導きの手

 おちた。

 ひろおうと、した。

 つかまった。

 つかまって、

 それから?

 それから……

 身体中が、痛い。その上に、重い。
 ずっしりと胸の辺りから腹にかけてのし掛かっている、まるで漬け物石のような重みに思い切り顔を顰め、彼は朧気にしかならない視界を懸命にクリアにしようと試みた。
 だが、出来ない。
 眼鏡を捜す、けれど腹の上の重しによって身体を起こすことが出来なかったので、やむを得ず手探りでサイドテーブルの上を適当に探ってみた。
 見付からない。
「…………」
 思わず舌打ちをしてしまって、その気配を感じ取ったのか腹の上に乗りかかりそれまで動かなかったものが、動いた。
「ぅ……」
 微かな呻き声と、もぞもぞと動く細いもの。腹の上、毛布一枚でしか隔てられていない場所をうごめいている。その動きに意志らしきものは見当たらず、ただ無造作に裏返り、また止まる。安定できる場所を見つけたのか、そのまままたぴたりと動かなくなってしまった。
 重いことに、変わりない。
 零したため息も、重かった。
 手探りを再開する。眠る前確かに此処に置いたはずだ、という曖昧な記憶を掘り返して必死になって手首を動かす。そうこうしているうちに、小指の先がとても細い金属の棒に触れた。
 見つけた、と思った。
 思わず力が入り、背が浮く。その弾みで、腹の上にのさばっている物体がまた動いた。
 気を取られた。しまった、と思ったときにはもう、思いがけない動きにより眼鏡は彼の指によって弾き飛ばされてしまっていた。
 サイドテーブルから落下する音が聞こえる。下はフローリング、もしかしたら衝撃でレンズが割れたかも知れない、と不安になったがその気配はなかった。
 ホッと、安堵の息が零れ落ちた。
 けれど。
「んぅぅ~~……」
 上がったり、下がったり。僅かな動きであったものの彼がベッドの上で動くものだから、その彼に乗りかかっていたものが嫌がり、また呻き声をあげた。そして、どうやら頭を振ったらしい。
「ふぁぁぁ……」
 大きなあくびが聞こえて、唐突に身体が軽くなった。一緒に、彼は眉間に刻んでいた皺を更に深くさせる。
 この声に覚えがある。いやそれ以前に、自分にこんな事をしてくる存在は目下たった独りしか想起できない。
 彼の、問題ばかり起こす手のかかる、弟弟子だ。
「マグナ」
「んぁ~……ぁ、ネス。おはよう」
 人の部屋で、人のベッドに寄りかかって眠って置いて「おはよう」の返事はないのではないか。そもそも、いつから此処にいたのか。
 窓の外を見てみる。カーテンが引かれているが、間から差し込んでくる光は眩しい。もう朝に相当する時間帯だろう、細かい時間までは分からないが少なくとも太陽は昇っているのだから。
 怪訝に思っていると、身体を起こしたマグナが左手を伸ばしてきた。益々奇妙に思う彼の前で、広げた掌を彼の額に押し当てた。前髪をすくい上げ、皮膚に密着させる。
「……うん、下がった」
「マグナ?」
「良かったー。ネスってば、全然言ってくれないんだもん」
 もしかして、気づいてなかった?
 彼は椅子の上に座り直し、ひとまず安心したらしく手を離して笑った。目を細め、口元に笑みを形作ると白い歯が零れて見えた。
 彼は首を傾げた。いったい何のことを彼は言っているのだろう。
 奇異に思っている表情を察したらしい。マグナが椅子の天板を両手で持ちながら脚を揺らし、リズムを取りながら言う。
「ネス、昨日熱あったから」
 やっぱり気づいてなかったんだ。
 素直な感想として追加して呟き、彼はまた左手を伸ばしてきた。
 触れてくる掌は、仄かな暖かさに包まれている。正直他人の体温を心地よいとは思わないので、彼は眉間の皺を解く事が出来ず、かろうじて視界におさめる事が出来る弟弟子のはにかんだ笑顔を見つめた。
 熱は下がったと、さっき自分で確認しておきながら何故また触れる必要があるのか。その意味を探りかねて、彼は吐息を零す。
 それは毛布の上を転がり、彼の座っている椅子の足許に落ちていった。
 落ちる。
 おちる。
 おちていく。
 何か忘れている気がして、彼は皺ばかりが刻まれている眉間に指を押し当てた。上半身を起こし、枕を背もたれにして座り直す。
「ネスってば、俺が熱出してるときは直ぐ分かるくせにさ」
 自分のことには結構無頓着だよな。
 椅子の上で揺れながらマグナが続けている。けれど一度バランスを崩し、ベッドの方へと倒れそうになった。
「うぉっ!」
 慌てて右足を前に出して突っぱね、倒れ掛けた椅子を無理矢理支えて立て直す。だが、その時に。
 ぱきっ、という乾いた音が小さく、響いた。
「あ……」
 しまった、というマグナの小声がそれに続く。
 嫌な予感が彼の背中を汗と一緒に下っていった。もとから薄暗かった視界が、輪を掛けて暗くなった気がしたのは恐らく錯覚ではないだろう。
 マグナが動く。サイドテーブル脇に突きだした己の右足を、怖々と持ち上げた。
 パラリ、パラパラ。
 薄く、細かく、砕かれたレンズの破片が彼の靴裏から剥がれ落ち、床のフローリングに散っていった。透明だったけれど白く濁ってしまった細かな欠片のほぼ中央部分に、真ん中から見事なまでにぐにゃりと曲がってしまった、眼鏡が落ちていた。
 片方のレンズは完全に砕け散り、もう片方もヒビが入ってしまっている。彼は細かい部分まで見えなかったのだが、惨状がどのようなものかは弟弟子の雰囲気で察知できた。
 どうやら、復帰不可能なくらいになっているらしい。
「……マグナ」
 怒りよりもむしろ、心底呆れかえった声で彼は弟弟子を呼んだ。びくぅっ! と大袈裟なまでにマグナが背を震わせるのが分かる。
 あえて表現するとしたら、怯えて耳をぺたんと伏せ、上目遣いに見上げてくる子犬か何かか。
 これは、子犬と呼ぶには少々憚られるサイズではあるが。
 おいでおいで、と手招きをしてその手を、掌を上にしてマグナの前に差し出す。彼は本当に申し訳ないと思っているのか、きゅぅ、と鳴きながら今さっき、自分で踏んだものを彼に手渡した。
 床の上に散らばっている、恐らく手では拾いきれないであろうガラスの破片もいるか、と間の抜けた事をその後に言われ、絶句するよりも笑いそうになったのを堪えて彼は首を振った。
 そんなものを手に入れたとしても、眼鏡が元に戻るわけではない。
 掌の上に載せられた、重量もあまり感じさせない眼鏡を見下ろす。左手でフレームを持ち上げると、落ちきらなかったガラスの破片が広げた掌を滑り落ちて毛布の上に散った。波だったベッドの上に紛れてしまうと、もう何処に行ったのかも分からない。あとで日向にでも干しておく必要がありそうだ。
「ネス……その、ゴメン」
「不可抗力だろう」
 狙ってやったわけではないことは分かっている、ずっと一緒に居たのだから。それに狙って出来るほど、この弟弟子は器用じゃない。
「そうかもしれない、けど」
 もごもごと口ごもる子供に目を向ける。はっきりとした輪郭を捕らえることが出来ないのに、瞳にはしっかりとそこに座っている彼が、今どんな顔をしているのかが見えていた。
 お前はなにか失敗をやらかしたときはいつもそんな顔をする。
 苦笑が漏れた。それが不思議だったのか、マグナは片眉を持ち上げて彼を見返す。
 眼鏡を壊されたのに、笑っている兄弟子を変なものを見る目で見つめる。失礼だな、とロクに見えてもいないはずなのに彼は空いている手でコツン、と彼を小突いた。
 眼鏡にはもう、重さを感じない。
 役目を終えて、命を飛ばしてしまったあとのような感じだった。
「しかし」
 口元に手を戻し、彼が独白する。
 もう怒っていないのだとなんとなく感じで理解したマグナが、スッと身体を寄せてくる。覗き込んでいるのは彼の手の上にある壊れた眼鏡で、艶やかな黒髪が今度ははっきりと彼の眼に見て取れた。
 揺れる、揺らめく。
 音もなく。
「弱ったな」
 本心からの呟きを零し、彼は人差し指の第二関節を唇に押し当てた。
「なにが」
「この眼鏡は予備なんだ」
 壊れた眼鏡は、使い慣れている眼鏡ではなかった。予備として、普段使用している眼鏡になにかがあったときにしか使うことのない眼鏡だった。
 そして普段の眼鏡は、留め具が緩んできていたので修理に出している最中。手元に戻ってくるのは早くても、明日だ。修理に出したのが昨日の事だったので。
 そういえば体調が怠いと思ったのは、眼鏡を替えてからだったような気がする。
 そう、確かに昨日は体調が優れなかった。だがそれもよくあることだったので、大して気にも留めずに放っておいたのだ。
 怠い体を休めるために、眠りに入ったのも早い時間だった事を今更ながら思い出す。
 マグナの言うとおり、発熱していたのかもしれない。いや、実際そうだったのだろう。ただ単に気にしなかっただけで。
「予備って……」
「今何時だ」
 時計さえも見えない。
 次ぎに紡ぐ言葉に迷っているマグナに、頭を押さえながら彼は尋ねた。質問を受けて、慌ててマグナが室内を見回して時計を捜し、時刻を確認する。
 まだ朝食の時間には少し早い。眼鏡の修理を急かそうにも、店が開くのはもっと遅い時間になってからだ。
 どうしよう、とマグナがぺたん、と椅子の上で小さくなり呟く。困るのは彼ではないのに、自分のことのように彼は落胆している。
「他に眼鏡は?」
「予備の予備は、ない」
 予備が壊れる事は想定していなかったと、彼ははっきりと通る声で断言した。取り付く島を与えない返事に、マグナがまた肩を落として耳を伏せる。いや、耳は違う、耳は。
「じゃあどうするのさ」
 どうにもならないな、とだけ答えて彼は壊れてしまった眼鏡をサイドテーブルに載せた。掌の肉に貼り付いたガラス片も払い落とすが、はたしてそれがすべてテーブルのボード上に落ちてくれたかどうかは分からなかった。
 マグナがはらはらした面もちで見守っているのが分かる。自分はいったいどうすればいいのだろうか、と考えている様子だ。
 彼は薄く笑った、自分以外には分からない笑みだ。
「マグナ」
 眼鏡を踏んだのは君だろう。
 改めて事実を突きつけると、しゅん、と彼は頭を垂れる。けれど彼は、その頭を優しく撫でてやった。
 もっとも、目測を誤って頭頂に触れるつもりが、若干手前にずれてしまって中指の先がマグナの耳殻に引っ掛かってしまったが。
 誤魔化すためにそのまま手を少しだけ引き戻し、耳の辺りを包み込むようにして掌を広げ、ゆっくりと癖のある髪を掻き回してやる。くすぐったさを覚えてマグナは肩を揺らすが、嫌がらずに受け止めている。
 そのうちに、撫でるばかりの手を自分から掴んで引っ張り、彼の細く長い指に浅く口付けた。
 彼は気づいていなかったが、そこには傷が出来ていた。ガラス片ではなく、眼鏡のフレームの、曲がって尖っていた部分に引っかけたらし。血は出ていなかったが、浅く切れた部分から肉が覗いていた。
「マグナ?」
「俺、なにすればいい?」
 殊勝な申し出に、今度こそ他人にも分かる笑みを彼は浮かべた。
 マグナに取られたままの手を返し、改めて握りしめる。少し驚いたように彼は掌を緊張させたが、拒まずに受け入れる。
 彼は身体を起こし、膝を折ってベッドの上にある体の向きを変えた。両足を揃え、ベッドから下ろす。
「ネス……」
「ひとまず、僕の着替えを取ってきてくれないか」
 部屋の配置は覚えている。何処に何があるのか、住み慣れた自分の城だ、目を閉じていても服を取り出す事に困る事はない。けれど今は敢えて、マグナに仕事を与えるためにそう告げる。
 それから。
「食堂までの道案内と、眼鏡店に行くのにも付き合ってもらうぞ」
 身に纏っている夜着から袖を抜き、彼は椅子から立ち上がって箪笥として使っている棚へ向かったマグナの背中に声をかけた。
 分かった、という声が返される。返事までの間は殆どなかった。
「俺に出来ることだったら、なんだって言ってよ」
 はい、これ。
 そう言ってマグナは彼に棚から引っ張り出してきたインナーを手渡す。外に着るものはいつも同じ、派閥の制服なのでそれはハンガーに引っかけられ、棚のすぐ脇に吊されていた。
「ぁ、と……俺、外で待ってるな」
 夜着から袖を抜きはしたものの、そのままの格好で止まっている彼に気づき、ばつが悪そうにマグナはベッドから後ろ足で離れていった。彼が他人に、たとえそれが弟弟子であるマグナであっても、着替えているところを見られたがらないことを思い出したからだ。
「あぁ、終わったら呼ぶよ」
 吐息と一緒に言葉を吐き出し、彼は頷いた。
 マグナの気配が遠ざかっていく。体温が休息に冷えていくようで、やがてパタン、と開かれた扉が閉じられる音が小さく響いた。
 部屋が、寒くなる。
 吐息が続く。彼はシャツを脱いだ。
 人には、理由を見られたくない傷があるからだ、と伝えてある。確かにこれは傷だ、人ではないものとしての、人の世界に紛れて暮らしているリスクという傷だ。
 知られたくないから、隠す。マグナは何も聞かない、言わない。触れないようにしているのは、彼自身が傷について触れようとしないから。
 腫れ物に触れるように、遠巻きにいつも見ているだけ。けれど近い将来、知らせなければならない時が来るのかも知れない。
 予知能力など無いが、そう思った。
 インナーを身につけ、ベッドから立ち上がる。ハンガーから制服を下ろし、手際よく身に纏っていく。それは毎朝自分でやっていることだから、目が見えなくても身体がどう動けば良いのかを覚えており、苦労はなかった。
 ただ、制服を外したハンガーを元の場所に引っかけようとして出来なかった事以外は。
「マグナ」
 ベルトを締め、マントを片手に彼は扉の向こうにいるはずの弟弟子を呼んだ。しかし、返事はなく扉が開かれる気配もない。
「マグナ?」
 もう一度、今度は強めに名前を呼んでみた。けれど結果は同じで、彼は首を傾げながら部屋を進んだ。
 慣れた部屋だ。扉まで一直線だと言うことも手伝い、転ぶこともなくドアノブの前に辿り着く。
 左腕に掛けたままのマントを持ち直し、落とさないように注意してから彼はノブを取り、回した。
 そのまま自分の方へと引き寄せる。
「うぅわ!?」
 絶叫がこだまして、咄嗟にドアノブから手を離した彼の目の前に巨大な物体が転がり落ちてきた。
 受け止めきれず、胸に抱え込む格好になって一緒に床に転がってしまう。強かに背を打ちつけてしまい、息が詰まった。
 肋骨に衝撃が響く。上に落ちてきたものは床に落下すると同時に横へと転がり、慌てて起きあがって彼に被さった。彼の両脇に手を置き、真上から顔を覗き込んでくる。
「ゴメン、ネス!」
 俺ボーっとしてたから! 
 なんとか取り繕うとしているのだろうが、気が動転しているらしくいまいち支離滅裂な言葉を羅列させるマグナが顔をどこまでも近づけ、怪我はないか、痛い場所はないか、と繰り返し何度も聞いてくる。怪我をしているのかを気に掛けているはずなのに、何故かマグナの掌は前髪に隠された彼の額に押し当てられたりもして、苦笑を誘った。
「マグナ」
 とりあえず、心配してくれるのは有り難いが先にそこを退いてくれ。
 手で追い払う動作をし、彼は身を起こした。身体を退き、彼の動きに合わせて起きあがるのを助けながらマグナも一緒に立ち上がる。
 引き上げるために握られた手は、冷たすぎることも熱すぎることもなく、暖かい。
 彼は、その手を離さなかった。
「ネス……?」
「食堂へ、連れて行ってくれるのだろう?」
 怪訝な顔をするマグナにささやかな笑みを向ける。途端現金なもので、それまで不安がって心配顔だったはずのマグナにパッと花が咲いた。
「うん、俺もうお腹ぺこぺこでさ~」
「それはいつものことだろう」
 社交辞令だよ、とマグナは突っぱねる。そしてぐいっ、と握った手に力を込めて歩き出してしまった。
 苦笑するネスティが続く。
「そんなに急がないでくれ」
 僕はちゃんと前が見えていないのだから。
 そう背中に声をかけると、だから俺が手を握ってるんだろ、と返される。
「役に立つのか?」
 さっきから失敗ばかりしているくせに。街に出るとき、迷子にならない保証はあるのか?
 矢継ぎ早に嫌味を繰り出す彼に、マグナも二の句が継げない。苛めすぎただろうか、と押し黙ってしまった弟弟子を伺っていると、やがてぽつりと、彼は言った。
「だって、今のネス、俺が居なくなったらどうするのさ……」
 俯き加減に、消え入りそうな声で。
 聞いた瞬間目を見開いてしまった彼は、けれど少ししてから口元を綻ばせた。それがあまりにもあからさまになってしまいそうだったので、慌てて空いている手で口元を隠す。
「そうだな。そう、だったな」
 この手を離されたら、きっと自分はとても困ってしまうだろう。だから離すことなく、しっかりと握りしめておかなければならない。
 この手が離されたとき、迷うのは、きっと自分だけではないだろうから。
 迷ったときも、ひとりでいるよりもふたりで居る方がずっと、安心できて心強いだろう。
「頼りにしている」
 囁いて、手を握り返す。
「分かったなら、それで良いんだよ」
 そっぽを向き、ぶっきらぼうに言い捨てて、マグナはまた少し強引に歩き出した。