小休止6

 喧嘩をしてしまった。
 自分らしくなかったと、後から十分反省するに足りる程にその時は激昂して怒鳴りつけてしまった。喧嘩というよりもむしろ、彼の行動とその行動を取る原点に当たる考え方が気にくわなくて、珍しく声を荒立ててしまっていた。
「ネスの分からず屋!」
「君はバカか!?」
 怒鳴り返されて思わずむっと来た。カチン、と頭の上で何か固い音がして眉間に皺を刻んだネスティが怒鳴り声と一緒につい、普段は絶対に出さない手を出してしまう。ぱしぃん、と乾いた音が響き渡った。
 はっとして、驚きに顔を歪める。殴った方も殴られた方も呆気に取られ、しばらく何が起こったのかお互いに理解出来なかった。
「あ……」
 ふわり、とマグナの手が持ちあがって僅かに赤くなっている己の頬に添える。じんわりとそこから広がっていく、痛み。けれど本当に痛いのは其処じゃなくて。
 急激にマグナは自分の視界に収まる世界が崩れていくのが分かった。目の前にいるはずのネスティの顔さえ、今じゃ見えない。
「……ネスなんかだいっきらい!!」
 反射的に怒鳴っていた言葉は、本心を裏切って勝手に暴走している。けれど止められなかった、どうしようもないくらいに頭の中が混乱して崩れてしまっている。自分が自分じゃなくなってしまったようで、マグナは片頬を押さえたまま走り出した。
 茫然と動けないで居るネスティにわざと半身をぶつける形で彼を押しのけ、向こう側へと駆けていく。その速度は戦場を離脱する逃げ足のようにスピードに乗っていて、ようやく我に返ったネスティが振り返ったときにはもう彼は何処にも見当たらなかった。
「…………」
 しばらくマグナが去っていった方角を見つめていたネスティだったが、彼が戻ってきそうにない事を了解して溜息をつく。眼鏡に被さってきた前髪を掻き上げ、視線を足許に落とした。
 何故か、マグナを殴った左手がずきずきと痛んだ。

  悶々としていて、考えたくないはずなのに考えてしまって。
 このままずっと仲直りできなかったらどうしよう、とか。
 このまま永遠に顔を背けあって言葉を交わすこともなくなって、いつか彼が自分のことを忘れてしまうんじゃないだろうか、とか。
 そんな事を考えてしまうととまらなくて、嫌な風にしか考えられなくて不安になっていく。「ごめんなさい」のひとことがとても遠くて難しい言葉に思えてならない。
 謝りに行こうとして、彼が自分を無視して通り過ぎていってしまったらと思うと、益々恐くて会いになど行けない。逢いたいのに足が竦んで動けない。
 喧嘩の理由なんて些細なこと、ちょっとした考えの行き違い。ちゃんと向き合って話せばきっと分かり合えただろう事なのに、何故あの時に限ってあんな風にムキになって言い返したりしたのだろう。
「…………ちぇ……」
 ぽつりと零して、マグナは足を抱きかかえてその間に顔を埋めた。座り込んだ床と背中を預けている壁が冷たい、空気も一緒に冷えていく。そういえばもうじき日が暮れるな、と心の何処かで思った。
 主の居ない部屋の入り口横で、蹲って部屋の主人が帰ってくるのを待つ。足音が聞こえるたびに顔を上げて身構えて、逃げる用意も万端にしておいて近付いてくるのが待ち人と違っていることにいちいち安堵して。いい加減疲れてくるのに、反射神経だけは鋭敏になっているらしく聴覚までいつもより過敏だ。
 多分、今ならネスティの足音を聞き分けられるような気がする。ぼんやりと膝の上に顎を置いて壁とは反対側にある小さな庭園を見つめながら思う。ああ、確かに自分はバカなことこの上ないと。
 あげていた視線を落とし、マグナは強く膝を抱きしめる。身体を縮めて殻を作って、外敵から心を守ろうとしているようだった。
 この場所で自分を守ってくれる人はネスティと師範だけだったから。そのネスティが離れていってしまったら自分はきっと、もう此処で生きていけなくなる。
 無性に哀しくて、泣きたくなったけれどそれは負けたことになるから懸命に我慢した。吹き付ける風が冷たい。
 寂しかった。
 かつん、と足音が小さく響く。かつん、かつん、と、ゆっくり近付いてくる。マグナは顔を上げなかった、小さく身体を丸めたまま身動きがとれない。
 かつん、かつん、かつん。
 足音は彼の直ぐ傍で止まった、そしてしばらくの間無音が続いた。
 やがて、かちっと金属音がふたつ続いて、ぶわっとマグナの上に何かが降り注がれた。柔らかな空気と、少しだけ暖かくなる自分の周囲。癖毛を優しく撫でる、布の肌触り。
 かちゃり、とこれはドアの鍵を外す音か。続いてノブが回され、扉が開かれる音が布越しに聞こえた。マグナは顔を上げた、けれど視界は見事にネスティのマントに阻まれてしまっていた。
「なにをしている」
 不機嫌そうな、けれど彼らしい声が聞こえてくる。
「いつまでもそんなところに居ては風邪を引く。君を看病するのはこの僕なんだぞ」
 余計な仕事を増やすんじゃない、と告げる声は冷淡だがどこか暖かかった。
 マグナは自分に被せられたネスティのマントを握りしめる。頭からすっぽりと被っているので、自分の表情がネスティに見えないのが救いだった。
 今の自分がどんな顔をしてどんな風になっているのか。自分でさえ見たくないと思うくらいに恥ずかしかった。
「ネス、あの、俺……」
「そうそう、それから。……悪かったな」
「うん。あのさ、ネス……あれ……嘘、だから」
「分かっている」
 マントの上から頬を撫でられた。不意に泣きたくなった。痛かっただろう、と言われてマグナはフルフルと首を振る。
 もっと別の痛かった場所が、今ので痛くなくなったから。
 もう良いんだ、と言った。やっと笑えた気がした。