幾何学模様の恋愛事情

 好きだよ、と。
 囁くようにその柔らかな髪の毛に隠されている耳元で、低く呟いて。
 けれど返事は、なくて。
「……え?」
 問い返すような、そんな眼差し。
 それから。
「悪りぃ。聞こえなかったから、も一回言ってくんねぇ?」
 周囲に、自分たちを遠巻きながらも取り囲んでいるように進んでいる人たちにも聞こえるような声で、言葉を紡いで。
 なんて。
「…………」
 その瞬間、はぐらかされて、同時に逃げられたのだと悟った。
「司馬?」
 丸い目を丸くしたまま、けれど悪びれながら表面上は笑っている彼のその笑顔が作り物の仮面にすり替えられた事を、そう望まなかったのに気付いてしまったから。
 それ以上何も言うことが出来ず、唇を浅く噛んで吐き出しかかっていた言葉をうち消す。ひとり、タタっ、と駆け足で走り寄ってきた身の丈の小さな子が猿野の背中にタックルもどきに突撃を仕掛けて抱きついた。
 思いの外細いその腰に両手を回し、臍の前でがっちりと両の手を結び合わせる。そうすれば簡単には手は解けてくれず、猿野を拘束する事に成功した彼はべぇ、と猿野には見えないようにこちらに向けて舌を出した。
「なにしやがんだ、このスバガキ!」
「だって、お猿の兄ちゃんってば遅いんだもん! 早く行かないと、定食売り切れちゃうよ!?」
 腰を半分後ろに捻って抱きついてきた存在の正体を見定め、拳を片手分振り上げた猿野の怒鳴り声にも怯まず、兎丸はカラカラと笑いながら言い放つ。言われて、猿野もこれから皆で向かおうとしている先を思い出して振り上げた拳を停止させた。
 そう、今は生存競争の激しい食堂の手前であり。
 タイミング良く十二支高校野球部一年メンバーが多少面子を欠いていながらも、ほぼ全員に近い数顔を合わせてしまっていた。だったら、どうせだから一緒に食べよう、と簡単に話はまとまり、一旦止まった足を進めようとしていた先の出来事が、今。
 唐突に呟いたのは、別に理由があったわけではない。
 そして、あの呟きを彼の耳元で告げたのも、これが初めてではない。
 だけれど、その度に彼ははぐらかし、逃げて、誤魔化してしまう。彼の反応に目新しさは感じられず、だからこそ不安に駆られて彼がひとりで居る時を見つけては、囁きを繰り返しているのに。
 一向に、なにかが変わる気配は見られず。
 冗談だと思われている?
 あまりに変化のない猿野の態度に、心焦らずに居るというのは無理な話。とは言え、表情を表に出す事も殆どなく、ポーカーフェイスを崩すことも滅多になくなってしまっている自分の鉄面皮はそんな心内を露呈する事を防いでくれていた。
 こんな時にだけ、自分がこうなってしまっている事を救いだと感じてしまいさえする。
 好きだよ。
 もう一度、風にさえ掻き消されてしまいそうな弱い声で呟く。
 既に兎丸達と歩き出してしまっていた君の背中に向けて。けれど人混みの中で、猿野を取り巻く面々が矢継ぎ早に言葉を紡ぎ続けている中で、その呟きは本当に自分のイヤホンで閉ざされた耳にも届けられぬ程であったのに。
 当然、君は振り返ることもなく気付きもせず、食堂に続く扉を潜り抜けて行ってしまうはず、だったろうに。
 つと。
 踵を踏みつぶした上履きを突っ掛けのように履いているだけの君が、足を止めた。
「司馬」
 ポケットに両手を突っ込んだまま、残り少ない空席を確保しようと急ぐ人混みの中で君は振り返る。
 先を行った子津の、彼を呼ぶ声が雑談にまみれて喧噪甚だしい空間に響き渡った。しかしそれにも増して、この不器用な身体に染みこむように流れてくる声、が。
「早く来い、席が無くなる」
 にっ、と口端を持ち上げて笑いながら。
 ひとこと、言い残して猿野は踵を返し食堂内に消えていった。三歩遅れて、慌てたように人の波がもの凄い事になってしまっている狭い食堂に駆け込む。
 視界を巡らし、サングラスで狭められてしまっている視野で懸命に君の姿を探した。
 君は、食堂の割と端に奥まった位置に置かれている長机の端近くに腰を下ろしていた。その右隣には兎丸が居場所を定め、向かい側の席には犬飼が座り、犬飼の右隣には辰羅川が座っている。
 そして。
 猿野は遅れて入ってきたこの姿を見つけて軽く右手を振り、左手で。
 自分の、空いている左隣の椅子を笑いながら軽く叩いてみせた。

「なぁ」
 まだ昼休み。
 けれどそれぞれ食事を終えて、各自の教室へ戻ろうとしているその途中。階段を登って踊り場に差し掛かったところで、猿野が呟く。
 ちょっと良いか? と腕を引かれた。
 他の面々に視線を流す。彼らは今日の放課後、クラブの練習でどんな事をやらされるのかその談義に熱中しているようで、最後尾を歩いていたこちらの様子に気付いている気配はなかった。
 ひっそりと、猿野が更に言葉を添える。
「良いか?」
 上目遣いの視線を向けられ、断る理由も思い当たらず即座に頷いて返した。次の時間、授業は英語であり教室を移動する必要もない。体育のように、服を着替えなければならない事もない。
 猿野は少しだけ、自分から誘っておきながら躊躇する仕草を見せて視線を泳がせ、それからこの左腕を握っている手に少しだけ力を込める。促され、今昇ってきたばかりの階段を下り始めた。
 何処へ行くのか、先を歩く猿野はこちらに背中とうなじばかりを見せるだけで一向に言葉を重ねてこない。いつもの陽気で脳天気な彼らしさを欠いた様子に、少しだけ首を捻る。
 それから、いつもの彼が見せている姿が、本来彼自身が彼の中に持ち合わせている彼という姿ではない事を、思い出す。
 徐々に周辺から人気が減り、休憩時間でも滅多に人が訪れる事のない一角に連れて行かれる。特別教室が並ぶ建物の、その外側に位置づけられた非常階段だ。さすがに時間が足りなくて空に近い最上階にまで行くことはなかったけれど、非常時用と定義付けられているとだけあって、平常時は殆ど人もやってこない。
「あのさ、司馬」
 鍵のかかっていない、けれど扉はきっちりと閉められていたそれを再度、きっちりと閉め直してから猿野が改まって振り返る。名前を呼ぶ、見上げてくる。
 なに? という感じで首を傾げてみせれば、猿野はまた困ったように眉間に薄く皺を寄せ、口元に右手の折り曲げた人差し指を押し当てた。頭の中で言いたいことを推敲しているようで、眉間に刻まれた皺が徐々に深くなっていくのが見ていて分かった。
 それほどに言いづらいこととは、なんだろう。
 思い当たる事は、早々には見当たらず。
 暫く置いて、色々と有りすぎるような気がして来て内心焦りが生じ。
 けれどそこからまた間を置いて、焦りが不安に陥りながらも気にしているそのどれもがとても些細すぎる事に思えて、また分からなくなる。
 何か困らせる事をしただろうか。
 過去の記憶を手繰り寄せ、紐解きながら必死になって考える。気がつけば自分の方が猿野よりも厳しい表情をしていたらしく、先に我に返った猿野がぽかんとした顔をしてこちらを見ていた。
「なにやってんだ、お前」
 言う前から悩んでんじゃねーっての、とカラカラと自分の風体を笑い飛ばして猿野はよしっ、と鼻息を荒くひとつ吐き出した。腰に手を置き、胸を心持ち反り返らせる。
「オレ、お前のこと多分好きじゃねぇから」
「…………」
 うん、と。
 何故か反射的に頷いてしまった。
 それは実質的に、自分の感情を彼が受け止めることを拒否したのだと、その滝壺に突き落とされるような宣告であるに関わらず。そして実際、自分としてもかなりショックだったはずなのに。
 やはり鉄面皮が崩れることはなく、ただ少しだけ、自嘲気味な笑みを口元に浮かべるだけに収まってしまった自分に、猿野以上に驚いてしまった。
「…………司馬?」
 あまりのショックで惚けてしまったのかと思ったらしい猿野が、手の平を目の前でひらひらしてみせる。違うよ、と首を振ってから、それでもショックだったことを伝える為に軽く握った拳で、自分のこめかみから少し上の位置を叩いて見せた。
 ガツンと、此処を殴られたような気分。
 そう表現する動きに、猿野は理解を見せて「ああ」と小さく零す。そして、ゴメン、とも。
 俯いてしまった彼の後頭部を見下ろし、そっと手を伸ばした。触れる直前、猿野は顔を上げてこちらを見返す。申し訳なさそうな、哀しそうな顔をして、逆にこっちの胸が締め付けられる気分に陥った。
 けれど伸ばした手を引き留める事は出来ず、そのまま彼の柔らかな頬に触れる。軽くさすってみるが、その表面はちゃんと乾いていた。
「なんで……って、顔してんな」
 表情を変えたつもりはない。けれど伝わってしまった心の内にあった疑問を先に口にした彼に、一瞬だけ逡巡した後頷く。猿野は未だ振れ続けるこの手に己の手を重ね、頬との間に挟み込んだ。
 触れてくる熱が、痛いくらいに優しい。
「だって……さ。好きな相手に普通こういう事されたら、ドキドキするだろ?」
 触られて。目の前に立って会話をするというただそれだけの事にさえ、ガラにもなく緊張して、思っていることとはまるで違っている事を口にしてみたり、わざと注意を引きたくて意地悪をしてみたり。関わりを持ちたくて色々と調べてみたり、趣味を合わせてみたり、肩を並べても可笑しくないように頑張ってみたり。
 そういう感情を持つことが、「好き」なのだとしたら。
「オレ、さ」
 猿野の手に少しだけ力が込められる。頬から引き剥がされ、そして両手で握りしめられた。祈るように少しだけ角度を前に倒している、彼の額の前へと導かれる。
「お前に、ドキドキしねぇんだわ」
 すっぱり、きっぱりと彼は断言してそして手を放した。支えられていた力を失った腕が、ぱたりと脇へ落ちて沈んでいく。ブラブラと前後に数回揺れたあとはもう、ぴくりとも動かなくなった。
 どきどき、しない。
 確かに致命的かもしれないと、思った。
 だけれど、言葉を返してしまえば。
 実のところ、自分だって猿野に触れている時はあまり胸の鼓動が高鳴ったりしない。むしろその逆に近くて。
 連休での合宿の最中、上級生との試合にランナーを生還させねばならないという重責を背負わされてしまい、普段以上に緊張してしまったあの時に、握られた手は温かかった。
 その時に覚えた感情は、高鳴りなどではなかった。
 高鳴りを沈めてくれる、安らぎに似た感情だった。
「猿野……」
「ん」
 囁き声を落とす。そのまま、半歩も無かったふたりの距離を一息の間で詰めた。
 抱きしめる、両の腕で猿野を囲い込み、胸の中に彼を沈めた。彼の肩口に額を置き、彼が全身から放つ熱さえも閉じ込めてしまう。
 ああ、やはり。
 胸の拍動は穏やかなままで、なんの変化も顕さない。正反対に、先に叩きつけられた衝撃を和らげてくれる優しい波動が伝わってくる。
「司馬……?」
「好きだよ、猿野の事」
「けど、オレ」
「猿野は、今、どんな感じ?」
 この腕に抱きしめられて。好きでもない、ましてや同性である自分に抱きしめられている事を嫌悪するのだろうか、君は。
 それとも。
「え? オレ? オレ……は、ええと、ちょっと待ってくれるか?」
 頷くと、彼の肩に埋めていた額が前後して彼の上着に擦りつけられる。額に感じた微かな熱に、薄く口を開いて笑った自分に彼は、恐らく気付いていない。
 困った調子で、顔を伏せている為に見えないものの、楽に想像できる猿野が微かに腕の中で身体を揺らした。左右に持っている腕を持ち上げ、試しに、とばかりにこの浅ましい身体を同じように抱きしめた。
 背に回された腕が、辿々しく隆起している脊髄の上で結ばれる。
「なんてーか……なんて言えばいいんだろ」
 言葉を探し、猿野は視線を彷徨わせる。ほっと、最後に吐き出した息が迫り来る夏に向け、気温を上昇させ続けるばかりの空へと消えていった。
 随分と長い時間を必要とさせ、猿野が最後に、結んでいた手を解く一瞬に呟いた。
「……ホッとする」
 ただ、それだけを呟いて。
 猿野は解いてしまった腕を今度は腰の、低い位置(恐らくその方が体勢として楽なのだろう)で結び直した。
 今度はこちらが、彼に拘束されてしまう。情けなくも、動けなかった。
「猿野」
 低く、彼の耳元で囁いた。
 ぴくん、と彼の背が少しだけ跳ねる。耳朶に降りかかった息がくすぐったかったのだろうか、居心地悪げに肩を揺らした。
 顔を上げる。ずっと彼の肩口に埋めていた所為で若干熱と痛みを抱えてしまった額は、多分赤くなってしまっている事だろう。けれど気に病まず、先程よりも更に彼の耳へと口を近づけた。
 囁く、どこまでも低く。
「好き」
 しつこく、何度も繰り返して告げ続けてきた言葉を、飾らずに君へ。
「あ、やべ」
 刹那、猿野は自分でも驚いたらしい声で小さく、叫んだ。ぱっと結んでいた手を解き、慌てたように片手で開きっぱなしの己の口を塞ぐ。
 どうしたのだろ、と彼との間に僅かな距離を作って見下ろすと。
 俯き加減の顔をして、けれど目だけ上目遣いにこちらを見つめて。
 ぽそっ、と。
「今、ドキってした」
 余程不覚だったらしく、自分でも不本意だと言わんばかりの調子ながらも隠しておけばばれる事もなかったはずなのに、自分から弱みになるだけの事を告げて来て。
 そのあまりの正直さに苦笑を禁じ得ずつい笑ってしまった自分を、猿野はまだ恨めしげに睨みつけてくる。
 少なくとも、望みが完全に絶たれたわけではないらしい。
「こら司馬! なに笑ってやがる」
「猿野」
「うん?」
「好き」
「だーかーらー!」
 堂々巡りの会話がけたたましく鳴り響く予鈴の音で掻き消される。
「やべっ! オレ次数学!」
 あの教師は本鈴よりも早く教室に入ってきて、点呼を取ることで学内でもかなり嫌われている。その教師が担当の授業が、よりにもよって次に予定されていることを思い出し、猿野はひとり慌て始めた。その場で駆け足をしながら意味もなくぐるぐると回転し出した彼に、どうしようもなく笑いたい気分を抑えながら、急がないと遅刻になるよ、と背中を軽く押してやる。
 それを合図に、猿野は一気にダッシュを始めた。一度本校舎に戻るよりも、この非常階段を登って渡り廊下で教室棟に戻った方が早いと判断したのだろう、階段を駆け上っていく。その勢いは凄まじく、瞬く間に自分は置いて行かれてしまった。
 次の英語、担当教員は本鈴が鳴ってから職員室を出るのんびり屋なので、猿野の走り去っていった場所をあとからゆっくり、昇って行く事にする。
 ポケットの中に手を突っ込み、薄く石の階段に積もった埃を踏みつぶしながら。
 自然と緩んだ口元を引き締めることも忘れて、食堂に行く手前から切っていたMDの電源を入れた。
 小気味の良いリズムが耳へと流れ込んでくる。
「好きだよ」
 身体でリズムを刻みながら、その言葉を向けるべき相手を目の前に持たぬままに、再度呟く。
 そして。
 意外にも初めて、その言葉を呟いた自分に照れてしまっている自分に気付き、赤面した。

02年4月14日脱稿