風の唄、君の声

 青臭い草の香りが鼻先を掠めていく。後頭部を預けた緑の草は、体重を受けた分だけ傾き、または完全に根本から倒されてしまっていた。
 しかしこういった道端に生える野草は、えてして重圧に強く少々のことではへこたれない力がある。雑草魂とはよく言ったもので、だとしたら自分は、種の段階から大事に花壇で育てられた、英才教育や生え抜きといった連中とは違う雑草なのだろう。
 見てくれは悪いし、見栄えもしないし、役立たずかも知れないけれどでも、ちょっとやそっとでは倒れない。そういう自分で良いと思う。
 もっとも強がりだと言うことも、分かっているのだが。
 経験が無い、実力は疑問符。努力は人一倍、負けず嫌いも誰にも負けない。でも打ちのめされそうになる、その度に負けないと立ち上がる。
 雑草だ、まさしく。
「は~~~~」
 自分の現在の力具合が良く解る試合だった。六月の中旬、もうじき夏の高校野球県予選大会が始まろうとしている時期の日曜日。午前は練習、午後は他高校との交流、もとい練習試合があった。
 その試合相手の学校がまた強く、聞いた話では去年の予選大会決勝で十二支高校と戦い、そして勝利したのだと言う。成る程、県代表に選ばれた高校であれば、強いはずである。近年の甲子園常連校と言われて、そういえばニュースで偶に名前が呼ばれていたから高校名だけは聞き覚えがあるような気がした。
 これくらいの知識、高校球児なら知っていて当然だろう、という犬飼の嫌味に過剰に反応してしまったが、確かにもう少しその辺は勉強しておくべきだろうか。
 ともかく、オレ達は夏の予選を前にして最終調整に入りつつある、レギュラーの試合を目の前にする事になったわけだ。ゴールデンウィーク中にあった合宿で、多少の変動はあったものの一年で背番号をもらえたのは、やはりピッチャーの犬飼くらいで。
 俺はベンチの後ろの方から、絶対に前に出て騒ぐなと釘を刺され重しとして膝の上に兎丸の奴を乗せられて後ろからはベンチ越しに司馬に拘束されて、というなんとも情けない格好で観戦する事のなった。隣では子津と辰羅川がふたりで野球のルールから細かく俺に説明してくれて、両側から流れてくる読経のような解説を聞きながらでも俺は、目の前で繰り広げられる光景に釘付けになっていた。
 先輩達の凄さは、合宿での試合でもその後の練習ででも見せつけられていた。あの人達がどうして去年、甲子園に行けなかったのかもの凄く疑問だった。
 確かに去年で在れば虎鉄先輩も猪里先輩も今のオレ達と同じ一年生で、レギュラーではなかったかもしれない。けれど牛尾キャプテンや蛇神先輩は多分試合にはフル出場だっただろうし、あのふたりだけでも充分対戦校には脅威だと思う。
 その疑問は、今日の試合で解消された。
 先週の日曜日もやっぱり練習試合があったけれど、対戦校は確実に十二支高校よりもランクが下で、レギュラーも半分しかスタメンに名前を連ねていなかった。それでも六点差の快勝だった。
 でも今日は違った、初回からレギュラーがグラウンドに散っていったに関わらず、十二支高校は一点差で負けてしまったのだから。
 俺は目の前で繰り広げられる、信じがたい光景に目を奪われた。いつもの莫迦騒ぎやギャグ連発、それ以前に自分を拘束している兎丸と司馬を振り解こうとか、そういった行動に出ることさえ忘れてしまっていた。ただ茫然と、牛尾キャプテンまでも三振に打ちとった犬飼の高速球が簡単に打たれていくのを見つめるだけだった。
 犬飼は三回で連打を浴び、降板。鹿目先輩が後続を打ちとったものの、先取された事があとあと長く尾を引く結果となった。
 相手投手は犬飼と違い、鹿目先輩と同じ技巧派変化球タイプ。けれどカーブ以外にもシュートとフォークを巧みに使い分けてくる投手で、球筋の読みづらさに蛇神先輩までもが翻弄されていた。
 カーブを打つだけでも苦労していたオレに、果たして打てるだろうか。考え込んでしまって、憂鬱になる。今まで自分は十二支高校野球部という狭い世界にしか居なかったのだと、身をもって教えられた感じだ。
 鳥肌が立った。
 けれどそれ以上に寒気が走ったのは。
「猿野君?」
 あの時の事を思い出してぶるっ、と身震いしたオレの頭上で唐突に声が響いた。その声には充分聞き覚えがあって、けれどまさか、という思いが強くて、オレはがばと寝転がっていた河原の草場から身体を起こした。
 振り返る。柔らかな草の上に手を置き、腰を捻る。傾斜のある現在位置よりも二メートルほど高い位置に、牛尾キャプテンが立っていた。
「キャプテン!」
「道草は感心しないよ、猿野君?」
 驚いているオレに爽やかな笑顔を無駄に振りまき、キャプテンは河原と道路とを隔てている短い坂道の草むらに足を滑り込ませた。靴裏でしっかりと地面を踏みしめ、右肩にスポーツバッグを引っ掻けジャージ姿のままのキャプテンは、程なくしてオレの横へ到達する。
 かく言うオレも、実はジャージのままだったりするのだが。キャプテンのものよりも少し小振りサイズの鞄は、足許に無造作に放り出している。
「キャプテンこそ……」
「僕は帰り道だよ」
「オレだって、そうっす」
 嘘だ。オレの家はこっちじゃない。けれど本当のことを言うのは憚られて、隣に腰を下ろして座り込んできたキャプテンの顔から視線を逸らし呟き返す。先輩の頭には、今痛々しい印象を与える真っ白な包帯が巻かれていた。
 今日の練習試合、一点差で負けた。その原因は打たれてしまった犬飼にもあるのだが、逆転できる要素は充分にあった。実際、鹿目先輩は三回から一点も相手チームに与えなかったのだから。
 だから、負けた原因は。
 あの時、打席に立ったキャプテンに向かって、相手ピッチャーが投げた球。キャプテンが強打者だという事を意識しすぎたのだろう、と辰羅川が言っていた。カーブのすっぽ抜けだった、と子津が教えてくれた。
「頭……大丈夫なんですか?」
 恐る恐る傍らの存在を窺いながら問いかける。自分へ顔を向けた事に気付いたらしいキャプテンが、にっこりとまた微笑んだ。
「見た目が大層になってしまっているけれど、彼処まで騒ぐ程じゃなかったんだよ」
 微笑みを苦笑いに変え、キャプテンは自分の頭に巻かれている包帯を指さした。
 危険球で、相手投手は降板した。続いてマウンドに立ったピッチャーは、先発していた投手よりもランクが下がったもののこちらとしても、攻守の要であり十二支野球部の柱である牛尾キャプテンの負傷に、部員全員が動揺した。
 キャプテンは問答無用で病院に送られ、同伴で監督までも試合後は各自解散、とだけを言い残しマネージャーに後のことを任せてタクシーで行ってしまった。その後はもう、ガタガタだった。
 牛尾キャプテンの存在がいかに部内で大きなものだったのかが、良く解かった日だった。
 ヘルメットに当たったのだけれど、微妙なラインだった。表面を切ったらしいキャプは右目の周囲を血で染めていて、ベンチを飛び出したもののそこから動けなかったのは自分だけではなかった。
「血、いっぱい出てたじゃないですか」
「頭は血管がたくさん走っているから、ちょっとした傷でも血が溢れるようになっているんだよ」
 あんなに大騒ぎされると、大丈夫だと言っても誰も聞いてもらえないものだね、とキャプテンは笑って言う。あの時はそんな状況ではなくて、大量出血に猫湖は気絶寸前だったし、いつも冷静沈着な蛇神先輩も激しく動揺していた。
 近寄って声を掛けることも出来ず、茫然と立ち尽くしていたオレ。心配要らないからと病院へ行くことを拒んだのに、結局監督と相手チームの監督にも推しきられてグラウンドを出ていく背中を見送るだけだった。
 場は騒然となり、血気盛んな虎鉄先輩が相手投手に食ってかかるのを、猪里先輩が必死に止めていた。いつもならオレも、虎鉄先輩と一緒に飛び出していて子津あたりに止められていただろうに。
 何故だろう、あの時はそんな風に考えることも出来なかった。脳内が麻痺して、全身が凍り付いたように冷えて動けなかった。
 もし、万が一のことがあったら、と。
 恐かった。
「本当の本当に、大丈夫なんですか?」
 しつこく食い下がり、オレは尋ねた。その度にキャプテンは笑う、密やかにオレの顔を見つめて。やがて草の上に置かれたままだった大きな手がオレの髪に触れ、わしゃわしゃと少し乱暴に掻き乱していった。
 土と汗と、それから草の匂いが混じり合っている。オレは子供扱いされたような感じで、むすっと唇を尖らせると頭の上にあるものを掴んだ。オレのなんかよりもずっとしっかりしていて、力強さを触れるだけでも感じさせる手に、言えた義理ではないが理不尽さを覚えてしまう。
 いつかオレの手も、こんな風に誰かを支え導いていくだけの強さを持ったこの人のような手に、なれるだろうか。
「心配?」
 ふっ、と。
 間近で吐息を感じて視線を上げると思った以上に近い場所にキャプテンの双眸があって、思わず後込みして腰を引こうとしたものの掴んでいたハズの手を、いつの間にか逆に掴み直されてしまった。
 逃げ道を封じ込まれ、オレは真っ直ぐに問いかけてくる綺麗な瞳を見つめながら黙って頷いた。
「大丈夫だよ」
 オレの反応に満足したのか、先輩は手を放してくれた。けれど握られていた箇所がいつまで経っても熱いままで、どうにも落ち着かなかった。俯いていると、またぽんぽんと頭を軽く撫でられた。
「医者には暫く安静にしているように、とは言われてしまったけれどね」
 だから部活は当分見学だよ、と肩を竦めて嫌そうに言う。それが本気で残念がっていて、だからこそ可笑しくてオレはつい笑ってしまった。途端、見付かって額を小突かれる。
「じゃあ、そうだね。折角だから見学中は猿野君に個人指導でもつけてあげようか」
「本当ですか!?」
 思いがけないキャプテンの申し出に、オレの方が驚いて躍り上がってしまう。上げた声がひっくり返ってしまって、微妙な裏声が混じってしまい喉に音が引っ掛かって掠れた。今度はキャプテンが笑う番で、オレは気まずさを覚えながらも前言を撤回されないか不安げに、キャプテンの顔を覗き見た。
 二言はないよ、と笑いながら言われて、いまいち説得力に欠けていたもののオレは頷き、へへっと笑った。
 まだまだ練習が足りていないオレだけれど、正直なところどこがダメでどこが良いのかさっぱりだ。だから誰かに指導してもらわなければならないのだが、いつまでも子津たちに甘えっぱなしも正直心苦しい。
 例え数日間だけであっても、キャプテンに指導してもらえるのは有り難かった。
「よーっし、明日からやるぞー!!」
 気合いを入れて拳を突き上げて叫んだオレに、キャプテンが穏やかな笑みを浮かべる。傍らに沈めていた鞄の取っ手を肩にひっかけ、そしてやおら立ち上がった。
「決意も固まったところで、そろそろ帰ろうか。暗くなる」
 夏も間近に、日は随分と長くなった。けれど日が沈んでしまえば空はあっという間に闇に包まれてしまう、昼間の暖かさが時として嘘のように肌寒さを訴えるようになる。
 言われて時計を見れば、もう午後七時を目前にしていた。試合が終わったのが午後四時ちょっと過ぎだったから、かなり長い間ここに居たことになる。その前に一時間ほど、此処までの道のりを歩いてきてはいたが。
 気がつけば自分の家とは逆方向である、名簿だけでしか見たことのない住所を探してしまっていたのだ。
「送っていこうか」
「医者に安静を言い渡された人が、何言ってるんですか」
 こういう場合は、送るのはむしろオレの仕事でしょう。そう言ってオレは自分の鞄を担ぐとぐいっ、と先輩が持っているスポーツバッグを引っ張り、半ば強引に奪った。
 驚いた目をする先輩に笑いかけ、ふたり分の鞄を肩に担ぎ上げる。普段から力仕事に慣れているオレにとって、こんな鞄は重い部類には入らない。平然と歩き出そうとしたオレは、最初こそ坂道の草に爪先を滑らせそうになったけれど、見越した先輩に背中を支えられてアスファルトの道へと無事に戻ることが出来た。
「持つよ」
「良いッス、持たせてくださいって」
 これくらいしか出来ないのだから。あの時、血を流している先輩に声を掛けることも側に駆け寄ることも出来なかった自分が、今この人にしてあげられる優しさは。
 困ったように先輩は顔を顰め、それから少し考えて諦めたように息を吐いた。
「なら、猿野君のご厚意に甘えさせてもらおうか」
 細い道に夕日を受けた長い影を伸ばし、オレ達は並んで歩き出す。
「そういえば」
 ふと、先輩が言った。夕焼け空をキラキラと髪に反射させて、オレを振り返る。
「猿野君の家は確か、逆方向じゃなかったかな?」
「え゛……っ」
 しっかりばれていたらしい。変な顔をして変な声を上げてしまったオレを見つめながら、先輩はくすくすと口元を隠して笑った。
「迷子?」
「違います!」
 いくら対戦相手の高校の場所が初めて行く方面だったからと言って、途中まではバスを使ったのだ。知っている道をわざわざ迷子になるほど、オレはバカじゃない。憮然として言い返したオレに、突然先輩は笑みを消した。
 どうしたのだろう、と怪訝に思っているオレの前で、先輩は不意打ちにようにオレの顔の、目の前でにっこりと微笑んだのだ。
 あのまま前に進み続けていたら、あらぬ場所が触れあいかねない状況で。跳ね上がった心臓がセーブをかけてくれた御陰で、あと一センチの距離でオレ達の間隔は保たれたけれど。
 何故か残念そうに先輩が離れていく。一体何がしたかったのか分からないで居るオレをまた笑って、目を細める。
「嬉しいね、そこまで心配してくれたんだ」
「うっ」
 時間が余ったから散歩していただけ、だとか。その辺をブラブラと歩いていたら昼寝をするのに丁度良い河原があったから寝転がってみたのだ、とか。
 そういう言い訳はたくさん頭の中を過ぎっていったのに、口から吐いて出るのは否定できずにいる呻り声だけだった。
 いっそ、開き直ってしまった方が楽か。
「……そうっすよ、心配だったんですいけませんか!?」
 早口で叫んでぷいっとそっぽを向く。笑い続けていた先輩の声が止んだ。
 いい加減熱も冷めていたはずの、右手を、握られる。忘れていた熱が再発して、更にさっきよりも温度が上昇していた。
 収まっていた心臓の鼓動が再び速まる。
「嬉しいよ」
 さらりと、耳元で囁かれた。吐息が耳殻を擽る、背筋に知らない感覚が走った。
「キャプテン!?」
「ありがとう」
 動揺を隠せないまま振り返り見たオレに、最高の笑顔でそう告げるのは卑怯だ。視線が外せなくなってしまうではないか。
「ぅあ……」
 赤くなったまま俯いたオレの手を、先輩が促すように引く。オレは導かれるままに道を行く。
 足許に薄らいでいく自分の影が見えた。西の空一面だった夕焼けが、夜を顕す濃紺に呑み込まれて行く。
 結局オレは、先輩の家に着くまでずっと赤い顔で無言だった。

02年6月19日脱稿