日溜まりに君が居る

 空は、晴れていた。
 見渡す限り、雲ひとつない。寝ころんだままぼんやりと、澄み渡る青空だけを見つめていると不意に欠伸がこみ上げてくる。
 我慢することなく、マグナは大きな欠伸をこぼした。
「ふぁ~あぁ……」
 ねむ、と目尻を擦って自然に浮いてきた涙を拭い、彼はもう一度小さな欠伸を漏らした。それから、重くなってきている瞼を逆らうことなく閉ざす。
 一気に視界は闇に包まれるが、薄い瞼一枚を隔てた先にある景色は変わることなく、青く輝いている。時折遠くで鳥の鳴き声が聞こえる以外は静かなことこの上なく、風の声も頭上遙かを通り過ぎて行くばかりだ。
 最初は抵抗のあった青草の上に何も敷かずに寝転がる行為も、慣れてしまえばなんという事もなく受け入れられてしまう。背中越しに伝わってくる大地の暖かさと草の匂いが心地よくて、それが尚更彼の眠気を促進していた。
 ポカポカと太陽光は暖かく、熱すぎることも寒すぎる事もなかった。まさに昼寝日和この上ない気候は申し分なく、今昼寝をしないでいつするのか、という気持ちさえ彼に抱かせてしまう。
 状況は緊迫感を増し、一刻一秒たりとも気を抜けない事態がそこまで迫っている事を忘れたわけではない。
 今は戦時下なのだ、例え多くの人々がその事実を知らされていないとしても。デグレアの侵攻は止まることを知らないし、いずれ真実を知った民衆が慌てふためき街はパニックに陥るだろう。
 それでなくとも、近年は平和を謳歌してきただけに、戦争などという記憶は民衆の間から遠くなってしまっている。何処へ逃げればいい、どうすればいい、それが分からない。
 事実マグナだって、どれだけ耳にタコができるくらいまで口を酸っぱくして状況を説明されても、その全てに得心し理解できているわけではない。まだ心の何処かで、戦争とは自分にとって無関係の、遠い世界の出来事と思っているからかもしれない。
 だからこんな風に、真っ昼間の草原で、何時誰かに襲われるかも分からないというのに暢気に武器を置いて寝転がり、腕を枕にして眠りこける事が出来るのだ。
 仲間達は捜しているのだろうか、自分を。
 うつらうつらと夢うつつの意識の中で、朧気にマグナは考えてみる。
 自分が此処にいることは誰にも告げていない。気紛れな召喚獣はなにやらパッフェルとふたりで密談を交わして何処かに出かけてしまっていたし、フォルテとリューグは各々の鍛錬に勤しんでいる。アメルやケイナ達女性陣は道場の掃除と食事の準備や洗濯と、家事に忙しく働いていた。ネスティは、……そういえば朝から見かけなかった。
 もう一度欠伸をし、薄く開いた視界を閉ざす。瞳の奧に残った光の欠片がチカチカと瞼の裏側で明滅し、マグナはごろんと寝返りを打つと身体の右辺を下にして顔を俯かせるようにしてそれを消し去ろうとした。
 けれど一度気にしてしまった事は、なかなか記憶の中から落ちてくれない。
 分かっている、本当はこんなところで逃げていてはいけないのだと。こんな自分にだってやるべき事、やらねばならないことがある。出来ることがあるから、抗って藻掻いている。
 逃げるために派閥の指令を受けたのではない、逃げないために受け入れたのだから。
 それでも時々挫けそうになったり、諦めてしまいそうになる。許されるのであれば逃げ出してしまいたい時だって。
 マグナは思い右腕を持ち上げ、瞼の上に翳した。日差しを遮り、仰向けに寝転がり直して空を見る。指の間から覗く光景はやはり一点の曇りも見当たらない、澄み渡った青空だった。
 そのまま持ち上げていた腕を脇に流して広げ、地面に倒す。反対側の腕も同様にして広げ、大の字になってマグナはぼんやりと視界を埋め尽くす碧を見つめた。
 風が吹き、ざわざわと背丈の低い草が揺らめく。耳朶を擽る細かい草葉がくすぐったくて身を捻ると、体を動かした先に居たらしい虫が驚いたように薄い羽を広げ、飛び去っていった。
「あ……」
 指を伸ばしてその軌跡を追いかける、けれど届かなくて結局彼の手は空を切った。空しさがどこか心の片隅に広がる中で、マグナは行き場を失った手をぎゅっと強く握りしめる。
爪痕が手の平に刻み込まれる程に。
 しばらく逡巡した末、彼は両腕を持ち上げてそれを手首の位置で交差させるように重ねると、額に置いた。腕で視界が隠れる、鼻先の向こう側に僅かに緑と青のコントラストが見えるだけになる。
 風がまた吹く、煽られて倒れそうになりながら棚引く草花と違って、彼が居る場所だけがなにひとつとして動こうとしなかった。
 否、動けないのか。
 マグナは重い息を吐き出した、深く、長く呼吸が苦しくなる手前で止め、浅く吸った息をまた吐き出す。それを繰り返すうちに、不意に理由もなく泣きたくなった。だけれどそれを素直に認めてしまうことも出来なくて、喉の奥で詰まった息が出ることも戻ることも出来ないまま彼は何度も首を振った。その度に下敷きにしている草がカサカサと擦られて乾いた音を立てる。
 その音が突然、不協和音を奏でて響いた。
 予告もなく、影が落ちてくる。首が怠くなって動くのを止めたマグナは、しかし影を確かめようともせず懸命に涙を堪えようと不安定でちぐはぐな呼吸を繰り返している。
「こんな場所に居たのか」
 故に、聞き慣れた呆れ声が頭の上から落ちてきた瞬間、彼は吐き出そうとしていた息を呑み込んでしまうほどに驚いた。そして顔の上にあった腕を左右に振り払って自分から閉ざしていた視界を取り戻す。
「ぁ……」
「…………」
 茫然と見上げてくるマグナの目が潤んでいることに気付き、彼に影を落としている存在は明らかに怪訝な表情を作った。眉間に皺が刻まれ、目が細められる。
 その手前でマグナが慌てて身を起こし、誤魔化すようにわざとらしい欠伸を二、三度繰り返して目尻を指でなぞった。それから作り笑いを無理矢理に浮かべ、どうかしたのかと自分から問いかける。
「どうしたもこうしたも……」
 眼鏡をただしたネスティが困ったように腕を胸の前で組む。何かを言いかけたが告げる寸前で口を閉ざし、数秒考え込む素振りを見せた。その間マグナはずっと黙ってこの兄弟子を見上げつつ、心の中にある動揺を必死になって抑え込もうとしていた。
 みっともないところだけは見せなく無い、こんな風に弱い自分を人前にさらけ出すのは避けたかった。虚勢であっても、誰もが自分自身の事に手一杯な世の中である、余計な危惧を与えたくなかったから。
 やがて諦めたような溜息がネスティの口からこぼれ落ち、マグナが見守る前で彼は組んでいた腕を解いた。そして徐に左腕を伸ばし、癖毛な上に今は寝癖まで変についてしまっている弟弟子の頭を撫でた。
「え……」
 呆気に取られるマグナだったが、ネスティは特になにも言わない。数回彼の頭を撫で回したあと、始まりの時と同様に彼は断りも入れず手を離した。その白く細い指先に、緑色が鮮やかな草が数枚握られている。
「何時から寝転がっていたんだか」
 心底呆れた調子で告げ、ネスティはそれらを風に流す。マグナの髪に絡まっていたその千切れた草は少しだけ空を舞い、そして地上に落下して緑の中に埋もれて見えなくなった。
「なんで……」
「君のことだから、どうせこんな事だろうとは思っていたが」
 案の定サボっていたな、と緩やかな動きで腰に手を当てたネスティが呟く。その視線が「捜していた」と語っている、何故か目を合わせる事が出来なくてマグナは何も言い返さずに顔を逸らした。
 一際強い風が吹いた。前髪を煽られて左手で押さえつけたその向こうから、真っ白い大きな雲が流れてくる。
「一雨来そうだな」
 西の空を見やったネスティがひとり呟く。さっきまであれ程綺麗に晴れ渡っていたはずの空が、一陣の風に導かれた雲によって様相を一転させようとしていた。
「あ……」
 ぼんやりと、マグナは西の空を見つめる。
 ツィ……と、忘れていた涙がひとしずく、頬を伝って落ちた。
「…………」
 ネスティが黙ってそれを見守る。伸ばした左手で彼はまた、今度こそくしゃくしゃにマグナの髪を掻き回して撫でてやった。
「子供扱い、するなよ」
 むぅ、とマグナは拗ねたように頬を膨らませて文句を言う。けれど嫌がっていないようで、口で言ったもののネスティの手を振りほどこうとはしなかった。
「大丈夫だ」
 なに、が。
 なに、を。
 ネスティの語る言葉は決して多くない。大丈夫、それだけを彼はもう一度繰り返し呟いてマグナの頭を撫で続ける。
 入道雲は広がり、今や西の空全面を覆い尽くそうとしていた。間を置かず、この一帯も雷雨に巻き込まれるだろう。その前に帰らなければならない。ネスティは撫でやっていた手でぽんぽん、と軽くマグナを叩いて立ち上がるよう促した。
 素直に従い、マグナは二本足で立つと服に絡みついていた青草を払う。流れてくる風が湿り気を帯び、雨が近い事を伝えてくれる。
「帰るぞ」
 借宿ではあるが、今彼らが帰る事を許されているのはあの広い古ぼけた道場だけだ。
 ネスティに言われ、マグナは小さくひとつ頷く。そして風に煽られてふくらみ、目の前まで伸びてきたネスティのマントの端を掴んで彼は俯いた。
「どうした」
 引き留められる格好になったネスティが振り返る。マグナは顔を上げず、ただ彼のマントを握り込む。ややして、何度目かの溜息が聞こえた。それから優しく頬を撫でる手の平の暖かさ、が。
 伝わってきて、堪えきれない涙が溢れてくる。
「大丈夫だ」
 またネスティは言う。
 マグナはなにも言わず、頷いた。
「だいじょうぶだ」
 なに、が?
 なに、を?
 ネスティはそれ以上言わない、マグナもそれ以上を聞くことが出来ない。
 白い指がマグナの髪を柔らかく梳き流して行く、癖の強い毛先がその指先に絡まり、逃さない。
「大丈夫、だ」
 マグナは嗚咽を呑み込んでネスティの胸に顔を伏せた。
 遠雷が、鳴り響いた。