ぱしん、という乾いた音は思った以上に大きく響いた。
いや、きっとその場に居る誰しもが――殴った本人と殴られた当人でさえ――そんな結末になるとは一瞬前でさえ予想していなかったに違いない。
それくらいに、唐突だった。
口論は何度でもあった、意志の疎通が出来ない事に苛立つのはいつものことであり、お互いに相手のことを想っているはずなのに巧く伝えられないそのぎこちなさに腹を立て、なじりあうのもこれが初めてではなかったはずだ。
だけれどいつもなら、大抵は、キールが先に折れてハヤトの言い分を聞き入れて口論はそこで止まる。ハヤトがまだなにか言いたげにする事はあったものの、キールに「ごめんね」と小さな声で謝られてしまっては、それ以上の言葉を紡ぐことも出来なくなる。
結局、ふたりともお互いの事にはてんで弱くて、端から見ているとただの痴話喧嘩にしか思えない喧嘩も日常茶飯事になっていて。
それでも殴り合いだったり、手を出すような真似は一度もなかったから周囲は呆れるだけで口出しする事もしなくなっていた。それが日常だったから、当たり前だと思いこまれていたから。
でも。
始まりは、無職の派閥に属していた、今はどこに属することも出来ず野に下った外道召喚師がその事でキールに逆恨みし、彼と彼を取り巻く環境――仲間にちょっかいを出してきた事だった。
ラミが、攫われたのだ。
その事にいち早く気付いたガゼルが皆を招集し、幸いにも救出が早くて彼女は逃げ出すときに転んで膝小僧をすりむいた、それだけの怪我で済んだ。リプレから攫われた時に落としたクマの縫いぐるみを渡され、それごと強く抱きしめられてようやく緊張のたがが外れたのか、ラミは大声で泣き叫んだ。
もう大丈夫だから、と戦場になるかもしれないと言って止めるガゼルを振り切って一緒についてきたリプレに背中を撫でられ、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を手櫛で解いてもらいながらラミは必死に我慢していたのであろう涙を、枯れるくらいに長し続けた。
遅れてレイドに付き添われたフィズとアルバもやってきて、子供達はラミの無事に安堵し、また彼女の泣き声に引きずられる格好でリプレにしがみついて、泣いた。
少し前までは戦いの喧噪で覆われていた廃墟が、今は子供達の泣き叫ぶ声と慰める声に支配されている。
持っていた戦力の総てを呆気なくうち破られ、最終兵器だと言い放った獣型召喚獣も簡単に倒されてしまった外道召喚師は最早戦う術を持たず。後ろ手に両手を結ばれて抵抗の術を奪った上で、ハヤト達はこの男の処分をどうするか、の相談に入っていた。
サイジェントも治安を取り戻し、少しずつではあるが金の派閥に支配されたままだった権力も分散されつつある。あの三兄弟は相変わらずであるものの、多少は騎士団も活動しやすくなっているとはイリアスの弁だ。
仲間達の結論は一致していた。この男は騎士団に引き渡し、然るべき処断を受けて貰う。
自分たちには多少なりとも力があったから、今回の事は自分たちだけで解決できた。しかしもしこれが、戦う力を持たない一般市民を狙ったものであったなら、事件はもっと複雑で難しいものになっていただろう。
こういう輩をのさばらせておく騎士団も案外役立たずだな、と特別顧問を引き受けているレイドを見ながらのガゼルの言葉に、彼はムッとしながらも悪かった、とひとこと返していた。
そんな風に、皆が皆無事であった事を喜び合い、ホッとしていた時だった。
囚われた外道召喚師が嗤いながら言った。
滑稽だと。
何が仲間だ、何が友だ、家族だ。そんなものに頼り縋るから、人は脆くもなり弱くなる。所詮人はひとりであり、自分の弱さを他人に押しつける様は愚かしく滑稽であるとしか言いようがない、と。
嘲笑い、男は。
崩れかかった天井を睨み、そして矢のような雄叫びを上げた。
ぽろりと、廃墟の天井に空いた穴から破片が零れ落ちてくる。引きずられるように上を見た仲間たちは、その穴から一瞬だけ見えた小さな、存在さえも気づけなかった召喚獣に目を見張った。
穴の横には、今にも崩れ落ちそうなヒビがある。更にそのヒビの真下に居るのは、リプレと子供達だ。
ガゼルとエイドが直後、走った。
土煙が上がる。聴覚が麻痺して何も聞こえなくなるくらいの轟音が、続けざまに二度起こった。
粉塵を含んだ風が上から下へ、そして一瞬にして下から上へと気流の方向を変えて彼らに襲いかかった。建造物の固い欠片が細かく飛び散り、むき出しの素肌に幾つも衝突して痛みを訴えかけてくる。
息が出来ない、視界も完全に遮断された。音も聞こえない、ただ廃墟が崩壊する轟音だけが地鳴りとなって脚から響いてくる。
それなのに、あの外道召喚師の高嗤う声だけが嫌に耳に貼り付いて。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。時間の感覚が麻痺するくらいには過ぎた時間の中で、漸く晴れだした視界に崩れた天井の残骸が飛び込んでくる。
「エドス!」
ボロボロに砕けた天井の破片に頭の先まで覆われながらも、最初に起きあがった彼の巨躯が左右に揺れた。髪に紛れ込んだ小さな欠片を振り払い、数回咳き込んだ彼の下から身を捩って、ラミがしゃくりを上げつつ顔を出す。
ガゼルに抱きかかえられるようにしてリプレも埃まみれの身体を振り、次々に助け出される子供達が無事であるかを慌てて確認する。擦り傷、切り傷、打ち身……無傷ではなかったが、誰もベッドに磔にされねばならない程の大けがはしていなかった。エドスだけが、打ちつけた背中に大痣を作り、頭からは血を流していたけれど。
「貴様っ!」
ハヤトが、血走った目を外道召喚師に向ける。奴はまだ口端を持ち上げて愉快そうに嗤っていた。
鞘に収められていた彼の長剣が引き抜かれる。レイドが止める間もなく、彼の使い込まれた切れ味も良い剣が、嗤い止めない外道召喚師の喉元に突きつけられた。
それでも男はまだ嗤っている。殺すが良いと、彼を詰り挑発し、嘲笑い続ける。
怒りが、なによりもハヤトを包み込んだ。頭に血が上り、彼は自分が今、どのような顔をして何を考えて望んだかを冷静に判断することが出来なくなっていた。
「ハヤト!」
最も彼に近い場所に居たキールがいち早くその事に気付き、両手を広げて彼と外道召喚師の間に割り込む。寸前で剣先を逸らしたハヤトの剣は、けれど切っ先が僅かにキールを掠めて冷たい音を残しながら大気を切り裂いた。
傷こそ作らなかったが、キールの毛先がほんの僅かに削がれて足許に零れ落ちる。
「退け、キール。そいつはっ!」
声を荒立て、怒り心頭に叫ぶハヤトを強い目つきで睨みながらキールは退かない、と小さく返した。レイドがどうすべきか逡巡した面持ちでいるのを、キールは目配せで高笑い続ける外道召喚師を黙らせるよう頼む。
彼の意図を読みとったレイドは、無言のまま頷き素早くキールの背後へ回り込んだ。睨み合うふたりを愉悦の混じった顔で見上げている男の鳩尾に、固い拳を叩き込む。
「キール!」
そいつは、最低だ。ハヤトが叫ぶ。
エドスに庇われた子供達が、彼を心配して流れる血に右往左往している。引き締まった肉体を保持する彼は心配ないと何度も繰り返すが、それでも頭の傷は深くなくとも血は大量に溢れ出て、見る側の心を痛ませる。土煙ですっかり真っ白になってしまったガゼルが血混じりの唾を吐きながら悪態をついた。
信じられないと呟き、手にしたナイフを天井近くへと投げはなった。様子を見ていて逃げ遅れ、主からの命令も途切れてしまった小柄の召喚獣の腹へ鋭く磨かれた刃は突き刺さり、無惨な屍を床に晒す。
ハヤトはもう一度、己の前に立ちはだかる青年を見上げて言った。そいつを許すことは出来ないと。
誰よりも正義感が強く、仲間を思うからこそのことばだ。それは分かる。大切な家族である仲間を無為に傷つけようとした相手を黙って見過ごす事など、誰も出来るはずがない。
けれどだからと言って、この男を傷つけて何になる? 憎めば憎むだけ、相手からも憎み返される。恨めば恨んだだけ、自分へ還ってくる。
哀しいだけではないか、そんな事。自分たちはそんな哀しみを、身を以て学んだのではなかったのか。どこかで憎しみの連鎖を断ち切らねば、いつまで経っても前へ進めないと気付かされたのではなかったのか。
それなのにハヤトは剣を引こうとしなかった。気を失い動かなくなった外道召喚師へ向けた憎しみをそのままキールに投げつける彼を、仲間達は複雑な思いで見つめるしかなかった。
最悪の状況さえ頭に浮かびそうになった。乾いた音が響いたのは、そんな矢先。
ハヤトは茫然と、痛みを訴える頬に手で触れて彼は握り締めていた剣を足許に落とした。
キールは振り下ろした右手を握り締め、苦虫を噛み潰した顔をしながらそれを胸元に押しつけた。
沈黙が流れる。押し黙った空気の中で、状況が掴みきれない子供達の泣きじゃくる声だけが静かに響いていく。
廃墟は更に崩れそうな様相を呈していて、数分後咳払いをしたレイドが外に出ることを皆に提案した。彼は気を失った男を肩に担ぎ上げ、応急処置で傷口に布を押しあてただけのエドスは泣きやまない子供達を抱きしめて外に向かう。ガゼルとリプレがそれに続いた。
キールは、ハヤトが落とした剣を拾い上げて彼に差し出す。足早に去っていく仲間の背中を追い掛けるように提案した彼にハヤトは頷いたが、言葉を返す事はしなかった。ただ黙って、赤くなった頬を一度撫でると何も言わず、キールを置いて走り出した。
「…………」
無理もない、とキールは遠ざかる背中を暫く見つめて思った。
握り締めていた右手を広げ、掌を睨むように見下ろす。白い、ところどころに傷痕を残すなんの変哲もない手だ。
かつては、この手で人を殺めた事もある。再び指を折って握り込めば、肌に食い込む爪の痛みとはまた異なる痛みが掌全体に響き渡る。
骨が軋み、肉が裂けそうな程の痛みが沸き上がる。
天井にぽっかりと開いた穴の縁からは、絶えず細かい破片が零れ落ち完全に廃墟が崩壊するまでの時間を数えていた。薄暗い空は雲に覆われて太陽は見えず、泣くことの出来ない雨雲が遙か彼方で蟠っているようにも思えてくる。
彼はそのまま、随分と長い間立ち尽くしていた。
己の傍らをすり抜けるように走り去っていったハヤトの横顔は、泣き出しそうな風に歪んでいて、微かに赤くなった頬は気のせいかも知れないが剣で切りつけられるよりもずっと痛そうだった。
人の命を手に掛けた事はある。けれど、面と向かってくる相手に手を上げた事は初めてだ。
右手が痛い。キールは左手を重ねた右手を胸に強く抱いた。
かつて、信じてきた総てに裏切られて絶望の縁に立ったあの時よりもずっと心が痛い。息を吸うたびに胸が軋む。息を吐くたびに喉が焼けるくらいの熱が全身から沸き立つ。
雨は降らない。この場を潤す雨など、降らない。
夕暮れの風は止んだ。
ただひたすらに、静かだった。
外道召喚師は騎士団に引き渡された。気を失ったままレイドによってイリアスに預けられた男の処罰は、いずれ内々に下されるだろう。どうなったかの結末だけは知らせてくれるようにと頼み、レイドは孤児院に戻ってきた。
エドスの怪我は見た目ほど酷いものではなく、セシルの診断と治療を受けて今彼は自室で休んでいる。体力もある事だし、明日目覚めれば普段通りに動き回ることも可能だろう。無茶をしなければ、の話だけれど。
子供達も泣き疲れ、大切な妹が無事だった事への安堵もあり孤児院へ着く前に全員眠ってしまった。軽く汚れを拭ってやったリプレが今もずっと側にいて、時折眠りながらぐずるラミを見守ってやっている。
ハヤトは、帰ってきてからずっと部屋に籠もりっきりだ。
「まさかオマエが、ハヤトを殴るとはな」
食堂で暇を持て余していたガゼルが、ようやく戻ってきたキールを見るなりそう言って彼の顔を顰めさせる。
「ハヤトなら部屋だぜ」
「何故それを僕に?」
「なんだ、教えて欲しくなかったのか?」
見透かしたような事を言い、ガゼルは頬杖をついたままキールを見上げてにやにやと笑う。溜息をついたキールは肯定も否定もせず、黙って纏っていたマントの留め具を外すと埃を払いながら改めてガゼルを見つめ返した。
挑発するような視線は気にくわなかったが、不用意な反論をしても彼を悦ばせるだけだろうから止めておく。それよりも。
「ハヤトは、何か言っていたかい?」
「いいや、特には」
問いかけに簡単に返され、そうか、と呟きまたキールは寡黙に俯いた。腕に引っ掛けたマントにかくれる右手がチリリと痛む。火に焼かれ、焦がされているような痛みに眉根を寄せれば、一転してつまらなそうな表情を作ったガゼルがまた言った。
座っている椅子の背もたれに背中を預け、前脚を浮かせて揺れながら頬を掻く。
「今回のは、ハヤトが悪いから謝ってやる事はないと思うぜ?」
子供達を盾に取り、平気で傷つけようとしたあの男にはガゼルだって腹を立てている。もしハヤトの立場に自分が立っていたならば、やはりハヤトと同じ事を考えて同じ行動に出ていたかもしれない。
けれど、奴を傷つけて、あまつさえ殺してしまって、それでどうにかなるのか?
一時の怒りは納まり、それで気が済むかもしれない。しかし時間が経って冷静に考えられる余裕が出てきた時、傷つくのは自分自身だ。そして、大切な仲間――特に一番守ってやりたかった子供達が、一番傷つくのではないか。
人を殺めること、傷つけること。その責任は重い、考える以上に。下手をすれば一生の苦しみを背負わされることになる。誰かひとりの、自分ではない人間の一生を同時に背負わされるのだ、自分ひとりが生きることでさえ精一杯の世の中で。
だから、キールが殴ってでもハヤトを止めた事は長く広い目で判断すれば、正しい事になる。
「……ありがとう、ガゼル」
けれど、キールは沈んだ顔をして表情を翳らせた。
右手が痛い。とっくに消え失せていてもおかしくないささやかな痛みだったはずなのに、時間が経つに連れて痛みは増していく。消えない、消せない痛み。
ハヤトを殴ったという事実は、正しい行動の結末だったとしても現実として残ってしまう。いつまでも、心に刻まれて癒えない。ああすることでしか彼を止められなかった自分に腹が立ち、憎いとさえ思ってしまう。
「オマエって、損な性格してるよな」
「そう思うよ」
苦笑ってキールはガゼルを振り返った。
「ハヤトに謝ってくるよ」
「修羅場になるなら、外行けよ」
子供達とエドスが寝てるんだから、と軽く笑い飛ばしながら言ったガゼルに、考えておくと返してキールはハヤトの部屋へ向かった。
ドアをノックする。三度、それから間を置いて二度。いずれも返事はなくて、マントを握りなおしたキールはドアノブを押して鍵の無い扉を開けた。
薄暗い。窓のない室内で唯一の光源となるはずのランプに火は灯っておらず、人の気配を探して視線を巡らせばベッドの上に、それらしき塊を見出してキールは後ろ手に扉を閉め、外からの明かりを遮断させた。
「ハヤト」
名前を呼ぶ。やはり返事はなくて、少し困った顔をしながらキールは先に、ランプへ火を入れる事にした。
短い呪文をサモナイト石を使い、異界から炎を呼び出して油に満たされた容器から伸びる細い糸の先に光を宿らせる。ポッと灯った小さな明かりは、けれど室内の一画を照らすには充分の明るさで柔らかな光を放った。
ぴくりと、その瞬間にだけハヤトは身体を強張らせて反応したが、両脚を曲げて引き寄せ、膝に額を押しつけるように座り込んでいる彼は結局顔を上げてくれなかった。
「ハヤト」
しつこいくらいに名前を呼んで、キールは彼の側へ歩み寄る。ベッドサイドに脚を置き、膝を乗り上げて手を伸ばし彼に触れようと指で大気を掻き乱す。
けれど、最後の距離を詰めることが出来ないまま彼の指は虚空を裂いた。
「……ハヤト、顔を上げてくれないか」
ひょっとしたら泣いているのではないかとさえ、思った。
ことばに反応して、おずおずと顔を上げたハヤトは泣いてなどいなかった。けれどどこか怯えたような迷子の子犬みたいな表情をしていて、薄明かりに濃い影を落としている顔は普段の彼らしさを感じさせてくれない。
「ごめん」
痛かっただろう、とキールは伸ばしたまま虚空に漂わせていた右手でハヤトの左頬に触れた。途端、弾かれたように彼は首を伸ばしキールの手を拒んだ。
驚いた顔をするキールが距離を取り、それを見た彼はばつが悪そうに上唇を噛んで俯いた。膝立ちになったベッドの上で、小刻みに肩を振るわせる。
「違うだろっ」
キールが謝る事なんて、なにひとつ無いではないか。
俯いたまま両拳を握り締め、ハヤトは苦しげに声を絞り出して叫ぶ。唖然となるキールを前にして、戸板が外れたように勢い良く胸に積もり積もっていた事を吐きだしているようだった。
「キールは、俺を止めて……止めようとしてくれただけだろう。俺が悪いんだ、俺が、カッとなってあいつの挑発に乗ってそれで、自分でも分かってる。俺、なんてバカなこと考えたんだろうって。もしあそこでキールが止めてくれなかったら、俺自分で自分を止められなかった。頭に血が上って、こいつだけは許せないってそれで、そう思ったらどうしようもなくて」
彷徨わせた両手を額に押しあて、どこかまだ混乱している口振りで彼は喚き散らした。
自分が悪くて、キールは悪くない。そればかりを繰り返すハヤトはひたすらキールに謝り続け、彼に言葉を挟む余地を与えない。どんどんと自分を卑下して傷つける方向へ流れ行こうとする彼に、キールは眉間に皺を刻ませた。
両手を伸ばす。
振り解く隙を与えぬまま、彼はハヤトを抱きしめた。
「キール!」
「もういい、ハヤト」
それ以上言えば君は自分で自分を傷つけて、抜け出せなくなってしまう。あの男が言った事は気にしなくて良い、あんな事は二度と起きないし起こらないはずだから。
「殴ったりしてごめん」
「でも、キールは悪くないっ」
あの行為は、ハヤトを諌め止める為に必要な事だった。言い張るハヤトの左頬を撫で、キールは静かに首を振る。
「それでも、君が僕に手をあげさせるような事をしたのが許せないと同じくらいに、僕も、君に手を上げてしまった自分が許せないんだ」
言い換えれば、あの男の挑発に踊らされたのはハヤトだけではないと言うこと。もしあそこでハヤトがああまでして怒らなければ、キールが男を再起不能にしていたかもしれないのだ。
あそこでハヤトが怒りを露わにしたからこそ、キールは冷静でいられた。ハヤトを止める事が出来た。
「痛かっただろう?」
触れた右手がじんじんとした痛みを訴えかける。
「……あ、当たり前だろっ!?」
頬以外の部分まで赤くなったハヤトが声を荒立て、キールを押し返そうと両手を突っぱねた。しかし抵抗はそこまでで、強く抱きしめられて動きを封じられるともう逆らう事は出来なかった。
「ハヤト、僕を……許してくれるかい?」
肩口に額を押しつけ、くぐもった声でキールが問う。
ハヤトは一瞬、声と息を詰まらせた。その声で囁くのは狡い。腰が抜けて、何もかもがどうでも良くなってしまいそうになるではないか。
「あ……」
顔が熱くなっていくのを感じながら、ハヤトは目を閉じた。握りっぱなしだった拳を広げ、キールの背中に回す。
そっと、彼の上着に爪を引っかけて皺を刻ませた。
「当たり前、だろ……」
そうか、と。
キールは笑った。密やかに、嬉しそうに。
痛かった右手が嘘みたいに軽くなる。その手でハヤトの左頬を撫でると、彼は首を振って嫌がって手を払おうとした。
「ハヤト」
触れたい、と囁く。
右手が熱かった。いや、熱はもう右手だけに収まりはしなかった。
「バカやろ……」
掠れる声を喉から零し、ハヤトは俯いてしまった。キールはそんな彼の漆黒の髪を撫で、手で梳きながら毛先にキスをした。
リビングで、ガゼルが退屈そうに欠伸を零す。
「だから修羅場は、外でしろっつったのによー」
ぐったりとテーブルに突っ伏した彼の様子を、台所から顔を出したリプレが不思議そうに見つめていた。