Paradox

 色のない空間が、何処までも、どこまでも。
 最果ては見えず、地平線のその向こうがどうなっているのかは皆目見当が付かない。もしかしたら、その先は断崖絶壁でその昔、人々がまだ純粋に神話を信じていた頃の想像された世界の端があるのかもしれない、そう考えて自分の頭の滑稽さを笑う。
 そんなはずなど無い。
 16世紀にコペルニクスが提唱した地動説がガリレオ・ガリレイの天体観測によって実証されて、バスコ=ダ=ガマが世界一周を達成して地球が丸いことを照明したのはもうずっと昔の話。
 世界の果てなど無い、緩やかに円を描くこの大地はまっすぐ歩み続ければいつしか歩き始めた場所に帰り着いてしまう。
 言うなれば、始まりの地こそが最果ての場所。永遠に繰り返されるパラドクス。
 ひととはなに。
 自分とはいったいなに。
 生まれてきたものの魂は何処から来て何処へ還るのか。巡り合わせの中で出会い分かれを繰り返す、同じ道などひとつとして存在しない世界の中で、時間だけは人の上に平等に積み重ねられていく。
 運命など、信じない。
 鐘楼の窓に硝子はない、煉瓦が積み重ねられた隙間にぽっかりと空間が空いていて其処から風は自由に出入りを繰り返している。縛られるものを持たない風も、休む場所を与えられていないから不自由だ。
 魚は水の中を自由自在に泳ぎ回ることが出来るけれど、回遊魚の中には泳ぎ止むと死んでしまうようなものもいるからそれらもまた、不自由。
 予め定められた生き様に縛られて、其処から逃れる術を持たずまた逃れようと抗う事もない。甘んじて受け入れ、そのなかに満足し一生を終える。人は、そんな与えられた不自由の中の自由を享受しきれない存在。
 行き場所は自分で決める、行き方は自分で選びたい。
 だけれど、果たしてそうやって決めた行き方のどれだけが、本当に自分でつかみ取った選択だったのだろう。
 許されている時間に限りがあるから、どうしても何処かで妥協する心を見つけてしまっている。口ではいやがっていながら、結局は敷かれたレールを雑草に隠れて見えないように、見ないようにして進んでいるだけではないのか。
 高い天井、見上げれば鐘がそこに吊されている。けれど今は誰もそれを撞くものはない、それに鐘を鳴らすと言う作業は見た目以上に体力とコツが必要なのだ。
 その技術を伝える存在は失われて久しい。だから、折角綺麗な音色を響かせるはずの鐘も無用の長物と化している。
 古めかしい鐘楼の内壁に凭れ掛かると、空に近い場所であるに関わらず空気は冷たく背中に伝わる壁の温度も冷ややかだ。風は変わることなく時折欲しいと思ったときに吹き込んできて、熱を攫って何処かへと去っていく。
 繰り返し、繰り返す。
 何百年か前までは、きっとこの鐘楼も周囲に暮らす人々に時刻を知らせる為に活躍していた事だろう。だが今は、誰もが選り好んで気に入った時計を手に入れることが出来る時代だから、一時間毎に鳴り響く鐘の音を聞く人はいなくなってしまった。
 左足を伸ばし、右膝は引き寄せて軽く腕に抱きしめる。投げ出したもう片方の手の中には、緩く握られた白い包帯が無秩序に絡み合っていた。
 狭い視界内に収まる世界は、薄明かりの中で寂しげに微笑んでいるように見えた。
 カツッ、カツッ……
 煉瓦造りの鐘楼に、鳴り響く足音。
 ぼんやりと身体を壁に預けたまま天井につり下げられている、忘れ去られた鐘を見上げていた彼は気怠そうに小さく頭を振ると、近付いてくる足音の発生源を探るために視線を下ろした。
 鐘楼の出入り口はひとつだけ、地上へ戻るには今彼がいるとはちょうど点対称に当たる向こう側にある階段を使うしかない。あとは、吹き抜ける風が出入りしている窓から飛び降りるしか。
 だが、地上まで何十メートルとあるこの高さから飛び降りて無事に済むとは、あまり考えつかない。窓の直ぐ真下が地上ではなく、別棟の建物の屋根がいくつも並んでいるものの、それですら他の建物に比べて鉛筆のように細長い鐘楼から落ちてただで済むはずがない。
 カツン、カツッ……
 足音が不意に止む。階段からまだ音の主は現れない。完全に立ち止まっているらしく、微かに感じる人の気配は動く様子がなかった。
 なにをしているのだろう、そもそもこんな辺鄙な場所へわざわざ出向くような物好きは誰。
 それを言ってしまえば自分だって、好き好んでこの場所へよく足を向けているのだから人のことをとやかく言う筋合いは無いのだろうが。
 何処よりも空に近く、静かなこの場所はお気に入りだった。
 空は水色だと言うけれど、それは光の屈折率の所為でそう視覚が認識しているだけで実際大気に色はない。海が青いというのは空の光を反射しているからであって、水が本当に水色であるはずがないのと同じ事。
 色のない世界、此処から見えるのはそればかりだ。
 色々なことをこの場所で考えた。なんかに行き詰まると、必ずと言っていいほど。それ以外でも、時間を持て余してしまえば少しの飲み物と食べ物を持ち込んで何時間も此処に座って空ばかりを眺めていた。時々、酒を飲みながら月夜を見上げたりも。
 包帯を外したのは、ただの気紛れでしかない。
 顔の左半分を覆い隠しているそれを人前で外すことは滅多にない、今はひとりきりで時間が過ぎるのをただ待ち惚けている。見ようとする相手も、見られて困る誰かが居るわけでもないから、白々しい嘘で固めた自分で居る必要がない、それだけ。
 紺碧の髪が緩やかに、吹き込む風に揺れた。左耳のピアスがぶつかり合って小さな音を奏で出す。
 カツッ……
 音が、聞こえた。
 それが誰であるのか想像するに難くない、彼も大概物好きな分類に入る。けれど階段から徐々に姿を現す様を見る気にはなれなくて、上半身を捻り視線を階段とは反対側へと流した。
 右半分の視界は壁に覆われる。左目が映し出すのはささくれ立った雲が支配する空。
 身体を捻ったときにもまた、ピアスが一緒に反動で揺れて音を立てた。自分の耳にしか響かない些細な音。
 カツッ、カツッ、カッ……
「矢張り此処に居たな」
 足音が止まる一瞬前に朗々と響いた淀みのない済んだ声にも、視線を持ち上げることなく彼は空だけを見ていた。
「スマイル、ミーティングの時間はとっくに過ぎているのだぞ」
 反応を返さない彼に少々苛立った調子で彼は言う、片手は腰に添えられて御立腹の様子だ。しかしスマイルは相変わらずも空だけを見ていて、自分を叱る存在を自分の世界から除外してしまっているようだった。
「スマイル」
 いい加減にしろ、と首を振った彼は視線を床に流して、そこでスマイルの投げだしている右手にほどけた包帯が絡まっている事に気付いた。
 もう一度顔を上げ、今度はじっくりと横を向いているスマイルの顔をじっと観察。そしてようやく、彼が常に包帯で覆って隠している顔の左半分を露わにしている事を知った。
「珍しい、な」
 感嘆の声で呟くと、ようやくスマイルが彼の方を見る。
「今、何時」
「時計は」
「持ってない」
 ほら、と左腕を持ち上げて何も絡んでいない手首を彼に示す。
「持ち歩け」
「嫌いなんだよねぇ……」
 時間に縛られるようで。
 腕を下ろしたスマイルの前まで歩を進め、彼は其処でまた立ち止まる。蹲ったりして視線の高さを揃えてやる親切心は端から無いらしい。
「子供の我が侭のようなことを」
「子供でも良いよ、別に」
 それで困ることはなにひとつとしてありはしないのだし。
 即答で返したスマイルを呆れ顔で見下ろし、彼はさっきまでずっとスマイルの見ていた窓から外を眺めた。別段、何かが見えるわけではなく白い雲ばかりが目立つ普段と変化無い空があるだけだ。
「なにかをしていたわけ……でもないようだが」
 ミーティングを放り出してまで此処に留まり続けた理由を彼は知りたいらしい。これでももし、忘れていたから、とでも答えようものなら容赦のない鉄拳が飛んでくることは間違いないだろう。
「なにをしていた?」
 何もしていなかった事をつい今し方認めたばかりの彼が、それでもスマイルに問いかける。薄く自嘲気味な笑みを形作って、スマイルはまた目線を空へ飛ばす。
「ぼくたちは、なにで出来ているのかな、て」
 考えていたのだと呟くと、溜息が聞こえてきた。
「教えてやろうか」
 再び彼へと視線を戻す。綺麗な銀の髪が雲間から射し込む光を浴びてキラキラと輝いている。
「石鹸七個分の脂肪、鉛筆の芯九千分の炭素、二寸釘一本分の鉄分、マッチ棒の頭二千二百個分のリン。あとは水か」
「そうじゃなくってー……」
 確かに人間の肉体を構成する成分を別物質に転換すると、それだけのものにしかならないことは事実だが。尤も、これだけのものを揃えれば人間を作り出せるはずがないことも、確かだ。
 早口に捲し立てた彼に苦笑すると、彼は不満げな表情でスマイルを見下ろす。
「土くれ、という答えが欲しかったのか」
 旧約聖書で知られる創世神話で、神は土くれで形作った人形の鼻に息を吹き込んで人間を作り出している。もともと、「大地」が「アダーマー」、そして「人」が「アーダーム」と現されるヘブライ語の言葉繋がりから、それは発生したと考えられている。そして神によって土から人間になったアダムのあばら骨からその妻イブが誕生し、人間がこの世界に現れたとするのが旧約聖書だ。
 ヒトは神の息によってヒトとなった。だからヒトは死ぬと神の身元へと還る、そういう信仰もある。
「それもちょっと違う、かなぁ……」
「ではどの答えが欲しいのだ」
「ユーリは」
 苛立ちを募らせる事を隠そうとしない彼に、スマイルは伏せてばかり居た顔を上げて真正面から彼を見返した。
 濃い色の髪の下に輝くのは右の丹朱の瞳と。
 そして。
 左の、金沙色の瞳がユーリをじっと見据える。もっとも、その派手な色使いの瞳は飾り物でしかないことをユーリは知っている、実際には視覚補助を担う機能が殆ど働いていないことも。
 がらんと空いてしまった穴を埋めるためでしかない。色は綺麗だが、見つめていても還ってくるものが無くて空虚だ。スマイル自身もその事が分かっているから、普段は包帯の下に隠して人目に晒そうとはしない。
 この義眼が綺麗だと言われるのは、嫌いだった。
「なんだ」
 呼びかけた段階で止まってしまったスマイルの言葉の先を促し、ユーリは彼の右の瞳だけに焦点を絞って見返した。
「……あ、やっぱりいいや」
 だけれど、言ったときのユーリの反応が簡単に想像できてしまってスマイルは苦笑いとともに手を小さく振った。途端、不機嫌だったユーリが益々眉間のしわを深くした。
「この私がわざわざ聞いてやろうというのだ、言え」
 今すぐに、と付け足される。言わなければどうなるか分かるな、とも目が脅している。
 苦笑いが顔に貼り付いて冷や汗が背中を伝い落ちていった。逃げようにも背後は壁で、しかもこの場は断崖絶壁とも表現できそうな鐘楼の最上階。まさに袋の鼠。
「あー……、うん。あの、さ……ユーリは、今」
 楽しい?
 無意識に右手の包帯を握りしめていた。
「…………」
 彼は答えない。黙ってスマイルの問いかけを聞いていたが、考え込む素振りでもない。眉間の皺は変化無く深く刻まれたままだ。
「楽しくない?」
 返事が無いことをそう判断するには軽率だとは思ったが、スマイルは内心の不安さを押さえきれなくてつい口に出してしまっていた。途端。
 ぼごっ。
「いっ……!?」
 悲鳴は吸った息と一緒に肺の中に押し込められてしまった。
 握られた右拳がスマイルの頭の上でグリグリと押しつけられている。殴った箇所を更に上乗せする形でダメージを与えているわけで、当然痛みは倍増する。
「痛いいたい痛いってば!!」
 ぎゃあぎゃあと叫んで、スマイルは自分を床に沈めようと力を真上から込めてくるユーリの手を懸命に追い払った。殴られた部分に指先で軽く触れると、たんこぶになっているというよりもむしろ、陥没している感じがした。
「スマイル、貴様莫迦か」
 いや、莫迦だったなずっと。 
 問いかけているはずなのにスマイルが答えるのを待たず自分で勝手に納得してしまって、ユーリはやれやれと肩を竦めてみせる。頭を押さえて、これ以上殴られるのは御免だと涙目になりつつ睨み上げるスマイルを見て笑い、
「愚問だ、貴様の問いかけは」
 きっぱりと断言する。
 今彼の腕は胸の前で組まれており、ずっと頭に手を載せているわけにもいかないのでスマイルは仕方なく、腕を下ろした。ずっと握りしめていた包帯を思い出して手を解くと、それはくしゃくしゃになって皺だらけだった。
「楽しくない事をして、なにが楽しいというのだ」
 ああ、やっぱり予想通りの反応。人を莫迦にする尊大な態度は変わらないユーリに気付かれないようにそっと吐息を吐いたスマイルだったが、続けて発せられた言葉に目を見張り反射的に顔を上げていた。
「お前だって、楽しいからここにいるのだろう?」
 同意を求める、けれど限りなく断言に近い言葉。
 返事が出来なくて、ただ見返すことしかできない。
「そう……なのかな」
「自分のことだろう」
「そうなんだけどねぇ……」
 いまいち自信を持って頷き返すことが出来ない今の自分に苦笑すると、今度こそあきれ果てたらしいユーリが綺麗な指で自分の髪を掻きむしる。しばらく何処か此処ではない場所を見る目で悩んだ後、スマイルに戻された視線は力を持った紅玉の瞳だった。
「楽しいのだ、お前は。今を楽しんで生きている。私が言うのだから間違いない」
 一言一句を区切りながら、力強く。最後は深く頷いて言い切った彼に思わず拍手を送りたくなって手を押さえ込んだ。俯くと、ものを映し出す機能を持たない無意味な飾り物の先が揺らいで見えた。
 彼に言われると、そうだと思える。思いたい、今が楽しいのだと。
「昨日は楽しかったと、お前は思わないのか?」
「……思う」
 昨日はギャンブラーZの放送日だった、だから楽しかった。夕食はカレーだった、嬉しかったし美味しくて幸せだった。
「明日がもっと楽しい日であるとは想像しないのか?」
「……する、かなぁ……」
 それに関しては即答できなかった。明日のことなど、あまり今日のうちから考えないから。けれど、楽しい日であればいいと思う事は、ある。否定しない。
「今生きていて良かったと、思うのだろう?」
「思う……ねぇ」
 誘導尋問を受けている気分だ、そう笑うとその通りだとユーリは認めた。
「なにをぐだぐだと考えているのかは知らないが、そんな事で貴重な時間を潰すな、勿体ない。そんな暇があるのなら、新曲の練習でもしたらどうだ」
「あー、そっか……それがあったっけ……」
 今日のミーティングだって、新曲の打ち合わせが主だった内容になっていた。誰かが来なくて、結局お流れになってしまい明日に持ち越されてしまったが。
「我々は忙しいのだぞ」
「そうだっけねぇ」
「自覚が足りない、貴様は」
「そうかも~。あ、ねぇ、ユーリ」
「うん?」
 まったく、と溜息をついた彼に笑う。ずっと座りっぱなしだった場所から壁に手を置いて立ち上がると、間にあった距離が一気に狭まった。顔が、目の前に来る。
「キスして良い?」
「は?」
「キス。したくなった」
 包帯を握ったままの手で自分の唇に指を触れさせて微笑む。一瞬呆けた顔になったユーリも、半秒後には我に返って迷惑そうな顔をしてスマイルを見返した。
「話の脈絡が少しも感じられないぞ」
「だって、ねぇ……」
 急にしたくなったのだから仕方がない、そう言い訳にもならない説明を口にすると、呆れ調子のままのユーリがまたひとつ盛大な溜息をついた。
「あとでな」
「ケチ」
 照れもせずにさらりと受け流したユーリが踵を返す。そのまま振り返りもせずに階段まで行くと、最後にひとことだけ、
「左目、隠してから降りて来い」
 スマイルの左目の秘密を知っているのは今のところ、ユーリだけ。アッシュにも教えていないし見せたことのない左目は、ふたりだけの内緒話。
「は~~い」
 間延びした返事をすると、ユーリは笑ったらしかった。そのまま階下へと姿を消していき、再び空間にスマイルひとりの時間が戻ってきた。
 西の空が赤焼けに染まっている、逢魔が時がいつの間にか訪れようとしていた。
「…………」 
 沈んでいこうとする太陽を見つめていると、不意に真後ろから風が流れ込んできて握りが甘くなっていた右手の平から皺だらけの包帯を攫っていった。ひらひらと、細長い白が夕焼けの空に紛れやがて見えなくなる。
「あーあ……」
 でも、別に良いか。
 溜息の中にも開き直りの言葉を込めて。
「ユーリにまき直してもらおうっと」
 そしてくるりと体の向きを変えて今去っていったばかりの彼を追いかけ、駆け出した。
 煉瓦造りの鐘楼に少しだけ騒がしい足音が鳴り響く。それもやがては消え失せて、月空に忘れ去られた鐘撞き堂のシルエットが浮かび上がった。

 今が楽しい?
 それこそ永遠のパラドクス