Sigarette

 買ったばかりでまだ封も開けていない煙草を置き忘れたことに気付いた。
 しまったな、と心の中で自分の失態に舌打ちしながら今来たばかりの廊下を戻り始める。分厚いカーペットが敷かれた廊下に足音が響くことはなく、柔らかな毛並みが靴底を優しく撫でている。
 ただ自然ではない感触が足裏を伝ってくる感じがして、正直言うとあまり慣れなかった。
 これがいっそ、素足で通り過ぎるのであればまた別の感じがしたのだろうけれど。靴底が固いだけに、なんとなく不釣り合いすぎる気がしてならないのだ。もしくは、踏みしめる度にサクサクッ、とでも音がするくらいであったなら。
 歩いている心地がしないのだ、強いてこの感情を言葉で表現するとしたら。
 確実に足が地についている感覚が微妙に遠くて、けれど宙に浮いているようなふわふわとした不安定な感覚ともまた違っている。
 足を前に踏み出す度に身体が上下し、視界がその動きに合わせて揺れているのだから自分はちゃんと歩いている事を実感できるのに、視覚的表現だけではどうも足りない気がして来る。手応えがないカーペットの上は、叩いても反応を返さずすぐに元の形に戻ってしまう羽毛クッションに似ていた。
 それほど距離もなく、ひとつ目の部屋に入る。
 扉を開けて室内に足を踏み入れ、視線を巡らせて見回すがその範囲内では置き忘れた煙草を見つけることが出来なかった。
 何処に置き忘れたのだろう。
 買ったのは此処に来る前の道端に置かれていた自動販売機だ。五百円玉を入れて、いつも吸っている銘柄のボタンを押した。釣り銭とフィルムにくるまれた箱を取りだして、小銭はコートの右ポケットに、煙草は左のポケットに確かに分けてしまったはず。
 城に着いて、いつも時間を潰しているあの広いリビングへ行こうとしたけれどその途中でアッシュが城に居るとき使っている部屋を先に覗いた。彼は不在だったけれど鍵がかかっていなかったから不法侵入して、テーブルの上に置きっぱなしになってあった料理本を少しだけ読んで、「これ食べたい」というメモを心惹かれたページに挟んできた。
 その次に立ち寄ったのはユーリの部屋。彼もやっぱり不在だったけれどしっかり鍵がかかっていたので不法侵入には失敗。
 その間、両手はポケットの中で手持ち無沙汰にしていたかもしれない。
 ひょっとしたら、歩いている時にポケットからはみ出て落としたのかも。
 台所を覗いたらアッシュが夕食の支度をしていたので、こっそり背後から近付いて驚かせた後揚げたばかりだった天麩羅をひとつ頂戴した。怒るアッシュの声を背中に聞いて、食堂に逃げてそれから当初の目的地であったリビングへ。
 そこも誰も居なかったので、窓を開けて縁側に座り庭でも眺めながら煙草を吸おうかと思って、灰皿を取りに自分が常々勝手に使用させて貰っている部屋に行こうとしたのが、さっき。
 ポケットの中に入れてあったはずの煙草が無くなっている事に気付いたのは、リビングを出て少ししてからだった。
 リビングも、広い。中央に応接セットのテーブルと、革張りのソファ。ひとり掛けがふたつと、ふたり掛けがふたつ。コの字型にセッティングされたソファに囲まれるようにして、天板が板硝子のテーブルが置かれている。
 壁に、重厚な造りの棚がみっつ。年代物のブランデーやウィスキー等と一緒にグラスが並べられている。
 庭に面した壁は一面ガラス張りで、太陽光をいっぱいに取り込める為夕方でもかなり明るい。窓を開ければ直ぐに庭に降りることが出来、天気の良い日は庭でお茶会、という事もあった。
 天井を見上げれば見事なシャンデリア。光の加減で虹色に輝いて見える硝子が眩しい。
 けれど無論、いくらなんでもシャンデリアに煙草を置き忘れる事などあるはずがない。入り口から部屋の中央に並べられたテーブルセットへと近づき、板硝子のテーブルを真上から覗き込むが一輪挿しの花瓶に薔薇が飾られているだけで他になにもなかった。
「ふぅむ」
 此処ではなかったか、ともう一度その場から部屋全体を見回すが、やはり真新しい煙草の姿を発見することは叶わなかった。
 ポリポリと頭を掻き、少し考える。
 一番可能性の高かったリビングが違った場合、次に思い当たるのはアッシュの部屋だろう。だがどう思い返しても、彼の部屋で煙草を出した記憶は見当たらない。
 変な時間を潰したのは事実だが、灰皿のないあの部屋で煙草を吸おうという気は起こらなかった。もとより、本来この城は全面的に禁煙なのだが。
 ユーリがあの脂臭さを嫌うので、おおっぴらに煙草を吸うわけに行かないのだ。もし吸うとしたら、庭の片隅か自分が勝手に借用している部屋でこっそり。ユーリが部屋にも食堂にもリビングにも居なかったので、今ここの城主が外出中であると判断したので今日は偶々、庭を眺めながらでも、と考え至っただけで。
 でなければ煙草を置き忘れるなどというミスは絶対に犯すはずがない。
「何処に置いたかなぁ……」
 困った顔で呟き、頬を引っ掻く。
 アッシュにならまだしも、ユーリに見つけられると厄介。こういうところだけ妙に口うるさい彼に喫煙がばれたときは、散々小言をくらって、禁煙を誓わされた記憶がある。
 その約束が守られる事は結局無かったが。
 それでも、三ヶ月は我慢したのだ。三カ月経ってつい気が緩んで吸ってしまって、最後は禁煙する前より頻繁に吸うようになってしまったのだから笑えないのだけれど。
 行方不明の開封前の煙草は何処へ行ってしまったのか。諦めきる事も出来ず溜息をつき、自分が辿ったルートを逆に回るしかないかと台所へ向かおうとした先で。
 食堂とリビングを区切る扉の前に立っているユーリに気付いた。
 気のせいか、眉間に皺を寄せて顔は酷く不機嫌そう。
 ひょっとして、と背中に冷や汗と嫌な予感を流してけれど引き寄せられるように足は彼の方に向いていた。
「ユーリ……?」
「スマイル」
 不機嫌な声で、ユーリはその名前を呼んだ。胸の前で組まれている腕、上にしている右手の人差し指が苛々した今の彼の機嫌をそのまま表現してか、トントンと早めのリズムで小刻みに下にしている左腕を叩いていた。
「これは、なんだ?」
 その左手に握られていたのは、真っ赤なパッケージの未開封の煙草。
「あ、いや、その。ねぇ……」
 言い訳は見苦しい、それは重々承知。けれど今回はその言い訳すらも頭に浮かんでこないらしい。
 てっきりユーリは外出して居るものとばかり思っていただけに、彼の登場は余程意表を突いたものとして自分の心に受け止められてしまったようだ。動揺している。
「なんだ、と聞いている」
 咎める語調の手厳しい声に、視線を天井近くに彷徨わせてなんとか誤魔化そうと必死に色々と考えるものの、どれも一度使ってその度に論破されてしまったものばかり。これと言うものが発見できず、しどろもどろに口を濁すばかりだ。
「私は以前、お前に禁煙を命じたはずだが」
 城で煙草を吸うときはなるべく換気の良い場所で。灰皿もユーリが絶対に調べそうにないところに隠していたし、脂臭さも残さないよう細心の注意を払ってきたから今まで気付かれることはなかった。
 よもやこんなミスを犯すとは夢にも見ていなかっただけに、一瞬の油断というものの恐ろしさを、身をもって思い知らされた気分だ。
「煙草は喉を潰す。お前も分かっているはずだろう」
「あー……うん」
 語尾が弱まる。力無く首を垂れて頷いた自分に、ユーリは呆れた感じの溜息を零していた。
 これで完全に失念されてしまったかもしれない。そう思い至ると逆に今度は、諦めがついたというよりも開き直りの精神が働いて、ふっと、頭の片隅に悪戯心が芽生えた。
「でも、ねぇ……」
 ちらり、と上目遣いにユーリを盗み見て。
「ぼくが煙草吸うのって、暇で口寂しい時だけなんだよねぇ」
 薄く口の端に笑みを浮かべる。
 ユーリが、なにか不穏なものを感じてか後ろに一歩、下がった。
「口寂しい?」
「うん」
 そう、と深く頷く。自分の唇に指を置き、目を細めてにっこりと微笑む。
 ユーリがまた、一歩後退した。合計二歩分、自分たちの間に出来た距離を一歩半で一気に詰める。彼はまた半歩下がって手にしていた煙草のケースを強く握った。
 まだフィルムを剥がしてもいない箱の角が、彼の指に押されて潰れる。何本かに皺が入った事だろう。
「お前は、そんな下らない事の為に自分の身体を苛めるのか」
 煙草を吸っても、百害あって一理無し。インスピレーションを求めて煙草を吸う人間も居るが、歌い手として音楽に深く関わる自分たちにとってそれはあまり好ましいものではないはず。
 それを口寂しいという、それだけの理由で実行に移すスマイルをユーリは計りかねた。
「ガムでも噛んでいればいいだろう」
「ガム、嫌いだしねぇ」
 再び距離を詰める。壁際に追い込まれて、ユーリは肩を壁にぶつけた。強く握っていたはずの煙草が、彼の指の間から落ちそうになってまだかろうじて組まれたままだった腕の内側に引っかかって止まった。
「スマイル」
「これでも一応、禁煙してたんだよねぇ」
 我慢して、煙草の替わりになるものを捜してみたけれど最後まで見付からなかった。それほど我慢強いとは言えない自分が三ヶ月も我慢したのは相当のものだったと、逆に褒めて貰いたいくらいなのに。
「でもやっぱり口寂しくて、吸い始めちゃった」
 ユーリが逃げられないよう、彼の頭を挟み込むように壁に両手をついてにっこりと微笑む。
 自分の喫煙量はせいぜい一日二、三本。一日でひと箱もふた箱も空にするヘビースモーカーに比べれば、かわいらしいものでしかない。けれどそれすらもユーリは許そうとしないのなら。
 煙草の替わりを彼に求めても、罰は当たらないような気がした。
「ユーリが協力してくれたら、煙草を止められると思うんだよねぇ」
 近付き、彼の顔に影を落とす。何をされるのかと一瞬怯えたような表情をする彼にふっと微笑んだ。
「私に、何を求めると」
「簡単だから」
 にっ、と目を細めまだいぶかしんでいるユーリの唇に一瞬だけ触れる。
 びくっ、と過剰なまでに肩を揺らして反応した彼から直ぐに離れると、反射的に飛んできた彼の拳を、背を仰け反らせる事で避けた。
 そして約一歩半分の距離を保ったまま笑いかける、自分の人差し指を自分の唇に押し当てて。
「一日一回、で手を打つよ~?」
 喫煙の替わりに、とウィンク。
「ばっ、馬鹿者!」
 我に返ったユーリが唇を片手で押さえながら怒鳴る。新品の煙草はすっかり彼に握りつぶされており、無事なものは中心に近い数本しか残っていないだろう。
「じゃ、約束したからね?」
 ひらひらと手を振って、もう用は済んだと踵を返す。了解の返事を貰ったわけではないが、それを貰うまで待っていたら彼に冷静さを取り戻されてしまう。
 明日からの喫煙は今までの苦いものではなく、甘いものになりそうだと心の中でスキップしてスマイルは去っていく。
 その背中を見送りながら、手の中に残った潰れた煙草をしばらく睨んで、ユーリは赤い顔のままそれを床に投げ捨てた。