永遠の行方

 “大丈夫だよ”という言葉がこれほどまでに空々しいものだと、思い知らされた気分だった。
 そういえば、僅か数年しか経過していない昔にも似たような事件が起こっている。その現場には自分も――今回同様に――立ち会っていたのに、どうして今の今まで思い出さなかったのか不思議に思えた。
 同時に、彼にそんな言葉をかけられる人間が居ることも奇異に思えてならなかった。
「ほら、あの子だったら絶対大丈夫だって」
 また、だ。
 その言葉が決して彼の心を軽くしないものだと、学習しない人間がどうしてこの場所にこんなに多いのだろうか。出来ることなら今すぐ、奴らをこの場から放逐してしまいたい。けれど、一応あんな学のない連中でも、不本意ながら同じ宿星の下集った仲間であることは否定しがたく、自然と汗ばむ手をきつく握りしめる事しかできない。
 いや、違うか。
 ふっと頭の端を掠め過ぎていった考えに一瞬目を丸くし、直後自嘲の笑みが自然と零れてきてしまって、無意識のうちにそれを隠すため左手が持ち上がっていた。
 彼にかける言葉が見付からず、ただ何も語らず此処に立っていることしかできていない自分も奴らと同罪だ。それともあの場に居合わせながら何も出来ず、呆然と立ちつくしていた自分は、ひょっとしたらもっと罪が重いのかも知れない。
「だからさ、セレン……その、元気出して」
 戸惑い、同情、憐憫……そんな感情が入り交じった声が耳の奧を叩いていく。けれど放心したように一点だけを見据えて動かない彼には、その声さえ届いていないのだろう。
 結局過去の事件でも、こうやって自分は何も出来ず何も言えず、遠くから見守るだけだったような気がする。否、実際に何も出来やしなかったのだ。
 悔しいとか、そういう感情ではない。哀しい、とも少し違っている。解らないのだ、本当に。かける言葉が見付からない、それだけではなくて。この先彼を支えていく自信が無いとか、彼自身が今までと同様に真っ直ぐ前を見て立っていられるのかどうかへの、不安でもなく。
 顔を上げて、大勢の仲間に囲まれている彼の背中を見つめる。
 もとから小柄で、人並みに隠れてしまいがちだった彼の姿が今はより一層、小さくなって見えた。とても心細く、寂しげで哀しげで……けれど、きっと、今の彼の抱えている気持ちをそんな陳腐な言葉で表現して良いはずがない。
 やがて医務室のドアが低い軋み音を立てて内側から開かれ、周囲がどよめき立つ。けれど彼らの僅かばかりの期待をうち砕くように横に静かに振られたホウアンの首に、その場にいた全員が顔面を蒼白にさせた。
「嘘……だろ?」
 誰かが掠れた声で呟いた。それは、この場所に居合わせる全員の気持ちを代弁していたように思う。
「いいえ、残念ですが……」
 言いにくそうに、とても言いにくそうに俯いたままホウアンは言葉を返した。同時に、誰かが嗚咽を漏らし、それに呼応するようにあちこちから涙を懸命に堪える声が聞こえ始めた。
 その中心に居る、医務室の扉の真正面に立っていた赤い衣の少年は、逆に自失呆然として言葉もなく立っていた。
 立っているだけ、だった。
「セレン?」
 様子がおかしい事に気付いた少女が彼の名前を呼ぶ。だが反応は無い。もう一度呼ぶ、矢張り結果は同じ。
 ――同じだ……
 記憶がまざまざと甦り、重なり合う。
 本当に哀しいとき、人は涙を流すことさえ忘れてしまうのだという。あの時の彼がそうだったように。
 そして今目の前に居る彼も、同じになってしまうのだろうか。
 感情を押し殺し、自分を消し、ただ前ばかりを見て後ろを振り返り時には立ち止まって休むことさえ忘れてしまった、あの時代を生きた人のように。
「セレン」
 出そうとした声は、呑み込まれて喉の奥に萎んで消えていく。伸ばしかけた手は反対側の腕で押さえ込んだ。
 言えるのか、言えるはずがない。
 哀しいことなど経験したことがない自分に。大切な人を失うどころか、その大事な人さえ持ったことがない自分に。彼が沈んでいるであろう闇から引き上げられるだけの言葉も、力も持ち合わせていない自分に。
「セレン、しっかりしなよ、セレン!」
 返事のない彼の肩を揺さぶり、少女は叫ぶ事を止めない。事態の異常さに気付いた他の仲間達も泣くのを止めて、彼を見守る。
 泣けない事ほど辛いことはない。何時だったかあの彼が言った。
「セレンを部屋へ!」
 確かにあの彼が泣いている姿は一度も見たことがなかった。
 親友が死んだとき、父親が死んだとき、母親代わりだった男が死んだときでさえ――彼は涙を人前では流さなかった。
 でも泣いていたのだろう、何処かで。一人きりになれる時間を見つけて、泣いていたのではないか? 
 それとも彼の言葉通り、彼は泣かなかったのか? 一度も、一滴たりとも涙を零しはしなかったのか?
 リーダーであるがための、それが宿命?
 莫迦らしい、と握りしめた手の皮が裂けて血が流れるのにも気付かずに力を込め続ける。
 泣けない彼の代わりに、赤い雫が床を濡らした。

「ルック」 
声がして、少し遅れて階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
「セレンだったら、上に居るよ」
 屋上へ出る階段の踊り場に立っていたルックは、上から降りてくる緑のバンダナを頭に締めた青年を渋い顔で見上げる。薄明かりの中で彼の表情を目聡く把握した青年は、カラカラと笑い声を上げて踊り場までの数段を一気に駆け下りてきた。
「君でもそんな顔するんだ」
 随分と長いこと一緒だっただし、肩を並べて戦ったこともあるからある程度は君のことを理解していたつもりだったけれど、と余計な言葉を付け足して青年はルックの肩を不躾に叩いた。
 最初に見かけたときのこの青年は、今よりももっと小さくて頼り気もなくて無口だった。けれど最後に見かけてからのこの三年間で随分と喋るようになった気がする。表情も豊かになっているし。
「ん?」
 仏頂面で見返しているルックに気付き、首を傾げた彼はそれでも彼の肩に置いた手を離さずにいる。
「何をしていたんだ?」
「世間話をしにね」
 言葉の足りないルックの問いかけに、即座に彼が何を聞きたいのか理解した青年はふっと表情を緩めて言う。その顔がいかにも嘘臭く、益々嫌そうに眉を寄せたルックを彼はまた笑った。
「随分と変わったな」
「昔に戻ったと言って欲しいね」
 少なくとも君に出会うような事件が起こる以前は、自分は今のように良く喋るし、笑うし、表情もコロコロ変わって我が侭三昧の生活を送っていた。事も無げに言い切った青年に溜息をつくと、まだ肩の上にある自分のものではない体温を押しのけ、ルックは片手で顔を覆う。
「ルックは変わってないみたいだ」
「ラスと違って、僕は昔から今みたいだったんだ」
 趣旨返しのつもりで言い、緩く首を振る。
「あ、成る程ね」
 ぽん、と手を打って納得顔で頷いた青年に一瞬むっとなったが、ルックは彼に怒っても意味がないと思い直して感情を押しとどめる。その一連の感情の動きは一秒にも満たない間に行われたのだが、彼の前に立つ青年には読みとられてしまったらしい。
「言いたいことがあるときは言った方が良いよ」
 ルックの心を見透かした青年のひとことに、軽く肩を揺らしても彼は答えない。答えるべき言葉が見当たらなかったからだ。
「ルックの、悪い癖だから」
 どうでも良いことには多弁なのに、肝心なとき君は口を開こうとしない。言えるはずの言葉や言いたいはずの言葉さえ呑み込んで、消し去ってしまう。そうやって君は、自分が大切だと思えることから絶えず目を逸らし、それをどうでも良いこととして納得させて消化させて来た。
「違うかい?」
 最後は、問いかけ。けれどそれまでの青年が口にした内容は確信を持って放たれた残酷なまでの現実を表沙汰にする、彼の心を抉る言葉だった。
 そういえば、彼はおおよそ優しいとはかけ離れた性格をしていたな、と今頃思い出してルックは舌打ちした。
 彼は確かに優しい、だがそれは無慈悲なまでに平等な優しさだった。
 慰めを与えない、慈悲すらも。
 彼が与えるのは強さだ、自分自身で立ち上がるだけの、己を奮い立たせるだけの、本来人が持つ勇気や、希望と言ったものを外側から擽ってやる、そういったものが彼の持つ優しさの本質なのだ。
 彼は選ばせる、常に人に、自信の運命というものを。
 だから彼は強かった、誰よりも強くあった。
「狡猾さは、相変わらず」
「御陰様で」
 皮肉で言ったつもりだったのが、にこりと微笑み返されてしまって二の句が継げない。
「……それで、その狡猾極まりないラスはセスに何を吹き込んできた?」
「酷いな……まるで僕が悪者みたいじゃないか」
「事実だろう?」
 卑屈な目を向ければ、青年はやれやれと肩を竦めてみせる。毒舌なのは自分の持ち味と理解しているルックだけれど、どうやら三年間各地を放浪してきたこの青年はそれを上回る智慧を手に入れたらしい。確かに、口八丁は世の中を生きていくための重要な手段である。しかしこんな場面で使われるのはどうも、悔しい気がしてならない。
「言っただろ? ただの世間話」
 それだけだよ、本当に。
 カラカラと本当に良く笑う。砕けた表情に訝しみの顔を向けルックは一段、上へ続く階段を登った。
「僕は」
 いい加減無駄な会話を終わらせてやろうという意識が見え見えのルックの背中に、ラスティスは声をかけ続ける。
「君が変わっていないとは思わない」
 時間は流れて、その間に生きた人は良くも悪くも成長する。もしくは経験を積み重ねている。時間の経過は決して無駄ではない、譬え一瞬、一日、一年の時が無意味のようにただ過ぎるだけのように感じていたとしても、十年後、二十年後にその日を振り返ったとき、必ずそこには無駄ではなかったと思える一秒が存在しているはずなのだ。
 自分では気付かないとても些細な事かも知れない。どうでも良いようにその時は思える刹那かも知れない。それでも、確実に人は成長する、変わっていく。それが、ヒトという生き物の宿業なのだ。
「ルックは変わったよ、充分」
 君は気付いていない……気付きたくないと思っているのだろうけれど。そう付け足してラスティスもまた、下へ続く暗い階段を下り始める。
「変わった……僕が?」
「うん」
 振り返った先で、ラスティスが背中を向けたまま頷く。何処が、と聞きそうになったルックは自分が思いのほか動揺していることに気付いて慌てて言葉を呑み込んだが、空気は伝わってしまい、またしてもラスティスの肩が揺れて笑みが聞こえてきた。
「そうやって……直ぐに顔に出るところとか」
 優しい目つきが出来るようになったとか、人の話をちゃんと聞くようになったとか、相手の事を考えられるようになったとか、そう言うところが。
「生意気なのは変わってないけどね」 
 くるり、と体の向きを変えて不意打ちでにっこり微笑んできたラスティスに思わず赤面してしまい、彼の言葉が案外図星であることに実は気付いてしまっていたルックはまだ傷が塞がっていない手を握りしめると騒音妨害で訴えられそうな声で怒鳴っていた。
「どうせね!」
「あはははは!」
 実に愉しそうに、ラスティスは笑った。腹を抱え、あまつさえこぼれ落ちた涙を拭ってまでいる。その姿に憤慨して更に怒鳴ってやろうとしたルックだったが、石組みで案外音響効果が宜しい城内に自分の声が薄く反響しているのを聞いて、咄嗟に我に返った。
「…………っ」
 まさに一生の不覚、と言いたげなルックの顔を天井に近い明かり窓から差し込む月明かりだけで見据えたラスティスは、笑うのを止めるとふっと表情を真顔に戻した。
「良いと思うよ、それで」
 囁くように、ラスティスは告げる。
「ルック……君を変えたのが誰か解っているのなら……」
 それは呪文のようであり、過去の出来事を記した書物を読み上げているようであり、またこれからの未来を占う予言のようでもあった。
「君も、その誰かを変える力を持っているのだとは、考えられないだろうか?」
 問いかけのようであり、確信を込めた言葉だった。
「随分と性格が歪んだみたいだね、ラス」
「お互い様」
 皮肉は、またしても満面の笑みでかわされてしまった。
「世間話で良いんだよ」
 ひらり、と手を振ってラスティスは体の向きを戻すと階段を下りる動作を再開する。次第に闇に溶けていく背中を、階段の手すりに身を乗り出して覗き込んだルックは、その無意識とも言える己の動きに戸惑いながらも声を掛けることだけは止めなかった。
「ラスは、それで足りたのか!?」
 あの時、あの日。
 城中が哀悼の意味で沈黙した日。何も語らず、何も告げず、ただ背中越しに互いの存在を感じあいながらも一言も言葉を交わさなかった自分たち。
 そこに、居るだけの自分たち。ラスティスが言うような世間話さえ、あの空間にはあり得なかった。
「ルックは言っていたよね、『自分を信じろ』って」
 はっとなって、言われた言葉を頭の中で反芻しルックは目を見開く。
「世間話だったんだよ、本当に単なる。ちょっとした思い出話も兼ねた」
 ラスティスが何のことを言っているのかようやく思い出したルックは、微かに顔を赤らめて余計なことを、とまたしても笑い出した背中に愚痴をこぼした。
「良い言葉じゃないか」
 レックナートからルックへ、ルックからラスティスへ、そしてラスティスからセレンへ。受け継がれる言葉は、感情は、何もひとつきりではない。
『君の思いに従って集まってくる人が絶えない限り、君の選んだ道は正しい。少なくとも、君が諦めてやめてしまうまでは』
 約束の石版の前で告げられた、限りなく優しく限りなく心強い言葉は今もラスティスの胸に息づいている。それはきっと、ルックだって同じはずだ。
 自分を信じ、他人を信じ、思いやり、諦めず、前を見据えて、哀しみを乗り越えて、優しさという強さを手に入れた。
「信じてあげて」
 彼の強さを。そんな簡単に折れてしまうような心じゃないはずだから、でも今は横で黙って支えてくれる柱があった方が良い。あの時の、あの日の君のように。
「古い話を持ち出して……」
「良い思い出じゃないか」
「何処が」
 僕にとっては忘れたい思い出だよ、と呟いてルックは手すりから身体を離した。
 また笑い声がする、けれど次第に足音と共に遠ざかっていって何故かホッとしてしまった。
 そして思い出し、とまっていた足を持ち上げてラスティスとは逆にゆっくりと階段を登っていく。恐らく、この城の主でありラストエデン軍のリーダーである少年がいるだろう屋上へ続く暗い階段を。
 正直言えばあまり気が進まない。足は重いし、かける言葉だってなんどシミュレートしても思いつかない。こういう役目は自分に向いていないと解っていながら、なのに身体は自然とこの先を目指している。
 これも宿業なのか、と考えたら莫迦らしくて笑いたくなった。
 扉を開けて、外に出る。吹き込んできた風に顔を顰めて踊る髪を手で押さえつけ、後ろ手に扉を閉めれば月夜の下で赤い衣の背中が見えた。
 相変わらず、細くて小さくて頼りなさそうな印象しか与えない。
「セス」
 その背中に、思い切って声をかける。随分と時間がかかって、ようやく寂しげな表情を隠そうとして余計に寂しそうな顔をしている少年が振り返ってルックを見た、どこか遠慮がちに。
「…………」
 その顔を見てしまうと、出そうとして用意していた言葉が一気に萎んで何処かへ行ってしまった。思い出そうにももはや記憶の彼方へと飛んでいってしまったらしく一向に浮かんでこない。
 どうしようか、と我ながら格好悪いと思いつつ焦っていると向こうが不思議そうな顔をして小首を傾げるものだから、余計に何かを言おうと必死になっていた。だから、
「世間話でも……しよう」
 そんな言葉が口から飛び出してきて、ルックはその瞬間、ラスティスの笑い顔を思い出し非常に不愉快な気分にさせられてしまったのだった。
 対するセレンもまた、呆気にとられた顔をしていた。が、不意に吹き付けた風に星月夜を仰ぐと柔らかく微笑んだ。
「有り難う」
 そう、呟きながら。