秘密の朝

 コンコン、と。
 二度の遠慮がちなノックのあと、もう一度立て続けに三度扉を拳で軽く叩いて反応を待つ。
 だが、予測通り中から応対の声は聞こえてこない。
「…………」
 渋い顔を更に剣呑なものに変え、彼はフレームの細い眼鏡を持ち上げた。ともすれば神経質そうな顔を余計に不機嫌な表情に変えて仕舞いかねない眼鏡を、彼は好んで装着している。聞けば近視だが遠視だかとかで、これがないとものを正しく判別できかねるそうだ。
 だがなにも、整った顔立ちを駄目にするような眼鏡を選ばなくても良いではないか、というのは彼の弟弟子に当たる青年の弁だ。その言葉には、男の自分が見た目を気にする必要が何処にあるのか、と彼が尋ね返す事で弟弟子を黙らせている。
 はぁ、と言う溜息がひとつ。
 ドアノブに手を伸ばし、ゆっくりと左に回す。大した抵抗もなく扉はすんなりと内側に開かれ、雑然とした空気を抱えている割にものはそれほど多くない室内が彼の前に姿を現した。
 最奥に、勉強机。その横に窓、更にその横に本棚。本棚から少し手前に戻った場所に、ベッド。あとはサイドテーブルになにも刺さっていない一輪挿しの花瓶が載っている程度か。
 召喚術師の家系に生まれたわけではない彼には、親と呼べる存在がない。後見人は彼の師範に当たるラウルが務めているが、ラウルとてそれほど裕福な生活を送っているわけではないので彼へ渡る小遣い等のバームは少ない。
 召喚師見習いである彼が、勉学を怠ってアルバイトなどに走らないよう、ある程度の金額は毎月与えられているものの、それは総てどうやら、抜け出した時のおやつ代として消えていってしまっているようだった。
 授業には出ない、出ても居眠りをする。彼への評価は最低ランクであり、そのやる気の無さは兄弟子たるネスティの頭痛の種だった。それでなくとも、自分たちへの周りが向ける視線は普通よりも遙かに厳しく棘があるものだというのに。
 自分から、その棘をより尖らせるような真似をしなくとも良いものを。それがネスティの感想だった。
 ドアノブから手を放し押した勢いで扉が閉まるのを背中で確かめ、ネスティは弟弟子、マグナの部屋へ足を踏み込んだ。入り慣れた……ある意味、部屋の正当な持ち主以上に何処に何があるのかを知り尽くしているかもしれない部屋をまっすぐに横断し、ベッド脇に立つ。
 問題の部屋の主は、まだ気持ちよさそうに夢の世界を漂っていた。
 案の定、とこれで二度目の溜息が彼の口からこぼれ落ちる。
「マグナ、起きるんだ」
 まさか、とは思ったけれど念のために様子を見に来て正解だった。ぺしぺしとマグナの頬を手の甲で軽く叩きながら、ネスティは枕を抱きしめてベッドの上を安住の地と決めている彼を呼ぶ。
 無論、この程度で目を覚ますような輩ではないことは承知の上。
 ぎしっ、とベッドを軋ませてネスティは心地よさげに眠っているマグナの顔の直ぐ横に腕を置いた。真上から覗き込むように顔を寄せると、窓から差し込む光が遮られてマグナの顔に影が落ちる。
「マグナ」
 ふっ、と笑ってネスティは寝心地良さそうにマグナが抱きしめている枕を彼から奪い取った。しっかりと握りしめられている指を一本一本解いていくと、むずがるマグナが寝返りを打った。
 鼻先をマグナの癖毛が通り過ぎていく。寝癖が混じっていて、いつもよりも跳ね方が大きい。
「起きないと、知らないぞ」
 薄笑いを絶やさないネスティが片手をマグナの手に絡め、もう片手で寝癖だらけのマグナの髪を梳く。触れてくる体温が心地よいのか、すり寄るような動きを見せるマグナにまた笑みがこぼれた。
 こういう時の動作が本当に猫のようだと、ネスティは常々思うのだがそれを口にするとマグナはムキになって反論してくる。自分で見られないから分からないのだろう、そして他の人間も彼がこんな風に人に甘えてくる事を知らない。
「んぅ……」
 額に掛かっている前髪をすくい上げ後ろへと流し、現れた白い肌に軽くキスを落とす。
 重ね合った手から、体温が伝わってくる。ネスティの方が少しだけ、低い。
 寝ぼけ眼でマグナが瞼を開いた。とろんとした視線が、間近にあるネスティの顔をしばらくぼうっと見つめている。
 だが其処に居るのがネスティだとぼやけた頭の中でかろうじて理解したらしいマグナは、繋がれていない方の腕をのろのろと持ち上げてネスティの背に回した。そのまま体重を乗せると、重さに引っ張られたネスティの身体が彼に近付く。
 下から抱きしめられる格好になったネスティは苦笑しつつも、それを拒もうとしない。
「マグナ、起きるんだ」
 声色は限りなく優しい、そしてどう考えても彼がちゃんと目を覚ますには足りない音量をきちんと計っている。押さえつけていた手も解放してやると、いよいよ両腕で抱き寄せられた。
「ん……もうちょっとぉ……」
 幼い頃はひとりで眠れないと言っては夜中、ネスティの部屋まで枕を抱えてやって来ていたマグナだ。基本的に、彼は人に甘えるのが好きなのだ、育った環境の所為で誰かに抱きしめられた経験が著しく乏しくて。
「知らないぞ?」
 苦しくない姿勢に変えて、マグナに抱きしめられたままネスティは彼の髪を相変わらず弄っている。
「今日は君の、召喚師としての承認試験だろう?」
 だから起こしに来ているはずのネスティまでもが、マグナの寝坊を助長するような行動を取っているのは矛盾している。兄弟子としてあるべき姿は、こうやって夢うつつの彼を寝かしつけるようなものではないはずだ。
 声が聞こえているのか聞こえていないのか、薄く目を開いたマグナはやはりまだとろんとした目でネスティを見上げている。状況が理解できていないようだ。
「ねすぅ……?」
 舌っ足らずな声で名前を呼ばれると、どうしても顔が笑ってしまってずり落ちかけた眼鏡を正すことでかろうじてそれを誤魔化した。
「なんだ?」
 顔を近づけて問いかけると、ぎゅっと更に強く抱きしめられた。
 やれやれ、仕方がない。そんな呆れた顔に変わったネスティが、彼の浮き上がった背中に腕を回して身体を引き起こしてやる。その間もずっと、マグナはネスティにしがみついたままで、楽しそうに小さな声で笑っていた。
「まったく」
 何時までも子供なのだから、と呟きつつもネスは彼の背中を二度三度叩き、腕を解いた。いい加減解放されたいと思っての意思表示だったが、マグナは嫌がって首を振った。
「こら。もう支度をしないと間に合わなくなるぞ」
 コツン、と頭を小突く。だが嫌々と首を振り続けるマグナはくっついたまま離れようとしない。いったい何が不満なのか、三度目の溜息を零したネスティに、マグナはぼそり、と呟く。
「おはよう……」
 どうやら、頭はようやく醒めてきているらしい。前ほど活説の悪くない声で呟かれた言葉の意味に、思わずそのまま同じ言葉を返そうとしてネスティは動きを止めた。
 ――まさか
「時間が無いと、今言ったばかりだろう」
「やだ。起きない」
 首に回された腕に力が込められる。一瞬だが息が詰まった。ネスティの胸に顔を埋める形で、マグナがストライキを起こしている。このまま彼の要望に応えずにいたら、本気で彼は試験を放り出しかねない。
 確かに、彼が試験に合格さえしなければまたしばらく、本部での息苦しい生活を彼に強いることになるが一緒にいられる時間が減ることも無くなる。そんな事をネスティが考えていたのは事実だが、だからといって彼の経歴に傷を残したいわけでもない。
 今まで何百年と続いてきた蒼の派閥の歴史の中で、召喚師試験に落第した見習いはどれも散々な人生を送っている。そんな悲惨な人生を彼に送らせたいわけではないから、困る。
 しかもそれ以上に躊躇する理由があるのだ、ネスティには。いや、どちらかと言えば、マグナにか。
「知らないぞ……」
「ん」
 四度目の溜息のあと、ネスティは腹をくくった。彼の返事に嬉しそうな声を返したマグナが顔を上げ、にっこりと微笑みそして目を閉じた。
「おはよう」
 そう告げ、ネスティは若干首を傾がせて角度を作った。そのまま顔を寄せ、薄く開いているマグナの唇へ己の唇を重ね合わせる。
「ん……」
 柔らかな感触を触れあわせるだけで収めるつもりだったネスティだが、変わることなく首に回されているマグナの手は緩む気配がない。離れようとすると、逆に強く手を結びあわせて彼を逃がさないように拘束する。
 ちろり、と隙間から抜け出してきたマグナの舌先がネスティを擽る。
 そう、触れあうだけのキスで満足できないのだ、寝起きのマグナは。完全に目を覚ましている時は別だが、今のような半覚醒状態の彼は手に負えない。
 しかも、朝は……。
「んぅ、んっ……」
 渋々と舌を絡めてやり、ネスティはマグナの開かれた口腔へと入り込む。両手で彼の頬を挟み持ち、より深く唇の繋がりを求めるとようやく苦しそうにマグナはネスティから逃げる動きを見せた。
 濡れた音が口内で小さく響き、飲み下しきれなかった唾液が互いの接点から溢れ出して下になっているマグナの喉元に川を作った。少し乱れた寝間着の中まで伝い落ちていくそれを、ようやく彼を解放したネスティが指先で掬い上げた。
 びくり、とそれにさえマグナは肩を揺らして反応する。
「起きたか?」
「う……」
 鎖骨の辺りを彷徨っていたネスティの手が、赤くなっているマグナの口元も一緒に拭って離れていった。
「起きたのなら、さっさと支度をしろ。試験開始に間に合わなくなる」
 時間を気にして、ネスティはマグナの額を小突いた。自分が散々焦らした起こし方をした所為だとは、間違っても口に出したりしない。そもそも、マグナがひとりでちゃんと時間通りに目覚めていられたら、こんな結果にはならなかったわけなのだし。
 小突かれた方もしばらく唸っていたが、時間が無いことは本当なのでネスティを上目遣いに睨みながら渋々と準備を始めようとした。
 だが。
 ネスティから離れようとしたマグナが、ベッドの上で固まる。
 はぁ、と本日五度目の溜息。溜息をつくと寿命が縮むと言われるが、毎日十度以上溜息を零しているネスティは、すると余程マグナに寿命を浪費させられているらしい。
「自分でするか?」
「……ネスぅ、お願い、します……」
 朝だから。
 その上に付け足して、さっきあんな事をしたから。
 しっかりと反応していたらしい身体は、このままでは立ち上がって背筋を伸ばす事も出来ない状態になってしまっていた。
「まったく。だから嫌だったんだ」
「うぅ、ゴメン……」
「謝る前に、さっさと終われるように協力しろ」
「はい」
 しゅん、と小さくなったマグナにネスティは手を伸ばす。露骨なまでに彼が触れる度に過度な反応を返すマグナを見下ろしつつ、暴走する熱を持てあましているマグナを解放してやるべく、指を巧みに動かし始めた。

 そして。
 まだ熱が身体に残っていたのかどうかは分からないけれど。
 マグナが受けた試験で彼が召喚術を失敗し暴発させ、別に契約者の居る召喚獣と二重契約……ギャミングをしてしまったことは、彼自身と、ネスティだけの秘密。
 そう。総ては、秘密の事。