たらないはずなのに、並べた音符を一本の線にしてみると違和感が発生するのだ。そしてそこは、スマイルが散々指摘していた箇所と一致している。
「あ……」
 気付いて、ユーリは譜面を手に取った。どうして言われるまで気付かなかったのか分からないほど、簡単なミスである。だがこのミスがあまりに小さく些細で、余程耳慣れしている者でなければ違いを把握出来ないものであったことは確かだ。
 いつもなら犯さないミスを犯したユーリには、心の何処かにこの曲が完璧であるという慢心があったのかも知れなかった。それだからスマイルに指摘された時、あれ程ムキになって反論してしまったのだ。
「あいつが怒るのも、無理ないことかもしれないな……」
 完璧など有りはしない、と常々上昇志向でいるように務めていても、何処かで満足してしまってその位置に安住しようとしてしまう。己の足許を見ることが出来ない存在に、どうして上を目指す事が出来るだろうか。足場がいつ、崩れるかもしれないのに。
 自分の非を認めてしまうと、スッと心が軽くなったような感じがした。
 一方的に感じていた理不尽が消えただけなのだが、それだけでもさっきまでとは気持ちが違う。
 今なら謝れるような気がした。譜面をひとつに束ね、ユーリは勢いよく椅子から立ち上がった。そのままピアノを片付けもせず、譜面もまとめただけで台に置いたまま彼は踵を返す。
 やや乱暴な勢いで扉を押し開けると、彼は早足でスマイルの部屋を目指した。開け放った扉を、閉めることさえ忘れて。

 けれど、いざ彼の部屋まで来ると緊張する。数秒前の意気込みが急に萎んでしまって、ドアをノックしようとして持ち上げた手がその位置で停止している。呑み込んだ唾の音がやたらと耳に響いて、陰鬱な気持ちがまた迫り上がってきてしまった。
 ――やはり、もっと自然な遭遇を装って謝る方が効果的だろう、うん。
 終いにはそんなことまで考えてしまって、益々駄目ムードが彼を取り巻く。その反面、ここで諦めてしまっては一生かかっても仲直りなど遠い世界の話になってしまいそうで、その両方の感情がユーリの中でせめぎ合っている。
 早く決めてくれ、と握ったまま放置されている空中にある拳が我慢できないらしく、震え出して、はっ、としたときにはその手が勝手にスマイルの部屋と廊下を区切る扉を叩いていた。
 叩く、と言うよりはむしろ肘を曲げたまま放置していた手が支えとなる筋肉の力を失って、落ちた先に扉があってぶつかってしまった、という方がずっと正しい表現になるだろうが。
「あ……」
 しまった、と油断していた自分を呪ったが、ノックしてしまったものは仕方がない。別意味での諦めの気持ちのまま、数秒間が空いてしまった不自然なノックをユーリは繰り出した。
 されど。
 決死の思いで行ったノックへの返事がない。
「……?」
 怪訝に思い、もう二度ほどノックする。返事は、今回もまた、ない。
 試しにドアノブを回してみると、鍵が掛けられているらしく扉は開かない。もし中にスマイルが居るとしたら、このノックを無視していることになる。人の意気込みをなんだと思っているのかと、少しだけ腹立たしくなってユーリはがんっ! と扉を蹴り飛ばした。
 変わらず、応答の声は聞こえてこない。
 ひょっとして本当に、中は無人でスマイルは出かけている最中なのだろうか。爪先にじんわりと来た痛みに耐えつつ、眉根を寄せてユーリはそっと、今自分が蹴ったばかりの扉に片耳を押し当てた。
 薄くもないが厚くもない扉の向こうからは、何の音も響いてこない。誰かが中にいる気配も感じ取れず、ではこの爪先に残る痛みは全く無駄なものだったのかと、更に余計に腹立たしくなってきた。
 こうも意気込みが空回ると、滑稽としか言いようがない。遊ばれているのではないかと勘ぐってしまいそうになり、背後を振り返ってその辺にスマイルが隠れているのではないかと捜してしまった。幸いそんな事はなくて、今の彼の行動を目にした存在は居なかったけれど。
 それでも自分が彼の為に一喜一憂(喜びはしていないのだけれど)させられている事に変わりない。
 精神安定上宜しくないむかつきを胸に抱えたまま、彼は気を紛らせようとひとまず何か胃に入れて落ちつこうと考えを変え、前髪を掻き上げると嘆息と共に足を階下へと向けることにした。
 今の時間ならアッシュが夕食の下ごしらえに取りかかっているはずである。もしくは、長引いている買い出しからの帰り道のただ中か。今日のメニューはなんであろうか、想像してつい気が緩んでしまいそうになるのを引き締めると、ユーリは少し速いテンポで階段を下りていった。
 僅かに右にカーブしている螺旋状の階段を下りきると、広めのホールに出る。其処から置くに行けばリビングと食堂へ繋がる扉があって、食堂側から入れば台所に近い。すっかり頭に中に記憶されている城内の間取りを思い浮かべつつ、ユーリはアッシュが用意してくれているはずのおやつに早くも心奪われそうになっていた。
 そう、スマイルとの事も一瞬だけ頭から消えてしまうほどに。
 だから。
 台所の扉を浮かれた調子のまま開けた瞬間、彼がどうしようもない顔をしてその場に硬直してしまった事は在る意味、仕方のないことなのかもしれない。
 そこに、予想に反した人物が立っていたのだ。彼も、まさかユーリが台所に来るなど考えても居なかったようで、お互い気まずい空気の中扉が開いた瞬間の姿勢から動けずにいる。
 ユーリは片手をドアノブに置いたままで、スマイルは取りだしたばかりのパックジュースを片手に冷蔵庫の扉を閉めようとしているところだった。
 ぶつかり合った視線。思えば、こんな風にお互いの顔をちゃんと向き合わせるのも喧嘩をして以来初めてのような気がした。
 しかし先に、ふいっとスマイルが目線を逸らし半開きになったままだった冷蔵庫を完全に閉めた。逆さまにして水気を切るために置かれていたガラスのコップをひとつ手に取り、それを流し場脇の調理スペースに置く。
 購入したばかりのジュースはまだ封がされたままで、彼はそれを開けるつもりらしい。壁向きに調理器具は並べられているから、必然的にそれに向かい合うスマイルもユーリに背を向ける格好となる。よく考えてみればそれは仕方のないことなのに、ユーリにはそれが自分を無視しての行動に見て取れてしまった。
 むっとした感情がまた、胸の奥からむくむくと立ち上がってくる。
「スマイル」
 棘のある口調でユーリは彼の名前を呼んだ。ドアから手を放し、力任せに後ろ足で蹴り飛ばして閉めると彼の方へ大股で歩み寄る。扉は無言の非難を上げるかのように大きな音を立てて閉じられた。その声は、あるいはユーリの胸の内にある怒りを代弁しているかのようでもある。
「…………」
 スマイルは返事をしない。無言のまま彼に背を向け、パックの封を開けようと手を動かしているばかりだ。大した力も入れずに紙製のパックは口を開けられ、彼の手の内に収まった。
 肘の高さまで持ち上げられたパックが傾く。自然の法則に従って下方へ向かうパック内のオレンジ色をした液体は、透明なグラスへと注がれるはずであった。
 だがそれは果たされず、僅かな量がコップから外れてシンクに零れただけに終わる。
 スマイルが剣呑な目で、自分の腕を捕らえている人物を見た。若干下に来ている目線を上から睨み付けているが、丹朱の瞳には感情らしき色が見当たらない。何を考えているのかさえ教えてくれない瞳に、咄嗟に彼の腕を掴んでしまったユーリも次の行動になかなか移ることが出来なかった。
「放してくれるかな」
 呟かれた言葉は、拒絶を現すものに他ならず。
 耳にした言葉が神経を伝って脳へ届けられ、その意味を理解したと同時にユーリは浅く唇を噛んで俯いてしまった。けれど腕は放さない、放せずにいた。
 小刻みに、それこそ肌を触れ合わせていなければ気づけぬほどにユーリは震えていた。それは掴まれた腕を通してスマイルにも知れているはずなのに、彼はその間も終始無言なのだ。
「いや、だ」
「放してくれるかな」
 ぽつりとこぼれ落ちた拒否の言葉を一蹴するスマイルの冷徹な声が響き渡る。
「いやだ」
「ぼくたち、喧嘩中だって事分かってる?」
 俯いたままのユーリは同じ言葉を繰り返すばかりで、段々と声が小さくなっていく彼の襟首を見下ろしながらスマイルは小さく溜息をついた。
 そう、彼らは喧嘩をしている真っ最中。そして仲直りとも取れる行動はまだどちらからも発生していない。強いて言うなれば、むしろ仲直りとは逆の事がつい今し方起きたばかりだ。
 腕を掴んでいる手には大した力も込められていないから、振りほどこうと思えば幾らでも出来るだろう。そうしないのは、彼自身も心の何処かで彼を許したい、この喧嘩を終わらせてしまいたいという思いが在るからだろう。
 意地に張り合いだけになって、元々の喧嘩の始まりが何であったのかも分からなくなってしまっているような、そんな意味のないものはさっさと片付けてしまって心の中にあるモヤモヤは撤廃してしまうに限る。
 なのに、意地っ張りはここでもお互い譲り合うことを知らない。
「放して」
「いやだ」
 同じ言葉のやりとりがもう既に五回も六回も続いている。いい加減スマイルはうんざりしてくるが、ユーリは相も変わらずスマイルの腕を取ったまま顔を上げることすらしない。
 ひょっとして泣いているのでは、と勘ぐりたくなったがそういった様子は見られずこれからどうしようか、と彼はただ困惑するばかり。アッシュでも帰ってこないかな、と他力本願な事を考えてしまう。
「喧嘩中なんですけど」
「分かっている!」
 ようやく「いやだ」以外の言葉を口にしたかと思えば、突然顔を上げて怒鳴って来たり。情緒不安定? と感じさせるユーリの態度に益々スマイルは困り果ててしまう。これではまるっきり、自分の方が悪者ではないのか。
「分かっている……だから、絶対に放してなどやるものか」
 ぐっ、とそれまでただスマイルの腕に載せているだけに近かったユーリの手に力が込められる。爪が包帯の下に隠れている肌に食い込んできて、痛みがその箇所に広がった。
「ユーリ?」
 数日ぶりに聞く、自分の名前を呼ぶ彼の声にだがユーリは反応しない。またしても俯いてしまった彼は、スマイルの怪訝そうな口振りなど全く意に介する様子もなく早口で、捲し立てた。
「喧嘩中だから! お前が嫌がる事をやってやる。お前が放せと言うのなら、絶対にこの手は放さない!」
 嫌がらせ……のつもりなのだろうか。
 実に子供じみた主張を口にして、赤い顔でぐっとスマイルを睨み上げたユーリにまたしてもスマイルは吐息を零した。
「じゃあ、放さないでくれる?」
「誰が放してなどやるものか!」
 諦め口調で逆説を説いてみたスマイルに、ユーリは余計癇癪を起こしたようだった。逆効果だったかと、心の中で今度は嘆息してスマイルはもう片方の自由になる手で、傾がせたままだったパックジュースを持ち替えようとした。
 けれどそれがいけなかったのだろうか。
 持ち上げられたスマイルの手が、自分を殴るなりなんなりするつもりだとユーリが早とちりしてしまったのだ。
「!?」
 反射的にユーリはその手をはね除けようとし、予想していなかった彼の動きにスマイルの反応も遅れる。
 まだ掴まれたままだったスマイルの右手に握られているジュースごと、彼らの身体は左右に大きくぶれた。そして、口が開いたままだったパックの中身も、また。
 開封直後で量も減っていなかったジュースまでもが大きく波立ち、狭い入り口から溢れ出してしまっていた。しかも、飛び散った甘い液体は彼らの頭上に昇って落下という経路を取ってしまったが為に。
 彼らは頭の上からオレンジジュースを被る、という災難に見舞われてしまった。
「うぇぇ……」
 口の中に流れ込んできた甘いジュースに舌を巻いたスマイルは、半分近くまで減ってしまったパックを揺らして丹朱の隻眼を細めた。こんな状況になってもまだ、ユーリが自分の腕を放そうとしない辺りに彼の意固地な面を見た気がする。ジュースは、彼の綺麗な銀糸を濡らして雫を垂らしていた。
 被ったのは頭だけで、服はさほど濡れていない。飛沫が散った程度で、問題なのは髪に染みこんでいる方だ。放っておけば粘りけが出てきてしまうだろうし、あまり心地の良いものでもない。頭の上から甘い香りが漂ってくるのも、気持ち悪いばかりだ。
「ユーリ、離れて」
「いやだ」
 またあの押し問答へと話が戻る。
 濡れた髪を掻き上げたスマイルは、単純に自分たちが被ったジュースをタオルで拭いたいだけなのだが彼はそれが分からないらしい。何処までも頑なに拒む彼を見て最早溜息しか出ないスマイルの心情を察したのか、ユーリはスマイルの腕を掴んでいる方の手にまた力が込め、さらにはもう片方の手もスマイルの服を握りしめた。
「…………?」
「お前は、さっきから口を開けば放せ離せとそればかりで」
 下ばかりを見ているユーリの表情はスマイルの目に映し出されない。だがその声は震えている、身体と同じように。
「さっきからちっとも、私の話を聞こうとしない!」
 話しを……するつもりだったのだろうか、彼は。ふとそんな疑問が聞いていたスマイルの頭に浮かんだが直ぐに消えた。
「ずっと、そうだ。いつもは私がどんなに離れろと言ってもついて回ってくるくせに、今は私が近付いても逃げ回ってばかりだ。私が声をかけてもすぐに会話を一方的に切り上げてまた逃げる。そんなのは、ちっともお前らしくない!」
 掴まれている部分をそれぞれに強く引っ張られ、チリリとした痛みにスマイルは眉根を寄せた。なんだか、とても失礼なことを言われているような気がするのだがそれは気のせいだろうか。
「……分かった、分かったからユーリ。一度離れてくれない?」
 この濡れた頭、どうにかしたい。半ば投げやりに言ったスマイルは彼を退かそうと唯一自由の利く腕で彼の肩を掴んだ。だが全身でもってそれを拒否され、目を丸くしている間にまたユーリが怒鳴って更に目が点になった。
「絶対に嫌だ!」
 勢いよく上げられた声と一緒に真正面を向いたユーリの目尻に、薄く涙が光っている。
「お前がそう言うのなら、私はこれから一生ずっと、お前が嫌がることを永遠にやり続けてやる!!」
 多分、彼なりの精一杯の抵抗のつもりなのだろうが。
 不覚にもそれを可愛いと思ってしまったスマイルは、一瞬後、自己嫌悪に陥りそうになって片手で顔を覆った。
 これって反則技。しかも使用者はユーリで被害者は自分だけに限定される効果範囲の狭い反則技だ。本気でスマイルはそう思った。
 一生ユーリから嫌がらせを受け続ける……それも楽しそうだが、生憎と自分はマゾではないからお断りだ。本気で考えそうになった自分を笑って、スマイルは顔を隠していた手で自分のまだ湿っている髪を掻き回した。
 オレンジの香りが鼻につく、酷く甘ったるい。
 自分の髪を掻き回していた手を抜き取り、そのまま目の前に居るユーリの頬に添える。触れるか触れないかの距離で動きを止めると、彼の方からすり寄ってくるようにして首を傾けてきた。
 触れた柔らかな肌をそっと撫でると、じんわりとした感覚が胸の奥から広がり始める。何故かそれだけの事なのに満たされた気分になって、不思議だった。
 服を握っていたユーリの手が持ち上がり、スマイルの手の平に重ねられる。そっと彼の目尻に残っていた涙を唇で掬い上げると、くすぐったそうにユーリは肩を揺らしたが逃げようとはしなかった。
「喧嘩中だろう」
「だからユーリが嫌がる事してるんじゃない」
 クスクスと笑っているユーリに言い返し、スマイルは隙だらけの彼の唇へ己のそれを重ね合わせた。
「キス、嫌でしょう?」
「んっ……ぅ、当然……だろ、う?」
 唇を合わせたまま、隙間から声を発する。息継ぎの合間もロクに与えぬまま、目を細めたスマイルは力を失って落ちていくユーリの手から解放された腕で強く、彼を抱きしめた。
 三日ぶりのキスと抱擁は、どうしてだか初めての頃に戻ったようで妙に気恥ずかしかった。