まだらの雪

 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
 数えることも忘れた、毎日の生活。ただ自分たちが生きるだけで精一杯で、無機質に繰り返される日々に飽きもせず、土に鍬を入れ、額に汗して生きていくための糧を作り出す日常に。
 慣れてしまった、今。
 かつてともに戦い、苦楽を分かち合った仲間達のことを思い出す事もだんだんと少なくなっていく。日が昇れば川に水を汲みに行き、畑を耕し、日が暮れるまで働き続ける。あのころを懐かしむ余裕さえ持つことが出来ないまま、時間だけは容赦なく過ぎていった。
 その事に気づきもせず、ただ、ある日。
 夜半やけに冷え込んだとは思っていたけれど、まさかもうこんな時期から。
「わー、雪だぁ」
 山の中の小さな丸太小屋、ふたりだけの家。訪れる人もなく、里に調味料や衣服を買いに行くとき以外は滅多に出歩くことも忘れてしまった幼い姉弟。その片割れが早朝、戸口を開けて空を見上げ感嘆の声を上げた。
「見てよ。ほら、雪だよ」
「うん」
 寒いから早く閉めて欲しい、とは口にも出さず彼は粗末な暖炉に薪をくべて火を付ける。薄い紙に灯された小さな火は乾いた小枝に燃え移り、そして太い薪に火が宿る。表皮の爆ぜる音がして、小屋と評するべき家の中はにわかに明るくなった。
「なによー、つまんないの。もっと喜べばいいのに」
「だって、寒いよ」
 唇を尖らせて振り返る姉に肩を竦め、薪が燃えさかるのを見届けた彼は立ち上がった。
「風邪引くから、何か羽織った方がいいよ、ナナミ」
「うー」
 まだ面白くなさそうな顔をして不満ありありのナナミに言い、彼は壁に並んだ小さな行李の蓋を開けた。中から毛皮のコートをとりだし、それを持って戸口に向かう。
「もうこんな季節なんだね」
 弟からコートを受け取り、素早く袖を通した彼女はぽつりと呟いた。
「山の中だから、ね。本当ならもうちょっと遅い時期だったと思う……まだ冬支度終わってないのにな」
 ナナミの横に並んで彼は言った。視線は外、遙か上空に向けられている。
 しんしんと降り続く雪、地表にはうっすらと白い膜が出来上がっていた。穢れることを知らない白さが眩しすぎるくらいで、彼はふっと哀しげに表情を曇らせた。
「セレン?」
 上目遣いにナナミが彼を呼ぶ。この数ヶ月の生活ですっかり鍛えられた彼女の弟は、信じられないほどに背が伸びた。少し前までは肩を並べていられたのに、今では見上げなくてはその表情を伺えない。
 少し、悔しい。
 彼だけが大人になっていくようで、置いてけぼりをくらった感じがする。
「ナナミ?」
 黙り込んだ彼女に声をかけ、セレンは再度空を仰いだ。
 薄暗い灰色の空から小さな小さな雪が舞い降りる。それはとても綺麗だけれど、降り積もると人を殺しかねない自然の驚異と姿を変える。幸いにも肉の塩漬けはこの前作り終えて床下の貯蔵庫にしまい終えたばかりだし、野菜もいくらか同じ場所に用意した。小麦や、調味料が心細いのでもう一度か二度は里に下りていかなければいけないだろうが、冬支度はおおむね順調に進んでいる。
「道が見えなくなる前に、買い出しに行かないと」
 吐く息が白い。ナナミにだけコートを羽織らせて置いて、自分は厚めのシャツを着ているだけのセレンのひとことに曖昧な笑みを浮かべて彼女は頷く。
「今度は私も一緒に行くね」
「うん、お願い」
 ほんの少し前までは私の方がしっかりしていたのにな。ナナミが呟く。
「なに?」
「なんでもない」
 フルフルと首を振ってナナミは笑った。
「もう冬なんだねー」
「そうだね」
 あれからどれだけの時間が経ったのだろう。
 もう数えるのも忘れてしまった毎日の生活。忙しさに言い訳して、あの日々を忘れようとしている自分たちがいる。
 それは罪の意識を心の何処かに遺している証拠。思い出さないのは、思い出したくないから。思い出すたびに胸が痛むから。
 こんな人里離れた山奥にまでも、都市同盟とハイランドの戦況は伝わってくる。多少時間的ずれがあっても、人々の興味がそれだけ深いということの現れなのだろう、思った以上に正確な情報が伝わって来ている。
 その多くは里に買い出しに出かけたとき集めてくるのだが、たまに狩りに山に入ってくる男達が休息の場所を貸してくれとやって来たときにも、噂好きの女に負けないほどに色々なことを教えてくれた。おかげで知りたくもない戦況を知ることになる。
 彼らのようなお人好しの狩人も誰も、セレンとナナミが現在苦境に立たされている同盟軍の元メンバーだった事を知らない。知らないからこそ、あの戦術のどこが悪い、あの指揮官のどこがいけない、と好き勝手批評できるのだ。
 そしてかつての仲間達が真実を何も知らない無知な人々に貶されるたびに、彼らが心を痛め罪の意識に苦しめられていることにも、気づかない。
 難民は増え続ける。暴挙止まないハイランド軍の侵攻は休むことがない。大地が荒れ果てていく、耕し手を失った田畑は草が生い茂り容易くは昔のような耕作地に戻ることが出来ない。下草を刈るものがいなくなった山林もまた、荒れる。枝打ちをしないまま放置された樹は曲がりくねり、建築資材諸々の用途には適さない。病気にかかった樹を治療する人間がいなければ、山肌は見る間に枯れ草色に染まるだろう。
鉱山で働く男達が戦場に奪われる、そうして鉱物は減少、貴重化して値が跳ね上がる。
 穀物も手に入りにくくなる。貧しい人を相手に商売をする卑しい輩が現れて、暴利をむさぼり私腹を肥やす。
 戦場でもない場所で人が死ぬ。
 飢えと、絶望と、強迫観念と恐怖に殺されていく。
 一度でも土を耕し、自分で食べ物を拵えて生きていく術を知っている人間は、その大変さや生命を育むことの難しさ、大地の恵みと厳しさ、優しさ、暖かさ、そしてなによりも生きることの楽しさを知っているから。
 絶対に、戦争を起こそうなどという気を起こさない。
 戦争を起こし、争いの火種を作り出し、血に飢えた獣のように戦場を駆けめぐるのは、上から見下ろすことに慣れてしまって、大地から離れた生き方しか知らない傲慢で愚かしい人間だけだ。
 そのことが、ここに来てよく分かった。
 土と木の匂いに包まれて草のベッドに横になり、小川の冷たい水で顔を濯いで恵み豊かな森に暮らす。雨が降れば蛙の大合唱を聞き、晴れれば畑でミミズとモグラを相手に格闘、お昼には大きなおにぎりを頬張って、暑ければ小川で水浴びをして、釣りをして夕ご飯のおかずを手に入れる。
 素朴で、単調で、繰り返すだけの毎日だけれど。
 それはとても平穏で柔らかくて、心地よい。
 けれど時折思い出す仲間の笑顔と、旅の道中で出会った多くの人たちが苦しむ姿、解放されたときの喜びの表情に表情は翳る。
 忘れようとしても忘れられるものではない。
 あそこに捨ててきたものは大きすぎて、抱えきれなくて、逃げ出した夜。
 荷が重すぎたとか、自分には向いていなかったとか、そんなことを考えていたのではなくて。ただ、本当に純粋に、彼女が泣くのが嫌だった、それだけ。
「冬だね」
 もう一度ナナミが呟く。空を見上げ、太陽のない灰色の雲に包まれた雪を降らせる一面の雲を眺めて。
 つと、彼女は右手を軒下からその先へと伸ばした。
「ナナミ?」
 同盟軍の行く末は険しい。リーダーだったセレンがいなくなった穴は予想以上に大きかったらしい。
 懸命に残ったメンバーが建て直しを計ったものの、軍内部の動揺は激しく一部の部隊にはこの戦争は勝敗が決したと言って同盟軍から抜けた人間が少なからずいるという。シュウやビクトールが頑張って残った兵士を纏め上げているそうだが、彼らはもとからそういう職に適していたわけではない。
 戦況は苦しさを増し、ハイランドは勢いを加速されるばかり。ノースウィンドゥの古城も、敵の眼前に晒されて裸同然だと。遺された道はデュナン湖に船を漕ぎだしてトゥーリバーへ逃げ延びるか、背水の陣を挑んで散るか、ふたつにひとつだと半月ほど前にやって来た猟師の男が言っていた。
「ね、セレン……本当に、これで良かったの?」
 同意を求めるような眼を向けられ、セレンは口澱んだ。なんと答えて良いのか解らない、それはセレンもずっと自問し続けてきた問いだったから。
 たったひとつ、解ることは。
「今更、だよ」
 あの時彼らは逃げることを選んだ。敵を前にして、ただ己を守るために背を向けて走った。仲間の好意に甘えて、無我夢中で山道を進んだ。
 後悔することぐらい最初から承知の上だった。それでも、あの時はこの道が最善だと思った、その気持ちに偽りはない。
 それに、これ以上ナナミの哀しい顔を見ていたくなかった。泣きたいだろうに気丈に振る舞って、人の心配までしてしまう彼女の無理に笑おうとする姿を見るのが辛かった。
 仲間よりもナナミひとりを選んだ。たった独りの家族を選んだ。
 差し出されたナナミの手の平に雪が舞い降りる。白い結晶はだがすぐに熱に溶かされて水になり、消え失せてしまう。
 あまりにも儚く、脆い。まるで人の心のようだと自嘲げに感じ、セレンは目を伏せた。
 昨日は茶色の土がむき出しになっていた場所が、もう雪の白に覆われて見えない。これはひょっとしたら根雪になるかもしれない、と空模様が途端に不安に思えてきた。
「今日のうちに薪を倉に集めて、それから買い出しに行こう。大急ぎになるけど、明日が晴れるっていう保証もないから」
 ナナミの肩を叩いて注意を自分に向けさせて、セレンは早口に言った。
「うん、そうだね」
 コートの端を掴んで握りしめ、彼女は頷くと最後にもう一度雪空を見上げて暖炉の火が暖かい屋内に戻っていった。
 開け放たれたままの戸を閉めるためにノブ代わりの木の取っ手を引き寄せたセレンは、残り僅かになった隙間から降り止まない雪を眺める。
「ねー、セス。セスのコートってどこにしまってあったっけー?」
 行李に頭を突っ込んで詰め込まれた衣服を荒らし回っているナナミが、大声を上げて彼を呼んだ。彼女は散らかすことに関しては天才的だったが、整理整頓、収納に関しては全くその逆だった。
「そこじゃなくて、そっちの大きい方だってば」
 ベッドの上に容赦なく撒き散らかされた衣服に肩を竦め、呆れ顔のセレンはまだ蓋が閉められたままの残る行李を指差す。
「いいよ、僕が自分で探すから」
「だめー! たまにはお姉ちゃんに頼りなさい」
 セレンが行李に近付くと、ナナミは飛んでその行李の上にのし掛かってしがみつき、頬を膨らませて唇を尖らせた。
「ナナミ……」
「お・ね・い・ちゃ・ん」
 一字一句を区切って、強調して言うナナミに睨まれて、セレンは結局すごすごと退散した。頭を掻いて、ベッドの上に乱雑に積み上げられている季節はずれの服を畳むことに専念することにした。
 これでは、買い出しに行く時間が無くなってしまう。
「まぁ、いっか」
 けれど自然とこぼれた笑みにセレンは呟いて、ベッドに腰を下ろした。その時、怪我をしているわけでもないのに包帯が巻かれた右手が視界に入ってきた。
 重い沈黙、そしてため息。
 いつか、決着をつけなければいけないのだろうか。その日は来るのだろうか、逃れる術はないのだろうか。
 ちりり、と焼けるような小さな痛みに顔を顰めセレンは俯いたまましばらく動けなかった。
 輝く盾の紋章――だから、どうしたというのだ。27の真の紋章がもたらすものは戦乱と悲劇ばかりだ。そうと知っていたら、こんな禍々しい力、絶対に欲したりはしなかった。
 ――強さが欲しい。力が欲しい。この子を守れるだけの力が、僕には必要なんだ。
 ジョウイ、君は君の選んだ生き方に迷いはないのか、後悔は無かったのか。この戦乱の時代が君の求めた世界だと信じたくはない、だけどもう、何もかもが遅いのかもしれない。
 ふたりの生き方はあまりにも離れすぎた、わかたれた紋章が引き合う力さえ届かないほどに。
 だがもし、決着をつけるときが来たとしても。
 白い包帯の上から、セレンは紋章に爪を立てる。新たな痛みにもうひとつの痛みがかき消される事を期待して、彼は容赦なく自分の甲に爪を押し込む。
 苦々しい表情に、哀しみの色が消えない。
「お前の、思い通りにはさせない……絶対に」
 吐き出すように囁かれたセレンの言葉に、手を止めて黙っていたナナミはやはりなにも、言わなかった。