そして僕らは旅に出る

 具体的に、夏がいつからいつまで、だなんて知らない。
 けれど学生にとってその区切りは大抵夏休みで、それが終わると同時に夏も終わったような感じがする。
 一ヶ月半ぶりに出会うクラスメイトの、それだけの短いはずの期間で驚くほど違ってしまっている姿に驚いたり、思い出を語り合ったりする中でぽつんと、置き去りにされたような錯覚。確かに自分たちは長期休暇に入る前よりもずっと日に焼けて逞しくなった、そんな印象を見る側に与えているらしかったけれど。
 夏、という季節が知らぬ間に終わってしまったような、夏に置いてけぼりを喰らわされたそんな気持ちが、心の何処かでくすぶっている。
 だから、オレ達は。
 土臭いグラウンドで白球を追い続けた夏から自分たちを取り戻すべく、旅とも言えない旅に出た。

 高校球児の夏は七月で終わるか、八月で終わるかで大きく違ってくる。そして大抵の球児は八月を迎える前に、夏場の大きな山を通り過ぎてしまう。八月にはもう秋に向けての準備を始め、新チームでの練習が繰り広げられる。
 三年生は引退し、冬場、もしくはそれ以前での受験に向けて頭のスイッチを切り替えて。二年生以下は新たに選定されたキャプテンの下、レギュラーを目指してひたすらにボールを追い掛ける日々が続く。
 県立十二支高校の夏は、七月で終わった。今年も、その先に進むことが出来なかった。
 三年生が去り、人数も減って少し寂しくなったグラウンド。けれど変わらない練習量とそれ以上に、もう負けないための自主トレーニング。その連続を繰り返すうちに世間一般で言う夏は終わり、学生の本業は勉強である、という姿勢に戻らねばならなくなっていた。
 結局どこかに遊びに行くこともなく、皆が集まる機会は大抵、大量に提出しなければならない宿題を解決するために知恵を出し合おうと、足りない頭を補い合ってああだこうだと言いながら問題集と格闘したくらいで。この時ばかりは、辰羅川の存在が非常に有り難く、練習後帰宅してからこつこつと少しずつノルマを片付けていった子津のノートも重宝された。
 夏休みの最終日、監督の恩寵で練習が休みになった日、持ち込まれた手をつけていない宿題の量が一番多かったのは案の定猿野で、その次は兎丸だった。何事も大抵そつなくこなす司馬は三分の一を残すばかりで、辰羅川と子津は当然すべて終わらせていた。犬飼は、兎丸よりも少なく司馬よりは多い量、残っていた。
 騒がしかった子津の家で夜が更けるまで宿題に取り組んだ彼らは、いつの間にか過ぎ去った夏を思ってふと、薄暗い庭を見る。風はまだ熱っぽさを残していたけれど、八月の半ばに感じたあの茹だるような熱さは遠ざかり、季節は間もなく秋を迎えようとしている。それが分かる空気を肌で受け止めた彼らは、誰もが一様に静かだった。
 来年こそ、と誓いを新たにした三年生の引退の日。自分たちが叶えられなかった夢を必ず見せてくれ、と言い残したキャプテンの姿は暫く忘れられそうにない。
「夏、終わっちまったな」
 忙しくノートに向かっていた猿野が、視線を落としたままぽつりと呟く。誰もが言わなかった言葉を口に出した彼に集められた視線が合計して、十。勿体ぶったように彼は笑い、自分を見つめている仲間達を見上げた。
 悪戯を企んでいる時の、笑顔。歯を見せて笑う彼に怪訝な表情を浮かべる者も少なからずいたが、誰ひとりとして新たに声を発せようとしなかったのは恐らく、考えている事が皆同じだったから、だろう。
「まだ終わってないよな、夏」
 夏期休暇が終わり、学校が始まっても。
 夏の高校野球が終わり秋の県大会へ向けて、新チームで優勝すべく練習を積み重ねていても。
 空気が含む熱が薄れ、喧しく鳴き喚いていた蝉の声も遠ざかり、闇の中で羽根を擦り合わせ鳴く虫の声が響き渡るようになっていても。
 夏は、まだ。
 終わらない。
 そう思っている限り、今年の自分たちが過ごした夏は途切れない。
 黙っていても秋はやってくる、三年生が抜けた穴を埋めて新チームでの試合がこれからも目白押しだ。秋の大会結果如何によっては、春野選抜で対象高校に選ばれる可能性だって低くない。
 この先も永遠に、準決勝や決勝止まりの高校でいない為にも。
 自分たちが在学している間に、大きな花火を打ち上げてやりたいではないか。けれどその為にも、気持ちを切り替える必要がある。
 夏を終わらせる為に。
「行くか?」
 皆を見つめながら目配せをした彼に、拒否を発言する存在は居なかった。
「そうですね、折角ですし一度くらいは良いかもしれません」
 くいっと眼鏡を押し上げて、辰羅川が浮かんだ汗を首から吊したタオルで拭き、言った。
「面白そーだし、ボクは賛成!」
 身を乗り出して座卓に片手を置いた兎丸が、元気良く声を弾ませて挙手しながら笑う。
「良いっすね。でも練習を休むわけには……」
「…………」
「ちっ。とりあえず、ついてってやらないこともないがどうする気だ?」
 賛成の意見を表面した残りの三人だったが、子津が申し訳なさそうに言った練習をさぼるのは良くない、という意見もまた全員一致。一日でも休めばその分を取り戻すのに三日必要だとかなんとか、言い出しそうな勢いのある先輩方と監督を説得する事は難しい。休日は前日、朝から晩まで練習と試合が既に組まれていてそこから予定を立てるのは不可能だろう。
 口澱んだ子津に、猿野はしかし何を言っているんだ、と目を丸くした後意地が悪そうににやりと口元を歪めさせた。座卓の下で組んだ胡座を解き、握っていたシャープペンシルを投げ捨てて。
「明日行くんだよ」
「えぇ!?」
 明日、9月1日。俗に言う始業式。但しその日も例外なく朝練はあり、夕方からの練習も自主参加だが予定されている。グラウンドは七時まで使えるように手配されており、いつ来ても構わないと昨日の段階で言い渡されていた。
 朝練が終わって、夕方の練習を始めるまでの時間は大体で六時間。
「海くらいなら、泳げずとも行くことは出来ると思いますよ」
 珍しく積極的に参加の意思を表明している辰羅川が、頭の中で学校へ行くための電車の沿線経路を思い浮かべながら言った。すると兎丸が、その中にあるひとつの駅名を口に出してそこへ行きたいと言い放つ。
 夏場は海水浴客で賑わうけれど、それ以外のシ-ズンでは乗降客は地元の人たちだけ、という小さな駅だ。海の目の前で、背後を振り返れば山も近く、幼い頃何度も親と一緒に遊びに行ったと彼は続けた。
 異論は出ず、真面目という形を切り取ったような性格をしている子津も最初は渋っていたが、他の面々の勢いに押されて頷き了承の返事を出した。
 始業式、長い校長の挨拶が中心の朝礼があって、その後は学校内の大掃除と一部の宿題提出。大抵午前で終わってしまうその日しか、彼らが外へ飛び出せる日は思い浮かばなかった。
 いっそ授業をサボってしまうのも良いかと思ったのだが、それは辰羅川と子津が許してくれなさそうだった。
「じゃ、決まりな。朝練が終わってから、朝礼が始まるまで部室で身を隠してだな……」
 こういう悪巧みを発案する事だけには才能を存分に発揮する猿野が、声を潜め明日の予定を素早く組み立て始める。皆は顔を近づけ猿野のひそひそ話しを聞きながら、時折合いの手を入れ欠陥があるように思われる計画には茶々を入れつつ訂正を加えていく。
 夜も耽り、いい加減帰らねばならない時間帯になってようやく話はまとまり、まだ宿題が写し途中だった猿野だけが子津の家にお泊まり決行、その日は解散。
 明日の持ち物。
 練習着。始業式限定で提出が決められているプリントと宿題数点、これは同じくラスの他の野球部員に提出だけを頼む事にする。交通費、海までの往復分に食費なんかの経費をプラスしていつもより多めに財布に入れて置こう。地図は要らない、全然知らない場所じゃないし迷ったら迷ったで、その時考えればいい。
 みんな一緒なのだから。
 朝練、見慣れすぎて飽きてしまった面々と汗を流し、一般生徒が登校を始める時間帯にそれぞれ引き上げて。みんなが先に着替えて教室に向かう中、のろのろと制服に袖を通しロッカーに荷物を押し込んで。宿題関係をクラスメイトに頼んで、理由を簡単に説明して、仕方ないなと笑う彼らに土産という賄賂を約束して、チャイムが鳴るのを待つ。
 スピーカーから流れてくる、グラウンドに集合するように告げる声を聞き過ごして、人気がないグラウンドを一斉にダッシュで横切り校門とは反対の、いつも閉められている裏門をよじ登る。
「脱出成功!」
 校舎からは生徒達がざわつく声が聞こえてくる。こんな日だから、見回りに来る先生も居ない。呆気ないほどに学校から抜け出した総勢六人、鞄を背負い直して顔を向かいあわせて頷いて。
 猿野の威勢の良い声に、大声を出すなと犬飼が怒ってそれを辰羅川が宥める。ここで見付かったら元も子もないだろう、という子津の忠告に猿野は悪い、と小さく舌を出して謝り兎丸は速く行こう、と急かす。
 九月一日。
 まだ夏の暑さが抜けきらない太陽が眩しい空の下、彼らは急ぎ足で駅へ向かう。人の流れに逆らって、遅刻決定で学校へ走りながら向かう、見知らぬ生徒とは正反対の方角を目指して。
 アスファルトをスニーカーの底で蹴り飛ばし、ホームに滑り込んできた電車にスライディングで乗り込んで。全員が乗り込む前に閉まりそうになった扉を、猿野が持ち前の怪力でこじ開け、隙間から辰羅川が慌てて駆け込んだり。
 ラッシュアワーもとっくに終わった時間帯、ガラガラの車両で長座席を高校の制服で埋め尽くしたり。
 白く塗られた車両の床、窓から差し込む光を浮かべた四角形が徐々に菱形になって足許に吸い込まれるように消えていく。カーブを曲がり終えた電車の向こう側、兎丸が座席を逆向きに座って開いた窓の先に、白く輝く雲を頭上にした青一面が見えた。
 ざわめきが六人の間を通り過ぎ、「海だ」と誰かが呟く。
 他に誰も降りる人の無かった駅で切符を回収されて、降り立ったアスファルト。照り返しの熱も強い海辺の道路、吹き付ける風は潮の香りを紛れさせて彼らの鼻腔を擽った。
「おおー」
 海など見慣れていたはずなのに、随分と長い間ご無沙汰だったような気がして猿野は感嘆の声を漏らす。隣で司馬が聞いていたMDの電源を切り、犬飼は車内でひたすら眠そうにしていたのが嘘のように目を冴えさせて目の前に広がる一面の海を見つめていた。辰羅川は眼鏡を外してまたかけ直し、子津が落ちそうになった鞄を背負い直して浮かんだ汗を拭う。兎丸が、ぴょんっと小さく跳ねた。
「ね、行こうよ!」
「当然だ!」
 その為に来たんだ、と兎丸のひとことに猿野が相槌を打って握り拳を空に突き上げた。
 海を目の前にした駅、とだけあって本当に海岸まで道路一本を挟んだだけの場所に建っていた駅舎を駆け出し、彼らは防波堤へ降りる階段を下る事さえ面倒だとばかりに一気に飛び降りた。
 柔ら無くもない砂の上に着地し、靴の中に潜り込んだ砂粒にも構わず引いては寄せ、と繰り返す波間へ迫った。色を変えた砂浜の境界線まで近付き、波間に浮かぶ白っぽい透明の物体に気付いた兎丸が悲鳴を上げた。
 何事か、と眼鏡の向こうでそれらを確認した辰羅川が、やれやれといった感じで肩を竦める。犬飼がその場で拾い上げた木の枝を使い、柔らかくでぶよぶよしているそれを掬い出そうとして、見事に失敗した。
 夏が終わった海に大量発生するもの、水海月。
「こりゃー、泳ぐのは無理だな」
 海岸に打ち上げられているものだけでもかなりの数になる。沿岸に出ればもっと沢山いるだろう、水海月とはいえ、これだけ大量に発生している連中に囲まれるのは気分が良いものではない。水槽で少しだけ、優雅に泳いでいるのを見るのはまだ耐えられるけれど。
「兄ちゃん、泳ぐつもりだったの?」
 予想外だったらしい猿野の言葉に、兎丸が笑いながら聞き返す。
「海に来ておいて、泳がない方がおかしい!」
 自信満々で言い返した猿野だったが、司馬にくらげだらけの海を首指して首を振られ、渋々といった感じで諦めたらしく肩を落とした。
「ふん、バカ猿は考え方が単純だな」
「なんだとー! テメーこそ、泳げるのかよ。あ、犬だから犬掻きは出来るのか」
 腕を組んで猿野を笑った犬飼に、彼は即座に反論を返して喚き、自分で言いながらツボに入ったらしくぷっと吹きだした。子津が言い過ぎだと一触即発になりかけたふたりの間に割って入って止め、聞きながら楽しげに笑っていた兎丸が足許から貝殻を拾い上げる。
 その隣で、司馬が砂に埋もれた花火の残骸を拾った。
「花火かぁ、したいよね」
 折角海に来たんだし、と何気なく呟いた兎丸に、辰羅川はまだ昼ですよ、と返す。犬飼との口論を中断させた猿野が、けれど、
「良いじゃねーか、花火。昼だけどしようぜ」
「しかし花火は……」
「花火を昼にしちゃいけないっていう法律はない!」
 びしっと反論しようとする辰羅川に指を突きつけ、猿野はにっと笑いながら言った。迫力に負けた辰羅川が後ろに下がりながら頷き、聞いていた犬飼がその強引ぶりに嘆息する。子津はもうなにも言わずに苦笑を繰り返し、兎丸はやったと喜び勇んで防波堤を振り返ってコンビニがあったかどうかを思い出す。司馬が東の方角を指さし、じゃんけん大会が始まった。
 3対3で勝ち組は海岸に残って荷物番、残り三人が買いだし組でコンビニへ。ちゃっかり勝ち組に残った犬飼と子津にぎゃんぎゃん吼えた猿野は、辰羅川と兎丸に引きずられるようにして階段を登っていった。
 見送った三名はめいめいに場所を決めて砂浜に座り込み、司馬はMDの電源を入れて、犬飼は小さな貝殻を見つけては投球フォームをゆっくり描きながらそれを波間へ放り投げる。子津は三人分の荷物を前にして、今頃学校はどなっているだろうと思考を巡らせ時間を潰した。
 昼間の花火、はしゃぎ回る彼らを咎める人は居ない。時折犬の散歩をさせている地元の人が笑いながら通り過ぎていき、片付けていくようにとだけ忠告して去っていく。
 猿野は打ち上げ花火を両手に持って皆の方に向け、兎丸が逃げ回り子津は砂に足を取られて派手に転んだ。犬飼が階段の隅で線香花火の消化に務め、派手な色の変化をする煙を出す花火を手にした司馬が、サングラスの向こう側にある瞳を細めた。
 辰羅川に引っ張られて輪の中に戻ってきた犬飼に向け、猿野が飲み干した缶に刺したロケット花火を発射。危ういところで避けた彼は、もれなく反撃と称して猿野目掛けネズミ花火を投げ放った。
 砂に沈んだネズミ花火は、巧く回転できぬまま火薬を燃えつかせ消えた。
 藻掻いて、足掻いて。最後まで諦めずに頑張って、けれど燃え尽きてしまった花火。それはまるで自分たちのようで。
 夏が終わる。
 秋が来る。
 頭上、道路を挟んだ先にある線路から、快速電車が駅を通過して走り去る警笛が聞こえる。自分たちは立ち止まらずに夏の頂点を目指し、けれど急ぎすぎて目的地を素通りしてしまった。
「来年は」
 既に炎の消えた花火をゴミ袋に放り込み、猿野が呟く。
「そうっすね」
 最後まで告げなかった彼の言葉に、子津が頷いた。見上げた先に、仲間達が居る。
 悔しげに顔を歪め、そして瞑目し、笑顔を作って。
「来年こそ、だな」
 犬飼が己の左手を見つめながらいった。この手で掴み損ねた硬球の感触を思い出そうとしているような仕草に、静かな辰羅川の視線が被さる。ベンチで過ごさねばならなかった夏は、今年で終わりにしたい。だからこそ、明日からは気持ちを切り替えて上を目指す為に。
 たとえマウンドに立てなくても、グラウンドで皆と一緒に野球を続けると決めたのだから、少しでも長くその場所に自分も居続けられるように今まで以上の努力を子津は心に誓う。兎丸は一番打者としての役割を痛いほど思い知り、だからこそその重要性を忘れないように更なる精進を決める。守備の要である場所を任せられるだけの存在になれるよう、司馬は静かに響く波の音を聴きながら唇を噛みしめた。
 猿野が、海に向けて握った拳を突き出す。
「そうだ、来年こそ!」
 女の子と一緒に海に来るぞ、と。
 熱い宣誓を叫んだ彼の後ろで、五人が一斉に転んだ。
「違うだろっ!」
 真っ先に復活した犬飼が猿野に怒鳴りつけたが、彼は至って真剣な顔をしてしきりに海を指さして熱弁を振るうことをやめない。曰く、女の子と夏の海に来るのは男の野望だろう、と。
「ああ、真っ青な空と海に映える女の子の白い肌ときわどい感じの水着、跳ね返る水飛沫にちょっと照れたように恥ずかしそうな顔をする彼女。オレはその彼女をそっと抱き寄せて……」
 夢想の世界に入ってしまった猿野を呼び戻すべく、兎丸が後ろから容赦ないチョップをかました。子津がゴミ袋の口を締めて帰り支度を始め、司馬がそれを手伝い辰羅川が潮風で汚れた眼鏡のレンズをタオルで拭いた。犬飼が呆れた顔でそっぽを向く。
 一瞬だけ皆が猿野に抱いた幻想は、彼自らの手でうち砕かれた。
「た~っ! なんだよ良いだろ、オレら健全な高校生だぜ!?」
 野球ばっかりも良いけれど、少しくらい潤いってものを持とうぜ、とわめき立てる猿野を置いて、五人はさっさと防波堤の階段を登っていく。ノリの悪い仲間の背中を見送り、唇を尖らせた猿野はけれど、ふっと表情を隠すと視線を海へ流した。
 青く、どこまでも澄み渡って広い世界。彼はその青をうち破る思いで握った拳を突きだした。
 夏、最終戦、空を切ったバッド、キャッチャーミットに収まった白球。遠い歓声、目の前で抱き合う対戦高校の選手達。無言のまま項垂れる仲間、バックスクリーンで風に棚引く旗、動かない足。
 やって来なかった奇跡。
 二度と、あんな思いをしないと誓う。
 誰にでもない、自分自身に向けて。
「猿野君、電車が来ちゃうっすよー!?」
 防波堤の上から子津が大声で彼を呼ぶ。拳を戻して胸に置いた彼は一呼吸置いてから振り返り、いつもの笑顔を浮かべて手を振った。
 砂浜を駆け出す、全速力で。
 夏の悔しさを海に投げ捨てて、新しい想いを抱く。
 来年も、またこのメンバーで海に来よう。その時はもっと笑顔で居られるように、昼間の花火よりも輝いた笑顔で海に来よう。
 やはりがらがらの車内で、六人横並びで座席を占領して過ぎる景色を見つめる。
 いつの間にか眠ってしまって、降りる駅をみっつほど越えてしまって慌てて引き返して。始業式をサボった事は後から怒られたけれど、彼らの顔は潔いまでに晴れ晴れとしていて結局反省文提出でそれ以上のお咎めはなかった。
 夏が終わる。

 そしてぼくらは、

 旅に出る

02年7月中旬脱稿