いつか君の手を掴むまで

 普段からそれなりに大所帯で、にぎやかの盛りにある孤児院も今日ばかりはいつも以上に賑わっていた。
 理由は幾つかあるが、第一は長い間孤児院を離れていた大切な仲間――モナティが無事に帰ってきた事。第二は、彼女がはるばる聖王都から辺境と言っても過言ではないサイジェントの街へとてもとても大事な、それでいて大勢の客人を招いた事。
 現在はその役割を果たしているとは言えなくても、かつては孤児院だった建物。それなりに広さを備えているものの、それでも客人すべてにベッドを用意立てられそうな大人数が一同に集まっては、静かに過ごしたくともそうは行かない。
 とりわけ孤立感が強く、落ち着ける静寂を好む召喚師の青年は深々と溜息を吐き、すでに年長者同士で始まった酒盛りからも早々に離れて庭先へ避難を決意した。
 酒盛りでの話題は、主に自分たちのこれまでの冒険。大方、今まで話したくてもそうは行かなかった数々の、有る意味突拍子もない現実味に欠ける、だが真実の戦いを各々自慢したくて持ち出された酒だったに違いない。それに、孤児院だっただけあって幼年者が多い分、通常は子供の前で大人は失態を隠そうとするもの。幼子の目を憚って呑むに飲めなかった酒を、この場良しとして持ち出してきたに違いない。一体いつ、どうやって入手したのかそこそこ高価な酒までテーブルに並んでいるのを尻目に肩を竦め、白いマント姿の青年は庭へ続く大きな窓を潜り抜けた。
 いつもならば、行儀が悪いから玄関を迂回しなさいと言う少女も、今日ばかりは初っぱなから酔いどれを楽しむ男達の相手に苦戦しており、彼の行動を咎める事もしない。ぱたぱたと小気味の良い足音を響かせ、赤いお下げ髪を揺らす少女を手伝って、物静かそうな少女がその脇を反対方向へ通り過ぎていく。
 聞けば、彼女は“聖女”なのだとか。そんな風にはおおよそ見えない穏やかな外見だったが、有る意味それこそが聖女の風格なのだろうかと思考の片隅に思い描き彼は数段の段差を降りて下草の茂る庭へ降り立った。
 昼間で有れば日の光を浴び、キラキラと輝く若葉が目に眩しかったかも知れない。だが今は生憎の夜。いつ見上げても満月の空が、深く闇の手を広げていた。
 その中で、月だけがぽっかりと、異形。
 薄闇に沈む庭は、昼間の子供達の遊び場とはうって変わって静かでその上物悲しく、薄ら寒さを覚える異質さを控えている。座る場所を探し、適当に視界を巡らせた彼はふと、孤児院のリビングから漏れる光を浴びて僅かな陰影を浮かび上がらせている存在に気付いた。
 昼間にはなかった形。当然であろう、それは自由自在に動くことができる人間だったから。
 しかも、昼間まではこの孤児院には居なかった人。
 いや、彼を果たして人と分類すべきか、否か。
 恐らくは水であろう、透明な液体を湛えたコップを手にぼんやりと、どこかしら虚ろに夜空を見上げている姿を脇から眺め、青年はふむ、と小さく頷く。
 偶然の一致か、彼の手にもグラスが握られていた。中身は同じく透明な液体、但し多少年月をおいて発酵させているものだったが。
 とどのつまりは、乾杯の席だけでも同席するように強要されて無理矢理握らされた、酒の入ったグラスだ。
「今晩は」
 彼はひとくちも飲んでいないグラスの中身を零さぬよう気を配りつつ、大してあるとは言えなかった距離を詰めた。なるべく足音を立てぬよう、草を寝かしつけての忍び足に案の定、間近に至るまで気付かなかったらしい存在は驚いた顔をして、眼鏡越しに彼を見上げた。
 つい意地の悪い笑みで口許が緩んだが、幸いな事に夜で暗かった事やリビングからの明かりを背負っていた事が手伝い、庭の切り株に腰を下ろしていた彼には気付かれなかった。彼の足許には、幾つかの切り損じが見受けられる丸太だっただろう木くずと、使い古された斧が突きたてられている。おおよそ座るには居心地も悪いだろう、薪割りの土台に腰を下ろしていた存在は、頼りない光にどうにか声を掛けてきたのが誰であるかを把握したらしい。数秒後にやっと、緊張を解いて安堵の息を零した。
 青年は苦笑して、切り株の傍らに腰を下ろす。遠慮なく、若草の上に真っ白いマントが汚れるのも構わず。
「お邪魔、かな?」
 口をつけていなかったグラスを僅かに傾け、あまり好みでない味に渋い顔をしつつも問いかけた青年に、眼鏡を直した彼は間を置いてから首を振った。横に。
 大人しく、目立たない動きだったが青年には充分伝わった。どうやら彼は、この青年と同質の存在らしい。種族や、生い立ちや、そういうものはひとまず傍らに置いていくとして。
「騒がしいのは嫌いかい?」
 まず間違いなく年上であるはずの彼に問いかけ、ちびちびと青年はグラスを開ける努力を試みる。舌先で舐める程度の飲み方に、今度は青年が苦笑して膝の上に抱いたままだったグラスを、改めて両手で抱き直した。
「そう……だな。あんな大勢の中に混ざるのは、得意じゃない」
 派閥で学んでいた頃は、同窓が多く居たがいずれも彼を避けて通っていた。人とは違う彼だった事を知るのは、大人の本当にほんの一握りだったけれど、感覚が鋭敏な子供はそれとなく大人の態度で悟ってしまう。だから皆、彼を嫌って近付こうという努力をなさなかった。その理由の一因に、外からやって来た彼の弟弟子が絡んでいた事も言わずもがな。
 溜息混じりに吐き出された台詞にうっすらと微笑んで、彼はマントの皺を軽く指でなぞり、立てていた膝を片方そのまま横倒しに寝かせた。やや行儀悪く、庭の冷たさを感じ取りながら座り込む。
「それにしても」
 後方から大きな歓声が起こり、やんやの喝采が続いた。首半分を振り返らせ、眉根を顰めた青年を切り株の上から見下ろし、一切口に付けないでいるグラスが揺れる様をしつこいまでに見下ろした彼が、吐いた息を吸って呟いた。
 視線を戻した青年の先で、月を見上げた彼が幾らかの葛藤を思わせる間を置いて、
「まさか、モナティが伝説の誓約者の召喚獣だとはね」
 ほわほわしていて、穏和でおおよそ戦闘向きの性格とは言えず、おっちょこちょいでドジで、どうしようもなく役立たずにしか見えないのに。
 言外に色々なニュアンスを含ませた彼の台詞に、グラスから口を離した青年はああ、と頷いた。
「まぁ……正式な契約を結んでいなかったから、ああいう事になってしまったんだけれど」
 それに関してはこちらのミスでもあると重ねて言い、青年は杯を煽った。と言っても、グラスの中身はまだ半分以上残っている。
「嫌いなのかい?」
 明らかに呑むペースの遅い青年を眺めやって、揺らぐ杯の水面を揶揄った彼が自分も未だひとくちたりとも口に運んでいないグラスを少しだけ傾ける。もっとも呑む気配は微塵とも感じさせない仕草で、青年は崩した姿勢のまま首を振った。
 縦に。
「酒自体は嫌いではないんだけれど、どうにもこの、シルターン仕込みだとかいう酒に舌が合わなくて」
「そうか」
 シオンが持ち込んだ酒は瓶ひと樽もあって、けれどあの調子では今夜一晩だけで空になっていそうだ。けたたましく騒ぎ立てている男の群れを窓越しに影で見て、ふたりとも揃って肩を竦める。
 お互い、あの中に混じりたくなくて庭に逃避してきたのだと今更に思い出したからだった。
「君は」
 船の上で辿々しい説明をしてくれた、ウサギに似た耳を持つ少女のことばを思い出し、彼はやや温まってしまったグラスを手持ち無沙汰に揺する。
「なにか?」
「いや。先輩の言っていた、レナードと同じ世界から来たという人物が誓約者その人だとは、思いも寄らなかった」
「その上モナティの主人で、あんな若い青年だとは思っても居なかった、と」
「…………」
 図星をそのままことばに表され、彼はばつが悪そうに視線を逸らし口を噤んだ。傍らで腰を落とす青年が、上着の合わせを手繰り寄せつつ、草を均した上に杯を置く。倒れぬよう注意深く、その瞬間だけ息を潜めて。
 彼は遠くを見据えたまま、何も言わなかった。
 代わりに青年がいつになく雄弁に、計らずとも少ない酒が回っているのか、舌を巧みにことばを放つ。
「僕としても、まさか伝承に名高い調律者に会えるとは思ってもいませんでした」
「皮肉のつもりかい」
「まさか」
 グラスが揺れる、音もなく。波は立たず、ただ緩やかに水紋が絡んだだけ。
「怖いですか」
「…………」
 前触れも、話題を変える間投詞も無く、ただ唐突に。それでいて静かに。
 闇の中に青年の声が溶けていく。
「何をして、怖いと」
「それは色々と」
 辛うじて答えを放った彼に、青年は夜空を仰いでことばを返した。何処までも深く、手を伸ばせば届きそうなのに果てしなく遠い夜空に浮かぶ月は大きい。これまで、幾度あの月を見上げただろうか。 
 この庭で、皆が寝静まった後の屋根の上で。茨が行く手を阻む森の中で、足を取られれば一生上がって来られないかもしれない沼の畔で。深い雪の谷間で、瘴気濃い魔の大地で。
 心を苛む呪が渦巻く、一片の緑も見当たらぬ荒野のただ中で。
 どれ程に心が荒み、悩み、悔い、哀しみ、悼み、涙した夜でさえ月は絶えず変わらず、穏やかな淡い光を湛え続けていた。
「貴方が怖いと感じるものすべて、に対して」
 一度途切れさせたことばを継いで、青年は明るい月から切り株に腰を下ろす彼を見返した。
「……君は」
「キール、です。自己紹介はしたと思いますが?」
 穏やかに笑みながらも、どこか気の抜けない表情を崩さずにいるキールを見つめ、眼鏡の奥に控える瞳を細めた彼は吐息をひとつ、零す。
「では、キール。改めて聞こう」
「色々と、あるでしょうが。貴方が一番恐れているのは、つまりは必要とされない事では?」
 質問を繰り出す前に答えを返され、彼は吐き出す寸前だったことばをすんでの所で呑み込んだ。喉を上下させ、やや不機嫌気味の目尻を吊り上げる。声を潜め、キールは薄く笑った。
「少し昔話をしましょうか。お時間は、あるのでしょう?」
 どうせ今更戻ったところで、あの大音響で繰り広げられるはちゃめちゃな宴会に乱暴に巻き込まれるだけだ。それならばほとぼりが冷めるまで、この庭で過ごすのが無難というもの。拒む理由が思い当たらない彼に目を細め、キールはグラスを再度傾けた。乾いた喉に、更に乾きを呼び込む酒を流し込む。
 ほう、と吐いた息が若干白く濁っていた。
「僕は、サプレスの魔王を召喚するための贄として生まれ、その為だけに育てられました」
 昨日の天気は雨でしたね、とでも言う具合に。多少陰鬱な響きを残しつつも、どこか現実意味の薄い調子でキールが呟く。聞き間違いだったのかと、疑った彼が振り返って目を見開く様に気付いていたが、キールは無視した。
 饒舌になっている自分を心の何処かで笑って、彼は続ける。
「生け贄には強い魔力や、魔王を受け入れるに堪えうる肉体、あらゆる知識と知恵、そういうものが必要と言われ否応が無く、僕はそれらを満たすための教育を受けました。其処に僕の自我は無く、いずれ来る“死”を受け入れるためだけの教えが施され、僕も疑う事を知らずただ受け入れて来ました」
 サプレスの魔王は身体を持たない。リィンバウムに呼ばれた魔王がまず必要とするのは、その強大な魔力と邪悪な意識を受け入れてなお壊れない強固な器。その器となるべくして、キールは生み出され、育てられた。
 彼の存在意義は、やがて実行されるだろう魔王召喚の贄。死ぬ時の為だけに生きる事。
「…………」
 瞳を見開いて相槌を打つことさえ出来ずにいる彼を置き去りに、キールは淡々と、自分の事のはずなのに聞きかじった伝承を語るかのように、続ける。
「だから僕は、あの瞬間まで本当に、儀式が始まるまでぼく自身に与えられた運命というか、とにかくそう言うものを疑いもせず、死を受け入れるつもりで挑んでいたんです」
 けれど。
 実際に儀式が始まって。
 荒野の風だけが喧しく渦巻く夜の闇に晒されて。其処に浮かぶ、ひとつだけ異質な月を見上げているうちに。耳に貼り付く呪を聞いている間に、不意に胸の奥で不安が首を擡げた。
 自分は果たして、ここで何をしているのだろう。
 これから死ぬのに、何故それを甘んじて受け入れているのだろう。
 どうして、自分がこの世界が壊れる最初の犠牲者にならねばならないのだろ。
 このまま死んで、誰にも名前も、姿も、声も、顔も、何もかも覚えて置いて貰えないままに。なにひとつこの世界に遺せないうちに、ただ壊すばかりの存在に成り果てるのか。
 違うだろう? 自分は、本当は自分は、そんな事の為だけに生まれてきたわけじゃないのだろう?
 空がやがて本当の闇に包まれる。月は気付けば見えなくなっていた。
 いつ、どんな時だって静かに見守ってくれた月さえも失ったとき、辛うじて掴んでいたこの世界に於ける自分自身という存在の空しさに気付いた。同時に、悔しいと。
 死にたくない、と。
 初めて、思った。
 それまで当たり前だった自分に与えられるはずの死に疑問が生まれた。死ぬことを怖いと思った、死にたくないと強く願った。
 誰でも良い、助けて、と。
「僕はそれまで、誰に対しても無関心でした。だからあの中で、高い壁に覆われた閉鎖空間で僕を助けてくれる存在など、有りはしなかった。僕は誰にも興味がなかったから、とどのつまりは、そういう事で」
 自分が誰かに与えた事もない優しさや、いたわり。だのにこんな時に限って自分にはそれらが与えられる事を祈ってしまう、自分の浅ましさ。
 キールほどでないにしても、そのことばに重なり合う自分を感じて彼は握り締めたグラスを更に強く両指の腹で押し込めた。均等ではない力の加え具合を受け、木製の杯が軋む。
「けれど僕は、願い祈らずにはいられなかった。死にたくない、生きたい、助けて、と。その間も魔王召喚の儀式は着実に進行していて、巨大な界を繋ぐ門が開こうとしていた」
 やがて朦朧とし始めた意識の中で、観たことのない光景を見た。錯覚だったかも知れない、しかし誰かが、その光景の中で振り返った。
 必死に呼びかけ続ける彼の声に、驚いた風に。
「助けて、と。死にたくない、僕を……この世界を救ってくれ、と。身勝手だと知りながら僕は、誰も居ない場所に向かって叫び続けていた」
 見えたはずの景色は歪んで直ぐに消えた。けれど、届く宛てのないはずの声に、答える声が確かにあって。必死に虚空を掻き、振り絞る限りの声で叫んで千切れんばかりに腕を伸ばした。
 何も無いはずの、何処に続くかも知れぬ空間目掛けて、ただひとつの願いだけの為に。
 助けて、と。
 そうして差し出した手は、暖かく力強い、今までに感じたことのない感覚を彼に与えて握り返された。
「それが、ハヤト」
 感慨深げに呟いて、キールは窓に映るいくつもの影絵に混じった一際小さな姿を探し目を細めた。自然と緩む頬を引き締め、残りがやっと半分を切ったグラスを回す。
「…………つまり」
「言ったでしょう、昔話だと」
 昔と呼べる程昔のことではない。けれどそれまで空虚すぎる日々を過ごしてきたキールにとっては、ハヤトと出会ってからの数年の方が遙かに有意義で、意味のある時間だった。
「僕はハヤトと出会って初めて、世界が広い事に気付きました。自分のしてきたことの過ちを客観的に観る事が出来た、同時にそれが如何に愚かな事であるのかも」
 ぐいっと杯を煽ってキールがことばを吐き出す。黙ったまま聞いていた青年が、喉元を押さえて暫く咽せたキールをやや心配げに見下ろす。大丈夫と手を振られ、彼は若干悩んだ挙げ句手にしたままのグラスを差し出した。
 鼻先に差し出され、落ち着き初めていたものがまたぶり返したキールの咳き込みように、彼はただ困惑するばかり。
「貴方は、水と酒の区別がつかないんですか」
「……すまない」
 嫌味のつもりでグラスを押し返し言ったキールに、にべもなく謝って頭を下げた年嵩の青年をみやり、困った風に顔を歪めキールは口許を拭った。この間にひっくり返してしまった自分の杯を草の間から拾い上げ、完全に空になってしまった中身を確かめて更に吐息をひとつ。
「呑むか」
「お断りしておきます」
 再度差し出されたグラスから漂う香りに悪酔いしそうな気がして、突っ慳貪に言い放ったキールに苦慮したまま彼は手を引いた。両手で包み込み、呑みもせず握り続ける。
「話が中断してしまいましたけれど。ああ、どこまで話しましたか」
「君が、誓約者の彼と出会ったところまで、だったか」
 眼鏡を押し上げた彼が言う。頷いて、思い出して、キールは口角を若干歪めさせた。
「大袈裟に……ああ、失礼。そのまま続けさせて貰いますが、僕にとっては、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、彼と出会ってからの時間こそが、僕のすべてなのですよ」
 さりげなく、飾りもせず、あっさりと、しかし言い切って。
 ことばの重みや意味の深さを即座に理解できなかった彼の視線を、幾重にも隠された意味深なにこやかな笑みで躱して、キールは空っぽの杯を掌で遊ばせた。
「それまでの僕の世界は、すべてが白黒の……灰色の景色でしかなかった。何故なら、先にも言いましたが、僕にとって僕以外の、いや、僕自身でさえもさしたる興味を抱く事のない、どうでも良い存在だった」
 遠くを見据え、キールがことばを淀みなく連ねていく。息を呑んだ彼の横顔を盗み観て、反応が思った以上のものであることに、他人事のようにほくそ笑む。
 似ていると思ったのは、ひょっとすれば錯覚だったかも知れない。
 ならば、何故こんな風に。今まで誰にも語ることのなかった、醜く浅ましいばかりの己の本心をさらけ出す、その意味は。
 或いは信じたかったのかもしれない。彼ならば理解してくれると、痛ましいばかりの切望を抱いたのか。
「僕は、ハヤトと出会って初めて、この世界が色の溢れる美しい場所だと気づけたんですよ」
 すべては、彼が居てこそ。
 ハヤトと巡り会えたからこそ。
 故に。
「だから僕には、ハヤトが居る世界こそがすべて。ハヤトと出会って僕は世界の彩を知った。ハヤトが居る世界だからこそ、僕は生きていき守りたいという意識が生まれた」
 夜空に輝く巨大な目映い月に目を細め、キールはそっと、背後――光と騒音でにぎやかな孤児院の窓を窺った。小さく吐きだした息はやや呆れ気味だったものの、安堵にも似た穏やかさが感じられる。
 彼は目を細めた。キールの言わんとしている事が、僅かにだが理解できた気がした。
「誓約者の彼が、結果的にそうなってしまったと……このリィンバウムを救おうという意識を持って戦いに勝利したわけではないのと、同じ意味合いと、言うことかい?」
 静かに問う。身体半分を振り向かせたままでいたキールがゆっくりと姿勢を戻し、向き直って曖昧に笑った。控えめに、幾分自嘲気味に、それでいて子供のように。
 ハヤトが戦ったのは、自分を助けてくれた人々――彼を取り巻く環境に偏在した仲間と、彼を中心にして繋がりあいを計らずとも持ったひと達を守りたいという、本当にささやかな気持ちからだった。裏返せば、戦わなければ自分も、仲間も守れないという逼迫した状況が其処に在ったと言える。
 望んで戦ったわけではない、決して戦う事が好きだとかそういう意味合いは含まれない。ただ時には人を傷つけてでも、守らねばならない時がある。ハヤトはその度に悩み、苦しんで、結論を出した。
 皆が決して、好んで争いを引き起こしているわけではないのだ、と。
 理由がある。意味がある。掌で踊らされていても、その真意に気づけずに盲目なまま振るわれる剣もある。逆にあらゆる策略をはね除け、強靱な精神で確固たる自分を貫き通す剣もある。
「あらゆるものへの責任を負い、守ろうとしたところで脆弱な人間の双肩に任せられる範囲などごく、僅か。貴方がこれまでに抱えてきた歴史や、精神を苛むほどの罪の意識を忘れとは誰も、言えません。でも」
 キールは一度ことばを切った。草を踏む足音が近付いてくる、それは微妙にリズムの狂った千鳥足で、両者揃って顔を上げた先には目映い孤児院の明かりを背負った年若い青年が立っていた。
 ひっく、としゃっくりをひとつ。月明かりの下でも分かる赤らんだ頬に、上気した瞳。黒い髪と揃いの瞳が僅かに潤んでキールを睨んでいた。
「やぁっと、見つけた」
「ハヤト……」
 嘆息に混じった呼び声に、ハヤトは嬉しそうに表情を緩めて彼との距離を一層詰める。
「こんなトコで何やってんだよー、お前もこっち来て呑むの。俺の酒、飲めないってのか?」
「呑んでいるよ、充分」
「嘘ら~~」
 若干呂律の回らないでいる口調で、最後には草の隙間に埋もれていた石に足を取られてハヤトがつんのめった。そのままバランスを崩して倒れ込む。キールの上に。
「…………大丈夫か」
「ええ、慣れていますから」
 思い切り体重に押しつぶされたキールが、それでもしっかりと腕の中に脱力しきったハヤトを抱えて声を返す。見た目以上にダメージが少ないらしい彼の応対に、ささやかな感心を覚えつつ彼は苦笑した。
 似たような状況は、彼も弟弟子との間で幾度か繰り広げた事があった。尤も、弟弟子がこんな真似をしでかした直後に、彼は雷を轟かせていたのだけれど。
 充分甘やかしてきたつもりだったが、思っている以上に自分は彼に対して冷たかったのかもしれないな、とふたりのやりとりを眺めていて思う。
「あ、えーっと……誰、だっけ」
「ネスティさん、だよ。ハヤト」
 キールに両脇を支えられて座り直したハヤトが、切り株上の彼に気付いて首を捻る。物覚えが決して悪い彼ではないが、酔いが手伝って記憶が曖昧になってしまっているのだろう。横から囁かれたことばに大仰に頷き、手を打って大袈裟に頷いた。
 それから屈託無い笑顔で、御免、と謝る。
 感情にストレートで表情がコロコロと変わるのはネスティの弟弟子と同じだが、心根が正直で素直に謝罪も口に出せるところは、違っている。マグナであれば、恐らく悪びれはするものの、こんな風に頭を下げる事はしないだろう。彼は妙なところで、強情だから。
「キールも、さ。こっち来いってば。ええっと……ネスティさんも!」
 腰を浮かせたハヤトがぐいっと力任せにキールの腕を取り引っ張る。だが力負けしていないキールが笑いながら堪え、そうだね、と相槌を打ってちらりとネスティを振り返った。そこから更にハヤトへと視線を流し、
「無理強いは良くないよ、ハヤト。誰か呼んでいた?」
「あー……えっと、そっか。リプレがさ、ちび達寝かすから休むなら早めに、って」
 最初の声は頷いて、それから緩んだ瞳を細めて考え込み、孤児院を仕切る少女の姿を思い浮かべて小さく舌を出す。そうか、と頷き返したキールはハヤトを促し、彼の背中を押した。
 自分も立ち上がって、柔らかい草を踏みしめる。空になったグラスを取り、マントやズボンにまとわりついていた土を払い落とした。
「君は……」
「僕は、だからハヤトが戦うことを選ぶのならそれに従います。彼を、彼が守りたいと思っているものすべてを守るために、ね」
 それが自分の存在意義だと言い切って、キールは千鳥足気味なハヤトの手を取り導きつつ、明るさの抜けない孤児院屋内へ向かって歩き出した。振り返りもせず、ひとり闇夜に残されたネスティを気に掛ける素振りも無い。
 本当にキールの目には、ハヤトだけしか映し出されていないようにも思えて。
 些か自嘲気味に、ネスティは口許を抑え込んで笑った。
 果たして自分は、彼ほどに強い思いで戦いに臨んできただろうか。これから、臨むことが出来るだろうか。
 隠し通す事ばかりを考えて、冷たく当たる事しか出来なかった自分に。
 果たして。
「ネーッス!」
 がばっ、と。
 闇に沈みそうになっていた思考を唐突に地表へ引き戻したのは、背後から奇襲に近い形でのし掛かってきた、ある種慣れ親しみすぎている重み。衝撃を受けたグラスから、激しく波立った液体が飛び出す。それは大半が土に散ったが、一部が彼のマントと、膝の上に薄いシミを作った。
 肩越しに紫がかった紺色の髪が見えて、多少酒臭い息が鼻につく。上腕から半身を包み込んで胸の前に組まれた第三者の両手を眼鏡の向こうから眺めて、まるで他人事のように吐息を零す。
「マグナ。君は、まったく」
 離れるように告げても応じてくれる素直な性格をしていない弟弟子を窺い見て、自由の効かなくなった腕でどうにか眼鏡を押し上げた。大半が呑まずして無くなってしまったグラスを持て余し、吐息が更に重ねられる。
「ん~~?」
 酒臭い息でもって頬をすり寄らせてくるマグナの顔を押し返し、けれどふと、思い至って手を止めた。怪訝に顔を顰めたマグナの前で、背中からの拘束を振り解いた腕を持ち上げる。
 そっと、癖のあるマグナの髪を撫でた。
「ネス?」
「君と初めて会ったとき、僕は何を考えていたのだろうね」
 背負い続けてきた数多の記憶と、責務と罪と、抗い切れない運命への疲弊感と、それから。
 野良猫のように警戒心をむき出しにした、薄汚れた子供に対する哀れみに。
 透明な牢獄に似た場所の外で生きてきた彼への羨望。
 これから自分と同じように、軟禁に等しい空間で常時見張られながら自由に自分の道を定めることの出来ない。窮屈なまでに居心地の悪い、けれど自由の扉を押し開く両腕は腱を切られ、動かない。
 ただ生かされ、死ぬのを待つばかりの日々を送る事になるだろう彼を見下ろした時、思ったのは絶望と、虚無。
 でも、ひょっとしたら。
 ずっと一人きりだった場所に、彼が至った事によってなんかが、大々的ではなくても微細な箇所で少しずつ、変わっていくかもしれないと期待していたのかもしれない。僅かずつ、本当に亀の歩みであっても、確かに自分は。自分たちは。
 今、派閥の籠を抜け出して自分たちの足で歩き、道を見定めて進んでいる。
「そう……そう、だな。そうだったな」
「ネス、どうしたんだよ。さっきからひとりでぶつぶつ」
 しがみつくのを止めないマグナを無視して、独り言を続けるネスティに弟弟子は頬を膨らませ、子供じみた仕草で拗ねた。悪かった、と苦笑を隠さずに彼の頭をもう一度撫でて、ネスティは首に巻き付く腕を解いた。
 突き放すような冷たさの感じられない動きだったので、渋々マグナも従う。
「マグナ」
「ん?」
「君に会えて、良かった」
「は!?」
 唐突にしんみりと言われ、一瞬目を丸くしたマグナがどうしたんだよ、と熱の有無を探って失礼な手をネスティの額に押し当てた。不躾な指先を追い払い、ネスティは眼鏡を正すと、なんでもない、と仏頂面で押し黙った。
 一気に飛んでしまった酔いに、違う赤味を頬に差してマグナは困った顔で頬を掻く。
「ま、いっか」
 深く考え込む時間は数十秒も続かなかった。
 気の抜けた笑顔で小首を傾げ、マグナは降ろした腕をネスティへと差し出した。
「な、行こう。みんなもネスが居ないと、締まらないって」
「それは、僕の気苦労を知っての弁か?」
 マグナにそう言った人物は楽に想像できる。剛胆に笑う仲間の姿を想起させ、どうやって彼の口を黙らせようか思案し始めたネスティの横顔に破顔して、マグナは広げた手で彼の腕を取る。力を込めて引っ張り、立ち上がらせた。
 途中からは自分の力で立ったネスティが、マントの土埃を払う。ところが、急に傍で黙り込んだマグナがその布端を掴んだ。
「マグナ?」
 俯いた頬に色付く朱が、淡い。月明かりに照らされて、彼の髪色は一層濃く闇に映える。
 離すように言い聞かせても彼は首を黙って横に振る。まるで子供で、突然訳も言わずに駄々を捏ねる様はまったく成長を感じさせない。けれど彼がこんな風に、実年齢よりもずっと幼い仕草を取るのはネスティの前でだけだと、彼も知っているから。
 唇を噛みしめているマグナの頭を、撫であやす。
「心配ない、大丈夫だ」
 世界を救うとか、守るとか、そんな大義名分はかなぐり捨ててしまえばいい。名も知られぬ英雄で良いではないか。
 ただ自分と、自分に繋がる僅かな人の手を、守り通せればそれで、構わない。
「君は、君の信じる道を貫いて行けば良いんだ」
 その背中を自分は守ろう。澱みのない真っ直ぐな目で挑む未来へ、臆せずに進めるように手を差し伸べよう。
 あの時。
 幼かった自分たちが、出会って。
 籠の鳥でいる自分を不幸だと思わなくなった、あの時の。
 掴まれた手の温かさは、決して嘘じゃないから。