孤児院の裏手にある空き地に猫が棲みついているらしい、という情報は彼がフラットにやって来て間もなく入手出来た。餌をやって手懐けるのは構わないが、連れ込むなと強調してくるガゼルに苦笑って、トウヤは黙ったまま頷く。
自分がひとり増えただけでも経済状況は果てしなく苦しい孤児院に、更にわらわらと人間やそうでない存在が増殖している現在、例え猫一匹であっても食糧を分配できる余裕はないのだ。しかしむしろ、その猫に釣りの餌を分けて貰っているというある意味奇妙な関係にある空き地の猫は、もしかしたら自分たちの苦境を分かっているのかも知れないとさえ、思わせた。
リィンバウムの猫は頭がいいんだな、とそんな風に考えている事を相棒に告げると、彼は呆れたように肩を竦めて首を振ったけれど。
「バカじゃないのか」
ソルはそう言って幾分自分よりも高い位置にあるトウヤを見上げ、鼻を鳴らして笑った。そんなわけがないだろう、と。
同類と思われているんじゃないのか、と聞きようによってはとても酷いことをさらりと言われ、いたく傷ついた顔をしたトウヤにソルはまた笑う。トウヤはどう見ても人間で、大きさから言っても平均並みかそれ以上だ。身長が。リプレには年下に見られてしまったけれど。
自分はそんなに頼りなさそうな顔をしているのだろうか、と鏡に映し出される自分を思い浮かべつつトウヤは空き地へと向かう。ソルが二歩遅れてついてくる。その距離がまだ自分は彼に、完全に信頼されていないのだなと判断するに足る間隔だった。
横に並ばれた事は未だに無い。だが最初の頃はもっと距離が開いていた事を思うと、多少は彼の中にあった自分への警戒心は薄らいだのだろうか。口では責任を感じているから、と言っているけれど彼にはまだ何かありそうだと、生まれつきの感覚が告げているけれども。
大丈夫、彼は信じて良い。そう思おうとして瞼を一瞬伏せた。
「トウヤ」
しかし考え込み過ぎていて目的地を通り過ぎようとしていたらしい。背後から投げかけられた声にハッと我に返って振り返ると、空き地を区切っている廃墟の崩れた壁を前にしてソルが立ち止まっていた。
どうかしたのか、とトウヤが今何を考えていたのかを感知しない表情で彼を見つめている。その細く白い手が真横の空き地を指さした。
「此処じゃなかったのか?」
それともトウヤがいつも猫を相手に戯れている場所とは、もっと先にあるのか。言葉尻に色々な疑問を付け足したソルの問いかけに、トウヤは慌てて取り繕うように笑って首を振った。ソルが指し示している場所こそが正しいのだと表情に浮かべて、小さく頷く。
ごめん、と呟き其処で良いのだと教えて彼は踵を返した。ソルはまだ納得しかねる顔をしていたが、ぼんやりしていたんだよと重ねて告げると、漸く彼はふぅん、と相槌を打って頷き返してくれた。
彼を疑っているわけではない。むしろ今のこの状況にある自分をどうにか出来るのは、彼だけなのだから。
召喚師、そういうものはお伽噺の中の存在だと思っていたけれど。
異世界も、全部絵空事の夢物語としか考えた事が無かったけれど。意外にそういう非科学的な事が蔓延している世界に落とされても、自分が冷静である事に驚く。それもすべて、フラットの仲間たちと彼の御陰なのだろう。
だから信じたいのだ、信じなければ自分はあらゆるものを疑わないといけなくなる。
「トウヤ」
彼はまた名前を呼んだ。特徴的な服装を身に纏った年齢よりも幼く見える顔が、トウヤを見上げている。同学年にもこれくらいの身の丈の男子は居たが、栄養状況が悪いのかトウヤの見知っている誰よりも彼はか弱そうに見えた。
もっとも、見た目だけに騙されると痛い目を見るという事実は知っているけれど。ソルはこれでも、恐らくは優秀な召喚師なのだから。
この世界に於ける召喚術の力は絶大である。一部の特権階級だけが独占している力は、軋轢を産み権力を偏らせる。金の派閥という存在を既に見ているだけに、その思いは大きい。
だがトウヤとて、その特権階級が持ち得る力を無意識に行使できる立場にあるのだ。見る者にとって見れば、学んだわけでもないのにその力の意味を知らぬまま振るっていたに近い彼は、脅威だろう。
争い合いたいわけではないのにな、と自嘲気味に笑みを作る。色々と考え込む間も殆ど声に出さずに頭の中で片付けてしまうトウヤは、ソルからしてみれば百面相をしているようなものだ。
「どうかしたのか?」
「ああ、考え事をね」
少し、と本当のことを言い訳してもソルはやはりふぅん、と相槌を返すだけだ。知りあってすぐに気付いた事だが、彼は殆ど自分のことを話さない上に他人のことにも干渉したがらない。
知りたがらない、交わりたがらない。まるで自分の周りは全部で敵です、と一歩半引いた場所に立ち続けているような。それでは疲れるだけだろうに、彼はその事に気付かない。
いや、知らないだけなのか。
またごちゃごちゃと考え初めたトウヤの眉間の皺に怪訝な顔を作り、ソルは気を取り直して目の前の空き地に視線を流した。打ち捨てられ廃棄された家屋が崩れた残骸が散らばっている、子供達は危険なのであまり近付くなと注意されていたが、トウヤはもう一応、この世界では相応に大人の扱いをしてもらえる年齢だった。事故責任さえ持っていれば、悪い事をしない限り咎められることもない。
乱雑に積み上げられ、汚れも酷く足場も相当に悪い空き地をひととおり見終えて、ソルは嫌そうに顔を歪めた。しかし考えを終了させたトウヤは、慣れた足取りで道を塞ぐ、崩れた梁をひょいっと飛び越えた。
高さの異なる足場に立った所為でトウヤの身体が頭ひとつ分、ソルよりも高い位置に行く。見下ろされる事にむっときて、ソルは躊躇しかけていた足を前に出した。上るのに手を貸そうと差し出されたトウヤの腕は、視界の端に追いやる。
猫の鳴き声は確かに聞こえた。それも意外に数が多い。
「やっぱり同類に思われてるんじゃないのか」
餌を持っているわけでもないのに、空き地の中心に近い場所に向かうに連れて数を増やしていく猫の姿にソルは呟いた。トウヤが苦笑する、もう反論する気はないらしい。実際これだけの猫に囲まれてしまえば、自分もそう感じてしまいそうだった。
或いは前世が猫だったとか。
栓もないことを考えつつ、トウヤはいつも自分が座っている背もたれの壊れた椅子に腰を下ろした。他に座るものはないものか、とソルも周囲を窺ってみたものの、どこも汚れきっていて結局疲れると分かっていても立ち続ける事を選んだ。
ひょっ、と座ったトウヤの膝に黒い毛並みをした猫が飛び乗る。他にも白ぶちだったり虎柄だったりと雑多な猫が集まって、ソルを珍しそうに見上げてきた。
不躾な視線を感じ、居心地が悪い。誘われたから来ただけだが、やはり断っておくべきだったとソルは今更ながらに後悔してトウヤを見た。彼は上機嫌に、甘えてくる猫の喉を撫でている。
フラットの子供達に向けるのと大差ない笑顔だ。
「好きなのか?」
猫が。
問いかけに顔を上げたトウヤに言葉を重ねる。すると問いかけ自体が意外だったらしいトウヤが表情を一瞬だけ凍らせ、そして破願させた。
「なにがおかしい」
「いや、そうじゃなくってね」
憮然となったソルに笑いを必死で押し留めながら、トウヤは手と首を振った。膝の上の猫がなんだろう、と琥珀色の双眸を彼に向けている。媚びるような甘い視線は、人間の女がやれば充分な婀娜っぽさを醸し出すことだろう。
「昔のことをね、少し思い出した」
猫が特別好きというわけではない、ただ今現在の状況に猫以外の愛玩動物が存在しなかっただけだ。ここまで好かれるのは正直意外だったし、自分が猫たちに好かれる理由もさして思い出せない。
やはり本当に、前世は猫だったのだろうか。
「昔?」
「僕の家には犬が居るんだ」
番犬も兼ねて、恐らくはラミよりもずっと大きな体躯をした犬が飼われている。もうかなりの年寄り犬だけれど、多分今も元気に庭をかけずり回っているだろう。トウヤが小学生の時からのつき合いで、今や家族の大事な一員になっている。
そして猫は飼っていない。ただ一度だけ、小学生の時にトウヤは捨て猫を拾って帰った事があった。
見付かれば絶対に捨てられてしまうからと、まだ目も開いていない仔猫を服の中にこっそりと抱いて家に帰った。薄汚れた毛並みをした猫はとても弱っていて、か細い声で親を呼び続けているようだった。
けれど、幾ら当時から聡い子だったとはいえ、小学生程度の知恵で仔猫を守り通すことなど出来るはずがない。夜も更けないうちに祖父に見つかり、その日のうちにトウヤは猫を、拾った場所に戻しにいかなければならなかった。
「……ふぅん」
興味ない声でソルが相槌を打つ。トウヤは小さく笑った。些か自嘲気味に。
「あの時はね、とても悔しくって、それでいて哀しくて。泣きじゃくりながら橋の下まで行って、一晩中蒲団の中で泣いたよ」
祖父とは一週間近く顔を合わせても口を利かなかったし、と幼かった日々を思い出して彼は笑う。ソルは変わらない表情で視線を逸らした。
祖父、父親の父親。自分の血脈の祖。知識として知っているが、ソルはその存在を肌で感じた事がない。ただでさえ親、という存在との関わり合いが希薄だったのに。
「嫌いになったのか?」
「誰をだい?」
「祖父」
何気ない問いかけだった。即答で単語のみで答えたソルの無表情さに隠れた感情を読みとるように、慎重にトウヤは彼を下から窺い見た。膝の上で彷徨った手が猫の背を撫でる。
「その時はね。でも、うちにはもう犬が居たし、お爺ちゃんの言いたいことも今なら分かる気がするから」
あとから母に聞かされた話しでは、祖父はあの後近所で猫を世話してくれそうな人を捜してくれていたそうだ。次の日、トウヤが学校に向かう途中で橋の下に寄ったときにはもう、あの猫は居なかったから。
何も知らない間は、仔猫は保健所にでも連れて行かれてしまったのだと祖父を恨みもした。真実を知ってからは、祖父の厳しさと優しさを思う。
命に責任を持てない間は、好きという理由だけで命を守ろうとする行為も結局は命を弄ぶ事に大差ないと、随分あとになってから諭された。同情や愛護心だけで動くことが危険である事を、教えられた。
「尊敬している、祖父の事は」
遠くの空を見上げてトウヤが呟く。そして不意にソルを振り返り、君は? と問う。
ソルは言葉を詰まらせた。視線を彷徨わせ、足許に落とす。無意識に胸ぐらを掴んだ自分の手を握り、手の平に爪を噛ませる。
「俺は、知らない」
会ったこともなければ、生きているのかも知らない。どうしているのか、何処にいるのかも興味を持ったことがなかった。
他者の命に気を配る事などしたことがなかった。
「ソル?」
下を向いたまま黙りこくってしまったソルを心配げにトウヤが呼ぶ。掴もうと持ち上げた腕が、けれど彼に辿り着く前に弾き飛ばされてしまった。
ぱしん、と軽い音が周囲を一瞬支配する。叩かれたのだと理解するのに、トウヤは少し時間が必要だった。
にゃー、という間延びした猫の声が場に不釣り合いに響き渡る。
「あ……」
気まずげに視線を逸らしたのはソルが先だった。叩いた手を胸に抱き、痛くないはずなのに痛そうに顔を歪めている。トウヤが肩を竦め、膝の上で欠伸をしている黒猫を両腕で抱き上げた。
「ソル」
何気ない仕草で彼を呼び、自分へと注意が戻ってきたソルに向かって抱き上げた暖かい猫をはい、と手渡す。
反射的に受け取ってしまったソルが、何をされたかに直後気付いて顔を紅潮させた。しかし渡された猫をさすがに放り投げるわけにもいかず、落とさないように注意しながら怖々と手だけで抱いてみる。バランスが悪い抱き方に、猫の方が嫌がって暴れた。
「違うよ、ソル。もっと優しく抱いてあげないと」
嫌がっているだろう、とむずがる黒猫を指さしてお手本を示すように、トウヤは足許にすり寄ってくる別の猫をまた抱き上げた。胸と腕で支え、喉を優しく撫でてやる。機嫌よさげに猫は頬ずりし、瞼を落として目を閉じる。
そのあまりに慣れた仕草に、ソルは見よう見まねで猫を撫でてみる。最初は不器用な手付きだったものも、少しすればなんとなく感覚が分かるようで、徐々に硬さが薄れていくのがトウヤの目にも分かった。
「ソル」
猫は好き?
甘える仕草を繰り返してくる猫が気に入ったのか、優しい手付きで猫が好きな場所を探しながら撫でてやっている彼に、トウヤはそんな事を訊いた。意地悪そうな笑みを浮かべていた事に気を悪くしたのか、ソルは黒猫を抱き直してむっと唇を山なりに尖らせた。
「嫌い」
即答で返されて、トウヤは苦笑する。
あの日、橋の下で拾った猫は。
きっと今頃、セントバーナードと一緒に母屋の軒下で日向ぼっこでもしていることだろう。