Youthful Days

 その日、久しぶりに太陽が明け方の空に輝いていた。
 カーテンを引いて窓を開け、濃い色をした雲の隙間から覗く赤い太陽を見上げた彼は、自分が両手を置いているその窓枠にこぢんまりと鎮座していたものに気付いて身体を半分、後ろに引いた。
 僅かに湿り気を残した風が室内に流れ込んでくる。水の匂いを大量に含んでいるその風は重く、彼の身体にねっとりと絡みついてきた。
 けれどその事にも気を配ることなく、彼は、あと十数センチ左手を動かせば衝突して床に落下してしまいかねない場所に置かれていた、茶色の小さな鉢植えをやや茫然とした面持ちで見下ろしていた。
 中学卒業の時に、野球部の後輩だった女子マネージャーが部員全員に餞別と、プレゼントしてくれたサボテンだ。
 緑色の綺麗な丸い形をしたそれは、どことなく野球ボールに似ているから、というのがその理由だったらしい。値段もかなり手頃なもの、だから野球ボールと言うのはかなりサイズが小さかったけれどなんとなく、外見に愛嬌があって気に入っていた。
 水をやらなくても育つ事も、部屋に置いている理由に数え上げられる。
 卒業式には他にも、色々な人から様々なものを貰ったけれど、植物系のもの――花束は早々に母の手に委ね、いつの間にか枯れてしまったらしく処分されてしまったようだ。
 モノトーンで統一された彩りに欠ける部屋の中で唯一の、緑色をしたサボテンを手にとって両手で慎重に抱く。顔の前に持ち上げて掲げて見つめる、指を使ってくるくると回転させて球体の各部を眺めて、最後にほぅ、と息を吐いた。
 風がカーテンを揺らす、空は少しずつ晴れ間を広げて太陽の光は眩しく地上を照らしつけていく。
 随分と久しぶりの晴天を拝めそうだと言うのに、彼は窓の外よりも目の前の小さな植物を凝視し、あるいは感動でもしたかのように複数回、吸い込んだ息を重ねて吐きだしていた。
「へぇ……」
 やがて感嘆の声を零し、サボテンの鉢を今までの置き場所であった窓枠から、昨日予習をやったそのままノートを広げた状態で放置されていた机の、かろうじて残っていたなにも重ねられていないスペースにそっと置く。乱雑に積み重ねられているレポート用紙を乱暴な手付きで片側に集め、天板に手を置いて膝を折って腰を低くする。
 机上のサボテンと視線の高さを揃えて、彼はもう一度吐息を零した。
 ガラにもなく感動しているらしい。
 じっと見つめられて、恥ずかしいのかサボテンの花が窓から流れ込む風に照れたように揺れた。
 そう、彼の小さなサボテンは、今。
 小さな可愛らしい、情熱の赤い色をした花を咲かせていた。

 雨の降らない、朝から晴れた日は本当に久しぶり。
 多少雨水が残り、水たまりがあちこちにあったところで最近ずっと屋内でストレッチ中心だった部員達は皆、元気が有り余っているようだった。
 久方ぶりの土のグラウンドで出来る練習に、いつもは大人しい部員もが大声を張り上げている始末。いつもは微笑ましく見守っているだけのキャプテンも、今日ばかりは率先して泥にまみれていた。
 結果として、十二支高校野球部員のうち誰ひとりとして、顔を白くしたまま練習を終える人間は居なかった。その汚れ具合は凄まじく、剛気なマネージャーでさえ近付いて来なかったくらいだ。
 濡れタオルで拭う程度では泥を落としきる事は出来ず、全員が数に限りあるシャワー室を順番に使う事になる。
 優先順位は、当然ながら上級生から。先輩方が気持ちよく全身の汚れを洗い流している間、一年生は自分たち同様に泥にまみれてしまったボールをひとつずつ、磨く作業に駆り出される。
 かごに山盛りのボールを、古布で丁寧に泥を拭っていく。こびり付いた土を削り落として、退屈な単純作業に皆黙々と手だけを動かし続けて。
 最初に痺れを切らしたのは、案の定堪え性のないと定評の高い猿野であり。
 呆れたように犬飼がため息を零しながら肩を竦める。それを見た猿野が怒鳴り声を上げ、握っているまだ汚れの落ちきらないボールを彼目掛けて投げつけた。
 スッと、けれど犬飼は身体を横にずらして簡単にそれを躱してしまった。
 投げ放たれたボールは、不幸にも彼の向こう側にいた子津の横っ面にぶつかって落ちる。
 一番慌てたのはボールを投げた本人で、まさか彼にぶつかるとは予想しておらず狼狽しながら頭を抑える子津の元へと駈けていく。
 大丈夫か、平気っす。
 嘘だろ、思いっきり当たってたじゃないか。
 そんな事ないっすよ、見た目ほど痛くなかったっす。
 その場にいた誰もが子津の嘘を見抜く中で、猿野だけが素直に騙されてくれた。 
 ひょこっと、ふたりの間に兎丸が割り込んでくる。
 痩せ我慢はみっともないよ、と兎丸の泥まみれの右手が子津の、少し赤くなった頬を押した。
 途端強まった痛みに子津が短い悲鳴を上げ、慌てた猿野が更に慌てふためいて子津の顔を覗き込んだ。
 全然大丈夫じゃねーだろ、オマエ。
 上目遣いに心配しています、という顔を振りまく猿野を間近に見て、子津は耳の端まで赤くして本当に大丈夫だから、と不要な大声で叫んで誤魔化した。
 兎丸が悪戯っ子の笑みを絶やさないまま、猿野の腰に抱きつく。
 子津と猿野の間をそれとなく広げながら、自分が幾つボールを磨けたかをやや自慢げに猿野へ報告する。その数、ざっと猿野が磨き上げたボールの倍以上。
 褒めて、と目を細くして猿野に迫る兎丸の肩を、MDの電源を切った司馬が叩いた。
 なんだ、とふたりが見上げた視線の先には司馬が持つボールの入った籠が。中に収められている、泥磨きの終わったボールの数は、兎丸が磨いた数のざっと倍。
 遠くの方で辰羅川がため息を零しながら、ずり落ちる眼鏡を持ち上げた。彼の手前で、犬飼は必死になってせっせとボールを磨いている。
 なにをやっているのだか、と呆れ果てる辰羅川の手の中で、司馬が磨いた数をひとつ分上回る事になるボールが踊った。
 お前ら、次さっさと使えYo。
 身体から仄かに湯気を立てる虎鉄がバンダナ代わりにタオルを頭に巻いて姿を見せた。後ろには、やはり肩にタオルを掛けている猪里が続いている。
 お先でした、と未だに泥人形のようになっている後輩に笑いかけ、最後に猿野の肩を叩き早く綺麗になっておいで、と猪里が言った。
 良く解らない顔のまま猿野が頷き、立ち上がる。それを見て、他の一年生も続いた。
 磨き終わったボールの始末を二年生に任せ、一年生は連れだってシャワールームへと向かう。部室からさほど離れていない体育館の中に設置されたシャワー室の前では、虎鉄たちよりも少し遅れて出てきたらしい三年生が数人、彼らを待ちかまえていた。
 順番は守るように、お湯は出しすぎず必要な分だけ使うこと、くれぐれも悪戯はしないようにね、と。
 小学生に諭すような口調で、牛尾が一年生にシャワー室の使用方法と注意事項を簡単に説明する。そして聞いていた一年生もが、揃いも揃って元気良く返事をして頷いた。
 一列になってシャワー室に突撃する元気いっぱいの彼らを見送り、牛尾は楽しげに微笑んでいる。
 これ、使うと良いよ、と。
 こっそりと猿野にだけ、ボディーソープを手渡して。
 猿野は首を傾げたけれど、好意は素直に受け取って礼を言いぺこりと頭を下げる。犬飼が、早く来い、と急かす声を上げるので踵を返す彼の背中を見送る牛尾から、蛇神は肩を竦めて視線を外した。
「おい、猿」
 個別になっている、けれどそれほど高くない仕切りしかない湯気が籠もるシャワールームで、水音に掻き消されないように犬飼が猿野を呼んだ。
 牛尾から借りたボディーソープの蓋を外していた猿野が、億劫そうに犬飼を見る。
 湯を浴びて逆立っていた髪が寝ていた彼の顔を見て、一瞬で彼は視線を逸らした。なかなか中身が出てこないボトルの胴体を強く握りすぎて、借り物のそれはぐにゃりとまんなかで変な風によじれてしまった。
 なにやってんだ、莫迦猿。
 犬飼がシャワーのコックを捻って湯を止めて言う。
 うるせぇ、オマエがいきなり話しかけてくるから悪いんだろう。
 悪態をつく猿野をしきりの上から眺めて、犬飼は少しだけ声を潜めた。
 彼の隣を使っている辰羅川が、勢い良くシャワーから溢れ出す湯で頭を洗い始めた。喋り声が水音に一瞬だけ紛れ込む。
「今日、このあと暇か?」
 猿野にだけ聞こえる声で、問いかけた。
 五秒後、辰羅川のシャワーが止むと同時に猿野が一度だけ、縦に首を振った。

 下り坂のアスファルトを、ふたり乗りの自転車が勢い良く駆け抜けていく。
 学生服姿の、しかも大きな鞄をふたつ、ステップに立つ側が背負っているという状態で、規定スピードを軽くオーバーした銀輪は車の少ない道を走っていた。
 ペダルを踏む銀色の髪をした学生が、時折後ろを気にしながら角を曲がる。ブレーキを握るたびにふたり分の負荷を抱える自転車が悲鳴を上げたが、あと少しの距離だから我慢してくれと、長年連れ添っている愛車を心の中で労った。
 青のランプを点滅させている横断歩道を横切り、夕焼けが照りつける公園を右手にしながら町を走り抜ける。
 あまり水はけが宜しくないらしい一帯で、でこぼこの中に残っていた昨夜の雨が水たまりを作っているのが目の前に見えた。
 うわっ、避けろ!
 後部座席の彼が叫ぶ。でこぼこ道をまともに進んで行かれると、ステップに立っている上に荷物をふたり分も抱えている自分は落ちかけないと、悲鳴を上げた彼を笑って、運転手はペダルを踏む足に力を込めた。
 道を直進する。
 肩に置かれた彼の手に力が込められるのを感じながら、犬飼は勢い良く水たまりの中へ銀輪を突入させた。
 水しぶきが車輪の両側に広がる、さながら天使の双翼の如くに。
 跳ね上がった飛沫が乾いている路面を幾らか濡らした、極少量が彼らの靴とズボンの裾を汚す。
 犬飼が笑う、声を立てて。
 猿野も笑った、ポカリと足として使っている犬飼の頭を小突く事を忘れずに。
 けたたましく、声を立てて、心底愉快そうに。
 ふたりの笑い声が夕暮れの町に重なり合う。声が途切れる頃になってようやく、犬飼の銀輪は目的地へ到達した。
 犬飼の部屋、モノトーンの彩りが足りない味気ない空気の中で咲いた、赤いサボテンの花。
 見に来ないか、と猿野に声をかけたのはただの気紛れ。
 ただなんとなく、あの赤い色が犬飼の中で猿野を連想させただけ。
 他に理由など無く、考える必要もなかった。まさか猿野が乗ってくるとは思っていなかったから、意外な感じがしたことは否めないけれど、サボテンが咲いたと知れば好奇心の塊である彼が、惹きつけられないはずがないという自信もどこかにあった。
 カーテンの掛けられた薄暗い室内の照明を灯す。
 部屋は今朝、犬飼が学校に出かける前に雑多に片付けた時のまま。母がお節介に掃除をした形跡も見当たらなかった。
 急激に明るくなった部屋に瞬きを数回繰り返して目を慣れさせ、猿野が数度目の訪問になる部屋を改めて見回す。
 彼は、犬飼の部屋にサボテンがあることをちゃんと知っていた。
 これ、どうしたんだ? 
 最初に部屋を訪ねたとき、彼が窓辺でひっそりと飾られているサボテンに興味を示した事は、犬飼も覚えている。余程部屋の雰囲気に馴染んでいないと目に映ったのだろう、猿野はこの部屋を訪ねるたびに毎回、小さな鉢植えのサボテンに話しかけていたから。
 な、オマエのご主人様はちゃんとオマエのこと、面倒みてくれてるのか?
 犬だから、甲斐性なしで困るよな。
 苛められたら俺に言えよ、百倍返しで敵を取ってやるからさ。
 サボテンは植物なので喋る事なんて出来ないことくらい重々承知しているはずなのに、猿野はいつも、無口な部屋の主を無視してサボテンと遊んでいた。
 そのサボテンが、花を咲かせたのだ。
 彼が見たがらないわけがない。
 猿野はまず、いつもサボテンが置かれている窓辺に目をやった。けれどそこには見当たらず、答えを求めるように入り口前で自分の後ろに立つ犬飼を見上げる。
 犬飼が無言のまま、顎で机の上を指し示した。
 振り返った猿野が机を見る、乱雑に積み上げられているプリント類と参考書の隙間に埋もれるようにして、確かにサボテンの鉢はそこにあった。
 だけれど。
「おい、犬飼」
 一瞬だけ明るくなった顔にすぐさま暗く影を落として、猿野は声を潜め背後に立つ犬飼の名前を呼んだ。
 返事を待たずに、数歩で距離が詰められる机の前へと進み出る。
 両手で掬い上げ、胸の前に中身が零れない程度に傾けたサボテンの表面に指をそっと這わせて、彼は犬飼を待った。
 怪訝な面持ちを作り、彼は猿野の横に並んで彼が抱くサボテンを見つめる。
 花は、なかった。
 ただ花が咲いていたという残骸は残されていた。萎んでしまった花びらが机の上に数枚、散っている。うち一枚がサボテンの、緑の刺に引っ掛かるように下向きに垂れていた。
 猿野が無言のまま、鉢を机に戻した。
「あ……」
 直ぐに言葉が出てこない犬飼が、なにかを言おうと必死になって視線をその辺りに彷徨わせた。しかし気の利いた一言も思い浮かばず、こういうとき自分が辰羅川であったなら良かったのに、と人任せな勝手なことを考えてしまう。
 視線を持ち上げた猿野と、まだ台詞を見つけられない犬飼のあちこちを当て所無く巡る視線がぶつかった。
「ゴメン」
 反射的に呟いていたのは、一体何に対してなのかもさっぱり不明な謝罪の言葉。
 ぽかんと惚けてしまっている猿野を見下ろし、犬飼はどうも居たたまれない気分に陥ってしまう。
 折角呼んだのに、その目的であるサボテンの花がまさか、半日で枯れてしまうだなんて思ってもみなかったから。来てもらったのに、無駄足を踏ませてしまった彼に申し訳ない気分がいっぱいであり、それにも増して枯らせてしまった花が可哀想に思えてならなかったのだ。
「悪い」
 重ねて紡がれた犬飼の謝罪の声に、猿野は惚けていた顔を元に戻すと、片手を腰に添えて胸を反り返らせた。そうすれば自然と首の角度も上がって、無理なく犬飼を見上げることが出来るからだ。
 再び重なり合った視線の向こうで、猿野がふっと微笑む。
「なに謝ってんだよ。お前が悪い事したなんて、俺思ってねーぜ?」
 犬飼はなにもしていない。確かにサボテンの花は枯れてしまったけれど、それは予想し得なかった事だ。
 机上に手を伸ばし、猿野はサボテンの表面を撫でた。指の腹にちくちくと感じるだけの感触を楽しみながら、瞳を細める。
「それに、さ」
 お前が俺を呼んでまで見せたいってくらいに、綺麗に咲いてたんだろう?
 にかっと歯を見せて、猿野は笑った。
 明け方、東の空から雲間を割って光を空へと奏でた太陽のような。
 険しい砂漠の環境下で健気に生きるサボテンが、ひっそりと咲かせた赤い小さな花のような。
 そんな、笑顔で。
「な?」
 次の瞬間。
 胸の前に背中から、肩越しに回された両腕に抱きすくめられて猿野は、サボテンに伸ばしたままだった手をぎくりと揺らした。
 背中越しに自分のものではない体温を感じる。皮膚と身に纏う衣服を挟んで伝わってくる心音に、無意識のうちに自分のものが被さってシンクロし始めるのが嫌でも分かる。
 自分に分かるのだから、きっと相手側にも伝わってしまっているだろう。
 サボテンに触れる指先が、ちくりと痛い。
「おい、こら。犬のくせになに、人間様にじゃれついてやがる」
「犬だから、に決まってるだろ」
 言い返され、猿野は二の句を告げず黙り込んだ。
 再びサボテンの表面を撫でる。落ち着きのない動作で、同じ事を繰り返す彼の手首を犬飼が、緩い仕草で掴み取った。
 引き寄せる、肩の上にまで持っていって土の匂いが残る彼の指先に、そっと口付けた。
「痛ぇんだから、あんまり触るな」
 逃げたがって力を込め、指を振る猿野が反対側へ首を傾けながら言う。茶色のややクセが強い髪の間から覗く彼の耳は、先の方まで赤く染まっていた。
 口元を綻ばせ、犬飼が笑いながら逃げ回る猿野の手を一層強く握りしめた。
「棘でも刺さったか?」
 サボテンをずっと撫でていた手だ、あるいはそれもあり得たかも知れない。けれど頑丈の代名詞を背負っている猿野が、手の平サイズのサボテンに傷を付けられるとは考えにくい。
 棘が刺さったとしたら、恐らくはもっと別の場所か。
 黙りこくったままの猿野が、こくり、と一度だけ首を縦に振る。
 犬飼が声を立てずに気配だけで笑った。
「なら、ちゃんと消毒しておかないとな」
 先程までのどもり様が嘘のように、わざとらしい台詞を連ねて犬飼が猿野の手を更に引き寄せる。
 指先に彼の吐き出す息の熱を感じ取った猿野が、咄嗟に手に力を込めて強引に犬飼から、自分の手を奪い返した。
「そっちじゃねぇよ!」
 思わず、そんな言葉を口走って。
 言ってしまってから猿野は自分の言った台詞に目を丸くした。
 言われた犬飼は、言われた事の意味を咄嗟に把握しきれずやはり目を丸くして体勢を逆向き、つまり自分の方へ顔を向け直した猿野を見下ろした。
「え……?」
 言うべき言葉がすぐに見付からず、犬飼は僅かに上気した頬を持て余しながら猿野を見つめる。
 犬飼よりももっと赤い顔をした猿野が、拗ねたように彼をねめつけていた。
「つまり?」
「もう知らん!」
 どこまでも鈍い犬飼を怒鳴りつけて、猿野は机と彼とに挟まれているというある意味屈辱的な現在位置から抜け出そうと藻掻いた。
 しかし犬飼は退かない、机も当然ながら動かない。
「悪い」
 三度、犬飼が謝った。
 彼の手が猿野の脇を抜けて机の端に置かれた。完全に拘束されてしまった猿野がきゅっ、と目を閉じるのを待って、顔を寄せる。
 熱が触れあった瞬間。
 サボテンに残っていたひとひらの花びらが、風もないままに落ちた。
 

02年5月5日脱稿