花碑

 何処へか行かん
 我はとうに
 この地より心離れたり
 何故に汝らは我をおし留めん
 すでにこの地は
 我の手を放れたり

 ノースウィンドゥの古城からネクロードを追い払い、軍師シュウを仲間にすることに成功。さらに攻め込んできたハイランドの白狼軍に勝利したことで、ようやくセレンとナナミは逃げてばかりの生活から解放された。
 しかし、セレンはシュウから新たな同盟軍のリーダーとなることを求められ、その答えを見いだすことが出来ないままでもあった。
「ね、セス。探検しよっ」
 堅苦しく重苦しい雰囲気しかない議場を出て、まだ悩んでいますと顔に書いてある義弟に、ナナミは思い切り明るい声で言った。
「探検?」
「そう! だって、私たちってこれからここで暮らして行くんでしょ。どこに何があるか、ちゃんと調べておかなくちゃ」
 口ではもっともらしいことを言っているが、ナナミの態度はどこをどう見ても、お上りさん。
 捨てられて久しい荒れ放題の古城。しかし、かつては南の旧赤月帝国との戦乱で最終拠点としてその堅固さを誇っていたノースウィンドゥ城は、ハイランドの片田舎であるキャロの町でも昔話のひとつとして伝えられていた。
 湖に突き出るようにして伸びる半島の先端に建てられ、北・西・東の三方を湖に囲まれ、さらに波止場を除く一帯は断崖絶壁。攻め込むには南側の限られた陸地から行くしかなく、しかも森に囲まれて大軍で一気に押しつぶすという策も通用しない。まさに天然の砦を上手く利用した守りを重点的においた最後の拠点に相応しい造りをしている。だが逆を言えば、こちらから攻め出るのにも不向きといえる城だ。
「ね、行こう。久々にゆっくり出来るんだしさ」
 ぐいぐいセレンの手を引いて、早く、とせかすばかりの義姉の姿に、セレンはそれまでずっと考えていたリーダーになるかどうかという悩み事を手放すことにした。
「いいね、それ」
 リーダーには、恐らくどう嫌だとだだをこね、自分には向かないと理屈を述べたところで断りきることは出来ないはずだ。あのシュウという人はそういう人だと、自分の思ったことは必ず実行し達成してしまう人だとセレンは感じていた。たとえそこにどんな非難や罵倒を投げかけられたとしても、己が一度抱いた信念を曲げることはしないだろう。自分というものに絶対の自信を持っている。だから、セレンが反抗したところで無駄なのだ。
 それに、今自分に求められているのはシュウや他の人々への自分の心を潰した返事などではなく、ナナミというこの世界でたったひとりの自分の姉、大切な人からの少しばかり子供じみた好奇心だ。
「よし、行こう!」
 元気いっぱいに──本当は戦いが終わったばかりでとても疲れているはずなのに──右手を掲げ、ナナミは左手でしっかりとセレンを掴んだままずんずんと歩き出した。
 絶対に放すもんか、と言葉がなくとも伝わってくるナナミの体温は、とても暖かく優しかった。

 崩れた外壁、埃だらけの床、蜘蛛の巣が張り巡らされた天井。穴が開いて風が吹き込んでいる壁に、蝶番が壊れて傾いた扉や腐りかけた木製の家具。
「うわっ!」
 錆びて開かなくなっていた扉を無理に引きあけようとしたセレンが、勢い余って扉に使われていた一枚板ごと後ろにひっくり返った。茶色にくすんだ取っ手を両手でがっちりと握っていたため、背中から床に転がった彼のおでこを、壁から引き剥がされた板が直撃。一瞬お星様が目の前を飛び交い、上にのしかかる板を放り出すと彼は汚れた手で頭を押さえ込んだ。
「大丈夫?」
 見せてみて、と額を隠すセレンの手をどかし、ナナミが斜め上から傷を見下ろす。
「コブが出来てる」
「いてっ」
 つん、と腫れあがった箇所を指でつつかれ、セレンは堪らず悲鳴を上げた。他にも転んだときに打った背中や腰が痛い。きっと、絶対これは青あざになっているはずだ。明日、ちゃんと起きられるか今から不安になってくる。
「ごめんごめん。ほら、掴まれ」
 両手を合わせて軽く謝るナナミだが、目が笑っている。そりゃあそうだろう。なんてったってたんこぶは、セレンが頭にはめている金環の真上に出来ているのだから。
 差し出されたナナミの手を素直につかみ、彼女の力も借りてセレンは立ち上がった。その時やはり背中が痛んで上手くバランスが取れなくなり、ナナミにもたれかかるように支えられたのだが、なんだか照れくさくてセレンはすぐに離れてしまった。
「どしたの?」
 なにも勘づいていないナナミがのほほんとした口調で尋ねてくる。
「別に……」
 ナナミももう16歳だ。本人の自覚が足りないとはいえ、そろそろ”お年頃”。それは同い年のセレンだって同じだ。いくら義姉弟とはいえ、油断しすぎではなかろうか。
 赤くなった頬を持て余すセレンに首を傾げ、ナナミはもう一度セレンの額に手を伸ばした。ただし今回はたんこぶではなく、そのもう少し上の方。ちゃんと傷に触れないように気を払いながら、彼女は手のひらをセレンのおでこに押し当てる。
「……なに?」
「熱はないようだけど……」
 がく、とセレンは脱力した。
 自分のおでこにも余っていた方の手を当てて熱を計り、セレンのそれと真剣に比べているナナミを眺め、ため息をこぼす。
「平気だよ、なんでもないから」
「本当?」
「うん」
 ナナミの見た目よりもずっと細くて華奢な腕をそっとどかし、セレンはしつこく食い下がってるナナミに微笑んだ。
 ──大好き。
 いつも一緒にいてくれる、彼女がとても大事。
 そりゃあ、口うるさいしおてんばだし、味音痴だしお節介でわがままで夜中でもなんでも訓練だ!とかいって他人の迷惑顧みず運動したりする、ちょっぴりどこかずれた感覚の持ち主ではあるけれど……それでも、セレンにとってナナミは、誰よりも大事で大好きなヒト。
「埃だらけだね」
 ぱんぱん、とセレンの赤い服を手ではたいていると、風が吹いた。屋内なのに。
「どこか外につながってるのかな」
 周りを見回しても風の入ってきた場所を見つけだせず、ナナミはさっきセレンが扉をひっぺがした部屋をのぞき込んだ。そこも、他と同じように乱雑に木箱やなにやらが積み上げられ、埃をかぶっている物置のようだった。
「あそこ、扉があるよ」
 ナナミの横に並んで部屋を覗き、先に白くなった床に足を踏み入れたセレンがちょうど入ってきたのとは反対方向の壁を指さしていった。
「本当だ」
 置かれていた箱の中身が何かを探っていたナナミが、言われて顔を上げそちらを見る。そこには先ほどセレンが開けたものとは又作りのちがう、もっと頑丈な大きめの観音開きの扉があった。
「外に出るドアかな」
 蜘蛛の巣が所狭しと張り渡る窓の向こうを見てナナミが言う。はめ込み式の窓は長い間放置されていたこともあってすでに壊れたあと。どうやらさっきの風はそこから入ってきたものらしかった。窓のすぐ下の床は、入り込んできた雨で腐食が激しい。
「ねえ、セレン」
「…………」
 舌っ足らずな猫なで声を使いだしたナナミに、セレンは返事をせず視線も逸らして足下に転がる木箱を拾い上げようとした。
「セレンってば」
「…………」
 ねだるように体をすり寄せてきて、ナナミはしつこく彼の名前を呼ぶ。
「気にならない?」
「…………」
 こういう風にナナミが甘えてくるとき。それは彼女がまた厄介なことを始めたり、興味を持ったりしたときだ。
「やだ」
 ナナミが次に何を言ってくるのか分かり切っているセレンは、先手を取るつもりでぷい、とそっぽを向いた。
「なんで」
「だって、どうやってあんな頑丈そうな扉を開けるの! ボクもうやだからね」
 おでこはひりひりするし、お尻はじんじんしている。背中だってずきずき痛むのに、その上またあんな事になってみろ、今度こそセレンは明日起きあがれなくなってしまう。
「ふーん。そう」
 だがナナミは意外にあっけなく引き下がった。もっと食いついてくるかと思っていたセレンは肩すかしをくってしまう。
「ナナミ?」
「いいよ、もうセスには頼まないから。ここから先は私ひとりで行くね」
 行くね、と言っても彼女ひとりの力ではあの扉をこじ開けることは出来ないはずだ。いったい何を根拠にそんな自信に満ちあふれた発言が出来たのか。
 不思議に思うセレンを置いて一人歩き出したナナミは、道をふさぐ木箱をいくつか蹴り飛ばし、観音開きの鉄の錠前付き扉の前に立ち止まった。一体何をする気か……まさか自慢の怪力(?)でぶち破ろうだなんて考えてないよな……といらぬ心配をするセレンの気持ちをしったか知らずか、ナナミはずっと握っていた左手を開いた。
 中から取り出したるは──鍵。
「…………」
 がく、と今度こそセレンは頭を抱えて膝を折りうずくまった。
「ナナミ!」
 冗談過ぎる。絶対ナナミはわざとやって、こちらの反応を楽しんでいたんだ。振り返ったナナミの不敵な笑顔がそのすべてを物語っている。
「お姉ちゃんを甘く見るなよ」
 しっしっし、と歯を見せて笑うナナミはしてやったりと満足そうだ。それから、忘れていたと急いで手にした鍵を錠前に差し込む。錆びついていたためになかなかはまらず、また無事はまっても簡単に錠前は外れてくれなくてかなり苦労した末、ようやく音を立てて扉が開放されたとき、錠前と鍵は何故かナナミではなくセレンの手の中にあった。ま、要するにナナミの力では鍵がまわってくれなかったということ。
 扉の外は林だった。
「すごーい!」
 荒れ放題だった城から出て新鮮な空気をお腹いっぱいに吸い込み、ナナミは嬉しそうに両手を頭上に掲げて叫んだ。
「なんか、道場の裏山みたいじゃない?」
「そうだね」
「そうだよ!」
 懐かしい故郷、離れてまだ数ヶ月と経っていないはずなのにもう何年も帰っていないような気にさえさせられる。それほどに、このわずかな時間で色々なことがありすぎた。
「ねえねえ、この向こうって何があるのかな」
「あんまり城から離れない方がいいと思うよ」
「大丈夫だって、お姉ちゃんがついてるんだから。ね、行こ?」
 さっきとはちがうナナミの駄々。でも、それはセレンにとって決して不快なものではなかった。
 夕暮れが押し迫り、闇が東の空から少しずつ空を浸食していく中、更に薄暗い地上の光もろくに届かない林の中をセレンはナナミに手を引かれる形で走っていた。もう、戦いの疲れなんてどこかに置き忘れてきていた。
 その林は本当にキャロの裏山に似ていた。いや、生えている樹木の種類や数、土の感覚さえ全く異なっている。だが同じだった。セレン、そしてナナミにとって、静かで誰もやってこない緑濃き場所はすべて、育った町の山につながっているのだ。
 そして唐突に樹木の並木は途切れた。
「……うわぁ…………」
 感嘆の声がナナミの口からこぼれ落ちる。セレンもまた、突然目の前に現れた光景に言葉を失い呆然とそこに突っ立った。
 そこは一面の花畑。前方は暗く色を落とした湖の水面。しかしそこにたどり着くには断崖絶壁を下る必要があるようで、まるでここだけが地上から切り離された別世界のような色鮮やかな大地だった。
「すごいすごいすごーい!」
 夜が近く、多くの花がつぼみを閉ざしていたがそれでも、多種多様な草花のあざやかさにナナミはそればかりを叫び続ける。
「こんな場所があったんだ……」
 信じられない、とセレンは後ろを振り返り、そして前方の視界を埋め尽くす湖を見つめた。
 人が長らく訪れた形跡のない花畑。だからこそ、こんなにもたくさんの種類の花が一斉に咲き乱れていたのだろうか。湖の風を受け、飛んできた花の種が林の木々に邪魔されてこの場所に落ち、芽を吹き花を咲かせる。そしてまた種を落とし新しい花が咲く。その繰り返し。温暖なサウスウィンドゥの気候も手伝っての自然が産んだ偶然の奇跡だ。
「すごいすごい! ねえ、セス。ここ、私たちだけの秘密の場所にしない?」
 一通り花畑の中を走り回って戻ってきたナナミが、息せき切らして膝を持ちながらそれでも興奮冷めやらぬうちにそう提言してきた。
「秘密の……?」
「うん。誰にも内緒。なんかちっちゃい頃のこと思い出して、わくわくしない?」
 でも、どの道この一帯には新同盟軍が見回りの兵を出したりする。秘密といっても、いつか絶対にばれるだろう。
「もう、夢のないこと言うようになって」
 すねたらしくナナミは腰に両手を当ててセレンを睨み付ける。だが、すぐに良いことを思いついた、とにんまりして、
「じゃあ、さ。セスがリーダーになってこの辺を立入禁止にしちゃうとか。どう?」
「ナナミ……」
 ずっと悩んでいた(忘れていたが)ことをさらりと言われ、セレンはまた頭を抑えた。しかもやはり忘れていたたんこぶの上に思いっきり指を当ててしまったため、またずきん!と痛みがぶり返してきた。
「……セス、成長しよ?」
「…………」
 ナナミには言われたくなかったが、今は痛みをこらえるのに必死でセレンは反論できなかった。
「駄目?」
 下からのぞき込んで頼んでくるナナミに、セレンはわざとらしく盛大なため息をつく。
「考えてみる」
 本当はもうとっくに答えは出ている、いや、諦めている。しかし……ナナミのわがままを叶えるために、という理由ならばそれも構わないかと思えてきた自分がなんだか馬鹿らしくて、セレンは苦笑した。
 どさっ、と地面に腰を下ろしてまだずきずきしているおでこを気にしていると、ふとナナミが遠くなったような感覚を覚えセレンは顔を上げた。
「ねえ、セス…………」
 湖を見つめて、闇のためにぼやけた輪郭のナナミが風に押し流されて消えてしまいそうな声で告げる。
「私が死んじゃったら、そしてキャロに帰れなかったら……私をここに沈めて」
「……ナナミ?」
 よく聞こえなかったと、セレンは膝を立てて立ち上がろうとした。しかしそれよりも早くナナミが振り返り、いつもと同じいつもと変わらない笑顔でセレンに手を差しだした。
「帰ろ。暗くなっちゃった」
 もう太陽は見えない。空には月が替わって朧気な儚い光で地上を照らし、星がそれを手伝うかのように瞬いている。花畑も眠ったように静かで、時折吹き付ける風にゆらゆらと重いつぼみを支えて茎が揺れていた。
「ナナミ、さっき……」
 何を言ったの。そう聞こうとしてセレンは手を伸ばしひとりで行ってしまおうとする義姉を止めようとした。しかしその手は空を切り、彼女には届かない。
「セス……」
 何故か心が痛んだ。凄く近くにいるはずなのに、手が届かない。遠くまで来てしまった。遠くなりすぎた、そんな気がしてセレンは足がすくんだ。
「駄目だよ、立ち止まっちゃ」
 声が聞こえる。
 泣きたい、泣いてしまいたい。嫌だと、こんなのは嫌だと。
「セスは強い子でしょ、私の弟で、じいちゃんの孫で、ジョウイの親友でしょ。泣いちゃ駄目、泣いたら負け、泣いたらそこで終わっちゃう」
 声が遠い。そこにいるのに、とても遠い。
「大丈夫」
 ふわり、と空気が優しくなった。
 抱きしめられたのだと気が付いたのは、自分を包み込む暖かさがナナミだと分かったから。決して忘れたり間違えたりしない、自分だけが知っているナナミの優しさ、暖かさ。
「セスのかわりに私が泣いてあげる。セスが支えて欲しいとき、ずっと側にいてあげる。セスをひとりぼっちになんてしないから。何があってもお姉ちゃんだけはセスの味方だから」
 大好きだから。なくしたくないから一緒にがんばろ?
「大丈夫、セスは間違えたりしないから」
 花に刻まれた約束。
 泣かない、負けない、諦めない。
 一緒にいよう、いつまでもどこまでも。一緒に帰ろう、あの町へ、あの山へ、あの場所へ。

大好き

 戦い終わりて何を望む
 欺瞞にあふれし世界に何を求む
 真に愚か者は我也
 疑い知らぬ愚者は我也
 すでにこの地に我はなし
 我を求めし声はなし