一面の青空は何度も見たことがあるけれど、リィンバウムの青空は地球の、日本から見上げる空とは、色も、透明度もまったく違う。
空の蒼がこんなにも澄んだ美しいものだと知ったのは、リィンバウムに来てからだ。同時に、夜の空──星の輝きにも目を奪われた。
大きな月に、それを飾る星々の彩。それはきっと、日本にいたままでは見ることのなかったものだろう。
大気は澄み、咲き乱れる花の香りを漂わせた本来の風の匂いがハヤトの鼻孔をくすぐる。
いい天気だった。ぽかぽかした日溜まりの下で寝転がっていると、時間が過ぎるのも忘れてしまいそうになる。何をすることもなく、ただ空を見上げて流れ行く白い雲の行方を追いかけるだけでも、退屈だなんて思わなかった。
フラットのアジトを出て、南スラムを抜けてこっそりと誰にもいわずに一人でアルク川の畔にやってきたのは、昼食を終えてすぐのこと。特にしなければならない仕事もなく、今日はエドスがいるからアジトで留守を守る必要もない。たまにはこういうのもいいかな、とのんびりしたくてここに来た。
だけど、一ヶ所になにもせずに留まっておくのは、やはりハヤトは苦手だったようで。
暖かな日差しと適度に涼しさをくれる木陰、それに微かな花の香りを乗せた風に包まれて、いつの間にかハヤトはすやすやと眠り込んでしまった。
だから彼が、いつからそこにいたのか、まったく気付かなかった。
「う、ん……」
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。頭上高くにあったはずの太陽はいつの間にか西に傾きはじめている。
「ん……あ、れ?」
まだ半分頭が眠ったままの夢うつつの状態で寝返りを打とうとしたハヤトは、だが自分が今転がった方向に何か暖かなものを感じて重い瞼を持ち上げた。同時にその何か、を手で掴み撫でてみる。軽い衣擦れの音がした。
「なに、これ……」
寝ぼけたままの声が唇からこぼれる。数度まばたきを繰り返して、ぼやけていた視界を明確にさせて行く中で、朧気に今彼が両手でむんず、と掴んでいるものがはっきりと見えるようになった。
白い……日に焼ける気配のない、白い手。柔らかくてサラサラしている。
感触が気持ちよくて、そのままその手に触れたまま、頬を寄せる。すると手はくすぐったかったのかハヤトから逃げようと動いた。
駄目。逃がさない。
追いかけて、捕まえる。すると観念したのか、その手はハヤトの頬を逆に撫でてくれた。目にかかっている前髪をすくい上げ、脇に逸らす。その動きの中で指先がハヤトの顔に触れ、なんだかくすぐったい。
まるで飼い主に撫でられて上機嫌の猫みたいだね、とからかう声が遠くから聞こえたけれど、それさえも心地よくて。もうちょっと、聞いていたい気がした。
膝を折って胸に引き寄せ、丸くなって温かいそれに身を寄せる。
「にゃ~~」
猫の鳴き真似をしてやれば、頭上から苦笑が漏れた。今、白い手はハヤトの癖のない髪を優しく梳いている。
日が沈みかけているから、空気も少し冷えてきた。でも、ハヤトは少しも寒いとは思わない。むしろこの温度差が気持ちいいとさえ思う。
自分に触れてくる手から流れてくる体温が、自分を暖めてくれる。それだけで充分。
彼の膝に頭を移動させると、かさり、と紙が擦れ合う音がした。堅い感触が頭皮に触れ、顔をしかめる。するとすぐに気付いた彼はそれまで自分の膝を占領していた書物を脇に追いやり、ハヤトを迎え入れてくれた。
もう、それだけで嬉しい。
「ん……」
背中を柔らかな草の上で一回転させ、向きを変える。ごろん、と彼の膝の上でハヤトは仰向けに寝転がった。やや立て気味だった膝がゆっくりと下りて行く。
「ん~~」
まだ少し、眠い。
起きたくない。
このままでいたいけど……
だめ、かな……?
白い手は相変わらず飽きることなくハヤトの髪をいじっている。少し日に焼けて色の抜けた黒髪が、時折吹く風にさらわれて軽やかに踊る。
夕焼けが西の空を覆い尽くすまで、ふたりはずっとそうやっていた。
日が暮れる。
帰らないと、みんなが心配する。出かける事を誰にも言わずに来たから、多分、このまま帰らなかったらみんな大騒ぎで探し回るに違いない。
でも、まだ起きたくないんだ。
彼が起こしてくれるまでは…………
「ハヤト」
物静かで、柔らかな響きがハヤトの耳をくすぐる。
彼に名前を呼ばれるのは、好き。
「ハヤト」
困った顔を見るのも好きだけど、たまに見せてくれる笑った顔も好き。怒った顔も好き……って言ったら、君はどう答えるかな?
「そろそろ戻らないと……」
困らせるのも、好き。君に心配をかけさせるのは正直心苦しいけど、でも、それだけ君が俺のことを思ってくれているって分かるから、好き。
好きが、こぼれてくる。
なあ、これって俺だけなのかな?
「ハヤト……」
彼の膝を抱き込むようにして目を閉じたままのハヤトに、彼は戸惑いを隠せない。
もう起きているはずなのに、目を開けないのはわざと。まるで何かを待っているみたいに、甘えて、すり寄って。
──好きだよ。
甘えるのも、困らせるのも、怒らせるのも、喜ばせるのも。全部、君が好きだから。
欲しいのは、その答え。
本当はもう知っているけれど、何度でも知りたい。君の気持ち、知りたいんだ。
ため息が聞こえる。呆れているのだろう、彼はそう言う性格だから。でも、そこもひっくるめて好きになった。だから、いい。
瞼を閉じたままでも、外の世界の明るさや暗さは認識できる。昼間よりも暗くなっているハヤトの閉ざされた視界が、更に落ちてきた影でいっそう暗くなる。
重なったのは、ほんの一瞬。
「けち」
思わず、口からこぼれていた。
「猫のご機嫌を取るのは、これぐらいで充分だろう?」
ぱっちりと見開かれたハヤトの視界いっぱいに、キールの笑顔が広がっている。
「じゃあ、じゃあもう猫は止めるから。もう一回!」
がばっ、と起きあがって早口でまくし立てると、目をぱちくりさせたキールが途端に破顔する。珍しく、声まで立てて笑いはじめた。
「な、なんだよ……キールのけち!」
笑われたことに拗ねて、草の上で胡座を組んだハヤトがそっぽを向く。そこへすかさず、キールが頬へ優しいキス。
「……けち!」
「いいのかい? ここで本気になったら、困るのは君だろう?」
「…………キールの意地悪…………」
にこりと微笑んで言われ、ハヤトはむくれたままながら諦めるしかなかった。確かにキールの言うとおり、この時間からだと……困る。
「それじゃあ、帰ろう。遅くなるとみんながうるさいからね」
夕食はみんな揃って、いただきます。だから誰かが予定外に遅くなると、待ちぼうけをくらったみんなからは非難轟々。
「けち」
でも、まだ根に持っている。立ち上がったキールはクスクスと笑った。
座ったままのハヤトに手を差しだし、彼を立たせる。
ふたり、夕闇に染まる空を背景に歩き出す。けれどハヤトはまだ機嫌が直っていなくて、町に戻りアジトが目の前に来るまでお互い喋りもしなかった。その割に、ハヤトの手はしっかりとキールの手を掴んで放さなかったけれど。
こういうところが可愛くて、キールはついついハヤトをからかう。反応が素直すぎて、たまに引っ込みがつかなくなることもあるけれど……ハヤトは絶対にキールには口ではかなわない。
アジトの明かりは煌々ときらめいている。そろそろ、つないだ手を放さないといけない。
ハヤトはこの瞬間が、一番嫌い。
「ハヤト」
ゆっくりと離れて行くキールの指、キールの体温。それを感じるのがイヤで、いつも視線を遠くに逸らす彼をキールが呼ぶ。
「こっち、向いてごらん」
キールは勘がいいから、そんなハヤトの気持ちは良く知っている。でも自分は思いを言葉にするのがとても苦手だから、彼に誤解させてしまっているかもしれない。でも……。
──好きだよ。
多分、君が思っているよりもずっと、何倍も、何十倍も君のことが好き。大好き。
この手は放したくない。
一緒にいたい。
失いたくない。
奪われたくない。
君が誰であろうと、なんであろうと、僕は君が大事。君が、好き。君だけが好き。
ゆっくりと振り返るハヤトの肩をそっと抱き寄せ、キールは顔を寄せる。一瞬驚いた顔を見せたハヤトも、すぐに小さく頷き、瞳を伏せて瞼を閉じた。
吐息が重なり合い、溶けて行く。混じり合い、熱が伝わってくる。
ふたりのキスはひどくたどたどしくて、不器用で不慣れだけど、それでもそこに込められた想いはなによりも大きいから。
ハヤトはキールのキスを欲しがる。
一つになった影が長く路上に伸びて、月が空を照らし出す。
「帰ろう」
絡め合った指はずっと紡がれたまま、離さずに。そっと囁かれた言葉に、ハヤトは今度こそ素直に、頷いた。