ナツコイ

 じりじりと音まで聞こえてきそうな程の熱線が地表を焦がしている。アスファルトの照り返しは予想以上に酷く、路上の打ち水も付け焼き刃どころか撒かれた途端に熱で蒸発し、その部分ばかりが湿度を上げて余計、熱を孕んだ空気を漂わせる事になってしまっている。
 蜃気楼でも見えそうだ、と天国は思った。
 朝、出かける前にちらりと見たテレビの天気予報は今日の最高気温を35度と予告していた。しかし実際のところ、彼の身体を取り巻く大気はそれ以上の熱さを抱いているに違いなかった。体感気温としては過去最悪、間違いなく己の体温よりも高かろう気温を想像し、まるで犬のように彼は口を開くと薄い舌を伸ばした。
 それで体温が若干でも下がってくれれば良いのだけれど、生憎と人間の身体はそれほどに便利には出来ていない。口を開いたことで余計に外界の熱風を体内に吸い込む事になっただけで、額に噴き出た玉のような汗を拭い、天国は恨めしげに空を支配する太陽を睨んだ。
「あちー」
 手を団扇にして風を招こうにも、呼び寄せられるのは体温よりも温められた空気だけで、しかも露出する首筋にまとわりついて離れようとしない熱気にうんざりとさせられるだけ。
 左手で握り締めたコンビニのビニル袋が、ガサガサと中に押し込まれた荷物の表面と擦り合わせて喧しく音を立てる。その音でさえ湿って生温く聞こえてくるようで、チッと舌打ちした彼は傍らの、自分よりも高い位置に視点を持つ存在を見上げた。
 涼しそうだ、と。
 彼には熱を感じる神経が欠けているのではないだろうか、と疑ってしまいたくなるくらいに涼しげな表情で歩いている彼の歩調は軽やか、とまでは行かないが天国のそれよりも遙かに調子が良い。両耳を覆っているヘッドホンからは、微かにリズムを刻む低音が漏れ聞こえてくる。
 飽きもせずに聞き入る程の音楽であるのかどうかは、天国には分からない。今までに何枚かCDやMDを借りて聞いてみた事はあるけれど、それらの音楽の何処に彼が惹かれ、常日頃から欠かさず耳に流し込もうとしているのかの理由が分からない。
 だから時折、自分の声が彼に届いているのか不安になる。彼が音楽に聴き入るのは、もしかしたら自分が喋る音をノイズと判断して、遮ろうとしているからではないかと勘ぐってしまいたくなる。
 そんなはずはないと、必死で否定してみても心のどこかに不安は残ってしまう。司馬から視線を戻した天国は、今浮かべてしまった考えを消してしまいたくて、浅く下唇を噛むと左右に首を振った。
 照りつける太陽は熱さの絶頂にある。
「じゃんけんなんかに、負けるんじゃなかった……」
 うんざりといった面持ちで、数十分前のグラウンドでの出来事を思い出し天国は左手で重さを主張しているビニル袋を握り直した。
 その中身は、アイスクリーム。財布の出所は監督のポケット。
 午後からも続く練習だったけれど、あまりの暑さに部員一同集中力が著しく欠けてしまい、凡ミスの連発。さすがにこれでは練習にもならないと、休憩に入って途端に誰かが言い出した。
 アイスを食べたい、と。
 確か言い出しっぺは兎丸辺りではなかったろうか。三年生が抜けて新体制で始まった夏休み期間中の練習は、全体を把握して統制出来る人が抜けてしまった事もあり、どこか子供っぽさが残ってしまった。だから兎丸の発言を不謹慎だと叱る代わりに、彼の発言に同調して食べたい、と連発する部員が続出した。
 その蛙の大合唱が如き声に、頭を痛めた羊谷は渋々ポケットから財布を抜き取った。
 そして始まる、大じゃんけん大会。
 最初はぐー、の合い言葉に始まって、けれどあれだけの大所帯であるに関わらず何故か勝負前で決着がついてしまったのは、ひとえに天国の不運が原因であったろう。
 全員が息をぴったり揃えて最初のぐーを出した中で、ひとりちょきを出したバカがいた。それが他ならぬ天国その人であり、パシリはその場で彼に決定した。
『ぬおー! しまったぁぁぁ!!』
 天国は地団駄を踏んで激しく悔しがり、もう一度ちゃんと勝負をしようと提言したものの誰ひとりとして彼の言い分を聞く存在は居なかった。誰もが、自分はどの味がいいとかこれは買ってくるな、とか勝手な事を言い放ちメモを手渡していく。どう考えても部員全員分のアイスをひとりで抱えてくるのは重すぎる、と同行者を募ったものの手を上げる存在は心優しい女子マネの凪ひとりだった。
 けれど彼女に荷物を持たせるような真似を天国が出来るはずがなく、心優しい彼女の申し出を有り難く断って、ひとりメモと羊谷からむしり取った新渡戸稲造を握りしめグラウンドを出ていこうとした時。
 何故か、後ろから無言のままについてきた彼。
 一緒に行くよ、という言葉もなにひとつとして無いままに。天国が一緒に言ってくれるのか、と問いかけて漸く首を縦に一度だけ振った彼の心中はあまりにも計り知れない。何を考えているのかさっぱり分からないのは今も昔も同じで、この暑い最中に買いだしにつきあってくれる気紛れの理由もまるっきり不明。
 冷房の効いたコンビニエンスストアはまさしく楽園のようであったけれど、黄色い籠いっぱいに詰め込んだアイスを早く持って帰らねば皆からどれだけ文句を言われるか分かったものでもなく。名残惜しく涼しい場所に背を向けて歩き出して、しばし。
 学校からコンビニまではさほど離れていないけれど、空の陽光を遮るものはなにひとつとしてない路上で涼を求める事はそもそも無駄だろう。日陰を欲しても太陽は未だ頭上高く、道端に並ぶ街路樹も元気を失って枝が垂れ気味になってしまっている。道路の両側を埋める家々の中の、庭に咲き乱れる向日葵も太陽を向かず、疲れたように花も萎びている。
「アツイ」
 アンダーも纏わず、直接素肌にユニフォームの天国が襟元を広げ、前後に揺らしながら呟いた。ふと、そんな時に限って視線を感じてなんだ、と上目遣いに隣を見れば、パッと彼は前を向き直って何事もなかったかのように振る舞ってくれる。
 言いたいことがあるのなら言えばいいのに、と心の中で悪態をついて天国は彼の手にも握られている、皺だらけのビニル袋を見下ろした。
 袋の膨らみ方は、均等に二分したつもりではあったのだけれど、ほんの僅かに彼の方が大きい。とげとげに袋を突き破ろうとしているアイスの外箱の形をなぞりながら、視線を徐々に持ち上げて天国は白いユニフォームから突き出た、彼の引き締まった腕をなにげ無しに眺めた。
 ずっと野球をやっていたからだろう、無駄な筋肉もなく浅く日に焼けたそれは、ところどころに薄い傷痕を見せつけている。そのどれもが古傷であり、既に治癒しきって久しいものばかりであろうことは目に見えて明らかなのだけれど、その傷の分だけ彼が激しく、辛い練習を繰り返してきたのだと思い知る。
 あまりにも自分とは違っている腕。あそこまで守備を徹底的に鍛え上げたのにはどんな理由があるのだろう。犬飼のように、速い球を投げてストライクをむしり取っていく事、そこに重きを置くピッチャーのようなポジションとは違って、ひたすらに守りを徹底させる彼の目標は至って見えにくい。
 自分のように、バッドに当たれば飛ばすことは難無いが守備はてんでダメ、という両極端なプレイヤーは、守備を極めつつも打撃にもそつない彼にどう映るのか。
 がさり、と彼の手元で白いビニル袋が鳴った。一瞬だけ持ち上げて、取っ手を握り治した彼の節くれ立った指が微かに揺れる。僅かに汗ばんだその指先が、彼もまたこの暑さをちゃんと感じ取っているのだと教えてくれた。
 じりじりと、地表を焦がす太陽を見上げる。あまりにも眩しすぎて二秒と見つめていられなくて、溜息混じりに俯いたまま歩き続けた天国だったけれど。
 唐突に、傍らに感じていた太陽とは違う熱が遠ざかって、驚いた。
 振り返る、ほんの少しだけ……一歩と距離が開いていないほどに直ぐ後ろに居た司馬が立ち止まって前でも、天国でもない方角を見ていた。
 なんだろう、と視線を彼がサングラス越しに見つめているだろう方向へ向ける。低い垣根の向こう側、誰が住んでいるのかも知らない通りすがりの家の軒先で、恐らくその家の住人であろう男性がゴルフの練習をしていた。
 まさか知り合いではなかろうな、ととても正解とは思えない思考を巡らせかけた天国の耳に、若干ノイズが混じった音が聞こえる。ざざざ、という砂嵐が時折混ざり混むラジオが、遠く甲子園で白球を追い掛けている高校球児に声援を送っていた。
 誰かがツーベースを打ち、二塁に居たランナーが生還したと力の入った実況が聞こえる。これで点差が一気に狭まったと、しかもまだ二・三塁にランナーが残り次は四番打者で逆転も充分可能だと、恐らくマイクを握りしめているであろう実況の熱弁が生温い大気を漂いふたりの耳にも届けられる。
 そう、恐らくは司馬の耳にもちゃんと聞こえているのだろう。
 自分たちが望み、求め、手に入れようとした栄冠は両手で掬い上げた砂のようにさらさらと指の間から零れ落ちていった。あの舞台に立つことが出来なかった自分たちは、来年こその願いを抱いて駆け回っている。
 地表を焦がす太陽は熱い。けれど、あの球場の、あのグラウンドは多分もっともっと、自分たちが体感した事のないくらいに熱いのだろう。
 野球をやる以上は、一度は夢を見るあの大舞台は。
「……司馬」
 照りつける太陽は容赦なくアイスを溶かしていく。早く戻らなければ部員に殴られてしまうだろう。彼らだって、この暑い中自分たちの帰りを今か今かと待ちわびているのだから。
 例えパシリであろうとも、自分の帰りを待ってくれている存在が居てくれるのは嬉しい。
 そしてなによりも、自分と一緒に歩いてくれる存在が在る事も、嬉しい。
「行こう」
 夢を求め、追い掛ける先は同じだ。同じ高校で野球を続けている限り、自分たちの最終目標は重なっている。だからその間は、同じ道を歩いていける。
 一緒に。
 天国は右手を差し出した。軒下に置かれているラジオから視線を外した司馬が、戸惑ったように天国の手を見下ろす。
 十二支高校野球部の夏が終わるのは、案外早かった。まだ夏本番の日々が残る中で、自分たちはひたすら秋に向けて走っている。
「しかしあっち~な。オレの分、先に食べちまおっと」
 にっ、と悪戯っぽく笑って。出した手を引き戻し左手を持ち上げて袋の口に右手を突っ込む。そこだけひんやりとした空気が漂っている事にホッとしながら、天国は自分で食べようと選んだソーダ味のアイスを探し出した。
 肘に持ち手を通して引っ掛け、抜き取ったアイスの袋を破く。案の定表面が溶けはじめているアイスを口に運ぶと、ヒヤッとした冷気が唇の周囲に広がった。舌先に載せたアイスの味よりも先に、冷たさが際立って天国は両肩を縮めた。
 大した冷たさでもないはずなのに、これまでの暑さが在ったせいか全身が震え上がりそうなくらいに感じられる。柔らかくなっている角を前歯で崩し、舌の上で転がした瞬間凍ったソーダは体温でじわりと溶けていった。
「ん~……美味いっ」
 幸せの絶頂とは恐らくこういう事を言うのだろう。心底美味しそうな顔をしてアイスを囓る天国を見下ろし、司馬は自分が持っている少々重いコンビニ袋を持ち直した。
 人差し指が滑らかなビニールの表面をなぞる。表面に残った微かな湿り気は、己の肌から溢れ出す熱の名残だろう。知らず、掌全体に満ちていた汗という名前の熱気を握り締め、司馬はしばし沈黙した。
 否、彼は元から寡黙で静かだったけれど。普段以上に、静かに。
 天国はそんな彼の様子にも気付かず、薄い気の棒を囲って固められたソーダ味アイスを熱心に囓っている。溶けだした表面を垂れて流れていこうとする僅かな一滴さえも勿体ないとばかりに、舌を伸ばして舐め掬い取って。
 赤い舌がちろちろと動き回る。熱気にあてられたように、司馬は目の前が一瞬眩んだ気がした。
 道路の両側をびっしりと隙間無く埋めていた住宅が途切れ、目の前に見慣れた高校の校舎が見え始める。ゴール地点まではもうじきで、天国は現在時刻を少しだけ気にし始めた。早く戻った方が良いだろう、アイスが溶けるのと先輩に殴られて怒られるのはほぼ同意義であり、どちらも彼にとっては不本意な結果である。
 折角暑い中を買い出しにいってやったのだから、皆にもこの冷たくて甘く、美味いアイスを食べさせてやるのがパシリとしての役目に違いない。どこか論点のずれた感のある事を言い、天国は司馬を振り返り急ごう、と声をかけようとした。
 しかし。
 司馬が、自分を見ていて。
 自分の、特にこの、右手に持って囓っているアイスを、見ていて。
 サングラス越しの視線では具体的に、司馬がどの箇所を見ているのかなど天国には分からないから、彼は勝手な思いこみから、司馬もまたアイスを食べたがっているのだと判断した。
 三分の一ほど減った、四角形をした棒アイスを彼は不意に、司馬へと差し出した。
 食べ差しで悪いけど、と彼の眼が笑って告げる。
「食べるか?」
 欲しいんだろ、と。
 この暑さだから、冷たいものが食べたくなるのは誰だって同じだよな、と。
 勝手に思いこんで、勝手に決めつけて、勝手に納得して、勝手に。
 自分と彼とが、同じ事を考えているのだと信じて。
 無邪気、に。
 司馬が息を呑んだ。サングラスの向こう側にある瞳が揺らぐ。一瞬だけ逡巡を浮かべた表情の意味を、天国は計り損ねた。
 耳に心地よい低音が近くなる。リズムだけしか分からなかったそれが、アップビートなテンポの激しい音楽だと気付いた時には、天国の顔に濃い影が落ちていた。
 ひんやりとしていた唇に、熱が被る。遠く、木立で休んでいたらしい蝉が突然の大合唱を始めた。
 耳鳴りがする。
 一瞬の熱はすぐに冷めた。天国を覆っていた影が遠ざかる。
「う……」
 耳の先まで赤くなった天国が、何かを言おうとしてけれど言葉が出てこず、もごもごと口を動かした先で溶けだしたアイスが雫を垂らし、棒を伝って彼の指先に流れて行った。
「あー! もう、アイスが溶けるからオレは先行くからなっ!」
 オマエはあとからゆっくり追い掛けてこい、と叫び、天国はその場で地団駄を踏んだと思ったらあっという間に駆け出して行ってしまった。司馬もまた、天国同様に頼まれもののアイスをいっぱいに詰め込まれた袋を持っている事など、彼の頭にはこれっぽっちも残っていなかった。
「…………」
 どうしたものか、とひとり取り残された司馬は段々小さくなっていく天国の背中と、自分が持っているアイスの袋とを交互に見つめてから自分も少しだけ駆け足気味で、進み出した。
 校舎はもう目の前で、正門を抜けて右に曲がれば野球部が使っているグラウンドが見えてくるはず。一足先に辿り着いているはずの天国が、あの真っ赤な顔をどう皆に言い訳しているのかが少し気になったが、あまりにも速く自分が追いついてしまっては、彼もきっと困るだろうから。
 と言うよりも、何故あんな事をしてしまったのか自分自身でさえ、理由を問われたら困ってしまうのだけれど。
 あの瞬間の彼の顔を思い浮かべる。見る間に赤く染まっていく彼の顔を脳裏に描き出して、急に、恥ずかしさがこみ上がってきた司馬は自分の口元を右手で覆った。
 やや土臭い、グラウンドの匂いが染みついた指が鼻先にぶつかる。
 大地を焦がす太陽の熱よりもずっと熱い、唇がひりひりと痛い。
 先に戻った天国が伝えたのだろう、グラウンドの方から部員の何人かが駆けて来るのが色の混ざった視界に映った。彼らは一目散にアイスへ飛びつき、袋を奪って溶け出そうとしているそれらに食らいつく。
 餓鬼地獄に落とされた亡者の如き人混みを掻き分けるようにして進み、ひとり木陰のベンチに休んでいる天国を見つけて近付く。残りひとくち分程度しかないソーダアイスをちびりちびりと舐めていた彼が、司馬の影に気付いて顔を上げた。
 自分の分になるはずだったアイスまで奪われてしまって、手ぶら状態の彼を見つめ、ざまあみろとでも言いたげな視線を向けた天国に、司馬は小さく肩を竦める。
 けれど。
「ほら」
 最後のひとくち分、残されているアイスの棒を司馬に差し向けた天国が悪戯っぽく笑った。
 甘い甘い、ソーダ味が口の中いっぱいに冷たさを伝えて広がっていく。
 その中で、最後にチロッと舐めたひとくちだけが、どの夏の体感よりも熱い夏をその場に残して消えていった。

02年8月中旬脱稿