お昼寝をしよう

 良い天気だった。
 本当に、実によい天気だった。
 空は一面の青空、時々煌々と地上を照らす太陽の側を白く薄い雲が流れていくが、空全体の、この澄み渡った色を隠してしまえるほどの広さはどれも持ち合わせていない。風も少なく、ポカポカ陽気はなにものにも邪魔されず地面を温めてくれた。
 陽射しは強すぎず、また弱すぎず。直視するのは耐え難いが、視界の片隅に映っていても邪魔にならない光を満たして溢れている。時折高い位置を飛ぶ鳥の影が、目線の端を横切って東へと消えていく。
 春麗らか。
 まさしくその形容詞がぴったりと来る午後。マグナは口うるさい兄弟子に見付かったらこっぴどく叱られ、緊張感が足りないと説教されそうな顔で眠そうに欠伸をした。
 両腕を頭上に持ち上げ、前屈みになっている背を思い切り伸ばす。背骨がボキボキと小気味よく音を立て、ついでに首も左右に振るとやはり思い切りいい音がした。
「ふぁ~あぁ……」
 フォルテ辺りが見たら、弛んでるぞ、のことばを与えられそうな感じだ。カザミネであれば修行が足りないでござるぞ、だろうか。アメルであれば、単に眠そうですね、で済みそうだが。
 厄介なのはネスティに見付かる事だよな、と自分でも自覚しながらも、堪えきれない欠伸を零しつつマグナは視線を空へ巡らせ、進めていた歩みを止めた。また目に映る世界の端を、鳥が駆け抜けていったからだ。
 巣が近いのかな、とさっきからひっきりなしに往来を繰り返している鳥の姿に首を傾げ、鳥が去っていった方向に顔を向ける。
 下町の住宅地から少々距離を置いているこの屋敷――ファナンにあるモーリンの邸宅には、殊の外緑が多い。敷地を囲むようにして裏手には少々高い藪が広がっていて、それを抜ければ迂回せずに海岸にも出られる。だがあの、果たして何年手入れが為されていないのか分からない藪を突き抜けるのには些か勇気が必要であり、いつもは苦笑しながら眺めているだけだったのだが。
 そう言えば、藪の中にも幾本か背の高い立派な木立があったっけ、と記憶を掘り返しながらマグナは制止させたままだった歩みを再開させた。
 目指すのは、鳥が消えていった方角。
 平屋建てのモーリンの家をぐるっと半周する格好で、土が露出している庭をゆっくりと進んでいく。途中井戸の前でカザミネと会い、何処へ行くのかと訪ねられた。
 どこにも行かないよ、ただ歩いているだけ。
 そう本当のところを口にしたものの、意味は通じなかったようで彼は不思議そうな顔をしながら、そうでござるか、とだけ返してくれた。手には釣りの道具を持っていたから、恐らく海岸にでも行くのだろう。精神鍛錬には最適、と言っていたがマグナは単に、アレは彼の趣味だと思っている。
 出会ったときも釣り糸を垂らしてたしな。
 胸の内で記憶を甦らせて彼の背中を見送り、また歩き出す。少しも行かないうちに、ミニスに会った。
 やはり何してるの? と訊かれる。
 散歩、と言い返すと庭で? とまた問い返される。散歩するのなら、街の方へ行けばいいのに、とも付け加えられる。あと、なんだったら案内してあげようか、とも。
 聖王都ゼラム育ちのくせにファナンにそんなに詳しいのか、と尋ねてみたら、だから一緒に探検しようよ、と言い換えられた。
 なんだ、そういう事か。でもだったら、ロッカやケイナさんにでもつれて行って貰えばいいのに。そう言ったら、あのふたりは自分のことを子供扱いするから嫌だ、と突っぱねられる。
 そうかぁ? 
 口ではそう言いつつも、マグナ自信も彼女はまだ子供じゃないか、と思う。表情に出てしまったのか、途端にミニスは頬を膨らませて拗ね始めた。
 良いですよ、いいですよーっだ!
 べぇー、と舌を出して言われる。
 良いわよ、ひとりで行って来るもん。頭から湯気でも立ちそうな感じで怒り、ミニスは可愛らしい頬をぷぅ、と風船のようにしてその場で二度、地団駄を踏んだ。それきり、マグナに背を向けるとさっさと歩き始める。
 どこ行くんだよ、と一応問いかけてみた。
 散歩! そう勢い良く返されて苦笑が漏れる。それも聞こえてしまったらしく、ぴたりと足を止めた彼女は半分泣きそうな、怒った顔で振り返った。
 絶対、ついてこないでよ!?
 あー、うん。分かった。
 曖昧に返事をして頷くと、彼女はマグナをもう振り返ってはくれなかった。足早に固い土を踏みしめて去っていく。
 その姿が道場の角を曲がり見えなくなるかという瞬間、つい、迷子にはなるなよ、と余計な一言を口に出してしまったものだから。
 益々怒らせてしまったらしい。
 ミニスの姿が見えなくなったと同時に、マグナの頭上にスライムポットが落ちてきた。
 げっ、と逃げる間もなく、うにょん、と出てきた緑色の半透明な生物がにやり、と笑うのが目に映る。
 ぽわん、ちゅぽん、ぽはん。
 妙な効果音が連続して、マグナは途端に歩みが遅くなった。呻き声までもが遅く、低く獣のようになってしまう。これはミニスが呼び出した召喚獣の効果ではなく、単にマグナの気分の問題が原因なのだろうけれども。
 ああ、足が重たい。
 踏んだり蹴ったりだな、と思わぬ小さなお姫様の反撃にぽつりと零し、けれど放っておけばそのうち効果も薄れてくる事を知っているので、特別に慌てたりもせずこのままでいる事にした。歩みが遅くなる事以外に、毒に汚染されたりする効力があるわけでもないので、困る事もさほど多くない。どうしてもダメだったら、あとでルゥにでも助けてもらおう。
 そうしてマグナはまた、ずるずると重い足を引きずるようにして庭を進み出した。
 固く均された土の上に、薄い線が二本残る。空は相変わらず、絶好調に澄み切っている。暖かな陽射しは少しだけ眩しさを増していたけれど、やはり外に出ているのが嫌になる暑さでもない。
 力の入らない爪先で地面を蹴って、その勢いと反動を使って顔を上向ける。
 黒い線が空を駈けた。あの鳥だ。
 はっとなり、慌てて首を動かしてその行く先を確かめる。道場の裏手、下草が高い小さな雑木林の手前でそれは消えた。正確には、雑木林の樹木に視線を遮られ、それ以上鳥を追いかける事が出来なくなった、という事。
 もしかしたらあの鳥はこの藪の中にある木ではなく、海岸線に近い場所に育つ木に巣を張っているのかもしれない。そういう可能性に思い当たって、マグナは疲れ切った足を膝で曲げ、そこに手を置くことで脱力して倒れそうになるのをどうにか防いだ。
 スライムポットの効力は、まだ当分切れてくれそうにない。
 答えが出てしまった、さてこれからどうしよう。
 あの藪を乗り越えるのは甚だ難だ。かといってまた正面に戻り、道を迂回して海岸に出て鳥の巣の在処を確かめてみようとは、この状態だと気力が続かなくて思わない。こんな事になるのだったら、ミニスの誘いに乗って街に行くんだったと、少しだけ今更に後悔した。
 だけれど、すぐに姿勢を戻して伸びをする。頭を軽く振った、沈みそうになる落ち込みは早々に追い出してしまう。
 ポジティブに、前向きに行こう。でなきゃ、……辛いことが多すぎる。
 さっきまでの気分を一新して、空を改めて見上げてみる。太陽が眩しくて陽射しを遮るために手を目の上に翳す。細めた眼、その隙間から欠伸がまたひとつ。
 暖かい気候、穏やかに流れる時間。今が非常事態であることなどまったく無縁の、限りなく平和で優しい午後のひととき。
 ネスティに見付かったら事だよな、と思いつつ足は近くに聳える一本の古樹へと向いていた。幹の中腹にはちまきのように注連縄が巻かれているそれは、恐らくこの道場を守る御神木の一種なのだろう。枝は広く横に伸びていて、根の周辺に伸びる草も柔らかく、背が低い。
 怒られるかもしれないが、昼寝をするには持ってこの場所だ。
 まだ引きずらずにいられない両足を必死に動かし、マグナはその古樹へと歩み寄る。だけれど、途中である事に気付いた。
 彼の視界から死角になる位置からひょこっと、少しだけ覗いている白い耳の先。
 そういえば昼食のあとから一度も姿を見ていないような。
 一瞬だけ立ち止まって考え込んで、考えていても仕方ないからとまた歩き出す。ずるずる、がスタスタ、へいつの間にか変わっていた。
 前へと回り込む、なるべく音を立てぬように気を配りながら。そしてやっぱり、とひとつ深い息を吐き出す。
「ハサハ」
 名前を呼ぶと、微睡みの中に居たらしい彼女が薄目を開けて顔を上げた。
 両膝を丸め、大事にしている水晶球を胸に抱き込みながら頬を寄せ、御神木である古樹に寄りかかり地表に突きだした根に庇われるようにして。とろん、とした視線がやがてひとつの事に気付いて徐々に覚醒していく。
「おにいちゃん……?」
「昼寝か?」
 誰何の声に頷いて、マグナは膝を折って彼女の前に腰を落とした。木漏れ日がマグナの頬に落ちて随所を白く輝かせる。ハサハはそんなマグナを暫くじっと見つめた後、戸惑いがちに頷いた。
 そっか、とマグナは膝の上に手首を置いたままにこりと微笑み返す。そして少しだけ場所を作ってくれるかな、と頼んで自分の身体を反転させた。
 背中を古樹に明け渡し、どかっと温まっている地面に座る。背中が少しだけざりっとした感触を受けたが、不快ではない。むしろ心地よいくらいだ。成る程、ハサハが昼寝の場所に選ぶだけのことはある、と秘やかな楽しみの場所を見つけた気分になってマグナは微笑んだ。
「おにいちゃん……?」
「昼寝、起こして悪かったな」
「ううん」
 マグナの微笑みが理解できなかったらしいハサハに、やはり彼女の問いかけを理解できなかったマグナが言葉を返す。さすがにこの意味は通じ、彼女は遠慮がちに首を横に振った。
 抱きしめていた水晶球を持ち直し、自分も身体を起こして座り直す。膝を寄せると、胸と足の間に出来上がった僅かな空間に水晶球を抱えた両手が埋もれた。まだ随分と眠そうなのに、しかし彼女はなにやら必死に、その眠気を追い出そうと頑張っているように見えた。
 今度はマグナの方が首を捻る。
「ハサハ?」
「……?」
 名前を呼ぶと、やはりどこか必死な彼女が首から上だけを向けて来た。どうしたんだ、と問いかけると、彼女は静かに一度首を振る。
「だって」
 ハサハは、おにいちゃんの護衛獣だから、おにいちゃんを守るのが、ハサハのお役目だから、と。
 実にたどたどしい文節で彼女は懸命な顔をし、マグナに言った。
 言われた方が、目を丸くしてしまう。
「……あ」
 そうだった、っけ?
 かねてから召喚師としての自覚に欠けている、と兄弟子に呆れられているマグナは、どうやらハサハが自分の護衛獣として召喚された存在である事をすっかり、今の今まで忘れていたらしい。
 マグナの中にあるハサハという存在は、守られるというよりも守らねばならない存在に置き換えられて久しかった。
「おにいちゃん……?」
 しかしこの少女は忘れていなかったらしい。必死になって、今もマグナの事を守ろうとしている。その純粋な想いが意地らしくて、尚更守ってやらねばと思ってしまう。
 ふぅ、とマグナは息を吐いた。彼女の心がけはありがたいことこの上ないが、眠くて仕方がないでいる彼女をこのままにしておくのも心苦しい。さて、どうしようか。
 悩みそうになって、マグナは自然と視線を上向けていた。澄み切った青空がどこまでも続いている。ちらっと、視界の片隅を鳥の影が流れて消えた。
「ハサハ」
 ことばは空を見上げたまま、さらりと風のように流された。
「じゃあ、交換ごっこでもしようか」
 片膝を寄せ、その上に肘を立てて頬杖を付く。彼のことばにハサハは水晶球を口元まで持ち上げてから、小首を傾げた。
「こうかんごっこ?」
「そう、今だけ。俺と、ハサハの役目を交換してみよう」
「……?」
 我ながら妙案と思った発言は、しかしハサハの問いあげる目線に行き詰まる。どう説明したものか、とまた視線を泳がせて頬を引っ掻き、マグナは吐息を零す。
「要するに……今、だけ。そうだな、夕食までの間、俺がハサハの召喚獣で、ハサハは俺のご主人様。分かるか?」
 自分とハサハとを交互に指さして説明するマグナをじっと見つめながら、言い終えて息を吸い込む彼にひとつだけ、小さく頷いた。
「でも……」
 素直に受ける事は出来ないと、伏し目がちに瞳で告げる彼女に、マグナはまた壁のない笑顔を向けた。
「ごっこ、だよハサハ。今だけだし、な?」
 昼寝をするハサハを守っていてやるから、その間ゆっくりお休み?
 ゆっくりと、優しくことばを重ねるマグナを見つめていたハサハが、こくん、と遠慮がちに首を縦に揺らした。途端、マグナが破願する。そして折り曲げていた膝を横に倒し、その上を手で叩いた。
「…………」
 ハサハが逡巡する。マグナはまったく気にする様子がない。
「土の上が枕って、痛いだろ?」
 彼にしてみれば、思考は単純明快でそれ以外のなにものも含んでいない行動なのだろう。もう少しだけ考え込んで、結局彼女はまた縦に首を振った。
 陽射しはどこまでも穏やかで、柔らかく優しい。御神木に守られた空間は空気も清涼であり、澄んでいる。耳を澄ませば砂浜に打ち寄せる波の音、そして下町の人々が活気で賑わう喧噪が聞こえてくる。
 世界はこんなにも優しく、暖かい。
 マグナはそっと目を閉じた。己の膝の上ですやすやと眠っている少女の髪を、少し考えてから撫でてみた。
 艶やかな黒髪が、指の間から零れるようにして逃げていく。
 非常事態の中でも、今の瞬間はそれを忘れるくらいに平和で、長閑だった。
 欠伸が漏れる。なるべく身体を揺すってしまわぬよう気を配りながら、右手を持ち上げて口を塞いだ。
 太陽の角度を見て、腹に手を当てて空腹具合を確認し、夕食までの時間をざっと計算する。まだかなりあるようだ。
「ん~~……」
 スライムポットの影響か、身体中が凝ってしまっている。欠伸は止まらない。
「あったかいなぁ……」
 再度太陽を見つめた。ごく自然に、瞼が降りていく。その後の記憶は、残念ながらマグナになかった。

 そして。

「まったく、仕方がないな」
 夕食の少し前。
 姿を見せない弟弟子とその護衛獣を探してその辺りをうろうろしていたネスティは、道場の裏手ですやすやと仲良く眠っているふたりを見つけ、苦笑した。