未来へ続く道標

 麗らかな日差しが心地よい午後。
 レイドとエドス、それにジンガは仕事で夕方まで帰ってこない。普段ならば孤児院は子供達の騒がしい声に満ちているところだ。
 けれど、今日ばかりは少し様子が違う。
 孤児院で暮らしている子供以外にスラムに住む他の子供達が混じって、食堂のテーブルを片付けて総勢十人弱が床に座っていた。先頭にアルバとフィズが並んで座り、最後尾にラミとモナティ、それからエルカに挟まれる格好でひとつだけ飛び出した、茶色の頭がひとつ。
 カリカリと携帯用の黒板にチョークで書き込む音だけが静かに響き渡る空間で、ハヤトは居心地悪そうに肩を揺らした。
 狭い場所に大人数が詰め込まれている所為でモナティにぶつかってしまい、彼女になんですか? という目線を向けられる。なんでもないよ、と苦笑しながら小さく手を振って、ハヤトは再び自分の手元にある黒板へと目を落とした。
 紙は一度しか使えない上に効果だからと、代替用品として用いられる事がこの度決定したのがこの黒板。但しハヤトが日本で、学校なんかで見かけたものとは少し材質が違うようだった。チョークも粉がさほど指につかない。
 顔を上げる。端に寄せられたテーブルの上に置かれ、倒れないように角度を着けて壁に凭れ掛けさせられている大きめの黒板は元々孤児院にあったものを流用させてもらった。ハヤトが持っているものを四つ並べたくらいの大きさのそれには、大きめで読みやすい字が並んでいる。
 今はその文字を書き取る練習だった。だがハヤトの手はなかなか進んでくれない。横を盗み見れば、モナティも必死ながら上手くいかないようで、書いては消し、消しては書くの繰り返しだった。
 ラミに目を向ければ、幼さが手伝って作業は遅いものの、いつものクマの縫いぐるみを手放して一所懸命にチョークと格闘している。少なくとも彼女の書き出す文字はモナティより、幾らか綺麗だ。
 ふぅ、と溜息をついて黒板へと視線を戻す。日本語にはない書き順が多く慣れるのには時間がかかりそうで、書き順を思い出そうと空中に指で字をなぞってみる。
 だが途中でどうしても引っ掛かってしまい、顔を顰めていると背後から声をかけられた。
 孤児院で寺子屋紛いの勉強教室を実践するに辺り、教師役に抜擢された人物が。
「ハヤト?」
「う……わかんねぇんだけど」
 疑問符のついた声で名前を呼ばれ、ハヤトは気まずい気持ちを抱えながら振り返った。予測通りそこに立っていたのは他でもないキールであり、彼はハヤトの言葉に柔らかな微笑みを浮かべた。
「どれが?」
「えっと……右から三番目」
 キールから黒板へと視線を向けてチョークを持ったままの指で指し示す。キールは理解したようで、スタスタとハヤトの背後から前へ向かって歩いていき、そして教室となっている食堂全体を見回した。
 子供達の何人かも顔を上げて彼を見る。
「他に分からない子は居るかい?」
 限りなく優しい声でキールは子供達に視線を返しながら告げた。途端、三人分の手が上がり彼は頷いた。
 自分用のチョークを持ち、黒板に身体を半分向ける。
「じゃあ今からもう一度書くから、よく見ておくように」
 静かだけれど張りのある凛とした声に、子供達が「はい!」と威勢良く返事をした。モナティも顔を上げ、食いつくようにキールの指が書き出す文字を追いかける。
 流暢な手の動きでキールは黒板に、既に書かれているものと同じものを書きだして更に説明をくわえる。穏やかな気候は勉強をしているとどうしても眠気を誘うものの、ハヤトにとって席を同じくして勉強している相手が、自分よりも遙かに年若い子供達である以上、居眠りなどしていられない。
 ハヤトは聞き取りが出来ても、書き取りは出来ないのだから。これでは遠くにいる仲間から手紙が届いても、自分で読むことが出来ない。その為に一念発起してキールに更なる勉強のランクアップを願ったのだが。
 それが何故か、いつの間にか、近所の子供達の勉強会になっていた。
 どうやらリプレが、買い物で一緒になったご近所の奥様方に話題として出したところ、それが一気に広まってしまったらしい。金の派閥の締め付けが多少緩みだしている今日日、学さえ有ればなんとか食い扶持には困らなくなる可能性も出てきたからだろう、と言うのがレイドの解釈だった。
 最初はハヤトがキールに勉強を教えてもらうだけの事が、いつの間にやら南スラム地区の子供達を一堂に集めての勉強会。故にレベルも当然最初は低くなり、まずは基本的な書き取りの練習から。
 あとは算数だったり、街の歴史だったり。後者はともかく前者に関してはハヤトは当面問題ないので、その間彼は暇。文字書きの練習をしつつ、横で生真面目に子供の相手をしているキールの横顔を眺める程度だ。
 最初の頃は人付き合いを極端に苦手としていたはずのキールも、この数ヶ月で驚くほど変わった。
 人と交わる事に慣れだして、会話を発展させる事を覚えて、人の心を理解して分かろうとする努力をして。それも全部フラットの仲間達が居てくれた御陰であり、少なからずハヤトも彼に影響を与えたはずだ。
 だけれどここまで面倒見が良く、子供に好かれる奴だとは知らなかった。
 ぼんやりとしながらハヤトはキールの講釈に耳を傾ける。簡単な計算を教えている最中であり、これさえしっかり出来るようになれば、商店街で買い物をした時に釣り銭を誤魔化される事も無くなるだろう。結局社会が良くなる為には、そこに暮らす人々の知識を増してやる必要があるのだ。識字率が上がれば必然的に人々の向上心も上昇するだろうし、そこから生まれてくる新たな発想もあるはずだ。
 だから子供達がキールから色々な知識を学び、吸収していく事はサイジェントの未来を考えれば良いことのはずだった。
 それなのに、ハヤトはどことなく不満を覚えている。
 キールはハヤトを見た。手が止まっているよ、と彼の音を紡がない唇が告げる。ハッとして、慌ててハヤトは自分の手元に目線を戻した。チョークを折れる限界まで握り込み、乱暴にがりがりと黒板へ字を書いていった。
 基本は大事だから、とハヤトが子供達の勉強会に混じることを彼は勧めた。実際ハヤトはなんとか読めても、書き取り能力も微妙なところだったからキールの勧めは理にかなっている。喋れて、読めても、書くことが出来なければ不可能なコミュニケーションだって存在する。
 それは分かる。充分に理解できる。
 だけれども、どこか納得がいかない。
 それはきっと、自分やキールと言った当事者に了解無しで話が勝手に進んでいき、孤児院が寺子屋状態になってしまった事や。
 孤児院が経営に苦しくなってしまった時に手を差し伸べもしなかったくせに、今になって手を差し伸べるどころか利用しようとしてきている事、や。
 キールを独占された、とか。
 ……最後のは、無かった事にしよう。
 再び止まってしまった手を動かしながら、ハヤトはキールの背中を盗み見る。彼は今手を使って計算しようとしている子供に、それは良くないよ、と教え諭しているところだった。
 自分の指を使って数を数える事は便利だし、最初はそれでも良いかも知れない。
 けれど数が大きくなって指が足りなくなったとき、咄嗟に対応できないようでは困るのはその子だ。だからなるべく早いうちから、頭の中で計算できるように慣れさせて置く必要がある。
 子供は渋ったが頷き、キールも優しくその子の頭を撫でてやる。最初はきょとんとしていた子も、次第に嬉しそうに顔を綻ばせた。
 あ、畜生。
 光景を見ていたハヤトは何故かそう思った。
 なんだかつまらない。気分が乗らなくてハヤトはチョークを黒板上に投げ出して一緒に足も前方に伸ばした。後ろ手に床に手を置き身体を傾がせ、天井を仰ぐ。少し疲れたのかもしれなかった。
「慣れない事するもんじゃないかな」
 リィンバウムに来る前は毎日のように学校に通い、同級生と机を並べて勉強をしていたはずなのに。
 たかだか一年前の事のはずなのに、もうその世界が遙か遠い。そしてリィンバウムでの日々は、過ぎるのが驚くほどに速い。
 溜息混じりに呟き、ハヤトは投げ出していた足を引き戻して抱えた。その脇を通り過ぎる足音が聞こえ、顔を上げると間近にリプレが立っていて彼を見下ろしていた。
「お疲れさま?」
「え? あ、うん」
 にこやかな笑顔を浮かべる彼女に曖昧に頷いて居住まいを正す。ちらりと後方へ視線を向けると、丁度キールもこちらを見ていて理由もないのに慌てて顔を逸らしてしまった。
 どうしてだろう、気まずい。
「捗ってる?」
「あんまり」
「そうみたいね。ガゼルも一緒にすればいいのに」
「無茶言うなー」
「だって」
 あいつったら、また買い物からも薪割りからも逃げたのよ? 腰に手を当て、腹も据えかねると言った風情で言うリプレに苦笑を零す。それから瞬きを数回して普段の優しい表情に戻して、彼女は一所懸命に勉強している子供達を見た。
 母親のそれに似た、暖かな視線で。
「案外、キールって先生が似合ってるわね」
「そ……だな」
 いまいち歯切れの悪い返事をしてしまい、ハヤトは唇を浅く噛んで俯いた。子供達の質問の声はひっきりなしであり、その度にキールは何度も丁寧に説明を繰り返している。
 我慢強く、そして律儀。きっと俺だったらマネ出来ないよな、とハヤトは心の中で苦笑した。
「そうそう、今夜のお夕食はなかなか豪勢だから期待しててね」
「へ?」
 なんでまた、という顔でハヤトはリプレを見上げた。すると彼女は楽しげにウィンクをひとつして、立てた人差し指を左右に振った。その行動に意味はなかったようだが、ともかく彼女が楽しそうで、嬉しそうな事だけは分かった。
「あの子達の親がね、授業料代わりで申し訳ないんだけどって」
 先程玄関にやってきて、応対に出たリプレに僅かな量だったが食糧や、古着であるものの衣服を差し入れてくれたのだという。そして、あの時は本当に済まなかったと詫びて帰っていったのだと。
 あの時……孤児院の院長が連れて行かれてしまった時。スラムに暮らす人々は自分たちにまで取り締まりの矛先が向くのを懼れ、取り残された子供達にまったく手を貸さなかった。もしレイドや、エドスの助力が無ければ今頃リプレ達はこうやっていられなかっただろう。
 原因は力の独占と、横暴な階級社会にあった。そしてそれが間違っていると声高に叫ぶことが出来なかったのは、人々に正論を告げさせるだけの知恵が足りなかったからと置き換えられるだろう。
 だからこれからは、二度とそんなことが起きないように。
 次の時代を生きる子供達を正しく導いてやる必要が、ある。
「あ、そっか」
 ストン、と妙に胸の中でしこりになっていたものがすっきりと落ちていくのが分かって、ハヤトは呟いた。口元にやった指を浅く咬み、リプレが頑張ってね、と言い残して台所に戻っていくのを見送る。
 勉強会の方に改めて目を向ける。もしかしたらこの中から、サイジェントをより良くしていく逸材が生まれるかもしれないと考えると、ほんの少し嬉しくなった。
「ハヤト?」
「キール、あのさ。これ、分かんないんだけど」
 放り出していたチョークを持ち直し、ハヤトはキールを手招きする。側に近付いて上から覗き込んでくる彼に指で質問箇所を指し、問いかける。
「機嫌、直ったみたいだね」
「まあな」
 ハヤトはにっ、と歯を見せて笑って答え、聞き出した説明を頭の中で反芻させる。没頭し始めると回りのことなどまったく意に介さない彼に遠慮して、キールは子供達の方へと戻っていった。
 結局初日から大分時間をオーバーして勉強会は終了。夕方暗くなる前に子供達は家路へと急ぎ、リプレは貰った食材を活用して美味しそうな香りを孤児院に満ちあふれさせた。
 間もなく仕事先から大人達も戻ってくるだろう、ガゼルも腹が減ればひょっこり戻ってくるに違いない。
 静かになった食堂を片付けながら、ハヤトは少し白くなってしまっているキールの指先に気付く。
「明日からも大変だな、キール“先生”?」
「からかわないでくれないか」
 少し照れくさそうにしながらも、まんざらではない顔でキールは答える。
「ただいまー! 腹減ったー!」
 程なくしてジンガの大声と共に玄関が押し開かれ、そこで一緒になったとレイドとエドスも並んで帰ってきた。いつの間に居たのか、テーブルと椅子を並べ終えたばかりの食堂にはちゃっかりとガゼルも居て、アルバたちも部屋から出てくる。
「今日は豪華よー」
 リプレが台所から顔を出し、俄に室内が活気づいた。事情を知っているハヤトが小さく肩を竦めながら、お疲れさま、とキールの肩を叩く。
 その日の夕食は、キールの分だけほんの少し量が多かった。