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 緩い陽光に照らし出されたテラスは、庇の影に紛れて少しだけ気温が低くなっている。
 まだ本格的な夏には遠く、幾分過ごしやすい天候が続いているが気温が低いのは日陰である以外にも、夜中中降り続いていた雨が止んだ事にも理由があるらしい。
 天頂には程遠い太陽を東の空に眺めながら、足を向けた先でテラスの床面が僅かに湿り気を残している事でその事を知る。
 昨夜眠りにつく前は、降りそうな空模様だったけれどまだ降っていなかった雨。そう長時間激しく降り続いていたわけでは無さそうで、ならば雨音に気付かなかったのもある意味仕方のないことだろう。
 普段ならば小気味よく響き渡る足音も、どこか湿り気を含んで重く感じられた。
 ばさっ、と左斜め手前から紙を広げる乱雑な音が聞こえて視線を太陽から音の発生源へ向ける。
 テラスには日よけのパラソルと、その下に独り掛けの椅子がふたつ向き合わせに置かれた白いテーブルがある。丁度今自分の方に向いている――つまりはテラスの下に広がる庭に背を向けて城の外壁を向く形で座っている人物が居た。
 テーブルの上には湯気を昇らせるコーヒーカップがひとつ。ミルクポッドとシュガーポッドがその手前に。何かを食べていた名残か、空の皿がその脇に。
「おはよう、ユーリ」
 もう一度、ばさっと、手にしていた新聞を一度折り畳んでページを進めてまた広げる。ちょうどその時に畳まれた新聞紙の向こうから顔を覗かせたスマイルが、まだテラスの入り口近くで立ったままの彼に朝の挨拶を贈った。
 けれど彼の興味は其処で途切れてしまったらしく、ユーリから視線を今朝の朝刊に戻すと腕を広げて新聞で上半身を隠すようにし、ふたりの視線を遮る壁を作り出してしまう。
 煎れられてまだそう時間の経っていないだろうコーヒーが、物憂げに熱を外へ零し続けているがスマイルはそんな音もない訴えに耳を傾ける事もしない。それほどに面白い記事でも載っているのか、とユーリは目にかかる、落ちてきた髪を掬い上げてテーブルへ向かって歩き出した。
 カツカツと鈍い足音が響く。
 まるで当てつけのように床面に擦り合わせて歪な音を立てさせ、やや乱暴に椅子を引いてそこに腰掛ける。雨の露はしっかりとぬぐい去られた後で、背もたれにも座面にも湿り気は残っていなかった。
 ただまとわりつく朝の風が少しだけ思い感じがして、昨夜が雨であったことを伝えてくれる。
「雨だったようだな」
 続けられなかった会話を再開しようとしたわけではないが、背もたれに預ける身体の形を何度か作り直して一番楽な姿勢を見つけたユーリがそんな事を呟く。
「みたいだねぇ」
 ぱさっ、とスマイルが片手を新聞から放し手探りでテーブル上のコーヒーカップを捜す。その間もずっと彼の視線は片手に残った新聞紙面に貼り付いたままだ。
 かちゃっ、と彼の手がコーヒーカップではなくミルクポッドに当たる。その横に並んで置かれているシュガーポッドに揺れたミルクポッドがぶつかって、彼の失態を責めるように乾いた陶器の音を響かせた。
「あー」
 自分が違うものに手を当てた事に気付き、新聞を膝とテーブルの間に寝かせてスマイルは自分の手が何処にあるのかを確認する。手はてんで方向違いな場所を探っていて、コーヒーカップは新聞と卓上の腕の間でぽつんと、勢いを失いつつある湯気を立てていた。
「良かった、倒れてない」
 音の具合からして、それは無いことは予測済みだったのだろうが実際目で見て確かめて、テーブル上に何も零れていない事に安堵の息をもらす。そして行き場を失って困っている手でトントン、と意味もなくテーブルを小突きようやく、当初の目的地たるコーヒーカップを持ち上げた。
 見た目からもかなり温くなっているのが分かるコーヒーをひとくち口に運び、スマイルはまた新聞をつまみ上げた。かちゃん、と軽い音を鳴らしてカップをソーサーへ戻し、また新聞で顔を隠す。
 本人にそのつもりは皆無なのかもしれないが、少なくともやや斜めではありながらも向き合う形で席に着いているユーリにはそう見えた。
「貴様が人間の政治や経済に興味があったとは知らなかった」
 テーブルに肘をつき、嫌味のつもりでユーリは言うが返事はなかった。
 余程読むことに熱中してしまっているのだろうか、聞こえないフリとは少し趣が異なるスマイルの無視に、彼は綺麗に整っている眉目に浅く皺を刻んだ。
「スマイル」
 立てていた肘を寝かせ、中指の爪でテーブルを神経質に叩く。やや語気の強まって不機嫌そうなユーリの声に、
「え、なに?」
 片側に新聞を寄せて顔を出し、スマイルが小首を傾げた。
「なに、とは?」
「あれぇ? 今呼ばなかった?」
 名前を呼ばれたような気がしたんだけど、とユーリの顰めっ面にも気付かず不思議がる彼。
「私が意味もなく貴様を呼ぶはずがないだろう」
 それはそれで酷い扱いなのだが、読みかけの新聞記事に気が回っているのか深く追求せずスマイルは納得したように頷いた。
「それもそうだねぇ……」
 曖昧に苦笑いを浮かべているところからして、意味は理解しているらしい。けれどそれ以上の言葉を発する事無く、スマイルはまた新聞へ視線を落とす。ちょうど何処かの企業トップと新聞記者との対談記事を読んでいたところだったらしい、ちらりと見えたタイトルでユーリはそう判断した。
 面白い話しでも書かれているのだろうか、スマイルの熱心ぶりは普段の行動からして異様に映る。もっとも、一度ステージに立てば彼は別人のような存在に変わるから、その変化に似ていると言えばそれまでだが。
 テーブルの広さは腕ひとつぶんほど、それほど大きくない。上に載っているのはスマイルのコーヒーセットと、空の皿。あとは水色硝子で作られた一輪挿しに挿されたマリーゴールド。その花の向こうに、スマイルが広げている新聞があって、彼の身体はその新聞を持つ手と頭の先しか見えない。
 時折新聞を捲る紙の擦れる音だけが聞こえてくる以外はほぼ無音状態。半分ほどに量が減ったコーヒーはすっかり冷め切ってしまっていて、今飲んでもきっと味はよろしくないだろう。逆に、ミルクポッドが日の光で温められているような気配が見られた。
 頬杖を付き、持てあます時間を象徴するようにユーリは自分に一番近い一輪挿しの花を弄る。軽く押して、反動で返ってくるのを待ってまた押して。今度は戻ってくる前に花弁を摘んで引っ張る。
 黄色のはなびらが軋み、茎が無理な負荷を訴える。八重に重なり合った花弁は皺だらけに顔を顰めて、文句を言っているようにユーリの目に映った。
 ぱっと手を放すと不自然に曲がっていた花茎が伸び上がり、向こう側へ反動で跳ね返ってしばらく不器用なバネのように揺れた。だが少しの時間が経てば、その動きも安らぐ。
 頬杖をついて見上げた先では、まだまだ読み終わりそうにない新聞が広がったまま。
 第一面と、その反対側のテレビ欄しか見えない。大きく黒字に白抜きの文字で書かれた見だしは、昨今調和を乱している某国と某国との当主対談がようやく実現したと伝えている。
 愚か者の人間は、己の力量に無いものを求めて争い無駄な血を流す。
 反対側の腕で頬杖を付き直したユーリは、この距離でもかろうじて読みとれる第一面の内容をぼんやりと眺めながら読み出した。時折混じる画数の多い文字は読み飛ばすが、それでも大体の記事内容は把握できる。
 スマイルが動くたびに紙面が揺れて読みやすい箇所と読みにくい箇所が影を入れ替える。波のように揺れる薄い新聞紙に、眉間に皺を刻んでまでいつの間にか必死に読み解くことに真剣になっていたらしい。
 唐突に、遠くにあったはずの紙面が間近に迫ってぺたん、と平らなテーブルにちゃんと自分に向かって下向きになるように置かれた。
「?」
 驚いて顔を上げると、椅子からいつの間にか立ち上がっていたスマイルが、完全に冷えてしまっているコーヒーを飲み干しながら新聞の角のずれを直していた。
 思わずマジマジと見上げてしまい、見つめられているスマイルの方が怪訝な顔をしてしまう。
「読むんでしょう?」
 とんとん、と指で新聞紙の上からテーブルを叩く。
「あ? ああ……」
 何を言われたのか、咄嗟に理解できず叩かれた新聞の第一面を見下ろしてユーリは、ようやく自分がどれ程熱心に新聞に意識を向けていたのかを思い出した。
「お前は」
「読みたいところは全部読んだしねぇ」
 記憶に残る最後で、スマイルがまだ新聞の真ん中辺りを読んでいた事を思い出し、再び顔を上げたユーリに、スマイルは小さく肩を竦めた。
「それに、ユーリにそんなに熱い視線を送られたら、譲らなきゃ恐いしねぇ」
 こっちを、どうやら言いたかったらしい。呆れたような、そんな口調でやれやれと首を振るスマイルにぴきっ、とユーリの中で何かがひび割れる音が響いた。
「それほど私は熱心だったか」
「そりゃぁ、もう新聞にヤキモチ妬きそうになるくらいにねぇ」
 どこから気付いていたのか。最初からか、それともついさっきか。どちらにせよ、始末が悪く頭に来る。
 テーブル上に置いたままだった新聞を、握りしめて開いた手で掴みユーリはガタン、と席を立った。カップをソーサーに戻そうとしていたスマイルが、一瞬ぎょっとなって振り返る。
 その顔面に、ユーリは持ち上げた新聞紙を押しつけた。
「むがぁ!?」
 息が詰まり、視界が真っ暗に染められたスマイルがカップの取っ手を滑らせて、がちゃん、と不協和音がカップとソーサーの間で響き渡った。
 前方から加えられる力に、倒れそうになるのを足を堪えて踏ん張るスマイルだが、その手応えを感じ取ったユーリが更に新聞を押しつける手に力を込めるためにどうしても呼吸が苦しくなる。
 ユーリが彼を解放したのは、それから時計の秒針がほぼ三回転を終える頃だった。
「ぶはぁっ……!」
 顔から落ちていく新聞を見下ろしながら、肺の中に溜まっていた息を一気に吐き出し新しく空気を吸い込む。ばさばさっ、と連続して新聞紙はバラバラに彼の足下に積み上がっていった。
「酷いや、ユーリ」
 こういう事をするのは自分の役目のはずなのに、と的の外れた文句を口に出すスマイルだったが、ふと、目の前にいる彼が懸命に笑いを堪えて肩を小刻みに振るわせていることに気付いて首を傾げた。
「あのぉ、ユーリ……?」
 もしもし、どうしたんですか。
 一体何を笑っているのか教えて貰いたくて手を伸ばしたスマイル。そこへナイスタイミングで食器の回収に回ってきたアッシュがテラスへ通じる窓を開けて入ってきた。
「スマイル、そろそろ片付けたいんッスけどー……あ、ユーリも居たんスか」
 テーブルの脇で向き合っているふたりに気づき、歩み寄ってきたアッシュだったがスマイルの顔を間近で見てぴたりと足を止めた。
「す、スマイル……その顔」
 ぴくぴくと頬の筋肉を引きつらせ、アッシュは徐に彼の顔を指さした。笑いたいのを無理に堪えているように見えた。
「顔?」
 自分の顔は自分では見えない、それは世の中の常識である。そしてこの場に鏡などあるはずがない。
 仕方がないと、まだ笑いを堪えているユーリと自分で言うのは憚られるらしいアッシュを横目に、スマイルは部屋とテラスを区切っている窓まで行ってそこに映る自分の顔を覗き込んだ。
 反射光の所為もあってかなり見づらい。だが、浮かび上がった半透明の己の姿に二秒後、スマイルはばんっ! とガラス窓に手を叩きつけて悲鳴を上げていた。
「なにコレー!!?」
 途端、背後からはどっと笑い声があがる。
 窓に映し出されたスマイルの顔には、包帯にもそうでない箇所にもくっきりと、反転された新聞の文字が写っていた。
「酷いや、ユーリ!」
 これはまず間違いなく、先程ユーリに新聞を押しつけられた時に写ったものだ。
 勢いよく振り返ってユーリを非難するスマイルだったが、新聞を転写された顔で叫ばれてもまったく迫力に欠ける。むしろ余計に滑稽で益々笑いを買っただけだった。
 こうなったら……と、スマイルの心に逆襲の火が灯される。
「ユーリ!」
 だだだっ、と駆け出して咄嗟に対応できないでいるユーリにがばっと抱きつく。そのまま両腕で抱き込めて頬ずり。勿論、新聞のインクがまだ浮いて乾燥しきっていない方で。
「やめろ、やめないかスマイル!」
 自分よりも体格的に勝っているスマイルに抱きしめられ、後ろによろけたユーリの背中がテーブルにぶつかる。
「あ、ああ暴れないで欲しいッス! テーブルが倒れるッス!」
 両者から制止の声が入るが、そんな事で止まるスマイルではない。ぐりぐりと頬に残るインクをユーリに擦りつけながら、役得とばかりに強く抱きしめる。一方のユーリは逃げようと後ろへ下がって益々テーブルを揺らし。
 アッシュの心配そのままに、テーブルが音を立ててひっくり返った。凭れ掛かるように上半身を乗せていたユーリごと。
 コーヒーカップも、花瓶もなにもかもを巻き込んでふたりが床の上に転がる。割れた花瓶の水を被って、スマイルが弾かれたように床に仰向けになって大笑いを始めた。彼に抱えられる形で衝撃からなんとか逃れたユーリも、前髪に少しミルクを被っていた。
「ばかもの」
 ごつん、とお仕置きだと笑い止まないスマイルの頭を一発殴るユーリ。
 その行動が一層スマイルの笑いをけたたましいものにさせる事に、いい加減気付いても良いのだが。
 テーブルと一緒に倒れかけたパラソルを支えながら、アッシュはそっと溜息をついた。