非恋愛的恋愛症候群3

 目の前に広がるのは、一面の空。空。空、と雲。
 見渡す限りの晴天、とはさすがに言い切れなかったものの、視界を占めるのは大部分が蒼く澄み渡った眩しい青空であり、天気予報では充分「晴れ」と断言できる空模様だ。
「あー……」
 空が、遠そうで近い。呟いて眼前に映る太陽の眩しさから逃れようと目を閉じた。身体の力を抜くと、後頭部を預けている固い枕にもならないコンクリートの床がごり、という感触を伝えてきた。熱吸収がすこぶる宜しいコンクリートも、幸いなことに日陰になっている時間が長かった御陰で触り心地は悪いものの気持ちは良い。
 瞼を閉じた途端に世界は闇に包まれて、あれ程眩しかった空が見えなくなる。身体の上を通り過ぎていく風は初夏の香りを包んでいて、青臭い緑が鼻腔を微かに刺激する。
 遠くからはグラウンドで昼の休憩時間を有意義に過ごす生徒の掛け声が。頭上から降り注ぐ光は目映く、明るい。気候はヨロシク、適度に風も吹いていて過ごしやすい。この季節特有の湿気でじめじめした空気も、湿度が低い所為でカラッとしていて心地よかった。
 誰も居ない屋上、しかもそれなりに人の出入りがある教室がある第一校舎の屋上ではなくて。いや、そもそも本来屋上への出入りは鍵が施錠されていて、基本的に禁止なのだけれど。
 一体誰が壊したのか、ちょっと見では壊れているように見えないようカモフラージュされた南京錠は実のところ、ちょっとコツを掴めば簡単に外れてしまう。そうやら歴代、授業をサボって時間を潰したがる連中に毎年伝授されている技術らしく、彼も入学して間もなく恐らく三年生だろう、見知らぬ先輩から方法を教わっていたりするのだが。
 第一校舎の屋上への出入り方法は、案外知っている人間が多いから穴場とは言い難いと、彼は苦笑って本当の穴場を教えてくれた。ご親切に道案内までしてくれた彼に連れて行かれたのが、ここ。
 特別教室ばかりが詰め込まれている第二校舎の、南側屋上。
 確かにあの三年生が自慢するだけあって、人は殆ど現れなかった。煙草を吸おうが、授業をサボって昼寝に勤しもうが、誰も文句を言わないし注意してこない。そもそも人の出入り自体が極端に少ない第二校舎だ、その屋上へ続く階段の存在もあの三年に指摘されるまで気付かなかったくらいだし。
 それくらい目立たないところに階段があって、まるで学校が自ら階段の存在を隠したがっているようでもあった。少々活動範囲から遠いけれど、ひとりでゆっくり出来る上に誰にも見咎められないという利点は、利用して然るべきだろう。この場所を教えてくれた先輩は、受験勉強があるから自分はこれから滅多に使うことはないだろう、と言っていた。
 それは事実のようで、その後彼の姿を見かけることは殆どなくなった。
 屋上で授業をサボり通していた人間が、今更に受験勉強して足りるのかと笑い飛ばしてやったのだが、向こうは苦虫を噛み潰した顔をして一発小突いてきただけで終わった。
 そうして、ここは彼だけの場所になった。
 両手両足を四方へ放り投げ、頭をコンクリートに押しつける。ひんやりとした感触を背中に楽しみながら欠伸がひとつ、漏れた。
「ふぁ~あぁ……」
 眠そうに口もむにゃむにゃと動かして、生理現象で目尻に浮かんだ涙を擦る。遙か遠くで、昼休み恒例の黄色い悲鳴が響いて聞こえてきた。
 あいつ、またやってるのかよ……と、半分夢に落ちそうな意識を寸前で引き留めて考える。依然として状況が打開される様子の見えない、野球部期待の新人ピッチャー君は今日も今日とて女子生徒のお弁当攻撃から逃げ回っている様子だ。
 沢松の言うには、奴には本命と呼ぶに相応しい思い人が居る様子だったが、はっきり言ってそれが誰なのかが分からない。沢松は気付いているようだったが、確かめたワケじゃないからと最後まで名前を教えてくれなかった。一度本人にストレートに、「お前好きな奴居るのか?」と聞いてみたことはあったりするのだが、その時の事は今思いだしてもむかっ腹が立つ。
「猿には関係ないだろーが。とりあえず、猿がきーきー喚いてる眼鏡女じゃない事だけは確かだけどな」
 そう言った犬飼はスタスタと小走りに去っていってしまい、一瞬遅れて何を言われたのかを理解した彼は両拳を握りしめ全速力で犬飼を追い掛けた。追い越しざまに奴の頭をジャンプしながら殴りつけると、取っ組み合いの喧嘩に発展してしまい、仲介に入ろうとした子津を殴り飛ばして、結果。にこやかに微笑む牛尾キャプテンにふたり揃って外回り十週が宣告されてしまったのだった。
 グラウンドを走るのは、まだ良い。問題なのは犬飼と一緒に、という部分で。
 奴に負けるのは悔しいからダッシュで引き離そうとすると、向こうも同じようにダッシュしてきて見事なまでにデッドヒートが展開された。兎丸なんかが楽しそうに拍手して、暢気に声援を送ってくれてたりもしたが当人達はそれどころでは当然なく。
 終わった頃にはふたりともへとへとで、立ち上がる事さえ出来なかった。
 黄色い悲鳴が遠くなる。静かになった地上に、やっと終わったかと息を吐いて寝返りを打とうかと身体を捻った。しかし今自分が横たわっている場所が、自室のキモチイイ蒲団などではないことを直ぐに思い出し、舌打ちをして諦める。
 空は、相変わらず青くて広い。
 持ち上げた瞼の向こうに見えた、まるで絵の具の青をそのまま塗りたくったような空に溜息が零れた。無意識に、凝視して拳を握りしめる。
 ぐっと力を込めたそれを持ち上げ、遮蔽物のなにもない空へ突き立てた。太陽が光のカーテンを揺らし、キラキラとプリズムが拳の周囲に舞い散った。
 頭の横には、購買で買って平らげたばかりのパンの袋と、飛ばないように重しに使った珈琲牛乳のパック。残りはまだ半分ほどあって、けれど随分と長い間そのまま放置して置いたから、飲むのも嫌になりそうなくらい温まってしまっていることだろう。
「アイツ、毎日こんなの食ってるから」
 見かねて親切心を起こした女子が弁当を作って来てくれるのだろう、と犬飼の甲斐性なしを思い浮かべて呟く。だから自分も真似をしてみたわけではないのだが、やはりこんな食事が連続するのは虚しいと認識を改めただけに終わる。
 女子が作ってくれる弁当に箸を延ばさない奴の気が知れない。人の好意は素直に受け取っておいても、困ることはないはずなのに。もっともその好意の受け入れを相手側に誤解されるようでは、問題は肥大していくだけでそれを避けようと逃げているのだという考えにまでは、そういった経験がない彼だと想像する事も出来ない。
 ただ単純に羨ましい、という気分が先に立つ。
「ちぇー」
 満腹には程遠い腹具合を誤魔化そうと、彼は目を閉じた。身体全体が怠く、意識も半分夢心地に沈んだまま復帰しようとしない。ならばこのまま眠ってしまう方が得策だろう。
 入学したての一年生が、まだ六月も中旬の段階からこのような様子では、進級さえも危うくなりかねない。だがそういう事をまるで意に介した素振りもなく、彼は四肢を広げて押し寄せる睡魔に身を委ねる事にした。
 梅雨の合間に訪れた晴天である、こんなに気持ちがいい午後をつまらない授業で潰してしまうのは勿体ない。
 至極単純明快な思考論理に裏打ちされた結論に満足げに頷いて、彼――猿野天国は再び重い瞼を両方とも閉ざした。
 さらさらと吹き抜ける風が床に貼り付くように横たわっている彼の、寝癖がそのままに跳ね上がっている前髪を擽って去っていった。気温は高いが、湿気が低い分体感温度はそれほどに上がっていない。
 程なくして、校舎のあちこちに設置されたスピーカーから昼休み終了を告げる鐘の音が鳴り響き始める。五分後には五時間目の始業を宣告する音が。
 けれど天国は気持ち良さげに寝息を立て、喧しいくらいに響いてくるチャイムに邪魔される事もなく夢を楽しんでいた。
 投げ出した両腕はこの数ヶ月ですっかり日に焼けて、健康的な小麦色に変わりつつある。首もとも同様で、だがシャツの釦を外してしまえば現れる胸板は未だ白い。力を抜いて解かれた拳は中指の爪が割れたままで、指先に出来た肉刺のうち幾つかは既に潰れてしまっていた。
 擦り傷、打撲傷は日々絶えず。治癒しきる前に新しい傷が出来上がる始末でなかなか治りが宜しくない。黒ずんだ肌は見る側に痛々しい印象しか与えないのに、当人は痛くないはずなどないのに平気な素振りしか見せない。
 彼は誰よりも努力している、それは野球部の皆が口にしないものの誰もが認めるところだった。
 けれど彼は、それでも足りないと言い放つ。みんなと同じだけ練習をしても、今までの経験が皆無な彼はみんなに追いつきたいと必死に食いついてくる。
 オーバーロードは良くない、そう言われて放課後の練習後の自主練習は控えるように注意されても止めない。
 彼の側には、そんな彼よりもずっと努力家な存在が在るから。
 誰よりも必死、誰よりも真面目、誰よりも言葉少なく頑張っている。そんな存在を見ていたら、自分も負けていられないと思ってしまう。
 他の誰かに嗤われても構わないけれど、彼にだけは自分を認めて欲しいと思っている。だって自分は、彼のことを誰よりも認めているから。
 お前のがんばりは凄い、と正直な気持ちで告げられる相手だから。何も知らない奴に好き勝手言われるのは、だから、腹立たしい。
「……の…………ん?」
「ん~~」
「……るの……ん」
「う……」
「猿野君」
 地底湖に沈んでいた意識を揺り動かす声がする。耳元間近で何度と無く名前を呼ばれ、天国は身体を捻りながら声から逃れようと頭を抱いた。しかし持ち上げた腕は目的地に到達する前に横から伸ばされた手に拘束され、強く握られてしまう。
「猿野君、起きるっす」
 ぱしぱしと頬を叩かれ、さすがに痛みには耐えかねて気乗りしないまま瞼をゆっくりと持ち上げる。しかしまだ寝ぼけているのだろうか、天国の視界は翳っていてあの空がまったく見えなかった。
 何故だろう、とぼんやりして輪郭のはっきりしない視界をクリアにしようと瞬きを何度か繰り返した。そうやっているうちに、自分の目の前で遮光の役割まで果たしているそれが、ずっと彼の名前を呼んでいた人物の顔であることにやっと、気付く。
「……子津チュー……?」
「やっと、起きたっすか」
 随分と至近距離で呆れたように言われ、彼の吐き出した息が鼻先を掠めていった。思わずくしゃみが出そうになって、顔をくしゃらせると彼はスッと身を引き握っていたままだった天国の手も解放した。
「……しゅっ!」
 小さくくしゃみをし、天国は反動も使って身体を起こした。床に座り直し、まだ眠気が覚めきっていない瞼をしきりに擦る。
 誰も来ないというふれこみで教えて貰った、秘密の場所だったはずの屋上で。
 惰眠を貪っていたはずなのに。
 どうして、子津は此処にいるのだろう。
 目の前に礼儀正しく座って自分を見ている子津を見返しながら、天国はまとまらない頭で珍しく冷静に考える。だが半分眠ったまま起きてきてくれない脳味噌に思考能力は乏しく、分からないと首を捻っているので気付いたのだろう。
 子津は苦笑しながら、西に傾き始めている太陽を指さした。
「呼びに行ったら猿野君、居ないじゃないっすか。困ってたら沢松君が教えてくれたっす」
 ああ、そう言えば確かに沢松にはこの場所を教えた記憶があるな、とぼんやり思い出す。しかし呼びに来るとは、自分は子津に用事をされる事をしただろうか。
 むしろ自分の方が、子津にノートや教科書を借りに行くことが多くて。放課後の部活に行くときぐらいしか子津は、天国の教室を覗いたりしない。
「放課後っすよ、もう」
「なにぃ!?」
 よくよく見れば、確かに太陽の傾き具合からして授業が終わっていても可笑しくない頃合い。時計を確認して、更に脱力。
 指摘通り、六時間目の授業もしっかり終わってなおかつ、ホームルームまで終了している時間が無情にも時計の盤面上で刻まれていた。
「嘘だろう……?」
 風でひらひらと端を煽られたパンの空き袋が揺れている。飲みかけの珈琲牛乳は、中身が残ったまま廃棄されてしまうことになりそうだ。
 顔を片手で覆った天国の呟きに、ショックを受けているらしい彼を笑うのを止めて子津が慰めるようにぽんぽん、と数回背中を叩いてやった。白い開襟シャツの背中にこびり付いていた砂利や埃を払ってやり、そのまま上下に動かして撫でる。
 現時刻から部活に出ても、きっと遅刻だ。罰則でランニングが数周分追加されてしまう。
「悪い、ネヅッチュー……」
「どうしてっすか」
 何を謝る必要があるのだろう、と子津は首を傾げて項垂れている天国を見る。
「だって、お前まで遅刻」
「良いッすよ、ひとりで走るよりもふたりで走った方が楽しいっす」
 にこっと微笑み、子津は繰り返し天国の背中を撫でながら言った。媚び諂いや、ましてや同情などからではないと分かる笑顔と言葉に、天国の胸がじーんと熱くなる。
 不本意ながら泣いてしまいそうになって、天国はぐっと堪えるともう一度「悪い」と繰り返した。
 子津は変わらず微笑んでいる。にこにこと、両頬に軽く握った手を添えて。天国の左脇に腰を浮かせて座っている。
 あんまり深刻な顔を自分だけしているのは莫迦らしいように思えてきて、天国もつられるようににっ、と笑った。
「さ、そろそろ行かないと監督に本気で怒られるっす」
「うぉ、それはやべえ」
 羊谷に捕まったら、グラウンド十周では済まないかもしれない。慌てて立ち上がった天国を見上げてくすっと笑みを零してから、子津もまた膝を伸ばして立つ。そして徐に、天国の手を取った。
 え、となった天国の不思議そうな顔に自然な表情を向け、子津は握った彼の手に力を込めると軽く引っ張った。同時に、足を階段へ向けて進め始める。
 促されるまま、一瞬前のめりになった天国も歩き出した。
「ネヅッチュー……」
「はい?」
「あ、いや」
 ごつごつして、固い手の平に包まれている自分の手は、大分野球をやる人間らしくなってきているものの、まだ他の面々には程遠い。何故か気恥ずかしさを覚えて子津の手を振り解こうとしたが、握力だけなら天国にも簡単に負けない子津の手を払うことは出来なかった。
 背の高さだと天国の方が若干上なのに、手の大きさだけで言えば子津の方が広いかもしれない。この手で、彼は硬球を力いっぱい投げ放つのだ。
 彼の投げるボールはあんなにも変幻自在なのに、球を投げる彼自身はとても真っ直ぐで。
「なあ、子津」
 遅刻が分かり切っているからなのか、子津の歩調は急ぎ足であるものの駆け足とは程遠い。最初こそ引っ張られたものの、今は横に並んで人気のない特別教室の廊下を歩きながら天国は傍らの子津の顔を窺い見た。
 視線が向けられる前に、逸らしてしまったけれど。
 握られている右手を、肘から持ち上げる。逆らわず子津は一緒に繋がれた左手を掲げてくれた。
「俺、お前の手って結構好きかも」
「手、だけっすか」
 間を置かずに呟き返された子津の声がいやに寂しそうで、思わず聞き返そうと顔を振り向けてしまった天国だったがその先に居た子津はいつもと変わらず、穏やかな笑顔を浮かべている。あの声こそが幻で聞き間違いだったのでは、と天国に思わせるのに充分な微笑みに、複雑な思いを抱えてしまう。
「ネヅッチュー?」
「なんですか?」
 試しに窺うように名前を呼んでみても、あまりに平素のままの様子で問い返されてしかい、天国はそれ以上言葉を紡げなかった。
「や、なんでも……」
「そうっすか」
 会話が途切れる。妙にその空白が気まずくて、なにか言うことはないだろうかと視線を泳がせながら天国は必死に考えてみた。
 だが焦れば焦るほどなにも思いつかず、心底困ってしまいそうになった時。
 ぎゅっと、子津が今までになく強く手を握ってきた。
「猿野君」
「ん?」
 どきりとしてしまった、真面目な子津の呼び声にらしくなく緊張した。
「頑張りましょうね」
 一緒に、と。
 彼の唇はそう言いたかったみたいだけれど、声にはされなかった。
 放課後で帰宅しようとしている生徒の数が徐々に増え始める。鞄を取りに戻ってきた第一校舎に入る手前で、子津は自分から手を解いてしまった。
 包まれていた体温が遠ざかっていく。風が吹いて、あっという間に子津のぬくもりは天国から奪い去られた。
「あ……」
「猿野君、急ぎましょうっす」
 自分の教室を見つけた子津の声に、天国は無意識に胸元へ引き寄せていた右の拳を抱きしめた。
「お、おう!」
 間があってから、我を取り戻した天国が叫ぶ。
 子津は相変わらず、いつも通りの笑みを浮かべているだけで。
 でも、それが何故か。
 辛そうだと、思った。

02年6月4日脱稿