朝の雑踏は、大勢の人が一箇所に集まっているくせに声がなくて辺に騒々しいのに静かだった。
込み合った車内から出ると、通り過ぎていく風は涼しい。下り線の到着を告げるアナウンスが聞こえ、そちらに意識が向いているうちに階段へ流れる人波に巻き込まれた。
一斉に押し寄せてくる人波に、一緒にいた仲間達を捜して階段を下りながら後ろを振り向こうとした。いくつかの頭の向こうに他の人よりも頭半分大きいアッシュの姿が見えて、ホッとした。
だがその分、歩くペースが若干だが落ちたのは事実だ。それが、先を急いでいたのであろう自分の直ぐ後ろを歩いていた青年の気に障ったのだろう。
どん、と強く肩を押された。
半分後ろを振り返るような不安定な体勢だった為に、防げなかった。
爪先部分が半分近く階段からはみ出ていた状態で踏ん張り切れなかったことも、要因だろう。
ふわり、と身体が宙に浮くのが自分でも分かった。
やばい、と思ったから羽を出そうとした。そうしたら、反転した世界にお前の顔が見えた。
何が起こったのか、瞬時に察知したのだろう。人をかき分けて彼は何かを叫んでいた。一度脇を見て、別方向を指さし怒鳴る。
周囲が、ざわめいた。
総てがスローモーションになって見えた。
誰かが慌てて走り去る、それを別の影が追いかけて行く。スマイルに押しのけられたサラリーマン風の男が眼鏡を押し上げて文句を言っている。
手が、伸ばされる。
必死に、懸命に腕を伸ばしている。
羽を出そうという意識は、何処かへ吹き飛ばされていた。
階段の上方で起こった事に、下にいた人たちが一斉に振り返った。その間を縫うように、身体が落ちていく。
重力に引かれ、自然の法則に従って。
スマイルの顔が歪む、泣きそうな哀しそうな、怒っているような限りなく絶望しているような。
とても複雑な感情が入り乱れた顔は、見ていられなくて目を背けた。
そんな顔を見ていたくなかった。
音が消える。何も聞こえない。
スマイルはまだ何かを叫んでいる。懸命に伸ばした腕で空中を舞う自分を掴もうとしている。
でも、分かっているはずだ。もう届かない。
衝撃が背中から肩に掛けて、二度。一度落ちただけでは衝撃が収まらずもう更に床の上で跳ねて、今度は頭から落ちた。咄嗟に腕で頭を庇ったが、痛みに意識が遠くなり息が詰まって呼吸が出来なかった。
周囲がざわめいているのが分かる、無関心を装って多くの人はそのまま通り過ぎていく。
彼らを冷たい、とか酷いと咎める気にはなれなかった。彼らにとって自分はあくまでも他人であり、彼らには守らねばならない時間と言うものがある。そして自分たちが出来る事はとても小さく少ないことを理解している。
『ユーリ!』
微かに戻ってきた音が、自分の名前を呼んでいた。
遠くなりそうになる意識をかろうじて捕らえ、音の下方向に首を向けようとした。冷たいコンクリートの床に横たわっている身体を起こそうとしたが、全身がほんの少し力を入れただけで悲鳴を上げて出来なかった。
駆け寄ってくる足音は近くにひとつ、もうひとつはゆっくりとしたものがふたり分。
『大丈夫、ユーリ!?』
『スマイル、か……?』
視界が霞んでいる、瞼を持ち上げ続ける事も難しい。
ただ朧気に見えた彼の顔は今にも泣き出しそうで、不要な笑いをいつも表情に湛えている彼からは想像がつきにくく、見るに耐えなかった。
そんな顔は、見たくないのに。
そんな顔を、させたくないのに。
『足、滑った、な……』
途切れ途切れに息を吐き出すついでに呟く。
『違うでしょ、ユーリ! コイツが、こいつがユーリの背中を押したんだ!』
朝のラッシュアワー。人通りの多い階段の下に陣取っている自分たちはかなり通行の邪魔になっていた。けれどそんなことに構わず怒鳴るスマイルが指さした先には、咄嗟に逃げ出したもののアッシュに追いつかれて捕まった、あの青年が小さくなって立っていた。
けれどユーリには見えない。
『私が自分で落ちたんだ、違う』
彼の責任ではない。
無理をして笑って、起きあがろうとしたらスマイルに止められた。手を取られると、自分が震えているのだと今頃気付いた。
『何事ですか!』
騒ぎに気付いた駅員が走ってくる。事情を説明したアッシュに、ユーリは場所を移動したいと提案してそれは受け入れられた。
駅長室で救急車を呼んでもらい、病院を手配した時にはもうユーリは意識を失っていた。
彼を階段から突き落とした男も、目撃者がスマイルだけであったことやユーリが頑なに自分の過失だと言い張ったことから無罪放免となった。但しスマイルは、彼の名前と住所や電話番号をしっかりと聞きだしていたのだけれど。
あとで知ったことだが、スマイルはこの青年相手に民事訴訟を起こしている。刑事事件として立件できなかったことが悔しかったらしい、せめて病院での治療費くらいは回収してやるのだと息巻いていて、ユーリを呆れさせた。
ユーリは、自分から目を閉じていた。見ることを拒んでいた。
医者は言っていたではないか、視力が失われたことは階段から落ちた衝撃で視神経やその周辺に傷が出来たからではない、と。
外的ショックによる一時的な視力喪失……その説明はある意味正しい。
最後に見た光景が良くなかった、自分から“見たくない”と暗示をかけてしまうような光景だったのが。
スマイルが責任を感じる必要が、完全にゼロだったわけではなかった事になる。結局は彼の所為で目が見えなくなったとも言い換えられるわけだから。
見えなくなったことで初めて見えてきたことは、確かに多かった。
けれど、それ以上に分かったことがあった。
見えることのすばらしさと、見えることで更に多くの事を知ることが出来るという事実に。
そして、見たいと思うようになった。
たくさんのこと、たくさんの想い、たくさんの願い。ちゃんと相手の目を見て伝えたいことに気付いた、瞳を見つめるだけで語るよりもたくさんの言葉が伝えられる事にも気付いた。
近付きたい、支えになりたい。
支えられるだけの存在ではいたくない。
一緒に歩いていける存在になりたい、君の隣に並んでいられるように。自分をもっと誇っていられるように。
今度こそ、嘘にならない言葉で伝えたい。今なら言える気がする。
瞼を開くと同時に全身の気怠さが迫り上がってきて、持ち上げかけた腕は五センチも行かないうちに再びベッドへと突っ伏された。
「うっ……」
身を起こそうと身体を捻ると、全身がズキズキと痛んで声にならない悲鳴が口から漏れる。呻き声のようなそれが本当に自分の発したものだとは信じられなくて、柔らかなクッションのスプリングに埋もれたユーリは深く長い溜息をついた。
長い夢を見ていた気がする。悪夢だったが、不幸ではない夢だ。
「まぶしっ……」
窓から射し込んでくる西日が顔に当たる。引き忘れられたカーテンの隙間から、地平線に沈もうとしている夕日が見えた。
それは見慣れた光景だった。だのに初めて見た時のような新鮮さと感動が胸の中に広がっていく。
視線を返すと、やはり見慣れた天井にシャンデリアがつり下げられている。キラキラと西日を反射させて虹色の光を輝かせていた。その向こうには調度品を並べた棚や、譜面の並ぶ書棚が壁に沿って置かれている。
なんてことはない、見慣れすぎて見飽きた感のある自分の部屋だ。
それなのに、どうしてこんなにも目新しいものとして目に映るのだろう。
今度は慎重にゆっくりと身体を起こす。きちんと肩まで掛けられていたケットを押しのけ、ベッドサイドに腰を下ろすと背中から下半身がやたらと痛んだ。
身につけているものは洗濯されたばかりらしい白の上下、いつも寝間着として着ているものだ。しかし、それを自分で着た記憶はない。
「…………?」
首を捻り、少し考え込む。どうも途中で大幅に途切れてしまっているらしい記憶を呼び起こそうと、とりあえずここ数日の行動を振り返ってみることにした。
途端、誰かの熱い囁きが耳の後ろから聞こえてきたような気がして、右耳を抑え込んでバッと振り返る。だが其処には誰も居らず、幻聴に顔を顰めた。
「幻聴……?」
にしては、やたらとリアルで生々しかった。
なにか変だ、と思った瞬間。
ぼっ、と一気に今までのことが堰を切ったように頭の中で回りだして耳の先まで赤くなった。
「あ、あ、ぅあぁ……」
狼狽した声を出して呻きながら彼は首を振った。あの場で囁かれたことや、触れられた手の動き総てが感覚として呼び覚まされてしまって、何もしていないのに身体がまた熱を持ちそうになってくる。
懸命に押し込んで、深呼吸を繰り返すがその間、正直生きた心地がしなかった。誰も居なくて良かった、と思うと同時にこの場にいない相手のことを思い出す。
部屋に運んだのも、後始末をしたのも全部あの男だろう。
だったら最後まで……こっちが目を覚ますまで傍について居てくれても良いのに、そう思うことは悪いことなのだろうか。
そろり、とベッドから降りて立ち上がる。膝に力が巧く入らなくて崩れそうになるのを堪え、ふーっ、と息を吐き出す。
シャツの襟元を引っ張って僅かに覗く自分の肌を見下ろす。やはり鬱血が凄いことになっていて、当分肌を露出するような格好は出来ないな、と溜息が零れる。この分では首にも大量に付けられているだろうから、ハイネックを箪笥から引っ張り出してこなければならないだろう。
「あのバカ……」
もう一度溜息をついて呟き、ゆっくりと前に進む。目指すのは、夕焼けが広がる西向きの窓。
半端に引かれているカーテンを全開にして、鍵を外す。一段低くなっているベランダへ足を下ろし、駆け抜けていく涼しい夕暮れの風に身を任せる。胸一杯に吸い込むと、今まで鬱積していた胸のモヤモヤが一緒に流れていく気がした。
鮮やかな朱色に染め上げられた空に、雲が棚引いている。空よりも幾分薄めの色に染め上げられた雲も、風に押し流されてゆっくりとした旅を続ける事だろう。
キィ……と低い音を立てて部屋の扉がゆっくりと内側に開かれる。様子を覗きに来ただけの訪問者は、だがベッドの上に目的の人を見つけだせずに首を捻った。そして、しっかりと閉めて置いたはずの窓が半分開いている事に気付く。
「ユーリ?」
声を出し、スマイルは彼を呼んだ。
風で煽られて、レールの半分ほどの位置まで戻ってきてしまっていたカーテンをもう一度引き、スマイルは窓の外を覗き込む。
ユーリはゆっくりと振り返った。
「明日」
「ユーリ……?」
「まだ、私もお前もオフだな?」
「え、あ……うん」
どうしたのだろうと、いぶかしんだスマイルが半開きの窓を押してベランダへと出た。
そして、ユーリがはっきりと自分を認識して見返している事にようやく気付くのだ。
「ユーリ……」
「なんだ」
「いや……間違いだったら悪いんだけど」
「お前の読みは正しいと、先に教えて置いてやる」
ふっ、と意地悪く微笑みユーリはスマイルを見上げた。
「行くのだろう、買い物に」
目が見えるようになったら、一緒に買い物に出てスマイルにピアスを選んでやる。約束は、忘れていない。まさか言い出した方のスマイルが忘れていやしないな、と視線で問いかけるユーリに、スマイルは困ったような、笑って良いのかどうか戸惑っている表情で頭を掻いた。
「あ、そう、うん。行く。行く……けど、その前に病院ね?」
念のために、ちゃんと再検査してもらってからだと説教臭い事を言い出すスマイルは、珍しく動揺しているのか言葉の歯切れが悪い。
「平気……と言っても連れて行くのだろう、お前は。そこまで信用ないか、私は」
「だから念のためだってば……」
腕を組んで不機嫌そうに言うユーリに苦笑し、スマイルは心底困った顔で呟き返した。
「まぁ、良いがな」
さらりと言葉を受け流したユーリがじっとスマイルを見つめる。さて、これからどうしようかと思い悩んでいるうちに視界が影って薄暗くなった。
事態を把握する前に、甘いくちづけをもらう。
「……唐突だな」
「して欲しそうな顔、してたから」
離れていった顔を見つめつつ呟くと、彼は悪戯っぽく微笑んで小さく舌を出した。「違う?」と問われると返事が出来ない。
「そんな顔をしていたか……?」
「鏡でも持ってこようか」
「いや、いい」
これ以上続けていたらどんどんスマイルのペースにはまってしまう。口元を手で隠して、ユーリはぼそっと零した。
見透かされてしまうのなら、もう少し見えないままで居ても良かったかも知れない、と。