雨の日の午後の憂鬱

 雨が降っていた。
 ハヤトがリィンバウムに来てから、これで数度目の雨。そういえばまだ両手で余るくらいしか、雨の日は体験していないなと、ぼんやりと外を眺めながらハヤトは考えた。
 さして気にしたことはなかったけれど、確かにサイジェントの町は降雨量が格段に少ない。それでも水に困らないのは、すぐ横を流れるアルク川のおかげだろう。
 北の山脈を水源とするアルク川は年中豊かな水量を保ち、サイジェントの町の発展に大きく貢献してきた。しかし、町が流す汚水の影響で、サイジェントよりも南の大地は死の荒野と化してしまっている。
 雨の日はなるべく外に出ないで、雨水も頭からかぶらないように、と最初に雨が降った日にリプレからお達しが出ていた。理由を問うたら、彼女は即答こそしなかったものの、あまり健康に良くないから、と言った。
 つまり、酸性雨か。
「そうだよな……工場から煙をあれだけ上げておいて、空気も汚染されてないわけ、ないよな」
 どんよりとした空を見上げて、ぽつりとハヤトは呟く。
 雨の日は暇だった。する事がないから。
 掃除をしようにも、窓を開けたら雨が吹き込んできて余計に床が汚れるだけだし、かといって窓を閉めたまま掃除をしたら、埃が舞い上がってそれどころではなくなる。部屋の片付けをするにしたって、片付ける必要があるほど荷物が沢山あるわけでもなく。本を読もうにも、ハヤトはまだこちらの世界の文字に精通していない。せいぜい、ラミなんかが読んでいる絵本が精一杯だ。それも、絵があって初めて文章の内容を理解できる程度でしかない。
「退屈だな」
 広間の窓から庭をぼんやりと片肘ついて眺め、ハヤトは呟く。周りには誰もいなくて、彼の独り言に答えてくれる人もない。
「はぁ」
 子供達は書き取りの勉強だし、キールは部屋で調べもの。リプレは台所で食事の支度だし、ガゼルはさっさとふて寝を決め込んでしまった。エドスとレイドは仕事。今ハヤトに構ってくれる人は誰もいない状況で、それが余計にハヤトを暇にさせていた。
 自分も勉強すればいいではないか、とも思うのだが、どうも子供達と一緒に、というのは気恥ずかしさが先に立つし、いい男が情けない、とも思う。以前レイドに教わった剣の手入れをしても良いのだが、やはり水分の多い雨の日は不向きではなかろうかと考えると踏ん切りがつかない。
 昼食を終えて、はや数時間。夕食までにはまだ早いが、おやつなんて気に利いたものをここで期待するのは酷というもの。しかし、何もしていないのに関わらず腹の虫は容赦なく空腹を訴えてきていて、ハヤトはため息をついて肩をすくめた。
「なにやってるんだろう、俺って」
 こんな自分は情けなさ過ぎると愚痴をこぼしても、だから何か仕事が見付かるわけでもなく、嫌になる。
 雨は嫌いだった、昔から。
 外で遊ぶのが大好きだったから、雨が降ってグラウンドに出られないときは学校も楽しくなかった。小学校の時に廊下でドッジボールをして、窓ガラスを割って先生に怒られたのも、雨の日だった。
 もともと一箇所に留まり続けることが苦手な性分であるから、こうやってただ雨を眺めているのも実は結構、疲れるのだ。じっとしているよりも体を動かしている方が気も紛れるし、楽しい。それが仲間達も一緒となると、楽しさは倍以上に膨れ上がる。
 でも、今ハヤトはひとりきりで、外に出ることもままならない雨の日の午後を過ごしている。こういう日に限って、時間が経つのが遅く感じるのも嫌いだった。
 ガゼルのようにふて寝をしても構わないのだが、それだと夜に眠れなくなってしまう。
「はー、退屈」
 ごろん、と床に転がって左右に揺れながら天井を見上げる。年期の入った造りをしている孤児院は、あちこちにシミを残しているがそれも、ここを巣立っていった身よりのない子供達の勲章であろう。
 吊されたランタンの光がほのかにハヤトの顔を照らし出している。昼間でもランタンが必要なくらいに外は薄暗い。もし今眠っていて目覚めたとしたら、もう夜かと錯覚してしまう程に。
 でも、ハヤトの部屋には窓がないから起きた瞬間に現在時刻を知ることはほぼ不可能だたりする。
「暇は平和な証拠、って誰が言ったんだっけ……?」
 ランタンのまぶしさを片手で遮り、ぼうっと天井を見上げながらハヤトは呟く。床の上に直接寝転がっているため、背中が痛いし汚れるかもと思ったものの、他に寝転がる場所もないので移動はしなかった。
「なにをしているんだい?」
 そのまま目を閉じれば、眠ってしまいそうなくらいに意識が遠く沈んでいって、片手を顔の上に残したままだったハヤトの真上から声が降ってきたときは、正直とても驚いた。
「あれ? キール」
「あれ、じゃないよ。危うく踏んでしまうところだった」
 ここは広間のど真ん中で、人が眠る場所ではない。そのまま下を見ずに歩いていたら、確かにキールはハヤトを思い切り踏んづけてしまったことだろう。無論、そんな馬鹿な真似を彼がするとは思えないが。ガゼルだったら、絶対に嫌味も込めて踏んで通ったことだろう。
 第一発見者がキールで、良かった。
「特に、なにも」
 していないからこうして寝転がっているのだ。そう答えると、真上から見下ろしてきているキールは肩をすくめたらしい。呆れた表情が見て取れた。
「とにかく、起きて。僕だったから良かったけれど」
 手を差し出してキールがハヤトに起き上がることを促す。最初は面倒そうに不満げな顔を作ったハヤトだったが、じろりときつめの視線で睨まれてしまい、渋々その手に捕まった。
 しっかりと握り返されたことを確認し、キールは力を込めてハヤトを自分の方へと引っ張った。ハヤトも足を引いて立ち上がる動作を手伝う。
「よっ、とっとっと……」
 だが二本の足だけで立つのは実は数時間ぶりだった所為で、ハヤトは立ち上がった瞬間に足をもつれさせてキールに寄りかかった。わずかにキールの方が上背があるのだが、ハヤトを引き上げるために腰をやや屈めていた為に、キールの顎にハヤトの唇が掠めていった。
「あ、ごめん」
 歯がぶつかる感覚があったので、反射的にハヤトは謝っていた。
「いや……」
 キールもさして気にする素振りもなく、それだけで会話は終了してしまう。微かに感じる物足りなさは、この陰鬱な雨のせいだろうか。
 相変わらずのペースで降り続く雨は、土の地面を容赦なくぬかるませている。これが俗に言う恵みの雨でないことは、昨日の段階では元気があった草花が急に萎れてしまったように見えることで分かる。
 これは毒の雨だ。植物を弱らせ、人を苦しめる毒水だ。
 だがその毒を作ったのも、紛れもない人間自身だ。自分で自分の首を締めていることにも気付かない、愚かな人間の行為が自然を破壊していく。その後に残るものが、荒れ果てた大地とすさんだ心だけだということを、理解しようとしない。
 目の前の現実にばかり目をやって、私利私欲に走り全体を見ようとしないからこういう結果が生まれてくるのだ。
「ハヤト?」
 キールの腕に支えられるようにして立ったまま、ぼんやりと物思いに耽っていたハヤトだったので、彼は不審げに名前を呼んだ。途端、はっと我に返ったハヤトがキールの腕の中でびくっと震えた。
「あ……ごめん」
 さっきと同じ調子で謝罪の言葉を口にし、ハヤトは髪を乱暴に掻き上げるとキールから離れた。なにをこんなにも苛立っているのか、ハヤト本人にも分からなくて、だから余計に苛ついている。
「ハヤト」
 そのハヤトの頭を、キールがいきなり、何を思ったのかわしづかんだ。
「キール!?」
 一体なんだ、と非難の目を向けて叫ぼうとした瞬間、キールの手はハヤトの髪を、これまた乱暴に掻き回した。
 やや癖のある、見た目以上に剛毛の髪の毛はわしゃわしゃと音を立てて変な方向に曲がっていった。
「いたい痛い、痛いってば!」
 力加減を忘れたキールの無体な行動に、ハヤトは両手を使って彼の右手を押しのけた。刺激を受けすぎた頭皮はひりひりしている。離れていったキールの指の間には、数本の黒髪が混じっているのが見えてハヤトは泣きたい気持ちになった。
 何故に、こんなことに?
「キール……」
「いや、特に意味はない」
「……俺がそれで納得するとでも?」
「だが気は紛れただろう?」
 それだけのためにあんな事をしたのか、と問えば素直にキールは頷き返してくれた。かなり痛かったのに。動機がそんなところにあるようでは、怒るに怒れないではないか。
「紛れたけど……なんか釈然としない」
「だろうね」
「そう思うんなら、最初からやらなかったらよかったのに」
「あの時はああする意外、方法を思いつかなかった」
 淡々と交わされる、特に意味のあるように感じられない雑多な会話。だがひとりでいるときよりもずっと心は安らいで満たされる。
「なんだよ、それ」
「さあ……」
 それじゃあ、今ならもっと別の良い方法を思いつくのかと敢えて問うてみたら、もう君の機嫌は直ったから考える必要はないだろう、と返されてしまった。
「なんか納得いかない」
「だろうね」
 先程とほとんど変わらない台詞が繰り返されていることにも気付かずに、ふたりは場所を移してテーブル前の椅子を引いた。そのまま向き合って座る。
 リプレが台所でせわしなく動き回っているのをちらりとのぞき見て、それからハヤトはちゃんと椅子に背を預けて座り直した。まだ頭はひりひりしていて、触ると痛いが触らずにいられないのも、人間の性分という奴か。
「大丈夫かい?」
「お前がやったくせに」
「その前に君も、自分で掻きむしっていただろう?」
「それとこれとは話が別」
 すっぱりとキールの言い訳を一刀両断し、ハヤトは癖がついてしまってはね上がった髪の毛を指で軽く引っ張った。
「そういえば、キールの髪の毛も外に跳ねてるよな。それ、わざと?」
「いや、これは勝手に……」
「ふーん。その割に綺麗にはねが揃ってるケド?」
「今日はやけに絡むね」
 逃げたな、と明らかに分かるキールの話の転換ぶりに、ハヤトは苦笑する。だが確かに、今日はやたらとキールに突っかかっているような気がする。
 多分、雨の所為。
 それと、今までずっと暇を持て余していたからだろう。
 せっかく話し相手が出来たのだから、少しでも長く話を続けたい。それは欲張りな強請りではないはずだ。
「でも嫌じゃないんだろ?」
「まあ、ね」
 たまには悪くない、と呟いてキールはテーブルの上に肘をついた。横向きにハヤトの顔を眺めて微笑む。
「なに?」
「いや、特には」
「じゃ、なんで俺ばっか見てるわけ?」
「他に見るものが見当たらないから、かな」
 強いて言うならば、と付け足して彼は意地悪げに笑ってみせる。ハヤトは決まりが悪くなって、一度は頬を膨らませてそっぽを向いたものの、すぐにまた姿勢を戻してキールと向き合う。
 しばらく、会話は途切れた。
 一度切れてしまった糸をつなぐのは苦労で、ともすればクロストークになってますます言い出しにくくなってしまうのは良くあること。それに、今は取り立てて話さなければならない事も思いつかない。
 どうしよう。
 それが、今のハヤトの率直な気持ち。ついでに言うなら、キールが今何を考えているのかもさっぱり分からない。だから、迂闊に言葉を発せられないのかもしれない。
 だが沈黙は重いわけでも苦しいわけでもなく、むしろ誰かと一緒にいる安心感を覚えてハヤトはホッとする。こうやって、ひとりではないことを体感している自分に安堵しているなんて、きっとリィンバウムに召喚される前は考えもしなかったことだろう。
 地球の、日本にいたときはひとりでいる事なんてほとんどなかった。
 学校に行けば友人に会えるし、クラブに出れば先輩や後輩がいて、体を動かして余計なことを考える余裕もないほどに忙しい。家に帰ったらテレビがあって、一日中自分の周りには、そう、音が溢れ返っていた。
「そっか……」
 感慨深げに呟いて、ハヤトはキールから視線を窓の外に向けた。降り止む気配の見えない雨空は遠く、静かだ。
 水の音だけが耳に響いている。
「音が……しないんだ」
 車の排気音、飛行機のエンジン音、テレビの無駄とも思える大音響に生活に密着した、例えばガスだったり電気だったりの稼働音。そういったものがここには一切存在していないのだ。
「音?」
「そう、音。静かだ」
 自然の音しかしない。人工物の無機質で味気ない、それでいて冷たい感じのする音がしない世界だ。
「確かに……静かだね」
 キールも相槌を打って、でもきっとハヤトとは違う部分を感じて呟く。
 彼はハヤトのいた世界を知らないから、それも仕方のないことだろうけれど。それでも彼がハヤトの気持ちに同調してくれたことは、素直に嬉しいと思える。
「変だな。今まで気付かなかったなんて」
 この世界がいかに音に溢れ、満ちているか。そして自然音の柔らかさがどれほどに心休まるのか、ハヤトは知らなかった。だから今、そのことに初めて気付いたことに素直な驚きと感激を覚えている。
「珍しいのかい?」
「珍しいとかそういうのじゃなくて……うーん、でも上手く説明できない」
 言葉にしたくて喉のすぐそこまで上がってきている感情は、だがきちんと相手に伝えられるような言葉を持たなくてハヤトを困らせた。
「いいよ、無理をしなくても。なんとなくでしかないけれど、分かるから」
 僕も、ここに来たばかりの時は音の数の多さに圧倒されたから、とキールが笑う。
「ああ、それの逆……俺の場合」
「そうだろうね」
 音がする。それは、そこに何かが生きている証拠。命が宿っているという、一番簡単な証明の仕方。
「僕達が生きている事を示す最初の音……」
「それ、俺も分かる」
 キールが言わんとしていることを先読みし、ハヤトは右手を伸ばしてキールの心臓部分を、彼の服の上から触れた。
「いのちの鼓動、だろ?」
「ご明察」
 小さく笑って、キールもまたハヤトと同じように彼の胸に手を添えた。
 感じる、相手の拍動。生きているということを何よりも如実に、雄弁に語りかけている。そして安心する。そこに確かに彼が生きているのだと。自分も同じように生きているのだと。
「すごい……なんか、どくどく言ってる」
「君こそ」
「俺の所為?」
「さあ、どうだろう」
 短い会話、だけど不満はなかった。
 感じている、相手を、そして自分を。心音が重なって、ひとつに繋がったような気がする。
「な、キール」
「うん?」
「俺のこと、好き?」
「どうして?」
「理由なんてないけど……な、俺のこと好き?」
 もう彼は椅子になど座っておらず、キールの足元に来て膝を折ってしゃがんでいて、下からのぞき込むような体勢から囁く。ともすれば雨音にかき消されてしまいそうな程の声は、キールにしか聞こえない。
「……どう答えて欲しい?」
「好き、って」
「何だか誘導尋問みたいだ」
「からかうなよ」
「仕掛けてきたのは君の方だろう」
 互いの吐息が顔にかかるくらいの距離を保ったまま、ふたり向かい合ってささやき合う。キールの手がハヤトの胸から離れ、まだ自分の胸の上に残されていたハヤトの掌をそっとすくい上げた。
 ちゅっ、と軽い音を立ててそこにキールがキスを贈る。
「部屋、行こうか」
「返事は?」
 なかなか言ってくれないキールに焦れて、ハヤトは唇を尖らせる。会話がかみ合わない。
「ここで?」
「俺、言ったぞ」
 ハヤトの指先がキールの唇にいいように遊ばれている。甘い刺激がほんのりとハヤトを包み込むが、その程度で誤魔化されては悔しいだけだ。たまには主導権を確保してみたい。だがどう足掻いてもハヤトの頭脳ではキールには勝てそうになかった。
「いいのかい? 聞かれても」
「今こうして、お前がやってることを見られる方がずっと恥ずかしいだろ……」
 キールの赤い舌がハヤトの指の間に入り込み、一本一本を丁寧に舐め上げている。ハヤトの言う通り、この様子を見られたときの方が、言い訳に困るかもしれない。
「誰も来ないよ」
 人の気配には敏感なキールだから、誰かが近づいてきたらハヤトよりも先に気付く。確証を持って言われてしまったハヤトは、左手で顔を覆った。
「じゃあ、いいだろ。言えよ」
 赤くなった頬を押さえ、ハヤトはわずかに緩んだ瞳でキールを見上げる。
 くすっ、と彼は笑った。
「愛してる」
 きっぱりと、いつも以上に甘い声で、しかも耳元で囁かれてしまった。がくり、とハヤトの膝が折れてぺたんと彼は座り込んでしまう。
 真っ赤だ。
「信じらんねー」
 ずるりとキールの手から落ちた右手も使って、顔を覆い隠すようにしたハヤトからはそんな感想がこぼれる。
「腰に来た…………」
 一瞬きょとんとなったキールも、数秒後に理解して困った表情を浮かべる。
「立てるかい?」
「無理かも……」
「せがんだのは君の方なのに」
「だからって、いきなりそれは……不意打ちだって」
「そうなのかい?」
 真剣に応えたつもりだったのだが、どうもそれが悪かったらしい。
「俺、耳が駄目なの知ってるだろ」
「…………済まない」
「謝る前に、手、貸せ。このままじゃ立てない」
 左手を差し出して今度は自分から、立ち上がるのを手伝ってもらう。キールに引き上げられたハヤトは、まだ頼りない足で椅子にしがみつく。
「部屋に行こうか」
「誰のだよ」
「君の行きたい方へ」
「……じゃ、お前の部屋」
 なんだかこの一瞬だけでものすごく疲れてしまった。
「了解」
 力の抜けたハヤトの身体を支え、キールはゆっくりと歩き出した。
 雨はまだしつこく降っているが、西の空は少しだけ雲間が切れて明るくなってきているから、夜遅くにはこの雨雲も消え去るだろう。明日はきっとまた、良い天気だ。
「……ま、いっか」
「なにが」
「こういう暇な日も、たまになら」
 悪くない。