もしも願いが叶うなら
貴方は何を願うのだろう
もしも願いが叶うなら
私は何を、願うだろう
それは、たまたまだった。
広いリビング、誰の号令があったわけでもなく集まった仲間達、取り留めて語るべき話題もなかったタイミング。幼い少女が言い出した、心の残る思い出は何かという問いかけ。
言い出しっぺのミニスが、薄桃色の頬をほのかに染めて両手を胸の前で組み合わせた。うっとりとした表情で瞳を閉じる様は、恐らくその時のことを思い出しているのだろう。彼女が語った思い出は、五つの誕生日に母が用意してくれたとても大きな縫いぐるみだった。
独りぼっちで過ごす夜が寂しくて、けれど忙しい母はあまり彼女に構ってやれなくて。だから最終手段のつもりだったのか、あの金髪でのほほんとした表情を浮かべる女性が幼い我が子に贈ったのは当時の娘よりも大きな、クマの縫いぐるみ。
霊属性を代々受け継いできたはずの召喚師一家で、ミニスだけがぽっと出たように獣属性を持ち合わせていたのはもしかしたら、買い与えられた縫いぐるみを愛おしみすぎた所為かもしれない。そんな事を悪戯っぽく舌を出して笑って言った彼女に、ソファでめいめいくつろぐ人々から笑いが漏れる。
次に語りだしたのは、記憶を失った姉を持つ異界から招かれた黒髪の娘。隣に座る姉の顔を盗み見てそっと微笑み、やはり懐かしむように目を細めたカイナが訥々と語り出したのは、彼女がまだリィンバウムへやってくる以前の事。幼かった彼女の誕生日に、姉が紙で折った人形を作ってくれた事だった。
特別珍しくもない、紙人形だったけれど彼女の中でそれが、数少ない家族との思い出として心に刻まれているのだという。静かに語ったカイナに、ケイナは囁くような声で妹の名前を呼び、膝の上で結ばれた彼女の手を強く握りしめた。
過去を一切取り戻せない彼女にとっては、カイナの告げる記憶さえも遠い靄の向こう側だ。そんなことが在ったかも知れないと想いながらも、確固たる記憶として胸の中に甦ろうとはしない。
複雑な姉の心情を悟った聡明な妹は、控えめな笑みを浮かべて良いのです、と首を振った。
静かになってしまった空気を解そうと、この場を提供している召喚師の片割れがぱんぱん、と手を叩いた。次は私ね、と大きな眼鏡を押し上げて豊かな胸を揺らした彼女は言ったものの、仲間に語る内容に次の瞬間困ってしまって天井を仰いだ。
苦笑いが周囲から漏れる。困ったように頬を引っ掻いたミモザの隣で、明るい茶色の髪をした青年が微かな吐息を零した。
ミモザが、僅かに重いその空気を読みとって彼を見下ろす。視線に気付かないマグナが再度、悟られぬように両手で隠した口元から溜息を注ごうとした瞬間、最初に話題を取りだした少女が甲高い声をあげた。
「ねえ、マグナは?」
貴方は誕生日、どんなお祝いをして貰ったの?
最初の問いかけから若干趣旨が外れてしまっている事にも気付かない幼い質問に、弾かれたようにマグナは顔を上げた。しかし数秒も置かぬ間に彼はまた俯いてしまって、居心地悪げにソファの上で身体を揺らした。
「マグナ?」
ミニスの訝む声が響く。同時に、向こう側で閉じられていた白い扉が誰かの手で押し開かれた。現れたのは紅蓮色のマントを纏った細い眼鏡をかけた高身の青年で、変に静まりかえっている場の雰囲気に気付き扉前で足を止めた。怪訝な表情を浮かべて、広間に並ぶソファでくつろいでいる人々を順番に見つめていく。
最後に、唐突に立ち上がった己の弟弟子を見つけて顔を顰めた。
マグナはネスティの登場で仲間達の意識が彼に向いているうちにとばかりに、ソファから立ち上がって荒々しい歩調で、ネスティが居る廊下へ通じる扉に向かっていったのだ。
「マグナ!」
彼の、あまり彼らしくない行動にミニスが悲鳴のような声で彼の背中に叫んだ。けれどマグナは振り返らず、それどころか広間に居るすべての人の視線から逃れたがっているかのように、足早に姿を消してしまう。
退け、とも言われずに肩で扉前から押し出されてしまったネスティが答えを求めるように残された仲間を振り返り、けれど誰もが肩を竦めて首を振る。そんな中、ミモザだけが顎に手をやって難しい顔をしていた。
「先輩、どうかしたんですか」
フォルテ達から答えを得る事を早々に諦めたネスティが、ひとりどうやら分かっているらしいミモザに矛先を定めて問いかける。ミニス達も揃って彼女の解答に興味を示し、黙って彼女が口を開くのを待つ。
ほんの少し躊躇を示し、ミモザは側に近付いてきたネスティを見上げてそっと溜息を零した。
これは憶測なのだけれど、と前置きをした上で彼女はこの場に揃っている全員を見回して、最後にネスティへ目配せをした。
その日、そしてその翌日も。
マグナは自分に宛われた部屋に引き籠もって外に出て来ず、彼の護衛獣であるバルレルまでもが中に入れてもらえないという事態にまで発展して。
仲間達はどうしたものかと思案した後、ネスティが思い出したように告げたひとことに賭けてみる事にした。
もしも願いが叶うなら
何を願えば良いのだろう
もしも願いが叶うなら
何を望めと言うのだろう
もしも願いが叶うなら
甘く良い匂いがする。
いい加減引き籠もりにも飽きて、空腹も耐えかねるようになってきていて、そっと閉じっぱなしだった扉を内側から開けて外を窺ってみる。
大勢の仲間が今や共同生活を送るこの場所で、けれど廊下は嫌になるくらいに静かさを保っていた。
誰も居ないはずはないのに、誰も居ないような錯覚を覚えてしまう寂しさを胸に抱いてマグナは部屋から足を踏み出した。両手を広げても端から端まで届かない幅を持つ廊下をゆっくりと進み、幾らかすれば兄弟子が使っている客間の前に到達した。
他人との交わりを拒絶する傾向にあったのネスティは、ひとりで部屋を使っている。彼はマグナが引き籠もった日、辛抱強くドアの前で呼びかけてきてくれたけれど今日は日が昇ってから一度も、声を聞くことがなかった。
なにかあったのだろうか。それともこんな自分に呆れて見捨てられたのだろうか。
心配と不安とが入り交じった顔を伏せ、マグナはネスティの部屋を控えめにノックする。けれど返事は無く、暫く待ってからもう一度ノックしても結果は同じだった。試しにノブを回してみるが、鍵がかけられているようでびくりともしない。
溜息が溢れた。
「居ない?」
自問を言葉に出して、その事の重さに首が垂れた。額を物言わぬドアに押しつける、ぬくもりを感じ取る事の出来ない扉に、跳ね返った彼の吐息だけが滴り落ちていく。
何処へ行ってしまったのだろう、出かける用事があったのだろうか。暫く待てば帰ってくるだろうか、会えるだろうか。
色々とごちゃごちゃ考えて、もしかしたら別の部屋に居るかもしれないと淡い期待を抱き直す。屋根裏部屋を改造した書庫は、派閥の本部に出入りする事が難しくなっている自分たちにとって、書物に触れる数少ない場所でありネスティのお気に入りでもあったから、そちらに居るのかもしれない。マグナは踵を返し、屋根裏へ続く階段を求めて廊下を歩きだした。
途中にも幾つか客間が両側に広がっていて、仲間がそれぞれ寝起きしているはずなのだがそのどこからも人の気配を感じ取ることが出来なかった。まさか自分だけを置いて、皆でピクニックにでも出ていったのではなかろうか。嫌な想像は次から次へと無尽蔵に溢れ出て、彼の心を締め付ける。
結局、薄暗い屋根裏部屋には誰も居なかった。
方向を変え、テラスに出てみる。晴れ渡ったとは言い難いどんよりとした曇り空は、まるで彼自身の心を写し取った鏡のようでもあり、尚更彼の心を沈み込ませた。部屋を出る直前、最初に感じ取った甘い香りはそこにも漂っており、眉間に皺を寄せたままのマグナは己の右手の、台所がある方向を振り返った。
屋根と壁で視界は遮られて当然見えるはずもなかったが、甘い匂いは絶えず空中を彷徨っている。廊下を歩いている時はさほど気にも留めなかったが、ここに来て急にその匂いが強くなったような感じがした。
台所に行けば、きっと誰か居るに違いない。今にも泣き出しそうな色をした空に背を向けて、マグナは歩き出した。そして思った通り、台所ではアメルを始めとし、ミニスやカイナといった女性陣ががやがやと雑談を繰り広げ、時には悲鳴を上げながらなにかをやっているようだった。
甘い匂いの発生源は、どうやら彼女たちが作っているなにかのようである。銀色の大きなボールを両手で抱えたミニスが、鼻の頭に白いクリームを飛ばしてアメルに拭い取って貰っていた。
マグナは、台所の扉口からその光景を見ていた。
彼女たちはとても楽しそうで、笑顔を振りまきながら熱心に料理をしている。アメルが率先して指揮を執り、ケイナが不器用な手付きでジャガイモの皮を剥き見事に半分の大きさにしてしまってカイナに怒られている。ミニスは飛び散った生クリームをつまみ食いしつつ、オーブンの中でじっくりと焼き上げられつつあるなにかに心奪われたかのように、アメルにまだかまだかとせっついていた。
あの輪の中に混じる事など、どうして出来ようか。
マグナは無言のまま、彼女たちに見付からぬよう台所に背を向けた。
ひとり、取り残されたような気持ちになる。自分が居ても居なくても、彼女たちの生活には変化がないのだと思い知らされる。
きっと、自分は。
誰からも必要とされず、求められることもなく、存在を否定され、居ないものとして扱われ、やがては不要なものとして排除の対象となり、憎悪され、嫌悪され、いつか。
いつか。
忘れ去られていくのだと、そう思った。
「ふっ……」
きっと、きっと。
自分が知らないだけの、過去に。調律者として君臨した自分の祖もこんな風に人々の心から忘れ去られ、消え去っていったのだろう。
そう、自分も例外ではないのだと。
戻ってきた部屋に入ることも出来ず、鍵の掛かったネスティの部屋の扉が開いているという一縷の望みを託した願いも叶えられず。
ひとり、マグナは俯いたまま兄弟子の部屋の前で蹲り膝を抱いた。顔を伏せ、膝の間に表情を隠し誰にも見付からぬよう、けれど誰かに見つけて欲しいと願って、小さくなり震えて待つ。
名前を、呼んで。
せめて名前だけでも呼んで欲しい。
外は雨が降り出したのだろうか、微かに水の香りが鼻先を掠めていく。けれどマグナは顔を上げず、じっと石のようにそこで座り続けた。
やがて。
遠くから足音、湿った空気に若干響きが変わってしまっているもののすぐに彼のものだと分かる音色を響かせた存在に、マグナは弾かれたように顔を上げた。
そして、泣いていたと分かる赤い目をした彼を見下ろして一瞬顔を顰めたネスティは、物言わぬまま手を差し出してマグナを強引に引き立たせた。
「ネス?」
「来るんだ、マグナ」
いつになく険しい顔と声色をしたネスティに、途端マグナの表情が哀しみの色に染まった。捨てられることを宣告された子犬のように瞳を泳がせて伏せ、嫌々と首を振り拒絶しようとする。
けれど強く握られた兄弟子の手を振り解く事も出来なくて、力負けしたマグナはぐいぐいと導かれるままにネスティに引きずられ、廊下を進む羽目に陥った。
どこへ連れて行かれるのか、自分はどうされてしまうのか。降り続く雨の下に放り出されて、二度と帰ってくるなと言われた記憶が甦る。
あんな古い記憶など、呼び覚ましたくもなかったのに。
「ネス!」
悲鳴のような声を上げ、最後の抵抗を見せたマグナが広間の手前でネスティの手を振り払う。
その声に、フライングしたらしいフォルテの野太い声が被さった。
「誕生日おめでとうマグナ!」
本当は全員が揃って、マグナが広間に入った瞬間に言う手筈だっただろうに、マグナの声につられてしまったフォルテの失態を、ケイナが手痛い仕置きと一緒に叱りつける声が直後に響いた。
まだ廊下があと一歩半分残っていたマグナは、聞こえてきた声に目を見張りそして、ネスティを見た。
額に手を当てて、驚かせる作戦を失敗させた言い出しっぺに頭を悩ませたネスティが困惑してやまないマグナの背中を押す。動揺が収まっていなかったマグナは簡単に広間へと突き出され、なんとも間の悪い気まずい雰囲気の中、もう一度「誕生日おめでとう」の大合唱が起こった。
フォルテは床に撃沈していたが。
「え……?」
誕生日とはいったいどういう事なのか。訳が分からないまま、広間中央のテーブルにどん、と置かれた巨大なケーキの前に連れて行かれたマグナは、そこに書かれた不器用な文字にまた面食らった。
先程の大合唱と同じ文面が、茶色のチョコレートで線書きされている。輪郭を飾るように並べられた蝋燭の数は十七本、ちょうどマグナの推定年齢と同じ数だ。
テーブルとマグナを囲むように並んだ仲間達が、口々に誕生日おめでとう、と彼に告げる。ミニスが、これは私が書いたのよとへたったケーキの文字を指さして自慢げに言った。ケーキ以外にも沢山並ぶ料理は、カイナとアメルがふたりで協力して作ったのだとはにかんだアメルが笑った。ケイナは邪魔をしていただけだったがな、と床の上で呟いたフォルテは、彼女に足蹴にされてひっくり返った。
ルゥがぱんぱんに膨らんだ紙袋をマグナに差し出す。中身は甘い御菓子で、大好きなやつだけど貴方にあげる、と少し悔しそうに言う。カザミネは所持金が少なかったので、と釣りをした成果をまるごとマグナに手渡した。なかなか立派な魚で、これはもれなくアメルの手に渡り台所に運ばれていった。
ミモザとギブソンからは、もう少し頑張りましょうと召喚術の教本が。バルレルからは、とっておきだったんだぞという愚痴と一緒に大瓶の酒が。彼は直後、子供が酒を飲むなとモーリンに手痛い一撃を食らってフォルテと仲良く床に沈んだ。
ロッカとリューグ兄弟からは磨きに出しておいたから、と使い慣れたマグナの剣が手渡され、パッフェルとシオンからは後ほどまたしてもケーキと、口直しにと蕎麦が届けられる予定。
「みんな……」
両手いっぱいの贈り物を抱え込んで、けれどまだなにがなんだか分かっていない様子のマグナが落ち着きのない顔で皆を見回した。
床の上で胡座をかいたフォルテが、困りっぱなしのマグナを後ろから見守っているネスティに笑顔で目配せをする。微かに微笑んで、彼は頷いた。
「今日は、君が派閥にやって来た日だろう?」
確かそうだったはずだ、と決して忘れることのない記憶を甦らせたネスティが呟く。あの日も今日のように、雨が降っていたと。
振り返ったマグナが、じっとネスティの目を見つめ上げた。驚きと、困惑と、哀しみが入り交じった視線に、ネスティは手を伸ばして跳ね上がっている弟弟子の髪を撫でた。
「結局、派閥の調査でも君の正確な誕生日までは分からなかった。だから今まで、君の誕生日なんていうものを祝った事など、なかったと思ってね」
もとより派閥の中で彼らは毛嫌いされて来た。祝ってくれる仲間もなく、親も家族もなかったマグナたちにとって、誕生日などという日は存在しないものに等しかった。
けれど、それはあまりにも哀しすぎるから。
だったらいっそ、マグナが派閥に引き取られた今日という日をいっそ、彼の誕生日にしてしまってはどうかとフォルテが言ったのだ。親知らずの子供でしかなかったマグナではなく、ネスティやラウル師範と出会い今居る大勢の仲間とも出会う根本的なきっかけとなった、召喚師マグナとなる第一歩を踏んだ、その日を記念日にしてしまおうと。
いかにも彼らしい大雑把な提案だったけれど、仲間達は誰ひとりとして反論を返さなかった。
「みんな……」
こんな感情は、知らない。
仲間がいるという事を、これほどに誇りに思ったことはない。
たくさんの人が側にいてくれてこんなにも嬉しいと思ったのは、初めてだった。
目頭が熱くなる。両手に抱えたプレゼントの山に顔を埋めたマグナの頭を、ネスティの手が優しく撫でる。
「おめでとう、マグナ」
ぽんぽん、とその背中を数回叩いて、ほら、と促す。
テーブルの巨大ケーキに立てられた蝋燭に火が入り、仄明るく周囲を照らし出す。早く、とミニスが急かしマグナは一息に消すんだぞ、と下から囃し立てるフォルテの言葉に頷いた。
生まれて初めて、自分の誕生日を彼は祝った。
最後に残された蝋燭の火が掻き消える。割れんばかりの喝采が広間を包み込み、照れくさそうにマグナは笑った。
ありがとう、と。
「俺、みんなに会えて良かった」
心からのことばに、拍手はいつまでも鳴り響き続けた。