白い羽根の幻

 世界中の幾億万人の中で、ただひとりだけで構わない。

 この胸の中にある、儚い想いと願いに気付いてください。

 ただいま、とこの場所で暮らすようになってからもう一年近くが経過しているというのに、未だに慣れることの出来ないでいる言葉を控えめに口に出す。
 後ろ手で閉めた戸が蝶番で軋み、嫌な音を立てることは毎回のこと。それにも関わらずなるべく音が響かないように注意深く閉める彼を、台所から顔を覗かせて出迎えてくれた少女の領域をそろそろ脱しようとしている赤毛の女性がクスクスと笑って眺めていた。
「おかえりなさい、キール」
 外出先から帰ってきた白いマントを羽織っている同居人から、頼んでいた荷物の一部を受け取って彼女は笑ってごめんね、と軽い調子で謝罪した。
 キールは残り半分の荷物を片手に抱いたまま、緩く首を振る。別段気に障った覚えはないと告げると、彼女はホッとしたように肩から力を抜いて麻袋に入れられた荷物を調理台の上に置いた。口を広げて中身を確認し、依頼の品が揃っている事に頷く。
「お金、足りた?」
「充分だったよ」
 これはお釣り、とキールは言ってリプレに数枚の硬貨を手渡した。予想以上のその額の多さに彼女は目を見張ったが、キールは黙ったまま柔和な笑みを浮かべて首を振るだけだった。
「……ごめんなさい」
 受け取った硬貨を握りしめ、リプレは頭を垂れる。そんな彼女に彼はまた首を振って、気にしなくて良いからと言った。
 孤児院の財政状況は、以前よりは幾分改善されたとは言え未だ苦しい。これから成長期を迎えてどんどん物が入り用になっていくだろう子供達の将来を思うと、必要経費は抑えたいところではあるものの一番の出費である食費を削るのは忍びない。
 大人達や、ジンガなどが働きに出てくれているし、アカネやスウォンも時折差し入れをしてくれる。けれどもあの事件で一気に増えてしまった孤児院の人数をとても賄いきれているとは言い難い。
 税率は下がっても、働き口の無い少年たちやそれから、はぐれ召喚獣などの食費を考えれば下がった分を回しても足りない。
「あるものを、使っているだけだよ」
 本当に申し訳なさそうな顔をしているリプレの肩を軽く叩き、気にするなともう一度告げて、キールは振り返り隣の食堂を見た。いつもそこで遊んでいるはずの子供達の姿はなく、首を捻っていると漸く結んでいた唇を解いたリプレが教えてくれた。
 今子供達は、ハヤトに強請って彼の世界に伝わるお伽噺を聞かせて貰っているところなのだと。
 孤児院にはその施設の目的に即して絵本の類は沢山あった。多少古いものの、数はかなりのものになる。けれども新しく出されたものや、シリーズなどで定期的に買い足していかなければならないものは除外されてしまっている。また、途中で購買をやめてしまったらしく続編が見当たらない本も何冊かあった。
 そしてこの家で暮らす子供達は繰り返し、それらの本を読み重ねて来ているわけだが最近ついに年かさのフィズが読み飽きた、と言い出した。つられるように、アルバも新しい本が読みたいと言って聞かなくなった。
 そこで迷惑にもお伽噺を語る絵本の代役に立てられたのが、リィンバウム以外の世界からやって来た少年――と呼ぶのもそろそろ失礼かもしれない、青年、ハヤト。
 最初はキールが適役かと誰もが思ったのだが、生憎と彼は無職の派閥では召喚術の知識、歴史や文化といった知恵しか養って来ていなかった。子供達が聞いて喜びそうな話はなにひとつとして所持していない事を素直に明かした彼は、だから大人しくお話をするのは苦手と言えるハヤトに随分と睨まれてしまった。
「ところで、それは?」
 リプレが頼んだ食材はすべて、キールの所持金によって購入されリプレに渡された後だ。しかし彼はまだ他にも袋を抱えていて、しかも四角くて少し大きい。
 興味引かれた彼女の問いかけに、彼は微笑んだ。
「これは、ハヤトからの頼まれ物」
「ハヤトだったら、子供達の部屋に居るわよ?」
「ありがとう」
 礼を述べ早速部屋に向かおうとしたキールの背中に、リプレはもう一度頭を下げた。礼を言わなければならないのはむしろこちらの方であり、彼女は両手で包み込んだ、出かける彼に手渡した額と変わっていない硬貨を強く握りしめた。
 キールは時々、こうやって孤児院にお金を出してくれている。その出もとは無職の派閥が解体された後、こっそりと彼らが持っていた財産の一部を処理して作ったものだ。
 引け目があるのだろう、だからこそ彼はあまり大っぴらに出資を申し出ない。けれどこうやって希に、会計を助けるような真似をしてくれる。彼なりの世話になっている返礼として。
 廊下の角を曲がって消えていった背中を見送り、彼女は台所の自分の仕事場へと戻った。
 キールが持っていたもの、あれは恐らく新しい絵本なのだろう。今ハヤトがキールに頼むものといえば、それくらいしか思いつかない。
 あとでどんな話だったのか子供達から聞き出そう。そう決めて、彼女は使い慣れた包丁を握った。

 コンコン、と二回のノック。間を置かず室内からどうぞ、という声を頂いてキールはドアを開けた。
 天井から吊されたランタンの光に照らし出されている室内には、ハヤトを囲むようにして子供達とそれから、今はハヤトをマスターとしている召喚獣の少女達の姿もあった。
 一番扉に近い場所に座っていたウサギ耳の少女が、ほんわかした笑顔で座ったまま顔だけを彼へと向けた。
「キールさん、おかえりなさいですの~」
 やや舌っ足らずな可愛らしい声でモナティが言い、他の面々も口々に同じ単語を口にした。まるで蛙の合唱を聴いているような気分になって、苦笑しながらキールはただいま、と返した。
 声にほんの僅かだけれど照れが残るのは、やはり帰宅した時に迎えてくれる存在がある環境に、未だ慣れ切っていない事が原因だろう。
 モナティが座っている場所から左にずれ、場所を空けてくれる。マントの裾を踏まないように注意しながらそこに腰を下ろしたキールは、ちょうど真向かいになっているハヤトの睨み顔になんだい、と首を捻った。
「遅かったな」
「リプレの買い物も、あったからね」
 町に行くのならついでに頼む、と出掛けに捕まったことを説明するとハヤトはつまらなそうに舌打ちし、そっぽを向いた。それ以上会話が続きそうになくて、キールは抱えていた本の入った袋を膝の上に置くとモナティとは反対側に座っているフィズに、今まで何をしていたのか尋ねてみた。
「白雪姫ってお話、聞いてたの」
「お姫様が王子様と幸せになって、うっとりですの~」
 元気良く返事をくれたフィズの言葉を補うように、夢見顔になったモナティが両手を頬に当てて言う。その向こう側でエルカがやや退屈そうにしていた、アルバも同じく。
 あのふたりには、女の子が夢見るような物語はつまらないのだろう。そんなアルバがハヤトに聞いた話の中で一番気に入っているのは、一寸法師。エルカも似たようなものだ。
「俺もう、ネタがないぞ」
 もとより話し下手で、国語の成績もいまひとつだったハヤトが知っているお伽噺の類には限りがある。しかも幼少の時代に眠りに就く前、親が短い時間に読み聞かせてくれたものばかりで、記憶の面でもかなりいい加減さが目立つ内容になっていた。
 例えば、白雪姫の小人の数が八人になっていたりして。
 けれどそんな事を知るはずがないリィンバウムの純真無垢たちは、ハヤトの語る物語をそのまま素直に信じ込んだ。
 ふてくされた顔をするハヤトに苦笑して、キールは袋の中から数冊の大判の本を取りだした。なかなか体裁もしっかりした作りがされている、色使いも鮮やかな表紙が目に飛び込んで子供達は一斉に目を輝かせる。
 ろくにこの世界で通用している文字が読めもしないハヤトさえも、興味深そうにキールが持っている本を覗き込んだ。
「ねぇ、どんなお話!?」
 せっかちなフィズがキールに詰め寄って彼の袖を掴み、ぶんぶんと荒っぽく揺すった。後ろから妹のラミが止めるように小声で囁き、気付いた彼女はパッと手を放してごめんなさい、とすぐに謝る。
「構わないよ、破れたわけでもないし」
 少し皺になってしまった服の表面を撫で、彼はしゅんとしてしまった彼女の頭を撫で、それから買ってきたばかりの絵本のうち、一冊を彼女に差し出した。表紙には続き物の四冊目を意味する数字が記されている。
 それは彼女が続きをとても気にしていた、孤児院では途中で購入が止まってしまっていた本の続巻だった。タイトルを表紙に見つけ、彼女は、
「本当!? ありがとうキール!」
 今にも彼に飛びつかんばかりに喜んで渡された本を胸に抱きしめた。
「あっ、それオイラも読みたい!」
「私が先よ」
 素早く横から手を上げて本を読みたがったアルバに、身体で阻止してフィズはとことこと部屋の端へと逃げる。追い掛けるアルバに、ハヤトがふたりで仲良く読めばいいだろう、と老婆心を利かせて声をかけた。
「取り合いして、折角キールが買ってくれた本を破くの、嫌だろ?」
 充分あり得そうな事を指摘され、既に掴み合いを始めそうな雰囲気を出してモナティをおろおろさせていた子供達は、彼の言葉に渋々と頷いた。
「他に、どんなの選んだんだ?」
 大人しくなったふたりを見つめて頷いてから、ハヤトは視線を戻し残りの二冊を床に並べたキールへ問いかけた。なんとかタイトルだけは読める彼だが、その短い文字と表紙に描かれているイラストからでは、さっぱり内容が分からない。
 彼の隣で同じように本を眺めていたラミが、キールを見上げてクマの縫いぐるみをぎゅっと抱きしめた。エルカが退屈そうに欠伸をして、リプレが普段は使っているベッドにごろんと横になった。
「みんながまだ、読んだことが無さそうな本を探してみたんだけれど」
 そう言ってキールは左側に置かれた本を先に指さす。表紙には『王様の泉』というタイトルと湖の側に建つ白亜の城の絵が描かれていた。対して右側の本には『天使の森』というタイトルと、美しい白の翼を持った女性天使の姿が描き込まれている。
 ハヤトは首を捻った。
「どんな話なんだ?」
「どちらから読んで欲しい?」
 簡単な単語や文章なら読めるものの、古めかしい言い回しや特有の単語が出てこられるとお手上げ状態のハヤトは、今でも子供達と同様に絵本であっても読み聞かせてもらわないとダメだった。
 問いかけたのに逆に尋ね返されてしまい、ばつが悪そうに頭を掻いた彼は興味津々にしているラミの視線を辿った。
 彼女はクマの縫いぐるみを抱いたまま、天使の絵をじっと見つめていた。
「じゃあこっち、先に」
 ひょいっと床に直置きしていた絵本のうち、右側の『天使の森』を持ち上げたハヤトは言いながらそれをキールに差し出した。ラミが驚いたように顔を上げ、それからお互いに頷き合った青年ふたりに微笑まれ照れくさそうに俯いた。
 ありがとう、と小さな声でお礼を言って、彼女はその場で座り直した。モナティも近付いてきて、アルバ達はと視線を向けると彼らは彼らで、ふたり仲良く並んで本を熱心に読んでいる最中だった。エルカはというと、ベッドの上で眠りの体勢に入っている。
 キールは苦笑した。そして自分に読みやすく周りの面々にも絵柄が見える角度を作って、本を膝の上に広げる。
 一枚目には、戦いの絵。

 むかし、むかし。
 リィンバウムにエルゴの王様が現れる、ずっとずっと、むかしのこと。
 この世界に、たくさんの悪魔や、鬼神たちがリィンバウムをほろぼそうとやってきていたのです。
 人間は必死で立ち向かいますが、悪魔たちのちからにはとてもかないません。
 大勢の人がころされて、世界はかなしみにあふれていました。

 子供向けに作られているだけあって、絵本の絵柄は軽いタッチで、なるべくむごたらしさが出ないように描かれている。画面いっぱいに広がるのは荒涼とした大地と、黒い稲妻が走る薄暗い空ばかりだ。
 だけれど、ハヤトの頭の中に思い描かれた世界にはこの大地に無数の死体と、戦いの跡が展開されていた。例え召喚術を駆使したところで、余程の力を持った術師が居なければ異界の侵略者と対等に闘うことは出来ない。
 恐らくは血みどろで陰惨な戦いが、繰り広げられていたに違いない。想像に過去の出来事がだぶって見えてしまい、ハヤトは気を取り直そうと軽く首を振った。
 深く息を吐きだし、視線を戻す。キールがこちらを見ていた。
 目線だけで問いかけられ、ハヤトは大丈夫だと口元を緩める。直後にキールは視線を戻し、絵本を捲った。
 二枚目には、戦う人間の姿。それから、空を覆うようにして浮かんでいる黒い翼を持った無数の悪魔たち。

 けれど人間は、あきらめませんでした。
 自分たちの世界をまもろうと、必死に抵抗をつづけます。
 けれど今日も明日も戦いつづけることにつかれはじめた人間の前に、悪魔の大軍があらわれました。
 やっとのことでそれまで戦っていた鬼神をたおしたばかりだった人間達は、空を覆い尽くすほどのたくさんの悪魔を前に、ついにあきらめそうになります。

 朗々としたキールの声を聞いていたラミが、恐怖を覚えたらしくブルッとその小さな身体を震わせた。無意識にだろう、縫いぐるみを抱きしめる腕にも力が込められていた。
 そんな幼い少女の反応に少なからず動揺を覚えつつ、キールはぺらり、と次のページを開く。
 ラミの肩は、そっと腕を伸ばしたハヤトが優しく抱きしめた。その温もりにホッとしたらしい彼女の顔を盗み見て、続きを読み聞かせて良いものかどうか悩む素振りを見せたキールに、ハヤトが首を振って答える。
 頷いて、キールは次のページを読み始めた。
 三枚目は、暗やみに包まれた空の中に浮かぶひとつの光と、驚いた顔をする地上の人々の姿。

 そんなときでした。
 悪魔の軍勢の前にとつぜん、まばゆいひかりが起こったのです。
 人間達はなにがおこったのか分からず、ぼうぜんと空を見上げていました。
 誰かが言います、あれは悪魔のこうげきにちがいない、と。
 別のひとがさけびました。
 いや、あれは天使だ、と。
 そのとおり、まばゆいひかりの中にはひとりの、うつくしい天使がたっていたのです。

 ラミの震えが止まった。モナティが手を握って速く続きを、と急かす目でキールを見上げる。
 同じような目線をラミからも貰って、キールはページを捲った。
 四枚目には、悪魔と勇猛果敢に戦う天使の絵が。やはり表紙にあった通りの美しい横顔が描かれ、背中の翼も精緻な描き込みが成されていた。
 その天使の顔を眺めながら、ハヤトは以前になにかの機会で訪れた教会にあったステンドグラスを思い出した。あの教会で見上げた天使の顔も、そういえばこんな風に綺麗だった。

 天使はたったひとりでしたが、悪魔の軍勢を相手にしても負けませんでした。
 人間は、最後の希望となった天使を必死に応援します。
 彼女が負けてしまったら、リィンバウムは悪魔に支配されてしまいます。
 天使は人間を守りながら、ついに悪魔の総大将との一騎打ちにまでたどりつきました。
 悪魔の軍団をひきいている大悪魔は、ほかのどの悪魔よりもつよく、ずるがしこく、天使は今までのように簡単に勝てませんでした。
 しかし悪魔もなかなか天使をたおすことができず、戦いはとてもとても、ながいじかんつづけられたのです。
 

 悪魔は狡猾そうな笑みを浮かべ、天使に向かって攻撃を繰り返す。天使はそれを躱しながら、地上の人々を守りつつ悪魔を攻め返す。
 けれど決定打は双方共に出ず、膠着状態が続いていた。
 天使は疲れ知らずなのか、どれだけ傷つけられても躊躇することなく悪魔を攻撃し続ける。悪魔は、失われた体力を地上の人間が絶望するエネルギーを吸収することで、補って逆に力を増していく。
 終わりが見えそうにない戦いに決着がついたのは、見守っていた人間が疲れ果て始めた頃。
 キールが五枚目を捲る。現れた絵は、悪魔を串刺しにした天使と、天使の美しい翼をもぎ取った悪魔の絵。

 天使は、悪魔によって戦う力をうばわれました。
 悪魔は、天使によって自由に動く体をうばわれました。
 空がかなしみにつつまれ、空からはたくさんの雷がなりひびきます。
 悪魔は、けれどまだ生きていました。さいごのちからを使って、地上の人々を巻き込んで恐ろしいことをしようとしたのです。
 天使は、さいごのちからをふりしぼってそれをとめようとしました。

 恐ろしいこととは、なにか。
 子供向けの絵本にはそこまで描かれていない。ただ肌で感じる悪魔の薄気味悪さで、それが尋常ならないものであることだけが伝わってくる。
 天使は最後まで人間を守ろうとしたのだろうか。キールの手が捲った最後のページには、空一面に広がる光の粒子とその光が降り注がれる、緑豊かな森が描かれていた。
 

 天使は、ひかりになりました。
 凶悪な悪魔をふうじこめて、二度とでられないようにとても深い森の中にとじこめたのです。
 悪魔は最後まで抵抗しましたが、天使の力をやぶることはできませんでした。
 たくさんの、天使のいのちが地上にひかりとなって降り注ぎます。
 長くつづいた戦いでぼろぼろになってしまった地上は、天使のひかりをあびてみるみる元気をとりもどしていきました。
 こうして、天使のおかげでリィンバウムは悪魔からまもられたのです。
 天使によって緑をとりもどした森は、こうして『天使の森』と呼ばれるようになったのです。

 話はそれで終わりだった。
 語り終えたキールがほうっと息を吐き出す。きつく抱いていた縫いぐるみから力を抜いたラミも、良かった、と呟いた。モナティも似た反応を示している。
「この話は、これでおしまい」
 言いながらキールは本を畳んだ。裏表紙は天使の森をイメージしたのであろう豊かな緑が塗り込められている。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
 たった今読み終えたばかりの絵本をラミに手渡し、キールはもう一冊をモナティに預ける。そしてゆっくりと、座り疲れた足を解しながら立ち上がった。
「もう一冊は読んでくれないんですの~?」
「ちょっと疲れてしまったからね。また明日」
 買い物で街中を歩き回って、帰ってきてそのまま休みもせずに朗読をしたキールである。彼の言い分はもっともであり、モナティは残念そうに唇を尖らせた。しかしやや手持ち無沙汰にしているラミの視線に気付いてにっこりと微笑むと、手招きをして彼女を呼ぶ。
 どうやら一緒にふたりで読もう、と誘っているらしく、気付いた彼女は嬉しそうに頷いてモナティに歩み寄っていった。
 ハヤトも疲れを一気に吐き出して伸びをし、立ち上がる。先に部屋を出ていったキールを追い掛けて子供部屋を出て、マント姿を探し庭に出た。
 夕暮れの一歩手前の空は少し色がくすんでいて、重そうだった。
「キール」
 庭の中心に近い場所にある、薪割り用の切り株に腰を下ろしていた彼を呼んで近付き、ハヤトは悪かったな、と一言先に告げた。
「なにがだい?」
「お前だけ買い物に行かせた事と、お前に金出させた事、と。あと」
 変な話しをさせてしまったこと、と。
 俯いてしまったハヤトを見上げたキールは、彼が言いたがっていることを想像して「あぁ」と短く相槌を打った。脚を組み、膝の上に肘を置く姿勢を作って、苦笑いを浮かべながら静かに首を横に振る。
 気にしていないというポーズは、しかしあまりにも形だけになってしまっていた。
「あの話……本当なのか?」
「実際にあったことだと、聞いているよ」
 昔語りの内容には、一部だけでも真実が含まれている事がある。もしくはなにかしらの暗喩が。そして『天使の森』が示しているのは前者である可能性が高い。
 ハヤトも曲がりなりに召喚師の端くれであり、エルゴの王を継承した存在である。子供向けの絵本が語りきらない部分にも、うっすらとではあるが感じるものがあった。
「ただ僕は、詳しいところまでは知らない」
 更に追求しようとするだろうハヤトを牽制する格好でキールは口を開き、それから申し訳なさそうにまた首を振った。ハヤトはそれを信じ、そうか、と呟いてまた謝罪の言葉を口にする。
 ゴメン、と。
 キールは確かに天使の森がどこにあるのかを知らない。
 しかし絵本では触れられていない天使の名前がアルミネであり、彼女に倒された悪魔がメルギトスという名前であり、そして。
 疲れ知らずの天使アルミネが実際は、自分の意志から戦いの場に姿を現してメルギトスとの一騎打ちに挑んだのでは無いことは、知っている。
 それがかつて、エルゴの王と同等の力を所有していたと囁かれた一族が産みだした禁忌の存在であった、という事さえも。
 戦いに散った天使、敗れ去った悪魔。
 天使を利用した人間、追放されて歴史から姿を消したひとつの一族。そして栄え出す召喚術と、現れたエルゴの王。
 ようやく訪れた平穏、そして破られる時。
 ふたりの頭上を一瞬、影が東の方角へと横切っていった。見上げた先にはもうなにもなく、ただ広いばかりの空がどこまでも続いているだけだったがひらりと、視界の端を漂うものがあった。
 白い、羽だった。
 あの影は鳥だったのだろうか、再度視界を空へと向けるもののやはりあの影の主はどこにも見当たらない。
「鳥……?」
 キールが不思議そうに呟くのを聞きながら、ハヤトは落ちてくる一枚の羽根を取ろうと手を伸ばした。
 ひらり、ひらりと空気の抵抗を受けながら左右に不安定に揺れる羽根。もうあと少しで指先が届きそうな距離まで来たそれを、唐突に吹き付けた風が押し流した。
「あ!」
 短い悲鳴を上げ、ハヤトは咄嗟に手を伸ばし羽根を掴もうと空中で指を藻掻かせた。しかし届かず、羽根は再び空へと浮き上がりどこかに消えていった。
 まるで今の一瞬が、すべて幻であったかのように。
「あー……」
 溜息なのか落胆なのか分かりづらい声を伸ばし、ハヤトは出した手を引っ込めた。行き場を無くした指先が、虚しく宙で踊る。
 ふたり、影が走り抜けていった方角を同時に見つめていた。その先になにがあるわけでもないのに、何故か揃って。
「……キール、俺なんか嫌な予感がする」
「奇遇だね、僕もだよ」
 切り株から立ち上がったキールが答え、ハヤトの横に並んだ。
 まだ夕暮れが訪れるには少し早い。それなのに、東の空は薄闇に沈んでいるように見えた。