独りで居るよりは、誰かと触れあってその温もりに安心していたい。
けれどその環境に慣れてしまったとき、失った時の喪失感はとても大きくて自分は酷く脆く砕けてしまいそうになる。
だから、求めないことにした。
温もりを手にしさえしなければ、自分は何処までも強くあることが出来ると信じていた。そうやって生きてきたし、これからもその意志を貫くつもりで居た。
表向きは良い奴を演じていれば楽。少しだけ変な奴を装えば、周囲は道化を喜んで受け入れてくれるしあっさりと馴染んでくれる。道化の仮面の顔を鵜呑みに信じ込んでその内側まで入り込んでくることがない。
だから、楽でいい。
いつの間にかどれが本当の自分であったのかも忘れるくらい、そうやって自分を飾り立てる時間が長くありすぎて、初めから自分はこうだったのだと自分でも思うようになった頃になって。
……いいや、やめておこう。
考えても栓のないことだし、答えなんて出てくるものじゃない。少し悩んで出てくるような答えが正しかったのなら、きっと今自分はこうしてこの場所に存在することもなかっただろうから。
首を振って腕を伸ばし、反動を利用して身体を起こす。寝転がっていた為に地面に接していた背中から、千切れた細い草が幾本か揺れて落ちていった。
はらはら、はらはらと。
そして若草色一面に彩られた大地の中に、千切れた草は埋もれて姿を隠し見えなくなる。それはやがて腐り養分となるべく土に還るのだろう……長い年月をかけて。
掌を埋めている草の間から腕を引いて、地面の微かな湿り気を伝えている手袋を外す。けれど本来人であるものならばその下にあるはずのものが、彼の瞳に映し出される事はない。
其処に確かにあるけれど、目に映らない不確かなもの。
少しだけ力を入れて、指先を曲げ握り開きを繰り返してみる。けれど矢張り、周辺に伝わる空気の動きは微々たるものでしかなくそこにあるはずのものを確かに存在すると証明するだけの根拠を、与えてくれない。
触れることは出来るのに、あるはずなのに、無いもの。
掌を頭上に掲げて、傾きかけている太陽に透かしてみる。けれど陽光を遮る事もなくひかりはそのまま彼の瞳へとこぼれ落ちてきて、彼は自然と目を細めた。そのまま目を閉じる。
持ち上げていた腕を下ろして脇に落とすと、長く深い息を吐き出した。閉じた瞼の向こうで風がサラサラと流れていくのが分かる。落とした腕の先は草の中に再び隠され、風に薙いだ草の葉に擽られていた。
草木は確かに、彼の見えない手のひらを感じてくれているのだと思えて、安心した。
息を吐ききって、吸い込む。微かに熱を持っていた喉の奥が冷やされていく感じが胸いっぱいに広がっていく。緑の匂いが混じった風は心地よく気持ちが良い。それに、此処は人が滅多に訪れないから静かで自然も豊かだ。
偶に、此処に来る。特別何をするわけでもなく、ただぼんやりと座ったり寝ころんだりして空や、大地や、草花を眺めて時間を潰す。流れる雲を数え、どんな形に似ているか考えたりして時には笑みを浮かべあるいは、風の中で佇み一時間も二時間も同じ姿勢で目を閉じ続ける。
なにかをするわけではない、ただ自分というものを感じていたいから此処に立っている。
けれど酷く曖昧で朧気な自己というものは、案外簡単に足下を危うくさせて崩れていく。時折真剣に悩んでしまうのは、ひょっとしたら自分というものは“居る”と自分が感じているだけで実際はもう何処にも居ない存在なのではないか、という事。
道化を演じる自分が長すぎて、本当に自分らしい自分がいかなる姿形を持ってこの世に存在していたのかを忘れてしまったように。
自己という確固たる何かは空気の中へ風と一緒に溶けだしてしまったのではないか。
そんな疑念が頭を過ぎり離れない。
自分が何処でどのようにして生まれたのか、その記憶すらぼんやりと薄れて今となってははっきり思い出せない。最初から存在しなかったのでは? そう考えるとでは今こうやって考えているこの自分という意志はなんであるのかが見えない。
迷いを吹っ切るように、瞼を開いた。
眩しすぎる太陽の光は、けれど日中の痛いばかりの日差しよりは幾らも和らいでいる感じがする。
夕暮れが近いのだろう、西に大きく傾き始めている太陽は地平線上を漂っていつもより大きく見えた。柔らかな朱色を棚引かせて薄く伸び広がる雲を染めている、そのコントラストは毎日眺めていても飽くことのない自然が生み出した天然の絵画だ。
そっと溜息をつき、首を振る。まだ頭の上に残っていたのだろう、草の葉が一枚ひらひらと落ちてきた。
それを着地寸前で手の平に受け止め、指先で細くなっている部分を抓み持ちくるくると回す。表と裏、微妙に色や手触りの異なる葉をじっと目を細めて見下ろしてもう一度溜息をつきかけたとき、何処かで誰かの泣いているような声が聞こえた。
気のせいだろうか、人の気配は相変わらず微塵とも感じられない。
座ったまま見える範囲内で視線を巡らせてみるが、声の主は矢張り見当たらない。風の音だろうと自分で納得させて、持ち上げたもう片方の手で首の後ろを引っ掻くように撫でる。だがまた、声は聞こえた。
今度こそ、はっきりと。
はっとなって、腰を軽く浮かせて後ろを振り返る。
どきり、と胸が高鳴り同時に針で刺されたときのように痛んだ。
子供……それも、かなり幼い。泣いているのだろう、両手で顔を覆って俯きながらゆっくりとおぼつかない足取りで歩いている。紺碧の髪がその度に左右に軽く揺れた。
けれどなによりも特徴的なのが、所々擦り切れている衣服から覗く手足や頸部、あらゆる箇所を覆い尽くすように巻かれた包帯であろう。全身大火傷、という様子ではない。そのような痛々しさは幼子の中から感じ取ることは出来ない。
ただ何処までも深く底のない哀しみだけが伝わってくる。
アレハダレ
ちりり、と頭の奧で鈴が鳴った。
幼子は泣きやまない、声も立てず息を殺して涙を流さぬよう懸命に堪えながら、歩き続けている。
手を伸ばし、いつもの戯けた調子で幼子を慰め笑わせようという精神が麻痺したかのようにまったく反応を返さない。ぴくりともその場から動くことも出来ず、息を呑み見守る事しか。
幼子は明らかに迷子だった。けれど彼は誰かを捜している素振りもなく、また彼を捜しに来る存在もない。
ひとり――――独り。
還る場所もなく、また行き着くべき場所も持たずに彷徨い続けている。当てもなければ頼るところもない。それでも一箇所に留まるよりはまだマシと、歩き続けて立ち止まり休むことを忘れた、子供。
手を差し伸べられることもなく。
誰かに支えてもらう事もなく。
優しさに触れて、裏切られる事を覚えて誰も信じなくなっていく子供。
そう、子供だ。
「ぁ……」
自己存在を否定し、なにもかもを拒絶して自分を生み出した世界を憎んだ。
薄れていく、自分という個。今にも風に飛ばされて消えてしまいそうなくらいに確実性に欠ける自分。曖昧で境界線を持たない、だからこそ自分が、今何処にいるのか本当に此処にいるのかを自分で疑ってしまう。
幼子は泣きやまない。涙を流さず嗚咽も漏らさず、ただ心で泣いている。だのに歩くのを止めようとしたい姿に胸が痛んだ。
止めてやりたい、出来るのならば。もう良いんだと言ってやりたい、けれど出来ない。
あれが誰であるか、本当は知っているから、嫌というくらいに分かってしまえるから。
呆然と幼子の背中を見送る。結局声を発することも出来なかった意気地なしの自分が哀しくて、半開きになっていた唇を噛みしめようとした。
のだ、けれど……。
唐突に世界を切り裂くような強烈なクラクションとそして。
目の前を星が飛び散るような後方からのこれもまた強烈な一打が同時に彼の世界を打ち壊していった。
「って!!」
数度瞬きを繰り返し、三秒ほどかけて今自分の身に何が起こったのかを順を追って理解しようとした彼の後頭部にまた、容赦ない鉄槌が下された。クラクションの音も、最初の時よりはインパクトが薄れているもののまだ喧しく鳴り響いている。
「目が覚めたか、スマイル」
ぽかーんと情けなく口を開いたまま、彼は自分に二発も放り込んだ相手を見上げた。
中腰に近い状態で後ろを振り返るために腰を捻っていた彼は、今姿勢を正して正面を向いていた。その手前には黒いコートで身を包み、偉そうに腰に手を当ててふんぞり返るという、一見尊大な態度の美貌の青年が立っている。
風になびく銀糸がキラキラと夕日を受けて輝いていた。
強い意志を秘めた紅玉の瞳が、苛立たしげに彼を睨む。まだ響いているクラクションの発生源である、現在地から少し離れた細い車道に停車中の車に「喧しい!」と怒鳴る姿もどこか優雅だ。
「この私に、貴様如きを捜させるとは良い度胸をしている」
無理に笑顔を作ろうとしているのだろうがその努力だけは認めるけれど、という米神に青筋を何本も立てた顔で青年は彼に言う。
「今日のスケジュールを、よもや忘れていたとは言うまいな」
高慢で威圧的な物言い、その発言内容に「あれ?」と首を傾げたのは他でもない。
「スマイル?」
仮面のような笑顔を浮かべている青年がとても怒っているのだと、スマイルは容易に察することが出来た。
「え、あ、その……ねぇ?」
両手を合わせて指を互い違いに忙しなく弄りながら、視線を泳がせてスマイルは無意識のうちに座ったまま後退しようとしていた。しかし、座っているものと立っているものとのコンパスの差は歴然としている。
「忘れていたのだな?」
確認の言葉を口に出すと同時に、青年の拳が問答無用でスマイルの脳天を砕いた。
「まだ何も言ってないってば、ユーリ!」
頭を押さえ、非難の声を上げるスマイルだったがどのみち、返事をした瞬間に殴られていただろうから痛みが少し早く訪れただけである。
「今日はプロモーションの撮影があるからスタジオに集合。私は確かに伝えて置いたはずだが?」
ぺしぺし、と自分の手を叩き合わせているユーリの声に棘がある。目が据わっている、完全に頭に血が上っている。
「そうだったっけねぇ……?」
惚けてみせるが、今のひとことでしっかりと思い出していた。確かに、そんな事を言われた記憶がある、昨日の夕食の後だったはずだ。それに、撮影の予定はもうずっと前から決まっていて、昨日伝えられたのは集合場所と時間だけ。日取りは二ヶ月近く前から決定していた。
だから、これは単純に自分のミス。
誤魔化し笑いを浮かべてみても、ユーリには通用しない。相変わらずの引きつった笑顔のまま、もう一発殴る体勢を整えている彼にスマイルの背中には冷たい汗が流れていった。
逃げた方が、良いかも知れない。このまま此処にいては確実に殺されるような気がする。だけど逃げても殺されそうな予感がしてどうも動くことが出来ない。
ああ、こんなところで人生終わりを迎えるのかと信じても居ない神に祈りを捧げかけたところで、アッシュの騒々しい声が響き渡った。あの、クラクションのように。
「ユーリ、スマイル! もう遅刻どころの時間じゃ無いッスよ!」
腕時計を指さしながら駆けてくる彼に、ユーリがはっとして自分の時計を見る。スマイルは手元にそれがなかったので、替わりに成るものとして沈みかけの太陽を見た。
記憶にある限り、撮影開始の時刻は正午前だったはず。
……確かに、既に遅刻云々の時間ではない。
「しまった、行くぞ!」
時計で現在時刻を確認し、一瞬途方に暮れかけていたユーリだったがものの一秒も経たない間に我を取り戻す。そして自分たちを呼びに来たアッシュと、そしてすっかり怒っていたことも忘れてスマイルの襟首を掴むと信じられない剛碗ぶりをはっきりて駆け出した。
「いでっ、いててててっ!」
引きずられて強かと背中を打ちつけるスマイルと、なんとか自力で走りながら引きずられることだけは回避したアッシュ。同情に似た目が地面で跳ねているスマイルに向けられた。
プロ意識だけは非常に高尚なユーリは遅刻を嫌う。時間には厳しいし、やるからには常に全力投球。その彼が、仕事を放り出して。
「急げ、アッシュ!」
此処まで乗ってきたアッシュ運転の乗用車、後部座席のドアを開けてスマイルを車内に放り込むと彼は反対側の扉から車に乗り込む。べしゃっ、と投げ出された状態でシートに顔を埋めていたスマイルを気の毒そうにバックミラーで眺めたアッシュは、ユーリに扉を閉めてくれるよう頼みエンジンをかける。
ドゴゴ、と低い音を立てて車体が揺れエンジンが起動を始める頃ようやく、立ち直ったスマイルは痛みを堪えながら起きあがりシートに座った。
「飛ばすッスよ~!」
シートベルトは締めましょう。
ギアを入れアクセルを全開にしたアッシュが叫び、瞬間、黒塗りの乗用車は猛スピードで走り出した。
見る間にあの草原は遠ざかり、間もなく太陽も地平に消えて闇が訪れる。表通りに合流して、テールランプが穏やかに流れる中に三人を乗せた車は目的地を目指す。
決して乗り心地は良いとは言えない規定速度オーバーの運転に肝を冷やしながら、スマイルはふと、隣に座るユーリを見た。
どうして、彼は仕事を蹴ってまで自分を捜しに来てくれたのか。清麗な彼の横顔を眺めながらの問いかけに、運転中のアッシュが少しだけ速度を緩めて小さく笑ったようだった。
「だって、三人揃わないと意味が無いッスから」
今回の仕事は単独のものではなく、deuilとして受けた仕事だった。だから、三人全員が揃っていないと仕事にならないのだと彼は言う。
ユーリは、前をじっと見据えたままだ。アッシュの言葉に頷くでも否定するでもなく、聞いているのかいないのかさえその表情から読みとることは難しかった。
けれど、とスマイルは思う。
そっと伸ばした手を、シートの上に投げ出されたユーリの手に重ねた。手袋を外し、姿を失っている手の平で包み込むと一瞬だけ、ユーリの方が僅かに揺れ動いた。けれど彼の瞳は揺るがず、スマイルに向けられる事もない。
「ありがとう」
探しに来てくれて。
顔を向き合わせることなく呟いて、握り込む手に力を込める。諦めたように、ユーリは長い息を吐き出した。そして背中をシートに凭れ掛けさせる。
「仕方がないだろう、お前が居ないと仕事が始められない」
「仕方なく?」
「そう、仕方なく」
「仕方無いッスよね~、スマイルだから」
ハンドルを軽やかに操作しながら、アッシュも調子を合わせて言う。
「ぼくだから?」
不思議そうに自分を指さしてスマイルは首を傾げた。横目でユーリを見ると、彼もアッシュの言葉に同意しているのか何度か浅くだが頷いている。
「そっかぁ」
ぼくだから仕方がない、から。
理由も特別なく、ただ一緒にいることがもう当たり前になってしまっている。だから、誰かが居ないと落ち着かなくて、仕方がないから探しに行く。それも、当たり前になってしまっていることのひとつ。
「本当、仕方ないよねぇ」
「お前が言うな」
コン、と横からユーリの手が小突いてきた。
痛くはなかったけれど、かわりに心が温かくなった。
手を、差し伸べられた気がした。この暖かさを心地よく思った。失いたくないと思った、信じたいと願った。
久しぶりに道化師でない自分を思い出した気がして、それが可笑しくて、また笑った。