閃爍

 もうずっと、彼女が泣いている光景を見たことがなかった。
 彼女は、太陽の輝きのように眩しい笑顔をいつも見せてくれていた。時には静かに、時には喧しすぎるくらいに声を上げながら、彼女は笑っていた。
「セレン……」
 急ごしらえではあるけれども、けれど戦死者を葬るものよりかはずっと立派で、そして大きな墓石の前で彼は立ちつくしている。
 名前を呼ばれても返事をしない。時折突きつけてくる風が彼の首許に巻かれた黄色のスカーフを揺らしている、陽射しは陰り些か寒い。
 だのに彼は身動ぎひとつせず、恐らく背後に立つ存在にも気付いているはずなのに振り返りもしない。微動だにしない彼の背中を今しばらくの間眺め続け、しかし五分もしないうちに飽いてしまって彼は小さく、肩を竦めて首を振った。
 その墓の下に眠っている存在が誰であるか、彼は熟知している。
 消えてしまった石版の文字、消えてしまった城内に響き渡る明るい笑い声。彼女に引きずられる格好で暗く沈んでいた人々も顔を上げ、笑うようになっていった。おっちょこちょいで、お節介で、世話好きで、けれど不器用な。
 太陽のように笑う少女だった。
「セス、日が暮れる」
「先に帰ってくれていいよ」
 西に大きく傾いた太陽を見上げて呟いた声に、ようやく口を開いたラストエデン軍リーダーが短く返す。よもや返答があるとは思っていなかった彼はすぐさま前へ向き直り、けれど動いていないセレンの背中を凝視する。
 振り返ってはくれないらしい。意固地になっているセレンの態度に頭を掻き、彼は首を振った。
「僕だけ帰って、シュウに怒鳴られろ――と?」
 あの少女が逝った。
 衝撃的なニュースは瞬く間に城内を駆けめぐり、彼女のたったひとりである弟の身を案じる声は高くなった。血は繋がっていないとは言え、本当の姉弟以上に姉弟らしかったふたりは常にワンセットで、どちらかが欠ける事など誰も、想像していなかったから。
 セレンの精神が砕けるのでは、とさえ危惧する者もいた。だが意外にもセレンは毅然としてその事実を受け止め、つい先日完成した墓碑に彼女を埋葬したばかりだ。
 それが見せかけの上辺だけの強がりだと気付いた人間は、僅かしかいない。
 今ここで彼が倒れるわけにはいかない、それは彼と、彼を取り巻く軍の中枢が一番よく理解している。だからセレンは、自分の心に嘘をついてまでも平然を装った。
 彼女の死を受け止めようと、受け入れようと。
 泣かなかった。
「ルックは意地が悪いよね」
「大きなお世話だよ」
 ずっと見下ろし続けていた墓碑から目を上げて赤焼けの空を仰いだセレンが言い、背後に立つルックは上着の長い袖を捲って胸の前で両腕を組んだ。不機嫌そうな顔をしているが、それは常からであり素っ気ない口調もいつも通りで、セレンは振り向いて確かめもせずに口元を綻ばせて笑った。
 いくらか、自嘲気味に。
「帰る、って言ったって、直ぐそこなのに?」
 デュナン湖を望む高台の丘の上に設けられた、黒塗りの真新しい墓碑。顔を上げて右を向けばすぐ間近にレイクウィンドゥ城は誇らしげにそびえ立ち、彼らの身の丈を楽に越す城壁で囲まれていた。
 だから現在位置は城の領内と言えなくもない場所であり、置いて帰る、というには語弊があるとセレンは言いたいようだった。しかし分かってないね、とルックはまたしても大仰に肩を竦めた。
「僕は」
「ぼくが湖に身投げでもしないように、見張ってるんでしょう?」
 言いかけたことばを遮られ、自棄に等しい台詞を吐きだしたセレンに睨み付けられ、ルックは言おうとしていた言葉を呑み込んで鼻から息だけを吐き出した。ようやく振り返ったかと想えばこの態度で、かわいげが足りないな、と心のどこかが嘲笑する。
「そんな事、するつもりだったわけ?」
 自分から命を絶とうというような前兆があるなら、ルックではなくもっと力自慢で頭もいい人間を傍に置くようにするだろう、シュウならば。あるいは、首に鎖でもつけて城内に軟禁するかのどちらかだ。
 けれど今のところその様子がないので、セレンはある程度、シュウに信用して貰っているらしい。デュナン湖を取り囲む土地とそこに暮らす人々の行く末を決める戦いに、途中放棄してしまうような根性無しだとは想ってもらえていない証拠だ。
 だからルックが、ここにいる。
 セレンと同年代でありながら、それ以上の英知と冷静さを持ち合わせてかつ、非情である彼を。
 下手に傷つけることを言わないだろうし、下手に甘やかす事も言わないだろうと。嫌な信頼の仕方をされたもので、ルックにとってはやる気の失せる仕事でしかなかったものの、確かにセレンをひとりだけにしておくのも危険だろうと判断して、ルックは此処にいる。
 天魁星の主を守るために。
「死にたいのなら、なんだったら今此処で殺してあげてもいいんだよ」
 そうした場合、歴史がどう動くかにもささやかな興味がある、と付け足すように呟いて。ルックは、組んでいた腕を解き左手を広げてセレンへと向けた。
「殺せるの?」
「君が、そう望むのであれば、ね」
 感情のこもらない声で告げて、ルックは掌の中に風を呼び込む為の呪を唱え始める。真の紋章を持つ彼の願いに応え、空から冷たい刃を持つ風が幾陣も降りてくるのが見えないはずの大気のうねりを感じることで知り、セレンは背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じた。
 その本気を、教えられる。
 地表を追いつくしている背の低い草が風の煽りを受けて大きく傾ぎ、頭を下げる。セレンの前髪も激しく揺すぶられ、肌に叩きつけられる。
「どうする?」
 今これを放てば、確実に全身を切り刻まれていくら紋章の持ち主であっても楽に死ねるよ? 
 ルックの声が風の所為でいくらか揺らめいて聞こえた。
 セレンは喉を鳴らす、ごくりと呑み込んだ唾が鉛の塊のように思えてならない。
「ルックに出来るの?」
「出来るよ。簡単な事だし」
 人を殺すのも、人が死ぬのも。
 実に呆気なく、簡単だ。
「そんな事をして、良いと想ってるの!?」
「僕は少なくとも構わない。他人を、自分が生きる言い訳にするくらいならさっさと、逝っちゃえば?」
 誰かが必要としてくれているから、とか。
 誰かを守らないといけないから、とか。
 誰かが生きろ、と言い続けるから、だとか。
 そういう風に他人に、自分の命の行く末を預けてそれに甘えて、そうやってでしか生き続けようとしないくらいなら。
 断ち切って、自分の意志で生き続けようと想わない限り、その命は生きていないことと同じではないのか?
「逝っちゃえば?」
 今なら多分、ナナミも待っていてくれてるんじゃい?
 墓の下に眠っている、冷たくなってしまった女性の名前を出されて初めて、セレンの顔が大きく歪んだ。
 夕焼けが色濃く、西の空から天頂にかけてを支配している。
 地表に落ちる影は長く、そしてやはり濃い。湖は茜に染まり、波立っている表面に跳ねてキラキラと輝いている。
 日が暮れる前の一瞬の時間に。
 風は、変わらず冷たい。
「ナナミ、はっ……!」
 自分を守るために盾となった少女。優しい胸に無情な刃をいくつも受けて、傷ついて血を流して、それなのに苦しいとも痛いとも、言わずに。
 たったひとこと。
 家族を、弟とそれに等しい相手を案じる言葉だけを残して眠るように逝ってしまった少女の閉じられた瞳からこぼれ落ちたのは、ひとしずくの涙。
 彼女はいつも、いつだって笑っていた。
 どんなに落ち込んで、哀しいことがあっても次の日には何事もなかったかのように笑って、微笑んで、周囲を元気付けようと強がって、頑張って、生きて。
 生きて。
 彼女の方が生き残るべきではなかったのか?
「ぼくは、ずっと、ナナミが泣いてるところを見たことがなかった!」
 最初で、最後のような彼女の涙は本当に最期の時で。
 ゲンカクが死んだ日も。
 ユニコーン隊への配属が決定して、出発するその日も。
 キャロを追われて逃げなければならなかった日も。
 ビクトールの砦が焼け落ちてみんな散り散りになってしまった夜も。
 ジョウイがアナベルを殺害した日も。
 グリンヒルでジョウイと決定的な決別があった日も。
 一度も、彼女は泣かなかったのだ。悔しそうに、哀しそうにしていても彼女は誰かに心配をかけないようにと、涙を呑み込んで堪え、周囲が沈まぬように要らぬ気を配って明るく務めていた。
 我が侭らしい我が侭があったのは、ティントから逃げ出した夜くらい。
「だから?」
 彼女を泣かせてしまった事に対する罪悪感を抱くのであれば、それは場違いであろう。冷たいルックの返す言葉に、セレンは下唇を浅く噛んで視線を逸らした。
 太陽光を浴びてキラキラ輝く湖には、幾隻かの舟が浮かんでいる。そこには人の営みがあり、それらを守るために彼らは闘っている。
 その中心に、セレンはいる。
「ぼくは、ナナミの笑っている顔を守りたかったのに」
「良いじゃない、泣かせてあげても」
 弾かれたように、セレンは顔を上げてルックを睨んだ。しかし彼は涼しい顔を崩さず、掌に浮かせていた風の塊を解き放った。空へと駆け上っていくそれを見送って、乱れてしまった髪を手櫛で整える。
 ルックもまた、静かにセレンを睨み返した。
「泣かなかった彼女が、ようやく泣けたんじゃないか」
 我慢して、我慢を続けて。自分に嘘をつき続けて大丈夫、と言っていた彼女がようやく正直に、涙を流した。それも、痛みや苦しみ、哀しみではなく、大切で守ろうとした相手をどこまでも案じ続けての、優しい涙だ。
 責めていたわけではないはずだ、彼女の涙は。
「それが分からない君でもないだろう」
「それでも!」
 ナナミには笑っていて欲しかったと、そう切望するのはいけないことなのだろうか。
 更に強く噛みしめた唇が痛い。俯いたセレンを夕焼けが赤く染める。
 キラキラと、眩しいくらいに輝いているデュナン湖の水面が目に痛い。
「君が泣いてどうするのさ」
「泣いてないよ!」
「……はいはい。泣いてない」
 向きになって突っぱねたセレンに三度目の肩竦めをして、ルックは今度は自分から彼に背中を向けた。
「気が済んだら、いい加減帰るよ」
 寒いんだ、外は。付け足して呟いて、ルックはまた腕を組み足許の草を蹴り飛ばした。
「分かってるよ、それくらい!」
 やけっぱち気味に叫んでセレンは乱暴に、腕で顔を拭う。
 キラキラと、太陽のように眩しい笑顔。
 それをもう一度見たいと願ってしまうのは。
 罪なのでしょうか。