Eyes/2

 太陽が昇って、沈んで、毎日は変わらないサイクルで誰の上にも平等に訪れる。
 今日が永遠に続けばいい、明日なんか来なければいい。そう祈っても願いは叶わない。そして、明日になればこの目は見えるようになっていると願っても。
 目覚めても薄明るい真っ白な世界しか見えないまま。
 ベッドの上で半身を起こし、ユーリは憂鬱そうに溜息を吐いた。
 もそもそと上掛け蒲団を抱き寄せ、再び横になる。固く瞼を閉じるとぼんやりと見えていた光は消えて闇だけが残った。違う、あれは光などではない。
 白い闇だ。
 外が朝を迎えていることは、閉じているカーテンの隙間から差し込んでくる光の加減や、聞こえてくる鳥のさえずりでなんとなく分かる。だが時計を見る事が出来ないから、今が何時で、朝食の時間なのかそれとももうじき昼食の時間になりそうなのかが分からない。
 曖昧な境界線しか掴むことの出来ない自分。
 頭まで蒲団をかぶり、膝を曲げて小さくなってユーリはもう一度、想い息を吐き出した。
 それで気が晴れるわけではない、むしろどんどん気持ちは沈んでいく。こんな調子では駄目だと分かっているのに、それを鼓舞するだけの気力も元気も残っていない。周囲のメンバーに対する虚勢もそろそろ限界に近かった。
 今日はこのままベッドの中で一日を過ごそうか。蒲団を巻き込んで丸くなったユーリがそう思いかけた頃、控えめに扉をノックする音が静かに響き渡った。
「ユーリ、入るよ?」
 声と一緒に、ドアを開けてスマイルが入ってくる。
 入り口からベッドまでの距離は、ゆっくりと普通に歩いて約十七歩。途中彼は寄り道をして窓に引かれたカーテンを開け、窓のカギを外して少しだけ押し開いていく。涼しい風が室内に流れ込んでくるが、爪先から頭まで布にくるめているユーリにはそれが分からない。
「起きてる?」
 寝てる? という問いかけではない。見た目だけでもユーリが目を覚ましていることは一目瞭然だった。こんな風に無意識で蒲団にくるまって小さく団子になるのには、余程器用な寝相をしているとしか表現方法がない。そしてユーリはそんなに寝相が悪くない。
「もうじきお昼になっちゃうよ」
 タイマーセットが外された目覚まし時計を片手にスマイルはベッドサイドに立った。ユーリは答えない、不貞寝を決め込んでいる。
 時計をサイドボードに戻し、指で軽く弾いたスマイルはやれやれと肩を竦める。そしてスプリングの効いたベッドに浅く腰を下ろし、右手を伸ばしてタオルケットの上からユーリの背中をそっと撫でた。
 母親が子供をあやすときの動きに似ている。もっとも、スマイルにもユーリにも、親と過ごした記憶はあまり残されていないのだが。
 もぞり、とユーリがスマイルの手の下で動いた。だが顔は出さない、姿勢を楽にしただけらしい。
 イモムシのようなその動きに小さく笑って、スマイルは優しく彼を撫でながら呟く。
「アッシュがご飯片付けないで待ってるよ?」
 いつもなら早く片付けて次の仕事に手を進めたがる彼が、だ。少しでも目に良くて栄養があって、そして食べやすいものを懸命に考えて献立を作ってくれている。
「……食べたくない」
 どうせそんなものでこの目が見えるようになるはずがないのだ、ただの気休めだったら欲しくない。何もない方がまだマシだった。
 ぼそぼそと呟き返すユーリのくぐもった声に吐息をつき、スマイルはトントン、と軽い調子で彼の背を叩く。痛くない程度に力を加減して、それから手の位置を変えて今度は頭があると思われる場所を見つけ、そこを撫でる。
 今ユーリは直接的な接触を拒んでいるから、無理に被っている蒲団をひっぺがそうとするのはむしろ逆効果に当たるのでしない。その代わり、このままでも良いんだよと伝えるために、手を休めずに彼を撫で続けている。
「そんな寂しい事言わないで」
 折角アッシュが心を込めて作ってくれたのだし。彼の料理が今まで不味かった事はなく、それは彼をメンバーに選んで連れてきたユーリだってよく分かっているはずだ。
「美味しいんだよ?」
「……要らない」
 ユーリの意志は固そうだ。困ったように表情を曇らせ、スマイルは深く息を吸い吐き出す。動き続けていた彼の手も、一緒に止まった。
 スプリングが軋み、沈んだ。スマイルが身を乗り出し、片膝を載せてベッドのほぼ中央に横になっているユーリの傍に寄ったのだと、近付いてきた彼の呼吸音で知る。
 しばらくの間見下ろされて、やがてどすん、と大きくベッドが揺れた。何事か、と蒲団の端を持ち上げてみるが勿論見えるはずがなく、何が起こったのか咄嗟に捕らえきれなかった。だが、聞こえてきた息づかいが思いの外近くて、手を伸ばすと肘が伸びきらないうちにスマイルの身体にぶつかった。
 そしてようやく、彼が自分の真横に寝転がったのだと気付いた。
「なにをしている」
 怪訝な声で問いかけると、スマイルは笑った。
「ユーリのベッドって柔らかくて気持ち良いなって、思っただけ」
 だからこうして寝転がって感触を確かめているのだと、彼は言う。その声は本気で言っているようにしか聞こえなくて、彼の脈絡のない会話の流れにユーリは呆気にとられた。
 しばらくスマイルが居るとおぼしき方向をじっと向く。途切れた会話は、不意にスマイルのひとことでまた戻ってきた。
「蒲団の中って、退屈でしょ?」
 ぽつりと、油断していると聞き逃して仕舞いかねない音量で。
 ハッとなり、ユーリは息を呑む。
「お医者は安静にしていろとは言ってたけど、ずっと寝ていろとは言ってなかったよね。ユーリは本当に、治りたいって思ってる?」
 気配が近付いてきて、頬をそっと撫でられた。包帯の感触が肌に伝わってくる、くすぐったい。
「治り……たい」
「だったら、諦めちゃだめだよ」
 おずおずと小声で囁き返したユーリに微笑みを返し、スマイルは少しだけ言葉の語気を強めた。ユーリの頬を撫でる手は、変わらずに優しさを湛えたままだけれど。
「可能性はゼロじゃないんだから。1を100にするのは難しいかも知れないけれど、1を2にすることは出来るでしょう? 何もしないでいるよりは、2を4にする努力をしなくちゃ」
 強引な理屈では合ったが、スマイルの言いたいことは伝わってくる。山を越える為に人は空を飛ぶことは出来ない、自分の足で一歩一歩登っていくしかないのだ。近道は無いし、許されない。
 明日になれば治るかも知れないし、駄目かも知れない。出来ることから初めて、積み重ねていくうちに道が見えてくるかも知れない。
 なにもしないよりは、なにかを目指している方がずっと良い。
「ぼくの言っていること、なにか変?」
「いや……変じゃない」
 小首を傾げたらしいスマイルに微笑み返し、ユーリは身を起こした。被っていたケットを足下に溜め、再サイドに降りたスマイルの手を借りて立ち上がる。
「着替え。すぐに食事をする」
「はいはい、っと。此処で食べる? それとも下に行く?」
 下、とはダイニングの事だ。平常時は皆そこで食事をとるが、最近はユーリが部屋を出たがらない傾向にあったため、ここまで食事を運んでくる事が多かった。天気の良い昼間であれば、ベランダに出ることも偶にあった。
「いや、下で食べる」
 着ていたパジャマの釦を外しながらユーリは短く告げた。スマイルが用意してくれた着替えに、不器用な手つきながらも自分で袖を通す。その脇で、脱ぎ捨てられたパジャマをスマイルが拾い上げていた。
「じゃ、行こうか」
 ユーリの着替えが完了するのを待ち、スマイルは彼にいつものように左手を差し出した。だが彼はやんわりと首を振ってそれを断る。
「お前は、見ていてくれないか」
 自分の部屋の配置はもう覚えた、初日のようなミスはもうしない自信がある。階段も、少しずつだがコツを掴んできていた。
「ユーリ……」
「私だって、今までなにもしていなかったわけではない」
 言い切って、ユーリはまだ戸惑っているスマイルを置いて歩き出した。
 顔に窓から吹き込んでくる風が当たる。それで方向を計り、歩幅を計算しながら右手を前に差し出し障害物が無いかを確かめつつゆっくりと、進む。
 ベッドから扉まではゆっくり目に進んで十七歩、時々十八歩。
 数えながら進み、十六歩目で指先が扉の金属の取っ手に触れた。その間、転ぶ事も方向を違えて何かにぶつかるような事もなかった。
 第一段階クリア。ホッと息を吐き出し、ユーリはドアノブを回して廊下に出る。少し遅れてスマイルがそれに続いた。
 次の難関は、階段だ。十五段近くある階段をひとりで下りきるのは相当の勇気が要る。失明の原因は駅の階段から落ちた事だし、城に戻ってきた初日早々にも、滑り落ちそうになって危ういところでスマイルに救われている。
 あの瞬間の気持ちを、ユーリは忘れることが出来ない。
『ぼくが、君の目になるから』
 そう言ったスマイルの言葉に偽りはなく、彼は本当に良く尽くしてくれている。ユーリが心苦しさを覚え、もう良いからと何度も言いたくなるくらいに。
 スマイルがそんな言葉で一度決めたことを撤回するとは思えなくて、言いたくても口に出せないまま今日まで来てしまった。彼はユーリが少しでも生活しやすいように、色々な部分で気を遣ってくれている、手助けをしてくれる。時には冗談を交えて笑わせながら、ユーリに負担が行かないように心がけて。
 その事が彼から、彼自身が使うべき時間を奪っているような気がしてユーリは嫌だった。
 彼の時間を、生き様を自分のために使わせたくない。その為には何より、この眼が見えるようになることが一番なのだがそれが果たせない以上、どんなに些細な事であっても、スマイルの手を煩わせる事のないように自分で出来ることを増やしたかった。
 着替えも、最初はひとりで出来なかった。自分の部屋を自由に歩き回る事も出来なかった。
 けれど今はそれが出来る。
 手摺りに手を下ろし、握りしめる。そろりと足を伸ばして一段低くなっているスペースへまず左足を下ろして、しっかりと体重を移動させてから右足を下ろす。それだけの行動を非常に時間をかけてゆっくりゆっくりとこなし、終了させたところでユーリは長い息を吐き出した。
 だが、それ以上に深い安堵感を覚えたのは二段下でユーリを見守っているスマイルだ。彼はまたユーリが足を滑らせても大丈夫なように、真下で待機している。ゆっくりなユーリの動きを見守りながら、自分も後ろ向きに階段を一歩一歩下りていく。恐らくこの光景を別の誰かが見る機会を得ていたら、どちらも危ういと感じた事だろう。ユーリは目が見えていないし、スマイルも下を見ていなかったから。
 だが肝心の当人達はそんなこと一切お構いなしに、五分以上の時間を掛けてユーリが階段を下りきるまでそうやっていた。彼が一番下の段を降り平らな床に降り立ったとき、スマイルが思わず拍手をしてしまったくらいだった。
「馬鹿者」
 照れくさそうにユーリが笑い、叱られたスマイルの方も苦笑いを浮かべて左手を伸ばした。
 未だ手摺りの最後の部分に捕まったままのユーリの右手を取り、軽く握る。顔を上げたユーリに小さな声で、「ついてきて」と告げると、こっちだよと彼を今向いている方向から右に約百二十度、爪先の向きを変えさせた。
「ゆっくり行くけど、覚えるまで何度でもつき合うから」
 そう言い、彼はユーリの手を引いて歩き出す。向かう先は食堂で、彼は宣告通り本当にゆっくりと進んでいった。
 スマイルはさっきのユーリの行動を見て、考え方を変えた。
 ユーリは、自分で出来ることから出来るように努力している。だったら、自分もそれを手伝うべきではないだろうか。これまでのように、なんでもかんでも全部自分が先にやって、ユーリはそれを受け取るだけの生活では彼は何もする事がない。
 諦めるな、と自分で言っておきながら今までのスマイルは彼から自由を奪っていた。彼の役に立つと思ってしていたことは、実のところユーリの心を締め付けていただけだった。
 彼は歩数で、距離を測っている。何処から何処までが、何歩の距離。この場所から彼処へ行くにはどの経路を使ってどれだけの距離を進めば良いのか、彼はこの数日の間に計算して記憶していた。今までは部屋に閉じこもってばかりだったので、室内だけを知り尽くせば良かったかも知れないが、外に出るとなれば移動距離も、覚えるべき感覚も増える。
 その手伝いを、するためには。
 目に見えるものが簡単に通り過ぎてしまえる道も、視覚を奪われた存在にとってはとてつもなく長い道のりになる。どうすれば障害物を避けて目的地にたどり着けるか、分かりやすく覚えやすい道順を彼に教えてあげるにはどうすべきか。
 一緒に、目を閉じてみる事も時には必要なのかも知れない。
 階段から食堂までの道は、本当に短い。玄関ホールをまっすぐ突き抜ければそこがもうリビングになっていて、その隣が食堂だ。台所は更にその奧。
 柔らかい絨毯の毛並みを足裏で感じながら、スマイルに導かれつつも彼を意識することなく、ユーリは自分の歩調を変えないように進むことに神経を注いだ。何歩目で右に何度曲がり、次に何歩進んで今度は左に旋回、扉を開けて壁沿いに進む。テーブルの位置は、壁に並ぶ棚が二つ目に切り替わってから幾歩。ユーリの席は、そこにあった。
「到着」
 彼の為に椅子を引き、ユーリが座るのを待ってからスマイルが冗談めかせてそう言った。
ふたりの姿を台所から覗いて発見したアッシュが、慌てて食器を両手にやってくる。スマイルとは足音が違うから、直ぐに分かった。
 トーストの香ばしい匂いが鼻腔を擽り、あれ程食べたくないと言い張っていた事が嘘のように今は食欲に満ちていた。以前より食は細かったものの事件後益々ものを口にしなくなっていたユーリだが、こんな風に何かを食べたいと思うのは本当に久しぶりだった。
「冷めないうちにどうぞッス」
 何往復かして料理を全部テーブルに運びきったアッシュが、声を弾ませる。ユーリが食堂に出てきて食事をするのは事件の日の朝以来これが初めてだったので、やはり嬉しいのだろう。しかし彼がテーブルに置いた食器の数は、自分ひとり分にしては多すぎる事にユーリは椅子に座り直して首を捻る。
 それに気付いたわけではないだろうが、アッシュの暢気な声がユーリの耳に響いた。
「スマイル、それ食べたら直ぐお昼ご飯になっちゃうスけど。どうするッス? 少し時間を遅らせるッスか?」
 コトン、と小さなものがテーブルに置かれる音の直後にアッシュの声が間近に聞こえる。
 え? という顔を作ったユーリに、スマイルの「しー!」というアッシュに黙れと合図を送る音が続いてようやく、ユーリはスマイルが自分に合わせて朝食を待っていてくれていたのだと気付いた。
トーストを千切っていた手が自然と止まり、スマイルが座っているだろう方向を向く。スマイルも、見えていないくせに見えている時と同じように自分の方を向いているユーリに気付いて気まずそうに、動きを止めていた。
「……お前、バカだろう」
 冷たいひとこと。
 言い放って、ユーリは食事を再開させた。
「言われちゃったッスね」
 アッシュがおかしそうに笑い、スマイルが「君が余計なこと言うからでしょ」と拗ねる声が続いて、ユーリは久しぶりに食事が楽しいものだという事を思い出して、笑った。

 遅めの昼食を久方ぶりに三人揃って終えると、アッシュはソロ活動での打ち合わせがあるとかで出ていった。戻ってくるのは夕方か、手間取ればもっと遅くなるかもしれないからと、温めれば直ぐ食べられるように朝から仕込みをしていたらしいカレーを彼は台所に残していった。
 今は弱火でコトコトと煮込まれている鍋は、あのまま放っておけば夜飯時には具もトロトロに溶けてしまっているのではないだろうか。食堂まで薫って来ていたカレーの匂いを思い出しつつユーリは白と黒が整然と並ぶ鍵盤を指で弾いた。
 ポーン、と軽い音が鳴り響く。それによって自分が今、どの音階の上に手を添えているのかを大体把握する。今度は両手を軽く握り込むようにして鍵盤上に浮かせると、頭の中で簡単なメロディーラインを描き出してその通りに指を動かし始めた。
 主旋律と、それを補助する程度に付け足された和音が絡み合う。あくまでも即興なので、細かい部分は抜きにしていくつか似たようなメロディーを繰り返し、指先で踊らせるうちに気に入ったものが見えてきたのか形が定まり始める。
 低音から一気に高音へと抜けてまた低音に戻ってくる、少し踊らせるようにリズムを刻んで、テンポはそう、なるべく早めに砕けすぎず。
 個人所有としては勿体なさ過ぎると言いたくもなるが、既に一般市民とはかけ離れた生活環境にあるユーリが所有しているのであれば納得出来はしなくても頷けてしまう、フルコンサート仕様のグランドピアノ。一般家庭には場所をとるだけで維持費も莫迦にならないだけのピアノを、城の一室にどん、と放置していた彼もまたある意味心臓に毛が生えているような存在だ。
 一体幾らすると思っているんだろう、このピアノ……。
 良い音色を奏でるから、というそれだけの理由でユーリが選んだのはスタインウェイ。クセが強く個性的な音を響かせるこのピアノの調律は、買った本人があまりにも無頓着であるために仕方なく、こっそりとスマイルが人を呼んで月に一度程度見てもらうようになっていた。
 弾かなくても音はどんどん狂っていくんだよー、と心の中で呟いてスマイルは柔らかい絨毯の上で伸びをした。
 天井が高く、窓も広い華美ではないけれど豪勢な一室。この部屋の主役は他でもないスタインウェイで、ユーリは今楽しそうにピアノの鍵盤と戯れている。スマイルはその様子を少し離れた場所で、邪魔にならないように見守っている最中だった。
 目が見えなくても、鍵盤の並び順と音階を覚えておけばピアノは弾ける。楽器なんてものは形と音の出し方を覚えてしまいさえすれば、大抵目を瞑っても演奏が可能なのだ。
 このピアノはユーリが作曲活動用に自分で用意した代物。もっとも、その割にはあまり使用された形跡がなくて宝の持ち腐れの感が強いが。
 つい一昨日、調律が施されたばかりのピアノは久しぶりに弾いてもらえて嬉しそうに音を奏でている。ユーリ自身も、実際楽しそうに演奏していた、内容は少々ピアノ独奏曲とは言い難かったけれど。
 彼にピアノ演奏を勧めたのはスマイル。それくらいなら出来るでしょう、と誘いを掛けてみたところユーリは簡単に頷いた。
 作り出した音楽は譜面に興さないとアレンジがしにくい。だがユーリは現在譜面を見ることも出来ないし、勿論盲人用の点字に移し替えた楽譜も読めるはずが無くまた作ることも出来ない。
 だから、スマイルはラジカセを持ち込む事にした。今作った音楽を録音して置いて、視力が戻った時にそのテープを聴きながら譜面に興せばいい、と。どうせアルバム作成の時に沢山の候補が必要になってくるのだから、今からそれ用に用意して置いても困るものではない。
 今、出来ることを。
 それほど間があったわけではないのに、随分と久しぶりに感じる音楽との触れ合いを楽しみながら、ユーリはふっと、スマイルが居るだろう方向に視線を流した。
 外から差し込んでくる光で室内は明るい。ユーリの視覚を占めているのはその光にぼやけた白い世界だけだ、他には何も映らない。
 なのに、奇妙に感じてしまう程にスマイルが其処に居るのだと彼はしっかりと認識した。
 淀みなく奏でられる音楽が磁気テープに閉じ込められていく様を、興味深げにじっと見つけていたスマイルもユーリの手の動きが少しだけ鈍った事に気付いて顔を上げた。
 絡まない視線が交差する。自分をすり抜けて壁まで行ってしまいそうなユーリの視線に首を捻り、彼はカセットデッキを片手に立ち上がった。
「……止めるの?」
「お前は」
 きっと、この会話も録音されている。演奏を中断するのかと思っていたスマイルは、停止ボタンの上に指を置いて彼に問いかけた。だが違う、と小さく首を振ってユーリは顔を真正面のピアノへと戻してしまった。
 演奏は止まらない、だからこのテープも回り続ける。
 ボタンから指を離し、ピアノの脚もとへデッキを置き直してスマイルはまたその場に腰を下ろした。中途半端で止められたユーリの台詞は、まだ話しに続きがある事を教えている。どうせなら近い場所に居た方が良いだろう、そう思って彼は新しく居場所を定めた。ユーリが腰掛けている、背もたれのない黒い革張りの、椅子の真後ろに背向かいで。
 両足を伸ばし、くつろいだ姿勢で耳はユーリの演奏に傾けたまま。
 やがて軽やかな音色に混じってユーリの声が鳴り響いた。
「左目を失ったとき、恐ろしくなかったのか」
 強く叩きつけられた鍵盤が、それでも彼の力を総て吸収して独特の音を醸し出す。オーケストラで使用される事の多いこのピアノは、もとより多くの楽器と共演しても独自の音色を損なうことがないよう、どこまでも強く設計されているのだ。
「忘れた」
 背合わせでいるために、スマイルもユーリの表情は見えない。彼がどんな顔をして、どんな風にピアノを弾いているのか分からない。ユーリも、光の明暗だけしか把握することが出来ない瞳では彼の表情を伺い知ることは出来なかった。
 ぽつりと、ピアノの音量に負けてしまいそうな声で返したスマイル。けれどユーリはしっかりと彼の返事を聞き止めていて、少しだけ鍵盤を叩く腕の力を緩めた。
 音色は、先程までの荒々しさを含んだものから柔らかいものへと形を変える。
「もう思い出せない」
 記憶は時間の経過とともに色あせていく。思い出さなくなった思い出はやがてそれ以外の思い出の中に埋もれて、簡単に思い出せないくらいに深い場所へと追い込まれそして、消えていくのだ。
 それを不幸だとか思わない。人はその人生で出会った総ての人の顔を覚えることは出来ないし、通り過ぎていった時間を忘れずにいる事も不可能な生き物なのだから。
 ある意味、便利な構造をしている、記憶というものは。自分の都合の悪いことは簡単に忘れ去ってしまえて、都合の良いことばかりを覚えて思い出す。思い出は美化されて、真実は失われる。
 今日という日もやがて思い出の1ページとして、そのうち「こういうこともあったな」としか思わなくなるのだろうか。
 ぽろん、と音が零れた。
 ユーリの手が止まる、顔を上げたスマイルは背中に微かな振動を感じて彼が椅子から立ち上がった事を知る。
 カセットデッキに手を伸ばす、録音ボタンを押そうとしたスマイルだったが真上から落ちてきた声に動きを止めざるを得なくなってしまった。
「お前が」
 ポーン、と。
 レの音を指で弾いたユーリが呟く。
「弾いてみせてくれ」
 残響が耳の奧に響き、やけに強く鼓膜を揮わせる。
 冗談でしょう、と笑い飛ばそうとしたスマイルは、しかし見下ろしてくる彼の光を持たない赤いだけの瞳に不意に哀しげな表情を作った。
 深紅の宝石に似た輝きを放っていた彼の瞳は、今影を作ることもなく濁っている。確かに彼の瞳はスマイルの姿を映しだしているけれど、ユーリは彼を見ては居ない。あくまでも、居るだろう方向を向いているだけ。
 視覚を失った人間は、その分を補おうと別の感覚に鋭くなる。聴力がその代表であることは知られているし、だからこそ本来盲目の人はものを映し出さない目ではなく耳を、注意すべき方向に向けるはずだ。
 ユーリがスマイルの方へ、さも見えているように顔を向ける行為に実は意味はない。ただ、見えていたときの感覚がそのまま強く身体に記憶されているが為に反応してしまうだけの、それだけの事に過ぎない。
 けれど、それが分かっていたとしても人とは計らずとも異なる種族に存在しているユーリは、瞳に力を持っているから、一度射抜かれてしまうと逃れることは実質不可能だった。
「……違う曲に、なっちゃうよ」
 それでも良いか、と問い返せばユーリは迷うことなく頷いた。
 困ったように息を吐き出し、ラジカセを止めようかどうか悩んで結局スマイルはそのまま録音を続けることにした。同じ曲で色々なバリエーションを試してみたいだけだろうユーリが、自分のアレンジでは物足りなさを覚えたのだろう。そして別の存在であればどういう具合に形を変化させて曲を組み立て替えるか、聞いてみたいだけに違いないから。
 だったら、多少下手くそな演奏でも後で少しは参考になるかもしれないから、と停止を示すボタンから視線を逸らし立ち上がる。
 交替で、ユーリは椅子から降り座らずにピアノに凭れ掛かった。
 鍵盤に触れるスマイルの邪魔にならない程度の距離は作るが、良く聞こえるようにと離れすぎることもなく。
 相変わらずユーリはスマイルの方を向いている。たとえ彼が見えていないと分かっていても、それなりにやりにくさを覚えてしまう。
 もう一度吐息を吐いて、彼は二日ぶりに触れる鍵盤へ指を添えた。
 リズムを弄って、変調気味に軽いリズムで。ユーリが何度も演奏していたものだから、メロディーのラインはほぼ完璧に耳で覚え込んでしまっている。だが聞いただけで演奏するのは案外難しくて、そのうち思い出せない箇所が現れると仕方無しに自分の好きなように変化させていった。
 原型は残しつつ、けれど最初にスマイルが宣告したとおりにユーリの曲とは全く別のものへと。
 同じ。でも、違う。
「この瞳がものを映し出さなくなって、私は少し変わったかも知れない」
 ピアノに預けていた片手を持ち上げ、ユーリは自分の瞳を隠す。スマイルは聞きながら、ユーリの曲を奏でている。
「見えなくなって、初めて見えてくるものがあると知った」
「……見えないのに?」
 そう、と聞き返したスマイルに小さく頷き、彼はピアノに今度は背中で凭れ掛かった。白濁した世界しか移さない彼の瞳が、天井近辺を彷徨う。
「たとえば、この城が案外綺麗に整理されているようで実のところ、効率の悪い配置が施されていること」
 あちこちに調度品が飾られていて、しかもそれが一定ではない。見た目は悪くないかも知れないが、壁沿いに進むことが多くなるとどうしても不便さが増してしまう事に気付いた。
「アッシュが使う調味料の傾向も知れてきた」
 クセの強い香辛料を隠し味でいくつも使い分けているらしい。これまで全く気にしたこともなかったのに、今ではどれに何が使われているのか香りだけでも粗方想像が付いてしまう。奇妙な特技が生まれたものである。
「あと、は……そうだな」
 彷徨わせていた虚ろは瞳を鍵盤から目を離さず必死に演奏しているスマイルへ向け直して。
「お前が意外に面倒見の良い存在であったことや、お節介であったこと。それに」
 リズミカルな演奏は止まらない。聞き流している風情のユーリが、身体の右側を軽く捻って上半身だけを彼の方に改める。
「お前が、私が思っていた以上に私のことを好きだ、と言うことか」
 疑問型でも何でもない、断定の形で。語尾を軽く上げるなどという小細工も一切無しの、むしろ溜息混じりで呆れていますと言いたげな口調。
 そのラストにダーンっ! という合計十本の指が無茶苦茶に鍵盤を叩いての不協和音が被さった。
「わざとか?」
 残響凄まじい轟音に眉根を寄せつつも平然とした顔を続けるユーリが、鍵盤の上で沈没しているスマイルに尋ねる。
「……それはユーリでしょ……」
 心の動揺がそのまま音に現れてしまったスマイルが、居心地悪そうに身体を揺すった。完璧に中断されてしまった演奏を再開するか、それともこのまま中止してしまうか悩んでいるようだ。
 カセットテープはまだ回っている、だがテープの残量からしてもうじき自然と止まるだろう。
 あの会話も録音されてしまっただろうか、あとで編集して消してしまおう。そう心の中で呟いて、間を持たせる為に仕方なくスマイルはまた鍵盤に指を踊らせた。
 だが曲が違うものになっている。動揺が収まっていない所為だろう、軽快なリズムに違いはないがそれは子供向けに練習曲で多用されるものだった。
 クスリ、と笑みを零しユーリは再び背中を重厚なピアノに預ける。黒光りする艶やかなピアノの肢体を指で辿り、緩やかに湾曲するラインに沿って移動する。今日は開かれていなかった蓋に両手を置き、背の翼を動かして空気抵抗を生み出すと軽い動作で、彼はスマイルがまだ演奏中のスタインウェイに腰かけてしまった。
 彼ひとりが全体中を預けてもびくともしない。多少の振動はあって、音が籠もり気味になったような感じはするがそれも微妙だ。変化無いと言ってしまえば、頷いて返すしかない。
 ちらりと視線を上げてスマイルはユーリを見た。端整な横顔が見えるだけで、彼が何を考えているのかまでは読みとることが出来なかった。
「お前の音は変だ」
 不意に、前触れもなくユーリがそう呟く。
 ぴくり、と反応したスマイルの手がゆっくりと止まりそうになったが、寸前で気を取り直したのかまた同じように引き続ける。
「鍵盤は苦手なんだよ」
 ベース担当だから、弦を弾くのには手慣れているけれど。座って演奏する、という事にもあまり慣れない。
「そういう意味で言ったのではない」
 ピアノの天板上で優雅に腰を落ち着け、脚を組んだユーリが微かに微笑む。
「お前の音は、笑い声のようでうるさい」
 それはそれで失礼な表現に変わりないと思うのだが、ユーリとしては褒めているつもりでいるのだろう、その表情に邪気はない。
「先の続きだが」
 話が取り留めもなくポンポンと移動する。何処から何処までが一括りで、どこまで進んで何処に戻るのか掴み所がなく戸惑いを覚えながらスマイルはユーリの言葉を黙って聞いている。
 曲の終わりが、近い。
「目に映らないお前が、奇妙なことに以前よりもずっと確かに見えるものとして感じるようになった」
 メロディーが終幕へと向かうラインに乗る。軽やかに鍵盤上で指を踊らせていたスマイルは、しかし表情に変化を見せることなく沈黙のままだ。
 ユーリも返事がないことを気にした様子もなく、言葉を紡ぐ。心なしか言葉のリズムがスマイルの奏でる曲に重なっている感じがした。
「以前は、お前が見えないとその存在すら危ういものに感じていたのに」
 “居ないもの”として。
 簡単に消せてしまえる存在としてそこに在る彼。彼を消すのは彼自身であり、それ以上に彼を取り囲む環境だ。見えないものを信じることが出来ない人々は、己の肉体が透明である彼の存在を否定する。否定されてまで存在し続ける事の意義を、彼は持ち合わせていない。
 彼は簡単に消してしまえる、自己というものを。
 呆気なく。
「見えなくなって、ぼくが見えるようになったってコト?」
 ぽろん……と緩やかに最後の音を零し終えて、スマイルはようやく口を開いた。
 室内には残響が。だがそれも直に消え失せる。
「そういうことになるのか」
 ユーリが答える、無感情に。否、自分の言葉を呟くことで確かなものであると確認しているのだろう、必要以上に主観を交えないように心を尽くして。
 けれど、結局そんなことをしたって。
「自分でも分かってないんじゃない」
 ふっ、と。
 空気が流れる。
 会話が途切れると、防音効果が高められている室内に音は無くなる。ただずっと回っていたラジカセがぷつっ、と音を立てて突然止まったくらいで。
 テープの容量が最後まで行ってしまったのだろう、オートで録音が停止したのだと思い出した時にはもう、スマイルの気配はユーリの掴むことが出来る範囲から消え失せていた。
 一瞬の、些細な音に気を取られていた隙に見事に隠れてしまった彼に小さく舌打ちをして、ユーリは天板に腰を据えたまま床に届かない脚をぶらぶらと前後に揺らした。
 部屋を出ていった形跡はない、ピアノから扉まではそれなりに距離があるし何より、蝶番が軋む音は聞こえてこなかった。
 沈黙。ラジカセが発していたノイズ混じりの機械音も完全に沈黙した、あとは自分と彼しかこの部屋で音を奏でるもとになるものは存在していない。
 なにも見えないことの、恐怖。
 想像することは容易いが、実際の経験を踏まえてみるとそれが想像とはかけ離れた、想像以上のものであることに気付いてしまう。出来れば知らずに居たかったと後になって切に願ったとしても、その祈りは儚い明け方の夢として露と消える。
 誰かが背後に立っていて刃を振りかざしていても、その事に気づけない。遠くで誰かが自分の悪口を囁いていても分からない、知る術がない。向こうから知り合いが歩いてくる、けれど自分はその相手が声を掛けてくれるまで相手が誰であるか、それどころか向こうが自分を目指してやってくる事にすら気づけないのだ。
 心の準備をする時間を与えられない、常に緊張と隣り合わせの疲れる時間だけが過ぎていく。だから誰とも会いたくなくなる、ごく親しい間柄の中に埋もれてしまい世界が狭くなる。
 外に出ることもままならない、危険は家の中の何十倍も何百倍も付きまとってくるのだから。
 聞こえてくる音に反応するのに、耳ではなく見ることの出来ない目を音の発生源に向けてしまうのは、そんな恐怖を他人に諭されないための自衛策なのかもしれない。そんな事を思いながら、スマイルはそっと、音を立てぬよう細心の注意を払ってユーリへと手を差し伸べた。
 息を殺し、自分が存在している事さえも消してしまいかねないくらいに気配を断ち切って。
 しかし指先が彼に触れる寸前になって。
 ユーリの唇が動いた。
「わからなくても、構わない」
 ぴくり、とスマイルの手が止まった。代わりにユーリの左手が持ち上げられる。そのまま、迷いも探りもなく彼の手は自分よりもやや右斜めに立っているスマイルの頬へ辿り着いた。
「見えないままでも、良いって?」
「そうは言っていない」
 優しく撫でるように動かすと、行き場を失っていたスマイルの手が戻ってきて彼の手に重ねられた。軽く握りしめられて、動きが止む。
「ここに居るな」
 指に力を込めて、輪郭を確かめて触れる。手を離して動きを許すと、ユーリは両手を使ってスマイルに触れ始めた。
 顔、髪、首筋、腕、手、指、肩、胸、そして。
「居るな?」
「ユーリが触れているのは、じゃあ、なに」
 伸ばされた人差し指がゆっくりと、スタインウェイに腰掛ける自分よりも下にいる彼の唇をなぞった。返事をするために口を動かした彼に危うく指先を飲まれそうになって、からかうようにわざと顎へと大回りをしてユーリは手を離す。けれど引き戻す寸前でスマイルに邪魔されて、捕らわれると爪の先に軽くキスを贈られた。
 変に唇にされるよりもくすぐったくて、笑みが漏れる。
「お前だ」
 問いかけに対する返答を口にして、彼は居場所を変えぬままスマイルの首に両腕を絡みつかせた。軽く引き寄せるとスマイルの半歩前に出てピアノとの距離を詰める。
「お前が、近い」
「そりゃ、そうでしょ」
「そうじゃない」
 こうやって触れあっているのだからと笑おうとしたら、ユーリが首を振ってスマイルの言葉を否定する。何故だろう、としばらく考えているうちに答えが出てくる前にユーリが先に言ってしまった。
「今の方が以前よりもずっと、お前を近くて確かな存在に感じられる」
 強く抱きしめると、高さの位置関係の都合でユーリの胸元にスマイルの顔が収まる。薄い胸板に左頬を押しつけさせられている形のスマイルは、苦笑いのような複雑な笑顔を作って彼の背に、自分も腕を回して抱きしめ返した。
 熱が交錯する。
「ユーリ、ぼくは君が」
「言わなくていい。言えば……嘘になる」
 絡み合わない視線に色はない。相手の嘘は見抜けない、お互いに表面だけのつき合いが出来るほど大人ではないし、内側深くまで入り込まないと満足できないほど子供でもない。綺麗な嘘は、形だけが立派で簡単に信じてしまえる。
 欲しいのはそんな言葉ではなかったはずだ。
 互いの熱だけがどんどんと高くなっていって、抱きしめられる力が強くなると息が詰まって、眩暈がした。